Christmas -Case of KASHIWAGI family- a "kaede" scene. 投稿者:Golden 60's 投稿日:12月24日(日)23時36分

 華やかな音楽が鳴り響く繁華街。色とりどりの装いに身を固めた街並み。一年の終わりを告げ
る冷たい空気にも関わらず、周囲は賑わいに満ち溢れている。あちこちに佇む赤い服で大きな袋
を持った人形。きらびやかに飾り立てられた緑のツリー。人々はさんざめき、浮かれ、この時を
楽しんでいる。クリスマスが近い。

 楓もまた人の渦の中を流れている。荷物を両手に抱え、少し俯き加減に。いくつかの紙袋を小
脇に抱えた楓は、右手に持ったものを見つめながら足を進める。ついさっき生まれて初めて買っ
た口紅。沸き立つような街の空気に動かされ、あでやかな店先の色彩に操られるように、彼女は
ついそれを手にした。薄い紅色をさしたモデルの写真に魅入られたのか、それとも。
 楓の頬が冷たさとは異なる理由で赤らむ。そろそろあの人の大学も冬休みに入る。そしたら間
を置かずに隆山へ帰ってくる筈だ。この間の電話でもそう言っていた。早く会いたい。君の顔が
見たい。電話の向こうから聞こえてくる声に、楓の心が熱くなった。
 右手に持つ口紅の包装を解く。取り出した小さな円筒形を指で支える。化粧品店の壁を飾って
いたポスターが思い浮かぶ。帰ってきた彼の前に、口紅をさした自分の姿を見せたらどうなるの
だろう。ピンク色の彩りで自分の口元を飾ったら。あの店で楓はいきなりそんな思いに捕らわれ
た。電話の彼の声が耳元で鳴り響く。会いたい、見たい。そして、気づいたらこの口紅を購入し
ていたのだ。思いもかけない衝動だった。
 無意識のうちに足を進めながら口紅を見る。彼はどう思うだろうか。まだ私には早いと言うだ
ろうか。それとも、驚いて私を見つめるだろうか。視線を吸い寄せられたように。彼の瞳の中に
どんな思いが浮かぶのか。それを知りたい。とても知りたい。私はそれを

「あっ」

 衝撃。

 前を見ずに歩いていた楓の体勢は呆気なく崩れ、彼女は腰から路面に落ちた。両腕に抱えてい
た袋と右手の指で支えていたあの口紅が消えうせるように視界から失踪した。慌てて顔を上げた
彼女の前に、使い古したデニムのパンツが見えた。

「…あらら、大丈夫?」

 明るい声は上の方から聞こえてきた。楓が顔をさらに上向けると大きな眼鏡をかけた女性が覗
き込むようにしながら口元を動かした。

「どっか痛いとこない。ぶつけたとこは」
「あ、いえ」

 楓は首を横に振って急いで立ちあがる。それと入れ替わるように目の前の女性が腰を屈めた。
路面に散乱した楓の荷を彼女が集め始めるのを見て、楓は慌てて言った。

「あの、いいです。自分で集めますから」
「いいっていいって。こっちもよそ見してたからさ」

 てきぱきと散乱した紙袋を集める彼女を前に、楓はどうすればいいのか分からずにぼんやりと
立ち尽くすことになった。二人の周囲を人々が無関心に流れて行く。楓はしばらく彼女の素早く
動く腕を見つめていたが、やがて小さく息を飲んだ。

「これで全部、かな」
「あ…あの」
「え?」

 散乱した袋を腕いっぱいに抱えて腰を浮かした彼女の腕を掴む。

「もしかしたら、これ」
「これ、って?」

 楓が掴んだセーターの袖に女性が目を遣る。白いセーターの上に、はっきりと薄紅色の跡が刻
印されていた。眼鏡の女性が腕に抱えた楓の荷物を見る。その中には、あの薄紅色の口紅もあっ
た。楓の指から飛び出した瞬間に外れたのだろう、口紅の蓋は見当たらない。そして、口紅の端
は見た目にも僅かに欠けているのがはっきりと分かる。彼女が顔を上げて楓を見た。楓は慌てて
頭を深々と下げた。

