鬼の研究 (痕SSこんぺ委員会 中編部門参加作品) 投稿者:AHH 投稿日:1月17日(金)00時46分
 驟雨が闇を更に深め、四方よりの雨音が耳を聾する。降りしきる雨は路面に爆ぜて薄靄を漂わせる。
 一人、道を行く者がいる。雨に篭る鼻歌まじりに、足取りも覚束ない。靴をどこに下ろそうが関係のない一面の水溜りも、街灯の光をうけて刹那に煌く降りしきる雨も、男には一切関係がないようだった。よろめいて電柱に縋った彼を、足元から見上げているのもまた彼自身。路上を覆う黒々とした水鏡が、世界を逆しまに映し出していた。
 酩酊する彼はそんな事に訳もなく面白みを覚え、吃逆まじりの笑い声をあげた。霞んで見えない目も、よく聞こえない耳も、雨と酔いのせいに片をつけて、彼はまた歩き出す。いつしか逢魔が狭間へと踏み入れた事にも気付かずに。

 娘が一人泣いていた。蹲り、雨にうたせるままに咽び泣いている。定木を当てたように揃った黒髪は、まるで夜を梳いたようだった。細い肩が震え、ぽたぽたと雫を垂らす濡れそぼった衣服が肌に張り付いている。セーラー服の襟に走る数条の白線だけが浮びあがって見えた。

 ひっく。
 男は千鳥足のままで一歩を踏み出す。善意も悪意もなく、単なる興味と好奇で男は彼女へ近づいた。
「お嬢さん、どう――」
 言い知れぬ悪寒が彼の言葉を喉に詰まらせた。ふらふらと揺れていた視界の隅に見えたものが、なんであれ彼の酔いを一息に覚ました。白い脹脛だ。すらりと細く形のよい少女の足。色と光のない世界の中で、それはどこか艶かしく、異質に美しかった。しかしその美しさも男の心を捉えなかった。その足は道の傍ら、植え込みの中から無造作に飛び出して、ただ重力の為に折れ曲がっていた。
 男は視線を道の只中、自分の正面へと戻す。彼女は今、ここにいるのに。
 彼女のスカートとそれを台無しにしている水溜りを、男は見たくもない思いで見つめた。他の全ての水溜りと同様に、そこにはただ闇が映っていた。どろどろと、赤黒い闇が。
 泣いていた少女が振り返ろうとしているのを悟って、男はびくりと体を強張らせた。
 俺はなにも見なかった、なにも知らない。だから。
「次郎衛門はおりますか……次郎衛門はおるまいな……」
 娘が両手を地について見上げていた。小さく、細々と童歌のようなものを歌う。
 頤から喉、そして胸元へとつたう雫に男は目を奪われた。絶にして妙、ありえないまでに整った顔立ち。縋るような眼差し、半ば開かれた唇が、内心の狂おしいまでの希望を現していた。
 我に返り、男は一歩だけ後ずさった。
「鬼啖いの次郎衛門はおりますまい……次郎衛門はおりますまい」
 娘はもう泣いてはいなかった。


【 鬼啖縁 】

 ぱっとしない天気だ、と彼女は思った。いつ崩れてもおかしくない。
 久方ぶりの再訪に、由美子は少なくない感慨を抱きつつ駅舎を振り返った。
 あれから、4年にもなるのか。

 最後に訪れたのはまだ学部生の時だった。
 その時、偶然にもこの地を訪れていた彼女の友人が、世を騒がせた連続猟奇事件に巻き込まれて姿を消した事を、由美子は東京に帰って初めて聞いた。
 彼と彼の家族全員が、他数名の行方不明者と共に一夜にして姿を消し、その後の懸命な捜索作業も虚しくついに発見されなかった。犯人もいまだ捕まっていない。
 彼の特殊な家庭事情や、その少ない身寄りの全てが一時に失われたという悲劇の大きさに言葉を失ったことも、由美子は今もはっきりと覚えている。
 彼女はその後まっすぐに学び、大学院へと進んだ。敬愛する師匠のもと、民俗学の分野に足跡を残すべく今も勉強中の身だった。

「さて、先に宿にいって荷物を置いてからにしますか、それとも直行して一通り片付けてから宿に向かいます? 取り敢えず馬場教授、今日の宿はどちらでしたっけ」
「あれ。手配は小出ちゃんに頼まなかったっけ?」

 今回研究旅行にこの地が選ばれたとき、あれこれと辞去すべき理由を考えもした。そんな彼女の背中を最後に押したのは、漠然とした思いにもそろそろ決着をつけるべき時期だという考えだった。
 もう認めてもいいころだ。
 柏木耕一は二度と帰ってこないのだ、ということを。

