『流転』
『雨の話をしよう』私を呼んで傍に座らせた叔父様は、いきなりそんなことを言った。『空から降る、雨の話だよ』
『雨?』
『山に降った雨は源流となって地から湧き出し、川となって海に行く。海の水は雲を作り、また、雨となって降り落ちる。水は遙か昔からこの循環で回っているんだ、わかるかい?』
うん、と私は答えた。それは分かっていた。わからなかったのは、いきなりそんな話を始めた叔父様の意図の方。
『これをね――』
唐突に、目の前のアスファルトに小さな染みができた。それに気付いて空を見上げると、今度は頬に水滴が落ちる。低い灰色の雲から落ちてくる雨。降水確率十パーセントなんてまず降らないと思っていたのに、実際はこれだ。それとも、突然の夕立はそんな降水確率というものの枠から外れているのだろうか。そんなことを考えながらも、私は軽く走って、駅前のスーパーに駆け込んだ。家まではあと十五分ほど歩く。それなら、傘を買った方がいいかな、と私は思った。
少し派手かな、とは思ったけれど値段の割には凄く好みの傘を偶然見つけて、私は少し浮かれて帰り道を歩いていた。雨は勢いを弱めることなく続いている。これはひょっとしたら明日まで降りつづけるのかもしれない。夕立なら、唐突に始まったのと同じように、唐突に止んでしまうものだから。
雨が傘を打ち、永遠に途切れることが無いんじゃないかと思ってしまうように音を立てている。ぴしゃり、とローファーのつま先が水溜りの中に沈んで、私は顔を顰めた。立ち止まった私の傍を、鞄で頭をガードしながら走っていく人がいる。道行く人は慌しげに、あるいは悠々と傘をさして、雨降りの道を歩いている。傘から雫が伝い、濡れたアスファルトの上に落ちた。地面に落ちた雨は、アスファルトの汚れを飲みこみながら、排水溝に吸いこまれていく。
耕一さんのことを、考える。
私はたぶん、早熟な子供だった。たぶん、始めて会った時から、私は耕一さんのことを意識していた。その気持ちがいったいどこから来るのか、わからないままで。「ねえ、雨が降りそうだから、帰ろう? ね、一緒に帰ろう」そんな風に、ただ肩を並べて歩きたいという理由だけで無理矢理にでも言い訳を作ろうとしていた無邪気すぎるあの頃が、ちょうどこの雨の匂いみたいに、私の鼻をくすぐる。
立ち止まっていた私の耳に、かすかな声が聞こえた。その声がした方向に振り向く。そして、私はそちらに歩み寄った。白い子猫が一匹、「ひろってください」と下手な字で書かれたダンボールの中で震えていた。
「……どうして、こんなところに」
言ってからすぐに、自己嫌悪。どうしてもなにもない。こんな子猫がここにいる理由なんて一つしかないだろう。まさか自分で家出してくるわけなんてない。私はその子猫を抱き上げようとしたけれど、爪をダンボールの底に立てて、その場所から離れようとしない。ここで待っていれば自分を捨てて行った人がまた迎えにきてくれると思っているのか、ただ見知らぬ人間である私のことを警戒しているだけなのか。それとももう、全部どうでもいいと思っているのか。わからなかったけれど、とりあえずダンボールの中にたまっていた水をどかす。それから、子猫に触れてみた。触れるだけなら、抵抗はなかった。
私は迷った。結構迷った。なにしろこの傘はついさっき買ったばかりで、一目見てこれを買おう、と決めたくらいにはデザインが気に入っている。それでも、私は手にしていた傘を開いたままでその場所に立てかけた。
「ごめんね。連れて帰ってあげられたらよかったんだけど」
どうしてそうしたのか。私にもよくわからないけれど、強いて言うなら、私には帰る場所がある。この子猫には帰る場所が無い。つまりは、そういうことだろう。
折っていた膝を伸ばす。あっという間に雨が私を濡らしていく。
「……じゃ」
くるり、と背中を向けて歩き出す。走ったほうがいいかな、と一瞬だけ思ったけれど、走ろうが歩こうがどうせ家に着く頃には変わらない姿になっているだろう、と私は考えて、疲れないほうを選択した。
後ろから、鳴き声が聞こえたような気が、した。
「くしゅん」
「楓、風邪?」
「……かも」
「そりゃあ傘もささないで雨の中悠々と歩いて帰ってくれば、風邪くらいひくよ」梓姉さんが私をからかうような口調で言った。姉さんの言うことはしごくもっともなことだったので、私はただ黙って軽く肩を竦めるだけにした。
「あ、でもでも、誰かが楓お姉ちゃんのこと噂してるのかも」初音が言う。きっとフォローしようとしてくれているのだろう。でもね、初音。そのフォローは結構微妙。
「一回だけのくしゃみって悪い噂だってきいたことあるけどね」
そう言って梓姉さんはけらけら笑う。悪意が無いのはわかってるけど、今日の姉さんは少し意地が悪い。残業で遅くなる千鶴姉さんを待たずに、私と梓姉さん、それから初音の三人で夕食を食べる。くしゃみをしていた私を気遣ってくれたのか、夕食は消化がよくて栄養価の高いものだった。こういうところ、梓姉さんはマメだなぁといつも感心する。
夕食が終わってお茶を飲んでいると、梓姉さんがテレビをつけた。見たい映画があるのだという。その映画は始まってタイトルを見ると、あんまり見たいものでもないと思ったけれど、特に今しなければならないことも無かったので私も一緒に見ることにした。初音はどうなのか知らないけれど、にこにこ笑いながら嬉しそうにテレビを見ている。
映画は、男子高校生水泳部が紆余曲折を経て、文化祭でシンクロナイズドスイミングを上演する、と言う笑いあり涙ありの作品だった。そのクライマックス、文化祭での演技中に、プールサイドで(演技の一環として)部員たちがパフィーの「愛のしるし」に乗って踊るシーンがあった。そのシーンが流れて、梓姉さんと初音は面白そうに、楽しそうにテレビの画面を見つめているけれど、私はそうはいかなかった。心が痛くて、呼吸が苦しくて、思わず胸を抑えずにはいられなかった。
観客の中に、主人公が思いを寄せている明るい女の子が居て、主人公はテンポ好く踊りながら、「いつか、あなたには全て打ち明けよう」と歌詞に合わせてその女の子に抱き締める寸前まで近寄って行く。
二人共、これ以上無いくらい真っ直ぐな笑顔だった。
それを見て、泣いた。凄く楽しくて明るくて愉快なシーンなのに。
泣いているのを悟られないように、涙を拭う。そして、最後まで映画を見てから、私は自分の部屋に戻った。
姉さんと初音には気付かれてはいなかったと思う。
いろんなものがこぼれてしまいそうで、胸を押さえた。そんなことしたって何の解決にもならないし、そんなことしなくたって実際には何も起こらないのも、本当は知っているけれど。どうにもならない事にジタバタしてる今が、あまりにも苦し過ぎて。何も言えない、それが何より苦しい。
もし全てを打ち明けたら、耕一さんはどんな顔をするだろうか?
