むらさき(果物) 投稿者:akia 投稿日:9月3日(日)09時54分
「ふうー」
オレは汗を拭い、目指す場所までほんのちょいの所までやってきた。見晴らしは最高の場
所。目を凝らしてみれば、隆山の街が遠くに見える。オレの立つのはそんな場所。視線を
下に向けると、直下100メートル以上はあろうかの切り立った崖が下にはあった。
通称【鬼返し】と呼ばれるこの崖は異常に脆く、完全立入禁止となっている場所であった。
「ヨークのぶつかった跡とか言っても、通じないだろうな・・・」
呟きつつ、オレは慎重に慎重に移動する。オレの目は脆い岩肌を這う、一本のツタを見て
いた。
「東京に帰る前に・・・楓ちゃんに渡さないと」
ツタの先には紫の果物が見える。
「もう一度食べて貰いたいんだ・・・オレの手で取ったアケビの実を」
オレの頭に浮かぶのは一つの光景。奇妙な顔をしつつも、その実を食べて喜んでくれた娘。
たどたどしい言葉で、もう一度食べたいと言った娘。・・・けれどその次の年、娘はオレ
の側にいなかった。そして今・・・オレには楓ちゃんがいる。だからこそ、あの時の約束
を果たしたかったんだ。
「よし!」
手を伸ばし、オレはその実を掴んだ。そう言えば、あの娘は此処で採ったと言ったら、危
険なことをしてまで欲しくないと言ってくれたっけ・・・
「それでも、あげたいんだ!」
声を高らかに、オレは実を引っ張った瞬間・・・頭上でいやな音がした。反射的に見上げ
ると、岩肌の亀裂が大きくなり、パラパラと破片が降り始め、
『ガゴン』
派手な音と共に、オレの体より大きな岩が幾つも降ってきたのである。
「へ・・・うわーっ!」
アケビを懐にしまうと、オレは斜面を狂ったように駆け下りだした。実際それしか逃げ道
がなかったからである。
「おおおおおぉぉぉ・・・!」
雄叫びを発しつつ、後ろを向けば、岩をだいぶ引き離していた。このまま登ってきた脇道
に駆け込めば・・・
「通り過ぎた!?」
あまりにも早く下ったため、脇道を通り越し、あまつさえ【鬼返し】の由来になっている
オーバーハング手前まで、オレは来ていた。
「!」
止まるんだオレ!!けれど、体は止まれなかった。
「しまったぁぁぁぁぁぁぁ」
慣性の法則。等加速度運動。摩擦係数。相対性理論?・・・意味不明な考えが頭を駆け抜
け、最終的に叫んだオレの言葉は、
「車は急には止・ま・れ・な・いぃぃぃぃぃぃぃ」
であった。
〈 〉
ここは楓ちゃんの部屋の前。オレは痛む手足を踏ん張りながらノックをした。
「楓ちゃん・・・いる?」
「・・・耕一さん?」
オレの声に楓ちゃんは声を上げた。軽い足音と共にドアが開き、中からまだ制服姿のまま
の楓ちゃんが出てきた。
「え・・・耕一さん!どうしたんですかその格好は!!」
慌ててオレのことを支えてくれる楓ちゃん。確かに・・・あれだけのことをやってきたの
だ、体はともかく、服はぼろ雑巾の様になっているに違いなかった。
「約束・・・守りたかったから」
けれど、オレは格好のことなんかより、ただ楓ちゃんにその言葉を告げたかったのである。
「やくそく?・・・あ」
虚をつかれたのか、楓ちゃん共々、オレ達二人は廊下の壁に寄りかかるように崩れ落ちた。
「こ、耕一さん!」
半ば抱き合う格好になったままでも、オレは言葉を続ける。
「これを」
そして、オレはどんな状態でも放さなかった一個のアケビを取り出した。
「アケビ?・・・あ!」
声を詰まらせる楓ちゃん。そして俯き・・・しばしの間のあと、
「どうして・・・私のために」
ようやく出した言葉は、震え、囁くようだった。
「約束、守りたかったから・・・」
「私が・・・エディフェルだから?」
絞り出すようなその一言。オレは返事の変わりに、自分の部屋から持ってきたモノを手渡
した。
「・・・え?」
それは純粋なリング。派手さはないものの、楓ちゃんのはめていたピンキーリングの隣で
輝くはずのリングであった。
「早いと思うけど」
照れながらオレは続ける。
「昔、言ってくれたよね。オレのお嫁さんになりたいって・・・それは、エディフェルじ
ゃなくて、楓ちゃんとした約束だよ」
俯く楓ちゃんに、オレは真剣に話しかけた。やがて・・・
「・・・はめていいですか?」
震える声の楓ちゃんは、オレに聞いてくる。
「もちろん」
オレの返事に、楓ちゃんは左の細い薬指にそれをはめてみせる。二つの指輪。緑の石と光
の石。これを贈った大事な人とを繋ぐ証。
「・・・大事にします」
楓ちゃんは顔を上げ、微笑む。そして・・・うれし涙。
重なる唇。晩夏の柏木家。二人だけの空間。ころんと転がるアケビの実だけが、オレ達二
人を見ていたのであった。

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