「私は頼まれていませんよ」
「あら。おかしいな」
 年配の女性博士は多分に白いものが混じった頭に手をやった。
 またか。由美子はため息をつく。
 研究室の仲間たちも同じような反応をする。方や良家の令嬢で、他方中国からの留学生だ。
「センセイ、もう大概にしてくれませんか?」
 その良家の令嬢たる佐和みどりは、肩紐以外に作る気があったのか疑うようなノースリーブにまるで吹きつけたようにぴっちりしたパンツと、田舎の青年たちの間に嵐を呼ぶいでたちをしている。誰が見ても研究旅行とは思うまい。
「最近しっかりしてたから油断した」
 飾り気も肌の露出も殆どなく、厳しい印象のひっつめ髪をした武露花(ウー・リューファ)もまた同じく相槌を打った。三人の弟子達に叱られ、馬場教授はごめんなさい、と小さくなる。
 研究者として、そして詩歌の道に通じた風流人として尊敬すべき師であるのは間違いないのだが、どうにも興味の対象以外のことには不注意すぎる、と由美子は思った。毎度毎度、何かしら手違いをやらかして随員の仕事を増やずにはいられないらしい。
「仕方ないから一つづつ当たってみましょう。これからとれるかどうか解らないけど」
「ごめんなさい……ボケたのかしら」
「大丈夫ですよ、昨日今日の事じゃありません」
 由美子は少し意地悪く言うと仲間に声をかけ、近くの電話ボックスからホテルの番号を探すように頼む。みどりが億劫そうに、端末で調べた方が早いといって携帯を片手に調べ出すと、露花もそれに倣う。
 確かに便利な世の中になったんだけど。由美子はそんな同輩達を見て少々やりきれない思いに囚われた。文献やデータに留まらない何かを求めてわざわざ現地に足を運んでいる自分たちを、彼女らはどう思っているのだろう?
 由美子はすぐに苦笑いを浮かべた。直接歩いて調べるわけでもない以上、電話ボックスで電話帳を調べる事だってそう大差はないではないか。
「小出ちゃん、ここ詳しいんじゃなかったの?」
「二度ほど来た事があるだけですよ。その時泊まったのは随分高いところでしたし、今回みたいに思いつきな貧乏旅行には辛いですよ」
「なんだ、顔が利いたりするのかと思ったのに」
 由美子は笑っていなした。
 4年前、彼女が宿泊したホテルはオーナーが変わったものの今もまだある。隆山温泉で最も高級なホテルの一つであるばかりか、全国的にも名が知られている。それが、彼の親類によって経営されていたと知ったのもまた、事件の後の話だった。
「じゃ、先に見るとこ見ちゃおうか」
 品のいい笑顔で老教授は言った。時期的に観光シーズンの盛りから外れているためか、宿のあたりはつきそうな気配だった。そちらの方は仲間に任せ、由美子は目を付けておいた営業所でレンタカーを確保する。
「車借りてきたよ。宿の方はどう?」
「数はあるんだけど、意外に埋まってるのよね。道すがら当たるわ」
「みんなごめんねぇ」
 運転席に入った由美子は助手席に教授を乗せ、地図を渡してナビを願った。地図と睨み合う教授を放置気味に、由美子は最初の目的地である民俗資料館へ進路をとる。

 鬼ハ帰ナリ。
 中国において、死者の魂の帰り来るものを『鬼』と説明される。この『鬼(キ)』に『オニ』なる訓読を当てた理由は諸説あり、倭名類聚鈔においては『隠(オヌ)』が訛ったものだと伝えている。
 由美子はふと思う。
 昔から人は、隠れ、失われてしまった者が帰るのを願っていた。その思いが、鬼を呼ぶのだとしても。

「つきました」
「ご、ご苦労様。ありがと露花」
 先に下りた露花が少しふらふらしている教授の手を取って助ける。車内で本を読むのは止めさせたほうがいいようだ。それが地図であっても。
「えーと、面白そうなものは、アイヌ風の文様がある衣装とかそういうもの。それらの粛慎人(みしはせのひと)関連物に気付いたら注意しといてくださいな」
 資料館の入り口前でガイドさんのようにいう元気な婦人学者に、学生達は笑いを洩らしながら従った。
「日本書紀だったっけ? 粛慎人を鬼魅と呼んだのって」
「そう。あと斉明記など」
 みどりの気軽な問いかけに、露花がしっかりと答える。
「など、って? 他に何かあったっけ?」
「……あったような気がする。どうだったかな、由美子」
「ごめん露花、覚えてない。というか、みどりも聞いてばかりいないで自分で調べなさいよ」
 不勉強な学生達に苦笑しながら、老教授は真っ先に立って彼らを手招いた。歴史の影に隠れつづけた彼らを、少しづつ白日のもとにさらして行く作業。考えてみればゴシップを集めるようものかもしれない。
 男性のロマンのありかたと、女性のロマンのあり方は違う。彼女達が求めるのは過去と現在を繋ぐ共感、絶望的な孤独に鬼哭する者たちへの可能な限りの理解と同情なのだった。

