鬼の花嫁 (痕SSこんぺ委員会 短編部門参加作品) 投稿者:OLH 投稿日:1月17日(金)00時59分
 しとしとと絹糸の様な雨の降る、ある日の夕方。
 一人の少女がとある屋敷の門の前にたたずんでいた。

 季節は夏を過ぎ、もう秋を迎えようかという時期である。
 まだ日中は照りつける陽の光に汗の滲む日が続いてはいたが、この時間、
この天気では長袖の服が恋しくなる。
 そんな状況の中で、しかし、その少女は半袖のセーラー服を身に着けただ
けで、ただじっと、傘もささずにたたずんでいた。

 寒くはないのだろうか?
 しかし、かすかに震える肩を見れば、そうで無い事はすぐにわかる。
 であれば何か一枚、上に羽織るぐらいはしてもいいはずだ。
 実際、彼女の手には薄いサマーセーターがある。

 ……いや、薄いサマーセーターに包まれた、何か、だ。

 そのサマーセーターには何かが包まれており、少女はそれを大事そうに抱
えている。
 自分は肩を震わせながらも、その「何か」に極力雨が当たらぬよう注意し
ながら。
 だから少女にはそれを着ることができないのだろう。

 そして、その「何か」は。
 少女の腕の中で静かに寝息を立てていた。
 丁寧に包まれた中に、少しだけのぞいている小さな顔。
 まだ生まれて間もない赤ん坊が、時折降りかかる細い雨糸に目を覚ます事
も無く、安心した様子で眠っていた。


 その少女の濡れ具合を見れば、もう随分長い間そこに立っていたであろう
事が、よくわかる。
 もしその様子を誰かが見かけたのなら、一人ぐらい傘を差し出すなり、親
切な者ならば自分の家に連れていくという事もあるだろう。
 特に、少女がその腕に抱いたもの……まだ小さい赤ん坊を見れば、少なく
とも何かしら声をかけられるぐらいはされるはずだ。
 しかし、彼女は誰にも見とがめられた様子はない。

 ……だが、それも仕方がないのかもしれない。

 この界隈では一年程前から猟奇殺人事件が続いており、この街の人々は人
気の薄いところに赴く事を避けている。
 特に大通りからはずれた道や、街灯すらない裏路地には、時間にもよるが、
ほとんど人の姿は無くなっている。

 その屋敷の前の道もそれほどはずれた場所にあるわけではないのだが、そ
のどっしりとした威圧感のせいか、元々あまり人通りの多い方ではなかった。
 それに加え、その屋敷の住人の一人が行方不明になっているせいもあり、
この辺り一帯に重い雰囲気が立ちこめている事も原因なのだろう。
 今では、その屋敷を訪れるもの以外、その道に人通りは絶えていた。


 だから雨の中、傘もささずにじっとたたずむ少女の姿は、誰の目に触れら
れることも無く。
 何か物悲しい絵画のようなその情景も破られる事はなかった。


 それでもようやく。
 その風景が動き出す時がやって来た。


「……お姉……ちゃん?」
 とさりという軽い音と共に、押し殺したような声が赤ん坊を抱いた少女の
耳に入る。
 その声の方にゆっくりと少女が振り向けば、そこにはまだ幼げな印象の少
女が、傘を取り落としたのにも気付かない様子で立ち尽くしていた。

 赤ん坊を抱いた少女は、にっこりと微笑んで言う。
「……ただいま、初音」
 少女……初音はまだ信じられないといった表情で、空ろに姉の名前を呼ん
だ。
「お姉ちゃん……楓お姉ちゃんなの? 楓お姉ちゃんだよね?」
 こくりと赤ん坊を抱いた少女……楓が首肯くと、初音は弾かれたように楓
に駆け寄り、ぎゅっとその腕に抱きついた。
「お姉ちゃん……楓お姉ちゃんだよね? 帰って来たんだよね?」
 半ば泣きじゃくりながら初音はその言葉だけを繰り返し、楓はそれを優し
く見守った。


 どれぐらいそうしていたのか。
 なんとか高ぶった気持ちも治まり。
 照れ隠しの笑みを楓に向けようとして、ようやく初音は楓の腕に抱かれた
ものに気がついた。
 いつかどこかで見かけた人物の面影を宿す、その赤ん坊に。