「ご、ごめんなさいっ」



「悪いわねえ。本当に気にしなくてもいいのに」
「いえ、でもせめてこのくらいは」
「そうお? それじゃあご馳走になるわよ」

 眼鏡の女性は楽しそうに笑みを浮かべながら椅子に腰を下ろした。ボブカットの髪がその拍子
に揺れる。彼女とぶつかったあの場所から少し離れたところにある喫茶店。楓は綺麗な標準語を
話すその女性と向かい合って座った。
 セーターに口紅の跡をつけたことを、彼女は気にしていないようだった。汚れてもいいような
服装だからね。山道を歩いたりすることも多いからそういう服で旅行するようにしてるの。そう
言って彼女はにっこりと笑った。お詫びなどいいという彼女に対しどうしてもと楓が繰り返し、
結局二人はこの喫茶店で一休みすることにした。

「本当にすみませんでした」
「いえいえ。それにしても、何で口紅なんか持ち歩いていたの」
「あ、それは」
「お姉さんにでも頼まれてお買い物してたのかな」
「え」

 楓の顔に血が上る。彼女は年齢の割に小柄だ。年より幼く見られることも多い。目の前にいる
女性から言外に口紅など似合わないと言われたような気がしたのだ。あまりめかし込んでいない
とは言え、楓の前に座る女性はかなりグラマラスだ。出るべきところはしっかり出ている。彼女
にしてみれば楓はまだほんの子供なのだろう。

「…………」
「…あ。もしかしたら、貴方の?」
「…………」
「ふぅん、そうか。クリスマスだもんねぇ」
「え?」
「彼氏の前でちょっと大人びた私を演出してみませんか、ってとこかしら」
「は…」

 楓が耳まで真っ赤になるのを、楽しそうに彼女が見つめた。

「図星ね」
「…………」
「まったく、羨ましいわねぇ。この時期は本当に幸せ者ばかりなんだから。独り身には厳しい季
節よね」
「そ、そうですか」
「そうよ。あっちを見てもこっちを見てもカップルばかり。嫌になったからちょっと旅行に出た
んだけど、まあ何処行っても同じね。日本中が浮かれてるわ」
「はあ。すみません」
「別に貴方が謝ることじゃないんだけどさ。みんないい加減よね、キリスト教徒でもないのに」
「それはそうですけど」

 楓は運ばれてきた紅茶に口をつけた。少しこの年上の女性に反論してみようか。

「…でも、やっぱりうきうきした気分になってきませんか? クリスマスから大晦日へ向かうこ
の季節って。別に恋人がいるかどうかは関係なしに、そんな気持ちになりませんか」
「それは、まあ」
「節目の季節なんですよ、今は。一年が押し詰まってきた時期だからこそ、恋人だけじゃなくて
色々な人と改めて出会って贈り物を渡しあって。きっとみんな、そうやってこの一年を振り返っ
ているんだと思います」
「へえ」
「長い間会えなかった人に自分の気持ちを伝えたり、普段はついすれ違っている人に私の思いは
昔のままだと言ったりするには、やっぱり何かきっかけが必要なんです。何かそういうタイミン
グが」
「だからクリスマスには自分の大切な人に思いを伝える。他の時期は忙しさにかまけてつい言い
そびれていたことを口に出す」
「ええ。そうやって思いを新たにするから、新しい年を迎えることができるんだと思うんです。
過去の自分と過去の感情をきちんと確認する作業をしないと、新しい一歩を踏み出すのが難しい
から。だから、みんなクリスマスになると感情が高ぶってくるんだと思います。過去の思いと将
来への希望をまとめて感じなおす時期ですから」