「露花、なに見て……」
 露花の視線を辿ったみどりは途中で言葉をなくした。由美子も目をやる。彼女たちがこれから向かおうとしている資料館から今出てきたばかりの女性だった。
 身に纏っているのはサッパリしたシャツとブルージーンズ、スニーカーといったラフなものだった。それらに与えられた曲線は豊満でしなやかだった。
 しかし何より、その長い髪が彼女たちの目を奪っていた。丁寧な手入れをされているようには見えない。やや色が薄めのそれは毛先が揃わず、前後の区別なくただ雑然と長く、束ねるでもなく投げ出されるように垂れている。その荒々しい髪の下から仄見える白皙は、背筋が凍りつくほどに清冽だった。
「むっちゃ綺麗。カッコええ。信じられへん、モデルさんかいな?」
「みどり、どうして関西弁になるの。まぁ、わからなくもないけど」
 由美子もため息をつく。
 その時彼女は顔を上げ、一瞬由美子と目があった。またも凍りつくような眼差し。
「私負けてる? やっぱ負けてるかな露花」
 露花はみどりを眺めると、無言でまた去り行く美女へと目を戻してしまった。

                   §

 露花は中国河南よりの留学生だったが、名前を呼ばれるまでは誰からもそうとは思われなかった。眦は釣るどころか盛大に垂れているし、どちらかといえばぽっちゃり型で少々下膨れた頬にはえくぼすら見える。
「大陸では女鬼は美人と決っている。憧れたっていいくらいなのに」
 彼女は憤慨したように言った。かねてからの彼女の持論によれば、日本における女鬼の扱いは悪すぎるらしい。
「というか、露花が憧れてるのでしょ?」
「……私では鬼になれないだろう」
 ありゃ、とからかいを入れたみどりが舌を出す。佐和みどりはこの友人に激しく懐いていたが、それでも彼女が真面目すぎると思うことはある。
「みどりや由美子は女鬼にもなれそうで羨ましい」
「そんなことは、ないと、思うけどなぁ」
 馬場教授が苦しい息の下、搾り出すように言った。彼女たちが目指している寺院は延々と続く石段の彼方にある。腰掛けるのによさそうな路傍の岩を眺めて、老教授は長々とため息をついた。
「私には露花のほうが鬼役にピッタリな気がするけど」
「どうして?」
 露花のつっけんどんな言葉の裏には、隠しきれない期待の響きがあった。
「彼らは一途で、真面目で、少し不器用で。世に阿る事ができないからこそはぐれるしかない存在だと思うのよ。露花のまっすぐな所はとてもいいのだけれど、そんな危うさがあるような……って、どうしたの?」
 今度は由美子とみどりがため息をつく。一切誉め言葉になってない。
 明確に落ちこんでいる露花に教授は何が悪かったわからぬまま言葉を継いだ。結局それも悉く的を外し、最後には残る弟子二人から発言を差し止められる有様だった。

 調査旅行の日程はニ泊三日。昨夜はどうにか見つけた民宿に転がりこみ、今日は約束をいれてある二つの寺の住職と、一人の民話伝承者を回る予定だった。レコーダーの電池やカメラのフィルムなどの確認もすませてある。
 寺につくと丘陵地特有のひんやりした空気が彼女達を迎えた。室町初期の禅寺という。一帯でも景勝地にあたり、見事な庭と僧堂が目を引く。近くにいた庭師に尋ねると、玄関まで案内してくれた。
「本来、玄関というのは『玄妙の道に入る関門』という意味でしてね。一般家庭の出入口に使うようになったのは江戸以降のことなんですよ」
 はた、と馬場教授はたちどまり、庭師と見えた人物をまじまじと見、謝罪する。
「住職ご本人でいらっしゃいましたか。失礼しました」
 由美子達も驚いて無礼を侘びた。住職は、ここでは庭の手入れも大事な修行でして、と笑った。

