楓は黙っているが、彼女の周りにはいつも様々な事が起こっている。
例えば先日、彼女が月見と洒落こんでいるとUFOが大挙して押しかけてきた事があった。持ち前のテレパシーで挨拶して見た所、もう1999年は過ぎたのかと聞いてきた。
残念ながら、と答えた楓にそれでは仕方がないと彼らは帰って行った。もしかすると自分は世界を救ったのかも知れない、と楓は思う。
無表情で。
また、彼女はそのへんの浮遊霊と顔なじみで、いちいち全部に挨拶していて遅刻することもままある。
今度はまた僕のおじいちゃんと会ってもらえるかな?
そう聞かれたら、いいとも、というしかない。幽霊の世界ではいまだに笑っていいともの視聴率が高く、お友達紹介がまだブームとして残っているのだ。楓も義理堅かったからいつもきっぱりといいとも宣言だった。
おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんの……。どこまで遡ったのか解らないくらい遡った挙句、ついにピテカントロプスが出てきた時には、さすがの楓も学術的な探求新を押さえきれなかった。幽霊だから内側だって見れるのだ。
そしたら、先祖に対する不敬だといって怒られてしまった。もう数世代遡ったらもの考える知能もなかっただろうに惜しい事をした。今度はうまくやろう、と楓は決意する。
やっぱり無表情で。
妹の初音。
楓は黙っているが、初音の周りにも本人が気付かないだけで相当色々なことが起こっている。というか、口にすると気の毒なので口に出来ないようなことが起こっている。
昨日はストーカーが5人はいて、それぞれが激しく牽制しあっていた。初音と一緒に歩く時は、常にマンホールの位置に気をつける。太陽の位置と風向きからカメラアングルを予想する。高層ビルの屋上からの角度と湿度を考慮に入れ、超長距離射撃による麻酔弾を回避する――当たったからと言って、その後どうするつもりなのか謎だが。
そんな楓も、まさか衛生軌道上からのスパイが行われていることまでは気が回らなかった。停車している車のカーナビに初音の位置が点灯していなければ、さすがの彼女も気付けなかっただろう。
彼女はすぐさまに対応をとった。手近な石をつかんで、衛星目掛けて投げた。さすがに届かなかった。
その日から、彼女の日課に百球の投げこみが追加された。予定では、1ヶ月後には第一宇宙速度を突破する速力を出せる筈だ。問題は命中精度と投擲物の質量計算で、衛星破壊によるデブリ増加及びケスラーシンドロームは彼女の望む所ではない。
とにかく、柏木初音は世界に一匹の絶滅危惧種だった。大事にしなければと楓は思う。
そうは見えないけれど。
姉の千鶴には楓も手を焼く。
彼女の周りに起きることだけには楓も口を出す。千鶴の場合、被害が彼女に向かわずに周りに向かうからだ。自分や初音に向かう分にはどうにでもなるが、意外耐性のない姉、梓はこの手の事柄に遭遇すると必要以上に過剰に反応するので厄介なのだ。
さいわい千鶴の引き起こす事態は小規模で、時折非人道的な食材と調理法にもとずいた料理が食卓に上る程度のものだった。姉の気持ちを慮り、楓は率先して食べることにしている。
ときどき、宇宙が見える。
本人の前ではいわないが、楓は姉の料理を非常に高く評価していた。
実は梓の料理よりも。
そしてもう一人の姉、梓。
平凡。すごく平凡。
体の方が凸凹だからって。楓の密やかな劣等感は燃えあがる。
これは時々顔に出るらしい。
そんな。
どこにでもありそうですら全くない楓と彼女を取巻く人々の日常をつらつらと綴って見る。
シュレディンガーの楓
「ちゅうちゅうたこかいな、ちゅうちゅう、たこ」
「今いくつ?」
「16個」
耕一が来るというので、二人して餃子を作っているところだった。楓が皮造り担当で、初音がアンを包む係。
可愛らしい数え方をした後、黙々と皮を伸ばす作業に没頭する楓に初音は小さく微笑んだ。