 楓の言葉が途絶える。眼鏡の女性はゆっくりと自分のコーヒーカップにミルクを入れる。陶器
のカップにぶつかるスプーンの音が微かに響く。彼女は落ち着いてコーヒーを啜ると、ゆっくり
と目を上げる。

「…貴方の言うことは良く分かるわ。その指摘は正しいと私も思う」
「そうですか」
「でも、それじゃあ教えて欲しいんだけど、なぜ一年を振り返る時期がクリスマスなの?」
「え?」
「どうしてクリスマスに一年を振り返るのかしら。どうして年末に。別に盆でもゴールデンウィ
ークでも、あるいは中秋の名月の時でも構わないわよね」
「それは、カレンダーがそうなっているから」
「カレンダーはね、人間が作ったものよ。人間の都合に合わせて暦を定めたのがカレンダー。ク
リスマスの時期が年末になったのも人間の都合だと考えられないかしら」
「はあ、そうなんですか?」

 眼鏡の女性が目だけで笑った。

「正確なとこは私も知らないんだけどね。でも、なぜクリスマスを祝うのか、なぜクリスマスに
なると過去を振り返って未来に思いを致すのか、その理由は想像がつくわね」
「え」
「人々はクリスマスだから祝うんじゃないのよ。キリスト教徒はこの日がイエスの生まれた日だ
から祝うんだと言っているけど、それは正確じゃない。本当はイエスが生まれるずっと前から人
間はこの時期を祝っていたの。何千年も、もしかしたら何万年も前から。キリスト教は昔からの
習慣に合わせて後からイエスの誕生日をこの日にしたのよ」
「そんな」
「その証拠にキリスト教圏以外でも一年のこの時期を祝う祭は広く行われているわ。それこそ世
界中で。日本でだって、昔からこの時期に重要な祭が行われていたのよ」
「でも、どうしてですか? どうして人間は昔からクリスマスを祝ってきたんですか」

 彼女はゆっくりと指を上げた。その指は窓の外を差している。冷たい外気を遮断した硝子の向
こうから太陽が射し込み、心地良い暖かさをもたらす。楓は暫く外を眺め、眼鏡の女性に視線を
戻す。

「…外が、どうしたんですか」
「外じゃなくてあれ」
「あれ、って?」
「あれよあれ。見えるでしょ、空にあるあれ」
「…太陽?」
「そ」
「…あの、それがどうかしたんですか」
「あれが理由」
「理由って、クリスマスを祝ってきた理由?」
「そ」
「太陽が?」
「正しくは太陽の位置、いえ、もっと正確に言うなら地球の位置ね」
「はあ」
「まだ分からない?」

 彼女はにんまりと微笑みながら身を乗り出した。大きな眼鏡が瞬間だけ太陽を反射する。

「冬至よ」



 冬の陽射しは傾くのが早い。楓の目の前に座る不思議な女性は淡々とした口調で説明をしてい
る。楓は彼女の声に耳を傾ける。滑らかに流れる言葉。暖まった屋内。静かな時間が緩やかに過
ぎ去って行く。

「一年で最も日照時間の短い日。最も夜が長い日。太陽が最も短い時間しか姿を見せない日。昔
の人にとって、天はそのまま巨大な暦だったわ。農耕のためには季節をきちんと把握する必要が
ある。暦を知る必要がある。人にそれを教えたのは天よ。天空を巡る星であり、決まった日数で
満ち欠けを繰り返す月であり、そして何より太陽が、人間に暦を教えたの」

 時が流れる。遥か古より尽きせぬ未来へ。何の澱みも躊躇いもなく。人はそれを恣意的に区切
ろうとした。そして、時は巡るようになった。

「中緯度地方で農耕を始めた人類にとって、冬はやはり死の季節ね。作物は実らず、地上からは
生命の姿が消えうせる。そして冬至は最も太陽が衰える時でもあるわ。それまで一年間に渡って
地上を照らしてきた太陽が力尽きる時。天の教えてくれた暦が知らせる死の季節の中で、世界が
最も暗くなるこの日を、人々はどんな気持ちで迎えたのかしら」