「あれ。ご住職、お忙しい?」
 由美子達も苦労した長い石段をようよう登り終えたばかりといった風情で、額にハンカチをあてた中年の男が立っていた。
 猫背気味の姿勢と長い顔が注意を引くぐらいで、余り印象のさえない男だった。
「おや長瀬さん。お久しぶり。今日はまたどうなさったわけですか?」
「いえね、最近少しばかりモノに憑かれたみたいなんで、また祓ってもらおうかなと――ええと、なにか?」
 長瀬と呼ばれた男の首が傾げられる。女性達の視線が一度に集まれば、彼でなくとも不審に思うだろう。不躾な凝視に気付いた彼女たちは慌ててなんでもありませんと取り繕う。
 ものぐるい、もののけ。はっきりしない、寄る辺なき魂は『もの』と呼ばれた。邪しき鬼と書いて、あしきもの、と読む。
 さすがにご当地、縁のあるものによく当たる。
 若い女性研究者達は訝しげな長瀬を余所ににやにやしていた。
「今日はちとお客さんもおいでなのですが。時間のほうは?」
「でしたらまた後程お伺いしますよ。そちらのみなさんは、ご観光で?」
「あ、そんなものです」
「それはそれは。温泉以外余り見るところもありませんが、楽しんで行って頂けるとありがたいですよ。それでは」
 その面長な中年男性は去り、住職は四人を客殿へと案内した。
「今の方は?」
「長瀬さんかい? ここの警察に勤めてる方でね。結構もう古株になるかな」
 この寺にあるのは幾つかの古い文書だけだった。しかしそれが随分に価値のあるものなのだ、と馬場教授は言う。
「こちらにあると伺っている資料ですが、室町より後のものということですよね」
「そうですねぇ、年代的にはそうなりますか」
 どう? 老教授は得意げに弟子達をふりかえる。鬼が鬼として文献に登場するのは殆ど古代においてだ。魑魅魍魎として人々に脅威を与える鬼は平安期に最盛を迎え、中世以降は野党など世にまつろわぬ者たち、異能の力を持つ者たちの代名詞として登場するようになる。仏教から地獄のイメージを与えられた鬼は往生思想の一端にその席を占めるばかりとなり、一向一揆の終焉と共に歴史からその姿を消す。
 彼女らの訪れた加賀の地は一向一揆の中心、宗教的怪異には事欠かない土地柄ではある。それでもしかし、ここまで年代が下ってなお鬼が鬼として姿を見せることは他には類を見ない。
 すごいことでしょ? 老婦人は自分のことのように胸を張る。
「はは、このあたりは迷信ぶかい風習が長くあった所ですし、文献といってもきちんと編纂されたものなどではありません。土地の有識者が気紛れに綴ったような書残しですから、大した資料価値などないのですが」
「そんなことはありませんよ」
 ぽつり。
 由美子は頬に冷たいものを感じて、反射的に空を見上げる。どんよりとした雲に覆われた空からまた一つ二つ、水滴が落ちてきた。
「ああ、降ってきましたね。急ぎ中へ」
 由美子は仲間と共に古い堂宇へと足を踏みいれた。遠く、ごろごろと雷の音も聞こえた。雷神として、また学問の神様として知られる菅原道真公。その遠雷の響きが、余計なことに気を取られていないでしっかり勉強しろと発破をかけられているように、由美子には思えた。