寡黙で表情を作らないせいか、誤解されやすいところのある楓だったが、初音からしてみれば一緒にいて一番落ちつく存在だった。
自分に対しては時折冗談すら言ってくれるこの姉に、初音は他の人にもそうすればいいのにな、と残念に思っていた。
楓もまたこの穏やかな時間を楽しんでいた。自分が黙っている事を誰かが気に病んでいるような場を気付かないわけではなかった。ただ、そういうときどうしていいか解らないだけ。
楓は、無理に言葉を搾り出そうとする必要のない、本当に自由な空気の中でのやり取りを大事に思っていた。
ふと。
目の端に何かが光ったのに気付いてさり気なくそちらへ意識をやった。
彼女の目は果てしなくいい。オーガ・アイは光学10倍デジタル20倍のズーム機能を搭載している。素でボルボックスの観察も出来る。
胸が薄くてもズームすれば――大きいのがより大きく見えて哀しくなるのだが――とにかく。
どこかの誰かが望遠レンズでこの部屋を覗いているのを彼女は察知する。
傍から見ると、物憂げに空を眺める、乙女にしか為し得ない風情。
「初音初音」
「なに?」
「少し貰っていい?」
まだ伸ばしていない餃子の皮、団子状になったそれを二つほど手にとって楓は言う。なんだかわからぬまま頷く初音。
「ちょっと伏せてて」
なんだかわからぬまま初音は素直に伏せる。
瞬間、楓は片膝を立ててクイックモーションで振りかぶり、まとめたお団子を投擲した。古田も目を剥くスローイング。
「きゃっ」
振った腕が烈風を呼んで部屋の中に打ち粉が飛び散るなか、楓は自分の放った球の行方を追う。
距離良し角度良し……命中。
「な、なに? 何があったの?」
「突風が吹きこんだみたい。ところで耕一さん、沢山食べてくれるかな」
「多分ね。だからほら、沢山作らないと」
楓も頷いてまた皮作りを再開した。その前に、窓は閉めておく。初音といると退屈しないのだが、仕事をするときには気が散る事が多いのが難点だった。
ガラガラ、と玄関から誰かが帰ってきた気配がある。初音はその前からそれに気付いていた。
「あ、千鶴お姉ちゃんだ」
楓にはそれがすぐには特定できなかった。きっと初音には楓にはない超センスがあるのだろう、と楓は思う。凄い。
試しに自分の髪の毛をつまんで初音のようにアンテナにしてみた。
初音が振り向く直前、楓はぱっと元の姿勢に戻る。
「ただいまぁぁー」
確かに千鶴の声だった。初音は首を傾げる。
「風邪かな? なんか声ちがって聞こえない?」
楓には解らなかった。
「ほら、こんな具合に違うでしょ?」
初音は一面に白く打ち粉の乗った盆に、指で声紋グラフっぽいものを描いて見せる。楓は目を瞬いた。声紋グラフ見て解るのだろうかこの子は。
「ま、いいか。とりあえず、迎えに出ようよ」
玄関に出ると、千鶴がへばっていた。楓は少しばかりギョッとした。
へばりもするはずだ、性質の悪そうな浮遊霊を50ばっかり引き連れている。短気な千鶴の守護鬼がぶんぶんと爪を降りまわしているので、みる間にその数は減ってきていたが、最初は一体どれぐらい背負っていたのだろうか。
初音が明るい笑顔でお帰り、お疲れ様、と声をかける。
「きょ、今日はなんだか疲れたわ」
「千鶴姉さん。どうしたの?」
「うーん。特にこれと言って普段と違わないと思うんだけど」
いつもこうなのか。すると、帰ってくるまでに千鶴の守護鬼が果てしなく頑張っている結果なのか。
楓はきーきーと獅子奮迅の働きを見せる守護鬼に同情の視線を送った。ついでに彼女を背後から狙っていた5、6匹を薙ぎ払う。
「楓?」
千鶴が不審げに楓を見上げる。
ええと、蚊が飛んでたというのもありきたりだし。
「肩にふけが」
「……ありがと」
いつしか千鶴の周りには倒れ伏した浮遊霊たちが山になっている。残るは後5体。強い。楓自身の守護鬼は主人が自分で対処できるためにかなり怠慢だ。滅多に出てきもしない。
「ああ、やっぱり家にかえると落ちつくわね、体も軽くなったみたい」
それは軽くなっただろう。楓はこの死屍累々たる浮遊霊の死体をどうしようかと考えた。そもそもどうして幽霊のくせに死体なんか残すのだ。