 巡る時は繰り返す。一方向へ永遠に流れるのではなく、一巡りして同じ場所へと戻る。時は輪
を描いて永久運動を始める。

「人々にとって、冬至は太陽が死ぬ時だったの。一年間の生を終えて、古き太陽はその役割を終
えるのよ。一年にわたって作物を育て、家畜を増やし、この世界に豊穣をもたらした太陽の死。
昔の人は天体の運行を生き物であるかのように見立てたわ。穀物が実りの時を過ぎると枯れるよ
うに、川を遡ってきた魚が卵を産んだ後で力尽きるように、太陽も冬至の時に死ぬの」

 巡る時、巡る記憶。炎が思い出の中で踊る。涙を流し、大声で叫ぶ男性の影が脳裏をよぎる。
死ぬな、死ぬんじゃない、死なないでくれ。

「でもね、古い太陽の死は同時に新しい太陽の誕生でもあるのよ。冬至を過ぎれば、再び日照時
間は伸びていく。再び緑は芽吹き、穀物が育ち、生き物がこの地上に溢れる。太陽の再生をきっ
かけに、地上は輝きを増していくのよ。新しい太陽は新しい生命をもたらし、人々は新しい時を
生き始める。冬至は、太陽の降誕祭でもあるわ」

 生まれ変わり、貴方と出会う。前世の宿業を超え、長い時を隔てて。新しい時に、新しい肉体
を得て、新しい貴方と。

「新しい太陽が生まれるためには古い太陽は死ななければならない。穀物は枯れ果てることで次
代への実りを残す。古い衣を脱ぎ捨て、新しい力を得る。だから、昔から人々は冬至の祭を行っ
てきた。古い太陽の死を悼み、同時に新しい太陽の誕生を祈り祝うために。流れる時が再び巡る
ように、再びの繰り返しが間違いなく実行されるように」

 巡る時、生まれ変わり。あの人が姿を現す。あの人の腕が伸ばされる。あの人の声が耳元で響
く。再びの繰り返し。炎、涙、叫び。

 …繰り返し?

「そんなの嫌っ」

 喫茶店内にいた客は、揃って大声を上げた楓の方を向いた。目の前の女性はあんぐりと口を開
いて楓を見つめている。楓はゆっくりと周囲を見渡した。彼女と目が合った周辺の客が慌てて目
を逸らす。楓は再び正面を向いた。眼鏡の女性が恐る恐る口を開く。

「あたし、何かまずいことでも言った?」
「……へ?」

 彼女の瞳に怯えの色があるのに気づき、楓はやっと自分のいる状況を思い出した。ここは街中
の喫茶店。目の前の女性のセーターを汚してしまい、お詫びに彼女を連れてきた店。現状を把握
した楓は恥ずかしさに消え入りたくなった。

「あ、す、すみません。ちょっと別のことを考えていたもんですから」
「そ、そうなの。別のことを」
「はい。ごめんなさい」
「いえまあそれならいいけど。でもさ」

 彼女は視線を目の前のコーヒーカップに落として、呟くように続けた。

「…やっぱ、こんな話は面白くないかな」
「はい?」
「うーん。自分でも良くないとは思っているんだけどね。つい自分が興味のある話になると相手
の反応を考えずに喋り続ける癖があるのよ、あたし。相手も面白いに違いないって思い込んじゃ
うのね。でも、別のことを考えていたんだったら、やっぱり退屈だったのね。ごめんね」
「いえ、そんなことありませんっ」

 再び楓があげた大声に、また店内の視線が集まる。楓は声のトーンを落とす。

「…退屈なんかしていません」
「ありがとう。でも気を遣わなくても」
「いえ、本当です。別のことって言っても、さっきの話を聞いているうちに連想したことですか
ら。あの、お話は本当に面白いです。もっと聞かせてほしいです」
「あ、そう」