【 百鬼夜行 】

「鈴鹿山や大江山の鬼たちがそうだったように、雨月の鬼もまた徒党を組んだ野盗的集団だったのだろうな。時代的にははぐれた一向の門徒たちだったのかもしれない」
「可能性は十分でしょうね。彼らの名前が多少なりとも残っていればもっとはっきりしたんでしょうけど。童子名でもついてれば解りやすかったのにね」
「確かに。そういえば名前が見えないのは時代的には奇妙な気がするな」
「次郎衛門、というのも違和感がある」
「源 次郎衛門 義経、とかそんなカンジかしらね」
 露花とみどりが聞いたばかりの伝承について意見を戦わせていた。
 しかし由美子はそれどころではなかった。
「これ、ほんとに帰れる?」
「本気で自信ないかも」
 激しい嵐だった。大小様々な物が横殴りの風に乗って舞い、裏日本の風に強い木々が大きく幹をたわませる。
 車の中にいても風が唸りとともに忍び込み、雨粒は窓も割れよと打ちつける。
 どうにか最後の伝承者との会見を終えたものの、日はとっぷり落ち風雨は危険を感じさせるほどに激しかった。強く引きとめられるのを辞去してきたのが後悔されてくる。
 雨月の中腹から降りる道は曲がりくねり、街灯も殆どなかった。斜面にもかかわらず路面は流れる水に浸り、どこまでが道かも解らない。由美子は来る途中にみた道脇の側溝が気になって仕方がなく、ゆっくり慎重に車を進める。
「由美子、なにをのろのろ走ってるの」
「うるさい。だったら自分で運転しなさい」
 視界もどこまでも悪い。ワイパーの隙間からのぞく光景には遠近感がなく、集中力を保つのも難しかった。幾つか目のコーナーを曲がる時、由美子は気をつけていたにも関わらず、つい道の端によりすぎた。速度を落としていたのも災いした。がたんと車が大きく揺れて傾き、止まる。
「脱輪したか?」
「脱輪したわね」
 露花とみどりが同時に言う。由美子は答えず、馬場教授は眠ったままだった。
「由美子、どうする気?」
「車の底傷ついたかな」
 由美子はワイパーを切る。屋根やボンネットを叩く雨音が車内に満ちた。由美子は突っ伏していたハンドルから身を起して挑戦的に振り返った。
「脱輪したわよレンタカー傷つけたわよ動かないわよどうするもこうするもないわよ、なんか文句ある?」
「あるに決ってるじゃないの。帰れないじゃない」
「そうだな」
 逆切れして見せても効果はないようだった。
「……どうしようか」
「JAFしかないでしょ」
 取り敢えず連絡するしかない、とみどりが電話をかける。今日は同様の事故が多いらしい。電話口から漏れ聞こえる会話から、しばらく時間がかかりそうな事が伺えた。彼女は伝承者の家からの道順をもういちど正確に伝えると電話を切る。
「と、いうことらしいですけど」
「しばらく缶詰ということか」
 露花がふっくらした頬を僅かに膨らませる。この面子で閉じ込められてもな、とぼやく。
「あーら、誰ならいいのよ」
「いや、誰と決ったわけではないのだが」
 みどりが意地悪く笑う。退屈な時間が確定してしまうと、彼女たちはすぐにその時間を使って遊ぶ方法を考えつく。一通り露花をからかい終わったみどりは由美子へ矛先を向けた。
「由美子もその手の話を余りしないわよね」
「ほっといて」
 すきっ腹が気になりだした由美子はどうでも良さそうに答えた。雨は一向に止む気配もなく、JAFの到着もまだ先の事だろう。
 山道は暗く、荒れ狂う風に翻弄される木々の影と、恐ろしいほどの速度で流れ行く雲がどこか異様に映る。
「いない訳じゃないんでしょ? 由美子わりと人気あるし」
「そっとしといて」
「なに、まさかほんとにいない訳? だったら紹介したげれば良かったな。気にしてる男どもも結構いたのに」
「いいから構わないで」
「まさか、そっちの方面に興味が? 言っておくけど露花は私が予約済みだからね」
「……なんの話か」
 むっとした露花が振り上げた手をみどりが甲高く笑って避けた時だった。がたん、と車が揺れ、脱輪の具合がひどくなった。由美子はハンドルに顎をぶつける。
 うめきながらずり落ちた眼鏡を据えなおした由美子は眉を顰めた。
 振り返る。
「なに?」
 無邪気に尋ねるみどりを無視して、由美子はリアウインドウの向こうに広がる闇に目を凝らした。
 気のせいだろうか? バックミラーに何かみえたように思えたのだが。
 由美子に釣られて、みどりと露花も後を見る。激しい雨に洗われる硝子は視線を通さず、鏡同様に車内の様子を映して返した。
「由美子、どうした?」
「んー。誰かいたような気がしたのよ」
「誰かって……誰よ」
 シルエットだけは瞼に残っていた。が、一瞬の事で由美子にも解らない。どう答えたものか言い渋る由美子にみどりも露花もいやな顔をした。闇夜それも嵐の中、車の中に閉じ込められるのは楽しいものでもない。
 ん、と小さく唸って馬場教授が寝返りを打つ。この状況でもまだ寝ているとはさすがだ、と全員が思った。
「もういいかい?」
 皆が顔を見合わせた。確かに眠っている老婦人の方から聞こえた。それは普段の彼女からは出た事のない、しわがれた、ぞっとするような蝿声だった。
「……まーだ、だよ」
 由美子が答えると、馬場教授はもぐもぐと黙りこんだ。由美子は露花を見、露花はみどりを見る。全員が見守るなかで、馬場教授は何かを呟いていた。恐る恐る耳を寄せた由美子は、それがわらべうたの一節であるのを聞き取った。

 誰が喰た 誰が喰た
 誰も喰わない儂が喰た 

 不穏な気配が包んでいるのを皆は感じ取っていた。由美子は車内の明かりを消し、静かにするようにいう。目の正面には何も見えないが、視界の端々にときおり何かが見え隠れする。あからさまな怯えの色を浮かべて露花にしがみつくみどりを、やはり不安そうな目をした彼女が支えていた。

 いたか橋下三軒目 いたか軒脇両隣 いたか道傍輿の中 
 もういいかい? もういいかい?

「全然よくないよぉ……」
「シッ! まぁだだよ」
 道を、彼女たちの横を何かが通り過ぎて行く感覚を三人は味わっていた。暗い硝子の向こうには何も見えないし、恐ろしくて見ようと顔を上げることも出来なかった。激しい雨音にかき消されてしまう筈の足音、微かな話し声などが聞くとはなく聞こえてしまう。

 いつ、むう、なな、やぁ、ここのつ、と。
 もういいかい? もういいかい?

 もうやめて、と震えながら頭を抱えたみどりが懇願していた。彼女を励ますようにする露花も実際は友人の温もりで自分を奮い立たせ、様子が尋常でない恩師に由美子も落ち着きなく辺りを見まわす。
 ひっ、と息をのむみどりの口を露花がふさいだ。車の内外の温度差で、窓は全面に曇りかけていた。それは彼女達にしてみれば外界からのブラインドであり、見たくもないものを見ずにすむ目隠しだった。
 その窓に、ぽつぽつとくすみの薄い点が現れた。それは少しずつ大きくなり、一センチほどの点が5つに、そしてそれは細長く伸びて集まり、まるで押しつけた手形のようになった。それが横に薙がれ、十五センチほどの幅の覗き窓があいた。
 曇っているのは内側であり、誰も窓には触れない。
「もう、いいかい?」
 ついに耐え切れず、押さえていた露花を振りきってみどりは叫んだ。
「もうやめて! もういい! もういいから!」
 しん、と背筋の凍る沈黙が落ちた。その静寂に、我にかえったみどりが青ざめる。寝言に答えてはいけない。死者に答えてはいけない。鬼に連れ去られてしまうから。
「嘘、いまのは嘘よ。ねえ」
 嘘のような静けさだった。がたがたと震えるみどりを露花がしっかりと抱き締める。ルーフを叩く雨音だけが支配する空間、彼女達が息を殺して祈る中で、それは聞こえた。
「みぃつけた」
 振り向くと、曇った窓に一箇所だけあいたそこから覗く無数の目。
「次郎衛門は、いないよねぇ?」

