「彼」が追う 投稿者:k-suke 投稿日:3月8日(木)23時07分
和樹   「あさひちゃん?」
あさひ 「え、あ、あの、なんでしょう…」
和樹   「なんか悩んでるの? なんかいつもより声が暗いような…」
あさひ 「え、い、いえ、その…な、何でもないです」
和樹   「本当?」
あさひ 「は、はい…」
和樹   「そうは思えないんだけどな……」
あさひ 「……」
和樹   「本当に大丈夫なんだね?」
あさひ 「……じ、実は…」




(また、この感じ…)

数日間、仕事の都合で帰宅できなかったあさひが郵便局を訪れたのは、
その間自分当てに届いた小包を受け取る為だった。

そこで感じたのは、「誰か」の視線。それだけで強い悪意を感じる視線だった。
その視線を感じたのは始めてではない。
ここ最近、休日などにはそれを感じる事が多い。

電話で和樹に相談した事もあった。
「ストーカーって奴かな? 気をつけなきゃ駄目だよ」
その時は、そんな何気ない言葉でも、無形の悪意に怯えるあさひにとっては心強かった。

郵便局の中を見回す。
職員を除くと、一人の客が大きな鞄の中から、何かを探している姿しかない。
(気のせい? だったらいいのだけれど)

何か釈然としない物を感じながら、あさひは郵便局を後にした。





「彼」は郵便局の外でずっと待ち続けていた。
寒さが身に染みるのは、最近、床屋で寝ている間に前髪をばっさりと切られてしまった
せいかもしれない。

(いつまでやってるんだ)

彼女が郵便局から出てきた時、「彼」は痺れを切らす直前だった。

(おっといけない、冷静にならないとな)

「彼」は自分を戒めると彼女の後を追った。
歩きながら、薄手のズボンに付いているポケットに手をやる。
その中には「彼」の唯一の持ち物が入っていた。

(さて、これを使う事が有るかどうか…)

そんな事を考えながら、「彼」はあさひの後ろ姿を眺めていた。




(気のせいじゃない、やっぱり誰かに見られてる)
家の近くまで来た時、あさひは立ち止まった。

「ストーカー」

頭の中に、和樹の言葉が蘇る。
小包を握った両手に力が入る。

(もし、和樹さんの言う通りストーカーだったら…
このまま家に帰ったら、家の場所を知られてしまう!)

その可能性と、その先に怒りうる事を考え身震いする。

極力顔を動かさないようにして、後ろの様子をうかがう。
休日の昼という事も有ってか、幾つか人影は見える。
その中の誰が、自分に悪意を放っているのか?
特定する事は出来ない。

(どうしよう…?)

あさひは極力家から離れようと注意しながら考えを
まとめようとしていた。




(この方角だと、自宅だな)
「彼」はあさひが自宅へ向かっている事に気付いていた。
電話番号さえ知っていれば、その住所を調べる事は
さほど難しい事ではない。

少し彼女の歩く速度が落ちた気がする。
(付けられてる事に気付いたのか?)

そう思った矢先、彼女の動きが止まる。
(おや?)
ほんの数分、それが続いた。

そして次の瞬間走り出した。
「彼」も慌てて後を追う。

彼女が、線路の下を通る地下道へ入っていくのがいくのが見えた。

かつかつかつかつかつ…

地下道に、彼女の靴音が響く。

どうやら地下道の先にある、人通りの多い商店街へ向かっているようだ。
(どんなに人が多くても、見失うものか)
そう思いながら、「彼」は走り出した。

「彼」には、どんなひとごみの中でも
あさひを見つけ出す自信がある。




人通りの多い商店街、そこでもあさひは視線を感じていた。

(怖い…)

仕事でステージに立っている時、熱狂以上の何かを帯びた視線を受ける
事は決して少なくない。
けれど、そのステージが台本通りに進んでいる限り、
ステージ上のあさひは動じる事はない。

けれど、本当のあさひは気が弱く、怖くて今後ろを振り向く事さえ出来なかった。

(そういえば…)

前の休日もこの商店街を歩いた。
その時、歩いている間は気付かなかったが、家に帰ってみると
服の背中にべっとりと赤いアイスクリームのようなものが着いていた。

(まさか…あれもストーカー?)