 自分を落ち着けるようにコーヒーを飲んだ眼鏡の女性は、楓の目を覗き込みながら言った。

「…本当に面白い?」
「ええ」
「そっか。いいわ、それじゃ続きを話しましょうか。…ところで、どこまで話をしたっけ」
「えっと、確か新しい太陽が生まれるには古い太陽が死なないといけない、とか」
「そうそう。だから冬至の祭は太陽を祭るものだったの。キリスト教がクリスマスを祝う習慣を
編み出したのは、この昔から残る信仰に対抗しようとするのが狙いだったのね。キリスト教はケ
ルト人みたいな素朴な信仰を持っていた人々の間にイエスの教えを広めようとした。彼らの暮ら
しから異教的な習慣をできるだけなくして、正しいキリスト教徒らしい生活に変えようとした。
でも、それは簡単には行かなかったわ。昔からの習慣はそう簡単に捨てられない。例え地獄の恐
怖を言われても、冬至の祭はなくならなかったの。で、なくならない祭なら、せめて異教的でな
い祭にすればいい。キリスト教の側はそう考えたのね。かくしてクリスマスという祭が生まれた
のよ。太陽の死と再生を祝う祭の上に、救い主の誕生を祝う祭を覆い被せたの」
「そうですか」
「ええ。クリスマスだけじゃないわ。アニミズム的世界に生きていた人にとって、唯一の創造神
以外に神様がいないっていう考えはなかなか受け入れられない。だからキリスト教は多数の聖人
を作り出した。ケルト世界では小さな神々が世界に溢れていた。キリスト教世界では神々の代わ
りに聖人たちが世界に溢れるようになったのよ」
「はあ」
「キリスト教世界以外にも冬至を祭る習慣はあるわ。分かりやすい例でいえば日本の新天皇が即
位する大嘗祭かしら。これは旧暦十一月に行われる祭なんだけど、旧暦十一月といえば冬至を含
んでいるわ。大嘗祭は新天皇が祖霊を自らの身体の中に受け継いで新しい支配者となる儀式よ。
新しい神が生まれるための祭なの。冬至はどの世界にも死と再生の祭を生み出したのよ」
「死と…再生」

 楓の心の中には記憶がある。彼女自身が経験した筈のない記憶が。ずっと昔の記憶、楓が生ま
れる前の記憶、燃えさかる炎に彩られた悲しい記憶が。次郎衛門との恋の思い出が。
 憶えているのが辛い。思い出すのが苦しい。そんな記憶が甦ったのはいつのころだったのか。
子供の頃は違った。彼が初めて遊びに来たころ、まだ小さかったあのころはそんなことは考えて
もいなかった。今から思えば幸せだった時。苦しさも辛さも知らなかったあの時。
 素直な気持ちで彼の目を見ることができたのは、あの時だけだった。やがて見るようになった
夢が、楓を変えた。遠く向こうから聞こえてくる優しい声と、炎のはぜる音に交えて響く悲鳴。
怖くて目を覚まし、自分がどうなるのか恐れて、一晩中ベッドの中で震えたこともあった。その
夢の登場人物が、あの優しい従兄弟だと知った時、楓は運命を恨んだ。
 何も知らないままでいられれば良かったのに。何も思い出さず、何も考えずにいられれば。脳
裏に浮かぶ記憶を持て余しながら、彼女は自分の前世を呪った。彼との思いに縛られ、その思い
を遂げるために生まれ変わった自分を憎んだ。どうして、どうしてあんな辛い記憶を抱えて生き
ていかなきゃならないの。
 記憶が楓を苛む。遥か古の出会いの時が、長い年月を隔てた別れの時が、彼女の心を容赦なく
切り刻む。エディフェルが胸の奥底で叫び続ける。会いたい、会いたい、会いたい。押さえきれ
ない切望を抱き、どうしようもない焦燥に駆られながら、楓は彼に会うことができなかった。会
って言うべき言葉が浮かばなかった。前世の哀しい記憶は、彼女の中に封じられたままだった。
 あの事件がおきたこの夏まで。