                   §

 豪雨による影響が各地に出る中、土地に慣れない観光客を心配して戻ってきた長瀬は予想した通りの光景を見つけて苦笑した。いい加減に舗装するか路側灯を据え付けるかしないとまずい道だった。年間何台の車がこの側溝の餌食になるのだろう。
「こんな所にいらっしゃいましたか、お嬢さんがた……っておや、どうしました?」
 白馬の王子とは程遠い長瀬に、三人の娘達は争って飛びついた。皆が皆顔色をなくし、がたがたと震えて口も聞けずにいる。
 思わぬ展開に目を白黒させながら長瀬は落ちつくようにゆっくりと全員を宥めた。少しは正気を取り戻してきたようではあるが、極度の恐怖からの回復にはまだ時間が掛かりそうだった。
 JAFの作業員に車を引き上げられるか調べるように指示し、長瀬はまだ震えの止まらない彼女達に傘を差し出した。
「取り敢えず麓までは私の車でお送りしますよ。少しばかり狭くて申し訳ないんですが」
「あら? どうかしたの?」
 寝ぼけ眼を擦って、ようやく目を覚ました老婦人が間の抜けた声を出した。

 嵐に降り込められただけにしては怯えようが普通ではなかった。隣席の眼鏡の女の子は呆然としているし、後ろでは女の子二人が教授に両側からしがみついている。
 何か話でもして落ち着かせた方がいいだろう。長瀬はぼちぼちと口を開いた。
「今日の嵐はとみに激しかったみたいですな。私も長くここで警官やっといますが、なかなか珍しいものに当たりましたよ」
 誰からも反応もないまま長瀬は続けた。
「あんまり雨が強くて溺れかけたんでしょうな。もぐらが穴から這い出して木に登っていましたよ」
 無反応変わらず。
「他には猿も登ってましたな。ああ、猿ははじめから木に登るものですな、はっはっは」
 車内は恐ろしく静かだった。バックミラーに馬場教授がどうしたものかという表情を浮べているのが見える。
 長瀬も負けず劣らず困っていた。
「あとは……ええと、なにが登ってたましたっけ」
 とうとう老婦人が吹き出した。由美子も少しだけ緊張を和らげたように見える。
「どうしても木に登らないといけないんですか?」
「他にいい方法がなかったんでしょうな。もぐらも私も」
 彼もほっとしたというような声を出す。一人が落ちつけば、それは周りにも染みとおって行く。これ以上何かを木に登らせる事は諦めて、長瀬は最近のどうでもいい話を思いつくままに並べていった。
「おや、雨もようやく収まるみたいですな。月も出てきました。雨月とでもいうんですかな?」
「ふふ、雨月、雨夜月というのは見えない月の事ですから、違うかもしれませんね」
「ありゃ、それは存じませんでした」
「あら?」
 長瀬は隣の女性がびくりと体を強張らせたのに気付いた。同時に老教授が言う。
「どうかしましたか?」
「いえ、なにか人がいたような気がして」
 車はもうそこを行き過ぎていた。長瀬は首をひねってみようとしたが、既になにも見えない。教授も気のせいだったかしら、と首を捻る。
 彼女が指差していたのは峠道の一方、切り立った崖の上だった。途切れた雨雲の隙間からじわりと月光が滲み出る下、それは彼女達が乗った車を見下ろしていた。