「初音。あなたももう、『おばさん』、ね」

 慌ただしく赤ん坊と自分の顔を見比べる初音が何か言おうとする前に、楓
はくすりと少し意地悪そうな笑みを浮かべて言う。

 それを聞いた初音は、まるでその言葉の意味が理解できていないかのよう
に、ぽかんとなった。

 その赤ん坊を見た時から、薄々想像はついていたが、しかし、それでも。
 ようやく果たした姉との再会と、思いもしなかった新しい血縁との出会い
に。
 初音は混乱のまま何も言えず、ただ楓と赤ん坊を交互に見るだけだった。


 そしてまた暫くの時が過ぎて。
 くちんと赤ん坊が小さなくしゃみをして。

「と、とにかく家に入って! これじゃ赤ちゃんが風邪ひいちゃうよっ!?
 わ、わたし、すぐお風呂沸かすから、とにかくすぐ家に入って!!
 それから濡れたものも着替えないとっ!」

 ようやく初音は、この雨に濡れた状況が赤ん坊の為にならない事に思い至
り、あわてて楓と赤ん坊を家の中へと引いていった。

 ・
 ・
 ・

 その夜。
 柏木家の居間に、久しぶりに姉妹の姿が揃った。
 そして、その居間の片隅には、清潔なおくるみに包まれて、すっかりきれ
いになった赤ん坊がすやすやと寝息をたてていた。
 それまでの騒ぎなど、何事も無かったかのように……


 楓と初音が家に入って間もなく、二人の姉である千鶴と梓も帰宅したのだ
が、その後は有る意味当然ながら一騒ぎがあった。
 楓が戻って来た事もあるのだが、何より雨に濡れた赤ん坊の存在が、その
騒ぎを大きくした。

 動転した千鶴が熱湯をタライにはって、それに赤ん坊を入れようとしたり、
おむつ布や赤ん坊用の服を探すのに倉の中を目茶苦茶にしたり、お腹を空か
せて泣き出した赤ん坊に、自分の乳を飲ませようとして出ない事にあせり、
慌てて今度は梓の乳を飲ませようとして一波乱あり……

 だがその騒動は、重く沈んだ柏木家の、久々の明るい日常だった。


 しかし、四姉妹にとって懐かしいドタバタ劇も一段楽すれば、現実が重い
雰囲気を立ちこめさせる。
 急に静かになった部屋の中で。
 いつまでもその事を確認しないでおくにはいられず、千鶴が重い口を開い
た。

「……それで……一応確認するけど……その子は、その……」
「ええ。私と耕一さんの子供よ」

 柔らかく微笑んで楓が千鶴の後に言葉を続ける。
 そしてその言葉に、小さなため息が三つ落ちた。

「いったい何があったのか……話してくれるわよね?」
「ええ」

 毅然とした態度で千鶴は楓に尋ね、楓も神妙そうに、こくりと首肯いた。


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 今日も俺は不機嫌だった。
 いつものように狩りに出てはみたものの、獲物に出会えなかったせいだ。
 いや、獲物には出会えた。だが、それは俺が望んでいるようなものではな
かったのだ。

 ここ最近、獲物……人間共の反応が悪い。悪すぎる。
 俺が楽しみたいのは生命の炎の燃え上がり、消えていく様を眺める事なの
だ。最初から何かに脅え、道ゆく事すら不安がり、死の恐怖に囚われた人間
の生命の炎では、何も満足する事などできはしない。
 それでも我慢して狩りを続けていたが、それにも、もういいかげん飽きて
きた。いっそのこと、ちまちまとした狩りはもう止めて、一気に目前の街の
人間共を狩り尽くしてみようか。そうすれば少しは気が晴れるかもしれない。

 そんな事を想いながら。
 ねぐらまで帰ろうとしていた俺は。
 だから、その人間を見かけた時。
 久々の歓喜を感じたのだ。

 人間共も俺がここに住んでいる事を知っているからだろう。
 俺の住むこの山に人間が入ってくる事は、最近では滅多にない。
 死を望まぬものが、ここまで来るはずもない。
 それでも少し前までは、俺を『退治』しようとでもいうのだろう、勇敢な、
あるいは無謀な人間共がここまで来る事もあった。
 だが、そういった馬鹿共がこの山から下りられた事はない。
 そんな事が続けば、如何に間抜けな人間共でもここまで来る事は避けるよ
うになる。必然的に、俺がこのあたりで人間共に会う事は無くなっていた。