 そう、楓の不安は彼女の元を去った筈だった。苦しみも辛さも過去のものになった筈だった。
あの人が記憶を、前世の記憶を取り戻し、長い時を隔てた思いが叶ったあの時から。悲しい過去
は喜びの未来に取って代わられる筈だった。死と再生を経て。
 目の前の女性の話を聞くまで、楓はそう確信していた。これからは彼との幸せな時間が待って
いると。あの人と一緒に、失われた時間をゆっくりと埋めていく。そんな穏やかな日々がやって
くると思っていたのに。
 時は巡る。繰り返し、繰り返す。死と再生の儀式を通して、再び同じ事が起きる。二人の周囲
を炎が取り囲み、彼の悲鳴が上がる。また、あんなことが。
 ばかばかしい。楓は心の中で強く言った。何を考えているの。この女性が話しているのは太陽
の話、冬至の儀式の話よ。前世の話でも、雨月山の話でも、あの人の話でもないの。そんなこと
が起きる訳はない。あんなことが何度も起きる筈が。
 でも。楓の中にいる冷静な何かが冷たく話しかける。でもね、いずれまた別れはやって来る。
あんな形じゃなくても、いつかはあの人と別れなければならないのよ。死は冷酷に、無残に人の
絆を断ち切る。誰もそれには逆らえない。そう、また繰り返すのよ。あの時が。そしたら貴方は
どうするの? もう一度生まれ変わるのかしら。誰かの身体に転生をするのかしら。そしてまた
何も言えないままどうしようもない思いを抱えて暮らすの? 思い出に苦しめられる日々を繰り
返したいの?

 楓は無意識のうちに強く唇を噛んでいた。思いは乱れ、考えはまとまらない。死と再生。巡る
時と繰り返す運命。困惑の中、彼女は救いを求めるようにあの人の名を呟いた。

「耕一さん…」
「彼氏のことを思い出しているのかしら」
「え?」

 目の前に座っている女性は優しい目で楓を見つめていた。楓は吸い寄せられるようにその瞳を
覗く。眼鏡の向こうにある黒い目は静けさを湛え、落ち着いた感情を醸し出していた。楓はその
目を見ながら、なぜか素直に頷いた。

「…何か悩みでもあるって風情ね。彼氏が浮気でもしてるのかしら」
「いえ、そんなことは絶対ありません」
「あらま。凄い自信」

 わざとらしく目を丸くする彼女を見ているうちに、楓の心の中で膨らんでいた不安や焦燥は次
第に薄れていく。目の前の女性は楓の不安を消そうとしてくれているのだろう。そのためにおど
けて見せているに違いない。彼女がさりげなく口を開く。

「じゃあ、どんな悩みかお姉さんに相談してごらんなさいな。こういう時こそ年長者をこき使う
べきよ」
「え、でも」
「あたしの長い話につきあってくれたお礼よ。こんなのは誰かに話せばそれだけで随分と楽にな
るもんだし。それに、あたしみたいな第三者なら、話しても後でどこからか話が流れ出すことも
ないわよ」
「それは、そうですけど」
「無理に、とは言わないけどね。どうかしら」
「…………」

 暫く考えた楓は顔を上げた。彼女は黙って笑みを浮かべている。楓が悩みを打ち明けられるた
だ一人の人であった姉の姿が脳裏をよぎる。

「…繰り返し」
「え?」
「昔の人は冬至を祝って、そしてまた一年が繰り返されるのを期待していたんですよね」
「え、ええ。そうだけど」
「それが素晴らしい一年だったら、再び繰り返してほしいと思うのは分かります。でも、もし辛
くて苦しい一年だったとしたら」
「はい?」
「太陽が死んで再生して。でも、そうやって生まれ変わった太陽がもたらす次の一年が、その前
と同じように厳しい年だったとしたら、それでも人は太陽の再生を祈ったんでしょうか。また繰
り返してほしいなんて思えるでしょうか。昔の人はそんなに強かったんですか。辛い思いをやっ
と乗り越えたのに、また同じ思いをするだなんて。あの気持ちを繰り返すなんて」
「ちょ、ちょっと落ち着いてよ」