【 夢幻髣髴 】

「こんにちわ」
 長瀬は相手の黙祷が終わったのを見て静かに声をかける。昨日までとはうって変わった、晩夏の太陽が彼らをじりじりと灼いていた。遮るものもない山腹の墓地には陽炎も立っている。
 声をかけられた女性も最後に小さく一礼して立ちあがった。
 活け換えたばかりの花が揺れ、水を打ち洗われた墓標がきらきらと日を弾く。柏木家一族をまつる墓碑は意外なほどこぢんまりとしていた。
「こんにちは。先日はお世話になりました」
 小出由美子、という名の若い研究者は大きな帽子を抱えて挨拶を返した。既に古風ですらあるワンピース姿が、彼女の纏う雰囲気にはよくあっていた。
「刑事さんはどちらに?」
「いえ、こちらの住職とも割に懇意なものでして。お姿をお見かけしたものですから」
 そうですか、と由美子は答えた。
「彼とは大学で友人だったんですよ」
 長瀬は少しだけ意外な顔をした。墓のほうへ目をやって、彼は納得したように小さく頷く。
「ここには、柏木君はいないんですね」
「申し訳ありません。あの事件は我々の力不足で」
 墓碑に彼らの名はない。失踪宣告が為されて4年、正式に死亡とみなされるまでには後3年ほどの猶予があった。とはいえ資産家の常で、様々な手続きだけは先行して執り行われ、全てはもう過去へと押し流されようとしていた。
 いつからか蝉時雨がひぐらしのそれに変わっていたことに長瀬は気がついた。物悲しいその音色は、思えばはじめからこの山全体に満ちていた。
「このあいだの夜、鬼に遭ったんですよ」
 その唐突な切り出しが長瀬にはすんなりと自然に聞こえた。笑いますか? という由美子にいいえとだけ答える。
「随分怖い思いをしました。友人の一人はそのまま寝込んでしまいまして、みんなも付き添いで東京に帰ってしまいました。私だけこちらに残ったんです」
 由美子は鍔広の帽子を目深にかぶった。歩きませんか、と由美子は脇においてあった手桶と柄杓を取り上げる。恐らく寺から借りたものだろう。長瀬も彼女の後に続く。
「嵐の恐怖で幻でも見たんでしょうか。私たちが行き当ったのは百鬼夜行そのものでした」

 由美子自身、実際何が起こったのかよく解らない。車が激しく揺さぶられ、無数の何かに取り囲まれるのを見た。由美子だけの幻覚という事でもない証拠にみどりが叫び、これまで聞いた事もない露花の悲鳴が車内に響いた。ただ馬場教授だけが懇々と眠りつづけるなか、彼女たちは車のドアロックが勝手に持ち上がって行くのを見、誰も触らないドアウィンドウが下りて行くのを見た。
 闇に浮ぶ沢山の目に囲まれた、柔らかそうな髪の小さな女の子を見たのだ。

「友人の一人は尊勝陀羅尼経――鬼除けのお呪いですが、それをずっと唱えていました。私はそれどころじゃなかったですね。何しろ怖くて、殆ど目を開けてもいられなかったんですよ」
 長瀬は恐らくは彼なりに神妙に聞いているのだろう。
「でも、そのお蔭でしょうか。私たちは助かって、こうしています」
 当時の事を思い出し、由美子は我が身を掻き抱く。
 差し伸べられた救いの手は、物語に出てくるような都合のいい存在ではなかった。

 唐突に現れた彼女は、瞬く間にすべてのもののけたちを素手で引き裂いていった。嵐に舞う長い髪の奥に浮ぶ灼熱した双眸が、最後に残った幼い少女の上に落ちたとき、由美子達は声も出せずに縮みあがっていた。
 少女を無慈悲に引き裂いた彼女の瞳が次に由美子を射抜いた時、彼女は思わず口走っていた。助けて柏木君。と。
 どちらのお呪いの功徳かは解らない。ただ、由美子はその礼を言いにここに来ている。

「……ここには以前、来たことがありました。住職さんに色々伺いました。泉鏡花がモデルにしたといわれる伝承ですとか、雨月に伝わる物語ですとか、その物語の一族が今も残っていること、などといったお話を」
「当時から勉強熱心でいらっしゃったんですな」
 ただ知りたい事に首を突っ込んでいるだけです、彼女はそう言って笑った。
「私も今日の夜の便で東京に戻ります。多分もう――」
 二度とここには来ません、というつもりだろうか。長瀬が見守るなか、彼女はしかしその言葉を口にはしなかった。
 彼女は墓碑の方を振りかえり、しばしそのままでいた。
 長瀬は思いついたように肩を竦めた。彼女には、時間が必要なのかも知れない――別れを告げる為に。
 彼は軽く頭を下げると、職務を理由に暇乞いをした。
 由美子は深く一礼を返し、去って行く長瀬の後姿を見送っていた。


【 鬼の研究 】

『  およそ民衆にとって力と名のつくものは全て畏怖の対象だった。
 人々は自然の力を恐れ、権力者を恐れ、全ての事柄の間に働く可視不可視の力を恐れたのである。
 同時に人々はそんな理不尽な力に抗うために自ら力を求めもした。一方で力を忌み、一方で力を求める。そんな矛盾が、対極にあるべき概念を一つに結びつけたりもした。
 神=鬼の概念もそのひとつと言える。
 いずれも同じところから発生して、その二面性をそれぞれに代表するに至ったと考えられている。神という言葉が特化を進め、美しく、善であり、良きものを指すとして定着していく一方で、鬼という言葉もまた醜く、悪しきものであるとしてその外観を固めていった。
 自然、鬼はより人間的な部分を強く表すようになり、力と言う概念から発生した筈の鬼は同時に弱さの体現をもするようになる。

