壁を、感じるんです。 どうしようもない位の壁を。 錯覚だと、いいんですけど。 僕と彼女はコウサクする (3) 「祐介さん、何故あんなことを言ったんですか?」 「・・・」 たしなめるような口調で問いただそうとする瑞穂を、祐介は無表情で眺めていた。 ここは祐介の個室。 八畳のフローリング仕立てである彼の部屋は一面に棚が並んでいる。 ”棚を敷き詰めている”と形容しても不思議でもないくらいに余裕がない。 棚の種類も様々で、年代ものの木製のものや白銀のスチール製のもの、鉄パイプを組んだものなどだ。 棚に囲まれているそんな部屋の真中に畳を思わせる敷物がしかれ、その上に座布団のみがあるといった具合である。 片隅には蒲団と折畳式の机、そのほかもろもろが壁に無節操に立てかけてある。 そんな落ち着きの無い部屋で、彼と彼女は対峙していた。 しばらく気まずい空気が流れる。 それでも彼はいたって平気な様子であり、反対に彼女は動揺が見え隠れしている。 彼女は言葉を続ける。 「プレイ出来る折角のチャンスなんですよ?」 それでも彼は無表情のままだった。 「私たちは上手くならなくちゃいけないんですよ?」 「・・・太田さんの為に、かい?」 無表情なままで彼は言った。 その言葉は、彼女の表情を凍らせるのに十分過ぎた。 少なくとも、彼と彼女の間には太田香奈子という女性の存在は大きかったのだ。 祐介と瑞穂が出会ったのは、ある事件がきっかけだった。 彼とクラスが同じであった女子生徒がある日突然、前触れも無く発狂した。 その折に祐介は同じ学校の教師である叔父に、背後関係を調べるように言われた。 その調査の途中で彼は彼女と知り合い、そして騒動に巻き込まれた。 騒動が終わっても傷痕は癒えることはなかった。 発狂した女子生徒の無二の親友として瑞穂は献身的に彼女に尽くしたが、彼女が正常な状態に戻ることは叶わなかった。 騒動の当事者として彼女と一緒にいた義理で、祐介もそれに付き合っていた。 ある日、悪戦苦闘を見かねた叔父が彼女にある手段を提案した。 それは音楽療法を彼女の看病に用いてはどうかということだった。 幸いに、彼にも彼女にも下敷きがあった。 それに関わる相談を彼女の母とするうちに、DJとして店の手伝いをするようになった。 そんな経緯があるから、彼は面白くなかった。 好意を寄せる彼女は、向こうの世界に行ってしまった親友につきっきり。 そんな状況を容認していたのは、DJをすることが面白かったからだ。 彼が憎んでいた人間が、指先一本で踊り狂うのだ。 事件以来、狂気に対して恐れを抱くようになった彼も、醜い人間に対する嫌悪感を捨てることは出来なかった。 彼の歪みが無害な形で出たと考えれば、望ましいことなのだろう。 しかし、それは彼のプレイスタイルに大きな束縛を加えることになった。 確かに彼は多彩なジャンルと盛り上げ方の上手さで群を抜いていた。 それがある条件下では途端に精彩を失う。 それは客だった。 彼は理解のある客に対してはその腕を十二分に発揮した。 逆に馬鹿騒ぎを平気で行うような客の前では気を散らされてしまい、まともなプレイにならない。 良く言えば繊細。悪く言えば我が侭だったのだ。 彼が学校でDJプレイを行うのを拒んだのも、そこに原因があった。 「・・・どうしてそんな事を言うんですか?」 理解しかねるといった風に瑞穂は聞き返す。 その表情には、悲しみがさしていた。 「ただ、そう思っただけさ」 「瑞穂ちゃんは、太田さんの為に音楽をやってるみたいだから」 そう言って祐介は薄笑いを浮かべた。 それは愛情を与えられない子供がこねる駄々と同じで、ある種の自棄が入った行為だった。 何を言われているのか分からないといった具合で、瑞穂は絶句していた。 祐介は続ける。 「瑞穂ちゃんは目指すところがあるから、くだらない場面にも力を入れられるのかもしれない」 「でも、僕はそんなに出来た人間じゃない」 「くだらないなんて・・・」 非難するような声を瑞穂はあげる。 おとなしい彼女も、理不尽な暴言の数々には我慢できなかったようである。 