ほっとけば消えるだろうと判断して、楓は居間へ引き返す。廊下にも点々と残骸が落ちていた。今後、千鶴を捜す時にはこれを目安にしよう。
居間に入ると千鶴が元気に家事手伝いを妨害していた。楓は息も絶え絶えに疲れ果てている千鶴の守護鬼に敬意を込めた眼差しを投げると、家事手伝いたる初音のフォローに回る。
千鶴の料理を理解するものが自分一人である事はよく承知していた。個人的に残念だけど、ここは皆の為に千鶴姉さんには涙を飲んでもらおう。
傷つけないようにさり気ない言い方で。
「姉さん、邪魔」
千鶴が胸を押さえて怯む。
しまった、ざっくり傷つけてしまった。楓は無表情に悲しんだ。
「邪魔って、楓それはあんまりじゃないっ!」
「じゃぁ邪鬼」
「同じよっ!」
確かに。魔と鬼を変えたくらいでどうこうなると思ったのだろうか。
楓は自分の至らなさを眉一つ動かさずに痛感した。
ここは一つ、良い例をあげてフォロー。
「でも、初音は無邪気なお子様だよ?」
「お子様じゃないよっ!」
敵が増えてしまった。
玄関から人の気配がした、という動きを初音が見せる。それからガラガラと言う音が聞こえてくる。音より早いハイセンス女、初音。
さすが初音、侮りがたい。
「ただいまー。あ、もう全員帰ってるんだ」
「梓お姉ちゃんの帰りなさいー」
そして一日が終わる。
また新しい朝がきて、穏やかな朝食が出て、初音と梓が学校に出て、家の中に楓と千鶴だけになるまでの間は、家庭の平和は保たれるのだ。
楓が、梓姉さんはちょっと退屈かも、とか思っている事は内緒だった。
「楓、アンタ私になにか文句あるの?」
内緒だ。
「ところで楓」
「なに千鶴姉さん」
「なにか忘れてる気がしない?」
楓もそんな気がしていた。
なんだったろうか。
「えと……耕一お兄ちゃん、来る筈だったんじゃ?」
あ。忘れていた。
耕一さんゾッコンラヴな私が。
顔色一つ変えずに恥じ入ると、楓はさっそく念波を発信して耕一の居所を探る。
君に届けテレパシー。
彼女知らないが、このとき楓は最大に無表情になる。
反応がない。
「おかしいなぁ、あいついい加減だけど連絡もなく約束すっぽかすやつじゃないんだけど」
「なにかあったのかしら」
楓はより強く念波を発する。少しだけ眉根が寄り、心配そうな表情になった。
初音が、ん? という表情を浮かべるのに楓は気付かない。
初音は頭を叩いて、なんか聞こえるような、と小さく呟くと耳を澄ませた。
――CQCQ、こちらウッドホワイトウッドウッドウインド。漢字で書くと柏木楓。耕一さん、応答願います。
繰り返します、こちらウッドホワイトウッドウッド……面倒です、木(白+1+風)。耕一さん、応答願います――
なにこれ。初音が意味を計りかねて呆然とするのを余所に、楓は更に集中した。千鶴や梓はもう少し待てば、捜しに出ましょう、そんな事を言いあっていたが、楓は一切耳にもいれない。
そして。
見つけました! 見つけましたけど。
「え、なに? 何かわかったの、楓お姉ちゃん」と初音。
「アイツ、どこでなにしてやがんだ?」これは梓。
「耕一さんは、無事?」千鶴。
楓は少しだけ俯いて、一見何気なさそうに、内心激しくバツの悪い思いをしながら言う。
「隣のビルの屋上で望遠レンズを貫通した餃子の皮に当たって、ビルから落ちて浮遊エルクゥになったところを千鶴姉さんの守護鬼にずたずたにされる耕一さんの映像を、某マゼラン星雲の方々から受信しました」
皆がどう答えていいのか解らないでいる中、楓は一人激しく恥じ入っていた。
傍目には呑気にお茶を啜っているように見えるけれども。
「いや楓。お笑いとかじゃなくてさぁ……」
「お笑い!?」
楓の目が冷たく煌く。
どこにお笑いの要素があるですか、この上なく本気でいっているのに。
全く、梓姉さんのセンスときたら――そんな事よりどうしましょう。
どうしたらいいんでしょう!?
湯のみから口を離して、楓、ほうと一息。