 神(上)に従わざるを得ない者としての鬼。
 優れた力を持ちながらも、いやむしろその力故に社会の暗部より世間を垣間見ることしかできなくなったものたちが、鬼の名を冠せられるようになる。彼らは常に民草の脅威でありながら、社会的には反勢力・弱者とされる存在である。
 そこには、強い力の前に屈せざるを得ないものへの同情と、二つの脅威のうちより小さな脅威に向けられる嘲りとがいずれも向けられる事になる。
 歴史の影に潜む彼らにそのようなヒロイズムを求めることは、民衆の好む所でもあった。強大な力へ抵抗そのもの――それは、始めから敗北を宿命付けられている――が、鬼の有り様として定着を見せるようになるのも必然だったろう。

 滅ぶべくして生まれる、悲哀に満ちた存在としての鬼。
 そこにあるのは、力に対する反抗、一時の開放への希求、しかし最終的には諦念に満ち満ちた忍従への、啾々たる鬼哭である。

 今に至ってなお我々は太古より引き継いだ様々な恐怖から逃れられずにいる。死に根ざす恐怖、滅びを厭う思いは、今も昔も変わらずそこにある。
 そして行き詰まった者たち、望みのない者たちが最後に縋る絶望の一歩手前にある一時の救いを、我々が見失うことも決してないだろう。
 遠からず滅ぶと解っていても、人には鬼の力に縋らずにいられないときが往々にしてあるのだ。そして、最後の瞬間には、自らが鬼であるということそのものを畏れ、その力を失うのだ。
 なぜなら”力に対する恐怖こそが鬼の力の源泉に他ならない”という矛盾は決して整合されることがないからである。

「かたちは鬼なれど、こころは人なるがゆへに」

 世阿弥の見せたこの一風は、鬼の探求に携わる者には共通の心情であるといえるかもしれない。
 そしてそれこそが獄界に身を置く彼らに救いを延べる、細い細い蜘蛛の糸なのだ。  』

 がたんと車両が揺れ、由美子はノートのディスプレイから目を離して額に指を当てる。薄暗い電車の中で書物などするものではない。
 遠景に目を休めようと、彼女は流れ始めたばかりの窓の外に注意を向けた。夕暮れ時、緑深い雨月の稜線に雲がかかり、赤々と染め上げられている。由美子は表情を曇らせた。また一雨来そうな気配だった。
 次郎衛門。
 かつて、雨月の鬼たちを退治した侍。先日住職より見せてもらった幾つかの文献にも、その名は何度も登場していた。それは世代を跨ぎ、数世紀にわたって存在する名だった。
 個人の名ではありえない。
 特定の役目に付くものの総称、あるいは特定の力を持つものの総称。
 恐らくは鬼――ハグレモノたちを討伐する者たちの呼び名だ。
 由美子は崖の上から彼女達を見据えていた爛々たる眼差しを思い出す。

 彼女が次郎衛門なのだろうか。
 なにが、彼女を鬼にしたのだろうか。

 柏木の名を出した時の彼女の表情を思い出す。美しく冷たい深紅の瞳に、一瞬それは帰ってきた。そして、すぐに失われた。

――見るな、聞くな、言うな。さもなくば啖い殺す。

 由美子は考えるのをやめ、自分のレポートへ目を戻す。
「鬼と女とは人に見えぬぞよき……か」
 彼女は論文の序段を綴っていたテキストファイルを閉じ、一瞬まよって、それをごみ箱へ投じた。

 忘れよう、全てを。
 自分は人が踏みこんではならない場所に近づき過ぎたのだ。
 忘れよう。
 彼女はノートの電源を落とし、目を閉じて大きく一つ息をついた。

 さようなら、柏木君。


「失礼。こちらは空いておりますか」
 驚いて目をあけた彼女の前に、長身の男が立っていた。飾り気のない眼鏡が、理知的な面差しに堅苦しい印象を与えていた。
 穏やかに席が空いている旨を伝えると、由美子は再び外へと目を向けた。電源を切り忘れていた携帯電話がなる。
「はい。あ、露花? どう、みどりのぐあいは? そう、よかった。うん、今帰りの電車に乗ったところ」
 列車は小さな駅を素通りし、山間へと向かって行く。山を抜けると、また山が現れる。この国は、平地に下りることなく山のみを伝って縦断することもできる。そして、深山に棲むものたちは実際にそうして処を変えながらも人知れず生き続けてきた。
『皆様、本日はご利用頂き、ありがとうございます。この列車は隆山始発東京行きです。8両編成、全席禁煙です……』
 夕闇に沈みゆく世界に、木々の影が黒々と浮びあがっていた。なかでも際立って高い梢が一つ、雨月の山々を見渡す離れの丘にある。それは、隆山とその外を結ぶ全ての道を一望する、古くよりの物見の丘だった。

 その梢の上から。
 闇に浮ぶ双眸が一対、トンネルに入ろうとする列車を熟と見下ろしていた。

「まぁだ、だよ」