「くだらないよ、十分過ぎるくらいにね」 「何で、そんなに意固地になるんですか?」 不自然な程に硬い祐介の態度を、瑞穂に疑問に思った。 「祐介さんが嫌がる理由が私には分からないんです」 「納得のいく理由を教えてください」 彼女はそういって、祐介の目を見据えた。 その目に対して、祐介は既視感を覚える。 騒動の黒幕となって彼女を苦しめる元凶となった人間に、彼女が向けた目とよく似ていた。 他人事なのに、何故彼女は一生懸命になれるのだろう。 彼自体、自分自身を醒めた人間と感じていた。 人間の美徳ともいえる慈愛の感情、自分には明らかにそれが抜け落ちている。 それは、埋めきれない断崖となって確かに彼女との間にあった。 そんなことをぼんやりと考えながら、祐介は口を開く。 「・・・僕が客として別のクラブのパーティーに行ったときに、喧嘩に巻き込まれたことがあるんだ」 「理由はよく分からないけど、気がつくとパーティーの真中で殴り合いが始まってた」 「喧嘩してた奴の連れが、あいつだったんだよ」 「場もわきまえずに、無責任な声援を飛ばしてた」 「僕はただ音楽を楽しみたかっただけなのに、そいつらのお陰で滅茶苦茶になったよ」 「今に始まったことじゃないけど、僕はその度に嫌な思いを我慢しなければならない」 「僕は美の世界を追及する為にブースに立ってるんだ」 「向こう側の人間に媚を売るためじゃない」 「それが僕が断った理由だよ」 「気の乗らない場所に立っていたって、上手くいくはずがない」 祐介はため息をつく。 「・・・納得出来ません」 今度は瑞穂が反論する番だった。 「私は私に出来ることで、みんなを幸せにしたいと思ってるんです」 「そして、それは私たちを成長させてくれるはずなんです」 「細かいことにこだわるのは、良くないと思います」 また暫く沈黙が続く。 瑞穂は追いすがるように口を開く。 「私のお父さん、記者だったんです」 「あの人も記者を目指していて、その関係で仲良くなったってお母さん言ってました」 「学校を卒業したら、記者になるために外国に行くんだそうです」 「だから、思い出を作りたいっていってました」 「私たちはそれのお手伝いが出来るんです」 「一生の思い出を作るお手伝いが!」 「すばらしいことだと思いませんか?」 熱を帯びた瑞穂の語り口に何か異質なものを感じながらも、祐介は何も言えなかった。 「いっしょにやりましょうよ」 「腕なんかどうでもいいんです。熱意があれば、きっとうまく行きます!」 祐介はそれでも黙っていた。 この子は、打算の外で生きてるんだ。 そう思うと彼は何故か悲しくなり、どうでも良くなった。 「・・・分かったよ」 その言葉と同時に二人の間にあった空気の淀みが消え失せ、彼女の顔が明るくなった。 「じゃあ、早速明日のリハーサルの相談をしましょう!」 「きっと上手くいきますよ・・・!」 瑞穂は祐介の顔を嬉しそうな表情で見た。 祐介はつられて引きつったような笑顔を浮かべた。 数時間前に、彼女は家を出た。 彼は、一人ベッドに寝転がって思いをめぐらす。 少し前まで、彼女に引きずられるようにして机に向かっていた。 いろんなことを話した。 曲の組み合わせ、盛り上げかた、その他くだらないこと。 彼女の底力には心底恐れ入る。 彼はそんなことを考えていた。 「あの日のことは、不可抗力だ」 「狂気の余波にあてられた、集団催眠だ」 彼女を手に入れたいと思うたびに、あの日のことが脳裏に蘇る。 あの日から、彼女のあわれな友達に対する執着は深まるばかり。 音楽の知識をもって彼女に取り入ったと言われても仕方ない。 寄生虫のようにただ傍にいる今の位置づけは不快だった。 狂気の世界を身近に感じなくなっただけで、あとは何も変わっていない。 まだ、くだらない人間に対する悪意がある。 それを形にしなければ、彼女の友達と同じように狂ってしまうのだろうか。 でも、そうなったら彼女に構ってもらえるのかな。 そうこう考えているうちに、彼は眠気がせまってくるのを感じていた。