 だから、その人間を見かけた時。
 俺は期待をしたのだ。

 俺を見て脅えることも無く。
 逃げようともせず。
 静かにじっと俺を見つめる女。

 そう、女だった。
 そして、その女は、俺と同族の気配を微かに漂わせていた。

 獲物が女の場合。
 なぶり、あるいは、もてあそび、そして犯すのがいつもの俺のやり方だ。

 だが、こいつなら。

 俺に対峙しても、恐れを抱いているようには見えない。
 俺から逃げようともしない。
 ただ静かに、じっと俺を見る。

 この女なら。
 この女なら、俺が満足するような生命の炎を、戦いの中でしか見られない
激しく燃える生命の炎を見せてくれるかもしれない。

 ……久々の『戦い』の予感に打ち震え、歓喜の叫びを上げながらその女に
飛びかかろうとした時。
 俺の中でもぞりと動くものがあった。
 深い闇の中で眠りについているはずの、もう一人の俺。
 柏木耕一の意識が、俺がその女に飛びかかろうとするのを必死に止めてい
た。

 こんな事は今までに一度も無かった。
 奴は完全に眠っているはずだ。
 この身体は完全に俺の支配下にあり、奴が出てこられるはずはない。
 俺はわずかに動揺した。
 また奴が俺の身体を乗っ取るのか?
 また俺はあの檻の中に閉じ込められてしまうのか?
 せっかくこうして自由を手に入れたというのに!

 俺の脳裏に、あの閉じ込められていた日々の記憶がフラッシュバックする。
 崇高なる狩猟者の血を引き継ぎながら、人間共の中に埋もれた日々。
 そして……開放された日の記憶が蘇り……

 そうだ。思い出した。
 奴が一度だけ、俺に抵抗した時の事を。
 俺が開放された直後。
 俺がある女を狩ろうとした時の事。
 あの時と同じだ。

 そして、よく見れば。
 目の前の女はあの時の女によく似ていた。
 いや、似ているんじゃない。あの時の女だ。
 そう。俺が目覚めた時にあの場に居合わせた女。
 たしか『カエデ』とかいう女だ。

 ……いや、本当は忘れていたわけじゃない。
 忘れようとしていただけだ。
 いつかは会いに行こうと思いながら。
 確かに俺は、一度はこの女に会いに行こうと決めていた。
 だが、結局それは果たせずに。
 だから、意識して忘れようとしていただけだ。
 俺は最初からこの女が誰なのか、わかっていた。
 俺にはこの女を襲う事はできないのを、わかっていた。
 だから……

 ……俺は唸り声をあげながら。
 カエデを睨みつける。
 それ以上、何もできない事に歯噛みしながら。

 俺は自分に……耕一に怒りをおぼえていた。
 だが、実際問題、どうしても俺にその女を狩る事はできそうにない。
 ならば、無理をして耕一を起こすような事はしないほうがいいだろう。
 奴も俺も、一つの存在。
 下手な事をすれば俺の精神が分裂し、おかしくなってしまうかもしれない。
 最悪な事を考えれば、また耕一が俺を押さえつける事だってあるだろう。

 だから俺は、ただ唸り声を出すしかなかった。
 それは俺にとって敗北でしかない。
 だが、さらに酷い敗北……耕一に身体を乗っ取られる事を考えれば、やむ
を得ない。

 ならば、せめて。
 この女には、とっととどこかに行ってもらうに限る。
 そしてその後にでも、また人間共を狩る事で憂さを晴らせばいいだろう。
 だから俺は、せいぜい威嚇にしかならない唸り声を浴びせ……
 それでも、目一杯恐怖を感じさせるように唸り声を浴びせ……

 なのに……

 ゆっくり……ゆっくりとカエデは俺に近づき……

 壊れ物でも扱うかのように……
 柔らかく、そっと、羽根のように……

 俺に抱きついた。
 俺には何故か、それを避ける事ができなかった。

「耕一さん……やっと……やっと、会えた」

 そう小さく呟くカエデの眼には涙が浮かんでいた。

 そして、何故か。

 いや、こいつの意識が俺に流れ込んだせいだ。

 俺の眼からも涙が零れ落ちていた。

 ・
 ・
 ・

 ……結局。
 カエデは俺のねぐらまで付いて来た。

 俺にカエデをどうする事もできない以上、それを止める事はできなかった。
 しばらく放っておけば勝手に逃げ帰るのではないかと期待もしたが、残念
な事にカエデは俺のねぐらに居着いてしまった。