千鶴姉さんはどんな顔をするだろうか?
そして、私はどんな顔でそれを耕一さんに告げるだろうか?
私の中のエディフェルは、私にどんな表情を作ってそれを言わせるだろうか?
頭を軽く振って思考することを放棄すると、着替えを持って部屋を出て、シャワーを浴びた。髪を乾かしている時に千鶴姉さんが帰ってきて、一言二言言葉を交わしてから、また部屋に戻る。表層では普段通りの「柏木楓」をしていたけれど、その内側で私はずっと考えていた。
考えてもわからないけど、考えていた。
私はいったい、どうしたいのか。
とてもとても哀しい夢を見て一人で傷ついた。
夢なのに泣けなかったし、夢なのに悔しかった。
ひょっとしたら、夢だから泣かなかったのかもしれないし、夢だから悔しいのかもしれない。こんな夢を見てしまう自分に苛立つ。
目を覚ましたら、雨は止んでいた。
学校の帰り、昨日の場所を覗いてみた。そこにはもう昨日の子猫はいなかったし、私が置いて行った傘もなかった。誰かがあの子を拾っていったのだろうか。そうだったらいい、と私は思った。そうじゃない場合、例えば保健所に連れていかれたとかいう選択肢もあるけれど、それは相当楽しくない想像だったので、考えないことにした。
でも、それになんの意味があるのだろう?
私が考えたところで、考えなかったところで、いったい何が変わるというのだろう?
あの人にもう届かない言葉。それを口に出すことに、いったいどれほどの価値があるだろう?
その場所にくるりと背中を向けてまっすぐ家に帰ろうと思ったところで、気付いた。今朝家を出る時に、梓姉さんに洗剤がなくなりそうだったから買ってきておいて欲しいと言われていたんだった。思い出してよかった、と思いながら今来た道を戻る。梓姉さんは、文化祭の準備で今日は遅くなると言っていた。千鶴姉さんは、たぶん今日も遅いだろう。それならついでに夕食の材料でも買って行こうか、と私は考えた。それとも、初音が買ってくるだろうか。客観的に見て、初音の方が美味しく作れるから任せた方がいいかな、と思う。
そんなことを考えながら歩いている時、ふとすれ違った女性に、私は目を奪われた。正確には、その女性が手にしていたものに。片手に、見覚えのある傘。反対の手で、猫の体を抱いている。
猫が、小さな声で、鳴いた。
『これをね、広い意味で流転と言うんだ』叔父様は言った。
私は頷いた。そんな私の頭を、叔父様は大きくて暖かい手で撫でてくれる。それはとても気持ちよくて、私は日向でくつろぐ猫みたいに目を細めた。
『ひとつどころに取り込んでその歩みを止めさえしなければ、いつまでも動き、回り続けているということなんだよ。水に限らず、流れるモノというのは全て、時に熱く、時に冷たく、形を変え姿を変え流れ在りつづけるんだ』
『……人間も? 私も、叔父様も、姉さん達も、初音も?』
叔父様は微笑んで、言った。
『もちろん、人間もだよ』
少し派手かもしれないと思ったあの傘は、ちゃんと誰かの目にとまったのだ。私は嬉しくなった。私の抱えている問題はなにも解決してはいないのだけれど、それでも胸を塞いでいたもの少し外れて、何かがゆっくりと流れ出したのを感じる。
今はまだ無理だけど、いつか、届かない言葉でも、私は口に出すだろう。そんな気がした。そう思えた。それを聞いて欲しい特定の誰かには届かないかもしれないけれど。想いが音になり、あるいは光になり、淀んだ空気にふわり溶け込んで、それから、意外なところに佇んでいる不特定の誰かに偶然届くのだって、きっと悪くない。あの子猫のように。私が置いた傘みたいに。そんな偶然に流されてみるのだって、きっと悪くない。
コンビニエンスストアのガラスに映った私は、自然と微笑んでいた。いつもよりも軽い足取りで、止まっていた足を前に進める。
今日の夕食は、私が作ろう。そうと決めたら早く買い物をして帰らないと。
空には厚さを増した灰色の雲。昨日の雲とは違う雲。翳りだしたあの空から、きっともうすぐ雨が降る。