 気がつくと楓は身を乗り出して彼女に訴えていた。目の前の女性は苦笑しながらコーヒーカッ
プを口元へ運ぶ。もう冷えてしまっていたのだろう。いかにも不味そうな顔をして残りのコーヒ
ーを飲み終えた彼女は、窓の外へ視線を運んだ。太陽はもう山の向こうへ姿を消している。街中
にはいつの間にか人工の灯りが増え、喫茶店の窓越しに彼女の顔を照らしている。

「…昔の人にとって、おそらく人生は今の私たちより余程厳しく辛いものだったと思うわ。冬に
なっても暖房なんてないし、座って待っていれば飲み物を出してくれる店もない。コーヒーも紅
茶もなかったでしょうしね。衛生状態も悪く、碌な医療もない中で、限られた人生を必死に生き
延びていたと思うわ」
「…………」
「彼らの人生は苦難の連続。いつでも死がそのあぎとを開いて彼らを待ち構えていたでしょう。
彼らにとって過ぎ去った一年は、そのほとんどが苦しさと辛さに満ち溢れたものだった」
「それじゃあ」
「だからこそ、彼らは太陽の死と再生を祈ったのよ」
「…え?」
「人間は弱いものよ。辛い過去は忘れたい、葬り去りたいと思うのは当然よね。厳しい一年を伴
に過ごした太陽の死を見取るのも、その太陽の死と一緒に辛い過去を消すためじゃないかしら」
「でも」
「でもそれならなぜ太陽の再生を祝うのか、でしょ? 葬り去った太陽がなぜ再び高く上ってい
くように祈るのか。ひとたび過去から死によって断絶しながら、なぜ過去を引き継ぐ新しいもの
を生まれさせるのか。なぜ昔の人は太陽は死んだ後再生すると考えるようになったのか」
「ええ」
「…正直言って、あたしも正解は知らないの。どうして死と再生の儀式に人がそれだけ魅了され
るのか。人生の通過儀礼は全て象徴的な死と再生を演じるものよ。成人の儀式も還暦のお祝いも
そう。人は生涯の節目節目で一度死に、そして生まれ変わってくる。人は一度きりの人生の中で
何度も生まれ変わるのよ。太陽がそうであるように」

 眼鏡の女性が再び視線を外へ向ける。その方角には雨月山がある筈だった。楓の記憶に強く刻
印された山。あの人の笑顔、声、視線、そして温もり。

「…生まれ変わるならまったく別のものに生まれ変わればいいのに。そうすれば完全に過去を清
算できる。辛い思い出を完全になくして、まったく別の生を歩むことができる。でも、そうはな
らないのよね。なぜか人間は通過儀礼という死と再生を通じてまた人間になる。太陽は冬至の祭
を経てまた太陽になる。人間は、死を経た生もなお前世と関わりをもつと考えていたのね」
「昔の人は運命論者だったんですね。前世は消せないって、たとえ死と再生を経由しても過去は
繰り返されるんだって」
「…そうかしら」

 彼女の声が強まる。顔を上げた楓の目を、彼女が強い視線で見据える。

「昔の人はそんな風に受身に考えていたのかしら?」
「だって」
「あたしはそうは思っていないわ。死と再生を経てなお人が繰り返しを信じたのは、もっと前向
きな理由じゃないかしら」
「前向きな理由?」
「そうよ。確かに、過去には辛いことがあったかもしれない。苦しいことがあったかも。でも、
それだけじゃないわよね。禍福はあざなえる縄の如し。苦痛に満ちた人生にも楽しく愉快な時が
あった。昔の人は、そのことを忘れなかったのよ」