 こいつが何をしたいのか。
 俺には最初、まったくわからなかった。

 俺の寝首でも掻こうとしているのかと、半ば期待を持って待ってみたが、
別にそんな様子は見られなかった。
 俺が狩りに出かけるのを止めようとするのかとも思ったが、それもなかっ
た。
 ただ嬉しそうに、俺の身の回りの世話らしき事をするだけで、他には何も
目的が無いようだった。
 時折流れ込んでくるカエデの意識からは、ただ俺の為に何かしたい、それ
だけしか感じ取れなかった。


 やがて、俺の生活にも変化が出て来た。
 俺の持つ欲望の一方をカエデが解消してくれているせいだろうか。
 俺は狩りに出る事が少なくなっていた。
 そしてどこから持ってくるのか、酒を用意し、つまみを用意し。
 カエデの酌でゆっくりと過ごす……そんな時間が増えていた。


『……まだ思い出してくれないんですね』
 酒にまどろみうつらうつらすると、時折、カエデの意識が流れ込んだ。
『……時間はたくさんあるから……私はずっとあなたの側にいるから』
 俺は何を思い出さねばならぬのか、カエデに問う。
『……だから、ゆっくり。ゆっくり思い出してくれればいいんです』
 しかし、カエデは微笑って言う。
『……私はいつまでだって、待ちますから』


 そうして過ごす日々が、いつの間にか日常になった頃。
 カエデが俺に言った。

「……耕一さん。喜んでくれますか? 私、あなたの……赤ちゃんを……」


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「……そう」
 語り終え、楓が口をつぐんでからしばらくして。
 ようやく千鶴が声を絞り出した。
「耕一さんの事はともかく……とにかく、こうしてあなたが帰ってきてくれ
たのだし、とりあえずは……」
 しかし、その千鶴の言葉を遮って、楓がふるふると首を振る。
「違うの、姉さん。……私、これから耕一さんと一緒に少し遠くまで行くか
ら。だから、今日はお別れを言いに来たの」
「楓っ!?」
「お姉ちゃんっ!?」
 驚いて叫ぶ梓と初音に、楓は申し訳なさそうな顔を向ける。
「これから寒くなるから……耕一さんや私はともかく、この子には少し辛い
だろうから。
 だから冬の間だけでも、もう少し南の方に行かないかって、耕一さんが言っ
てくれたから」
「そんなっ! 楓、嘘だろ!?」
 再度、梓が叫ぶ。
「お家に帰ってきてくれたんじゃないの?」
 初音もすがるようにして楓に問う。
「ごめんね、初音。
 ……今日は、せめてこの子にこの家を見せておきたかったのと、あと、やっ
ぱり姉さん達にも一応この子の事、報告しておかなくっちゃって思って。
 その用事の為だけに来たの」
「駄目よ、楓……その子の為にも、帰って来るべきよ」
 千鶴も必死に楓を止めようとする。
「大丈夫。この子は耕一さんと私とで立派に育てるから」
「そんな事、できるはずないでしょう!? それに耕一さんはもう鬼に……」
 半ば悲鳴になっている千鶴の言葉を、楓は静かに遮る。
「耕一さんは、耕一さんよ? 私を愛してくれている」
 その強い意思のこもった言葉に、千鶴は何も言えなくなった。

 しんと静まった居間に、やや古ぼけた時計の音のみが響く。
 誰もが口を閉ざし、それぞれの想いを口に出せないまま。

 それでも諦めきれず、懇願するように初音が訊いた。

「お姉ちゃん……もう戻ってこないの?」
「また、暖かくなったら戻ってくるから。ね?」
「でも……」
「私は行かなくちゃいけないの。だって……」

 涙を浮かべる初音に、楓はなだめるように言う。

「私は、耕一さんの……お嫁さんだから」


   鬼の花嫁


「……楓……今は、幸せなの?」
 赤ん坊を抱き、部屋から出て行こうとする楓の背中に、千鶴が訊いた。
「ええ、とても……とても幸せだから」
 振り返りそう答える楓の顔は、その言葉どおり、幸福に満ちた優しい笑顔
に包まれていた。


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