そう考えた時、あさひの頭に浮かんだものは、アイスクリームの代わりに
血で背中を染めた自分自身の姿だった。




(見失う事はないけど、歩きにくいな)
「彼」は舌打ちをする。
あさひの姿は常に視界に捉えている。
彼女を追う事にも問題はない。

「彼」は、さっきからあさひの背中が震えている事に気付いていた。




あさひは公園の広場にいた。

ここは、正月ともなると子供が凧上げをするほど広く、木も
少ない。

公園に1時を知らせる鐘の音が響く。

郵便局を出たのが11時ごろだったから、
あれから2時間近く、あさひは歩き続けていた。

もし立ち止まったら、急に襲ってくるかもしれない。


そう思って赤信号にぶつかる度に、方向を変えでたらめに歩き続けた
2時間だった。

あさひが今履いていた靴は、ジョギングや運動向けの靴で
室内運動にも使えそうなぐらいだった。
おかげで足の疲れはさほど感じなかったが、精神的な疲労が大きく、
あさひの頭の中は困惑が渦巻いていた。

だから、と言うわけではないだろう。

「えっ? きゃぁっ!!」

足元に落ちている空缶に気付かなかったのは、致命的なミスだった。

思いっきり派手に転ぶ。

後ろに向かって仰向けに倒れてしまったあさひの目と、
追跡者の姿が映る。

顔は影がさしていて見えないがその姿に、あさひは見覚えがあった。

一瞬、あさひと追跡者は見詰め合う格好になる。

「あ、え、あ、あの、あなたは…」

何故、この人が?
何故、この私を?

何故?
何故?
何故?

追跡者の顔が見る見るうちに強張っていく。
しかし、困惑に陥ったあさひは、逃げる事も忘れかけていた。

あさひの目にぎらりとした光が入る。
それは追跡者の取り出した、包丁に反射した光だった。
その光が彼女を正気に戻したのは、何とも皮肉だと言える。

(あれならお魚も、骨まで切れそう)

あさひが考えたのは、そんな下らない事だった。




「彼」の目に、足をもつれさせながらも立ち上がろうとする
あさひの姿が見える。

「彼」はもはや、彼女への敵意を隠す事無く
その後を追う。
風を受けて、「彼」の髪がなびいた。

(くそっ! もっと早く行動すべきだった!)

舌打ちしながら彼女の姿を追う。
その手には「彼」の頼みの綱が握られていた。

それは日光を受けてギラリと光った。




(なんで、こんな時に限って誰もいないの?)

あさひは絶望感に包まれていた。
あさひが立ち上がるより速く、追跡者の空いている手が彼女の手首を締め上げる。
あさひは気が遠くなるのを感じた。

その時、あさひの目に映ったのは和樹の顔だった。




崩れ落ちるあさひの姿を目にした時、「彼」は、目の前が真っ暗になるのを
感じた。

しかし、よく見ると彼女の持っている包丁はまだあさひに振り落とされては
いない。

「彼」は決死の覚悟で彼女の包丁を持った手に飛びついた。
「彼」の手から携帯電話が落ちる。

予期せぬ攻撃に、彼女は手を放した。
あさひからも、包丁からも。




あさひはどこかぼんやりとした表情で、目の前の事態を見詰めていた。

自分を追跡していた女性、そしてそれを取り押さえる和樹の姿。

さらにどこからか駆けつけてくる、警官達。

(一体何なの)

当惑する彼女の顔を追跡者が憎らしそうな目で見ていた。

追跡者は、彼女が郵便局で見た大きな鞄の客だった。






和樹 「ごめん…あと少しで取り返しにつかない事になってた」
あさひ 「い、いえ、そんな…和樹さんがいたから助かったわけですから…」
和樹 「いや、俺、あさひちゃんが郵便局に入る前から気付いてたんだ
      あの女、様子が変だってね。朝日ちゃんの後をずっと追いかけてたし。
      それでずっと後をつけてたんだけど、まさかあんな事になるなんて
      せっかく携帯を持ってたし、あんな事になる前に何とかすべきだったよ」
あさひ「そ、そんなことないです。…それに傷害未遂の現行犯だったから、警察が
       すぐに捕まえてくれましたし
       あの人が具体的な行動を起こすまで、通報を遅らせてくれた
       和樹さんのおかげです」
和樹 「確かに単なるストーカー行為だけじゃ、警察が動いてくれない事が
       多いとは聞いていたからね。
       でも、俺の考えが足らなかった。本当にごめん」
あさひ「い、いえ、助けてもらったのは私の方ですから
        …で、でも和樹さん、何故、私に黙っていたんですか?
       見守ってくれているって」

「彼」は、受話器を握ったまま返答に窮していた。

もし事前に相談していたら、
あさひは、自分に相談した事を後悔するだろう。

和樹にまで危険が及ぶかもしれない、と。

ただでさえストーカーに怯え、神経をすり減らしているあさひに
これ以上の負担をかけたくなかったのだ。

だが、そんな事は恥ずかしくて、口には出せない和樹だった。