 楓の脳裏に声が浮かぶ。笑みが浮かぶ。優しい抱擁が、熱い吐息が、満たされた感情が。楓が
前世であの人と過ごした僅かな、しかしもっとも濃密な時間が、彼女の記憶を熱く焼く。

「太陽の再生を祈ったのは、その喜びを忘れなかったから。再びあの喜ばしい時を味わうため、
そのために人は太陽の再生を心の底から希求したんじゃないかしら。古い太陽は確かに死ぬかも
しれない。辛い苦しい時と伴に。でも、それと一緒に素晴らしい日々まで葬り去るのは間違って
いる。豊かな時間まで消え去るのはおかしい。だから祈ったのよ。太陽が再び甦り、人々の上を
照らすように」

 あの人が楓に向かって微笑む。あの人の電話越しの声が楓の耳を打つ。会いたい、会いたい。
冬の大気を引き裂いてあの人がやって来る。楓のもとへ。

「冬の太陽に向かって、今一度の生を、復活を祈る。それが冬至の祭。クリスマスの本来の姿な
のよ」



 喫茶店から出ると、外はすっかり暗くなっていた。

「ごめんなさい、遅い時間まで」
「あらいいのよ。あたしもたっぷり話せて満足しているから」

 眼鏡の女性は背中のデイパックを背負いなおしながら楓を見た。

「そうそう、もう一つ忠告があるわ」
「え?」
「口紅はまだ早いわよ。そんなので誤魔化さなくても貴方は十分に可愛いんだから、無理につけ
る必要はないわ。かえって彼氏がびびっちゃう可能性の方が高いわね」
「そ、そうですか」
「そうよ。彼氏に会うのは何日ぶりくらいなの?」
「えっと、一ヶ月ぶりくらいになるかと」
「あらま、随分とご無沙汰ねえ。もしかして遠距離恋愛だったりして」
「はい」
「へ? 本当? そりゃまた若いのに大変ねえ」
「いえ。信じてますから」
「はいはいご馳走様。でもね、一ヶ月ぶりならなおのこと、口紅なんかいらないわよ。貴方くら
いの歳なら、それだけの時間があれば十分。暫くぶりに貴方を見た彼氏は、貴方が少し見ない間
にとても大人びてきたのに吃驚すること間違いなしね」
「そ、そうでしょうか」
「そうよ。あたしが保証してあげる。口紅なんかつけなくても、今の貴方は昔の貴方とは違って
いるのがすぐに分かるわ。人間はね、日々変わっていくものなの。身体を構成している細胞だっ
て一年も経てば全部入れ替わるくらいなんだから。人間はその生涯の中で死と再生を繰り返して
いるのよ」
「…でも、思いは残る」
「そうね。いえ、むしろ思いを伝えるために死と再生を繰り返しているのかもしれない。その場
限りで再現できない出来事を、ずっと未来へと伝えるために。思いを無くさないために。すべて
が消えうせてしまわないように」
「はい。そうかもしれません」

 楓は眼鏡の女性を見て笑みを浮かべた。彼女もにっこりと笑い返す。

「そうそう、その顔なら彼氏もイチコロね。忘れないようにしなさい。その顔で彼氏に言うの。
『メリークリスマス』ってね。それが彼氏にとって、きっと一番のプレゼントよ」
「はいっ。…本当に、ありがとうございました」
「いいっていいって。あ、それじゃあたしはここで」
「そうですか。ではお世話になりました」
「こちらこそ。じゃあね、名前も知らない誰かさん」

 彼女はそう言って背中を向けると足早に去っていった。その後ろ姿がクリスマス前の街並みを
埋める人ごみに吸い込まれて行く。鮮やかな灯りと賑やかな音で溢れる街は、冷たい大気の中で
透き通って見える。楓は小さな声で彼女に別れを告げた。

「…さようなら、優しい誰かさん」

http://members.jcom.home.ne.jp/kukuno/index/gift/HonyaChr_top.html