逢魔ヶ時に降る雨は 投稿者:DEEPBLUE 投稿日:5月25日(木)17時14分
 逢魔ヶ時に降る雨は




 五月雨堂という名に相応しい天気であっても、それがこの店にとって良いこととは限ら
ない。
 ほとんどの古物にとって湿気は敵だし、何よりただでさえ滞りがちな客足がさらに遠の
く。
 つまりは今、健太郎は暇だった。
「なあ……」
 話題さえ決めぬままに誰かに呼びかけようとして、不意に気付く。
 呼びかけるべき名など、ないことに。
──またかよ、俺。
 もういいかげんに、慣れた。
 自分が、自分の知らぬ誰かを知っていることに。
 
 外を見やると、霧のような雨。
 周囲を煙らす、すりガラスのような雨。
 
 さすがに、今はもう、二人分の食事を用意してしまうことはなくなった。
 いるはずの無い誰かが心配で、夜中に空き部屋を覗いてしまうのは──いまでも、とき
どきやってしまうけれど。
 胸のむずがゆい感覚にも、もう、慣れた。
「いらっしゃいま──なんだ」
 自動ドアのモーター音に反射的にあげられた顔と声は、すぐに低められた。
「なんだとはなによ。人がせっかく遊びにきてやったのに」
「お前、髪濡れてんぞ。いくらすぐ隣とはいえ、傘ぐらいさしてこい」
「ふふ〜ん。健太郎ごときのところにくるのに、いちいち傘使うなんてもったいない」
「だがさすがだな、胸はあまり濡れてない。いかに雨とはいえ、その小さい的を狙うのは
困難か」
「んなわけあるか〜っ!」
 実際、午後の来訪者──結花の、喫茶店の制服でもあるワイシャツはさほど濡れていな
い。
 胸に、荷物を抱えてきたからだろう。
 結花はそれをレジのテーブルにおくと、慣れた様子で奥に入っていった。
「タオル借りるわねー」
「勝手にしろ」
 適当に応えて、目の前に置かれたものを見る。
「…ホットケーキ?」
 また。
 胸の奥に、なにかが詰まる感覚を思い出す。
「いいでしょ、たまにはそういうのも」
「いいけど。なんでまた?」
「べつに。そういう気分なの」
 バスタオルで頭を拭いながら、結花は勝手に店の丸椅子を引き寄せて、健太郎の隣に腰
掛けた。
「いいんだけどさ…」
 きれいな狐色を覆うラップを剥ぎ取りながら、健太郎は呆れたようなため息をつく。
「…こんなに、誰が食うんだ?」
「は?」
「だからさ、5枚も焼いてきて、誰が食うんだよ。俺は1枚で十分だぞ。お前4枚食うの
か?」
「だって、これでも足りないくらいだって…あれ?健太郎と私が一枚ずつで…」
 結花はしきりに首を捻っていたが、やがてしょげた表情で肩を落とす。
「…変だよな、お前も」
「また、やっちゃった…」
 ご丁寧にも、フォークも3本。
「そういえば、最近お前、よく夕食に誘ってくるよな」
「うん。つい、余分につくっちゃうのよね」
 仕方無しに、二人で分厚い5段重ねをつつきはじめる。
 皿とフォークが触れ合う、高い音。
 外からとどく、雨粒が地面にぶつかる音。
 今の五月雨堂。健太郎の生活。そのものを詠うような、静かで単調な音。
 
──…たろっ
 
 子どもの声に、二人は驚いた表情で店の外に目を向ける。
 ショーケースのガラス越しに、ばちゃばちゃと水の音をたてて、何かが横切っていった。
 一匹の小犬と、傘もささずにそれを追う女の子。
 腰まで届く長い髪をした、小さな女の子。
「……………」
 フォークを握ったまま、馬鹿みたいにその光景を見詰めていた。
 犬も女の子も狭いガラスの枠からすぐに消えて、見えなくなる。それでもまだ、二人で、
雨だけが満ちるその空間を見続けていた。
「あの、犬」
 しばらくして、結花が笑う表情で口を開く。
「ケンタロウって名前だったりして」
「うるさい」
 
 結局、皿には1枚のホットケーキが残ってしまった。
「どうすんだ、それ?」
「持ってかえるわ。もったいないし」
「おいてけよ。あとで食うから」
「そう?なら、お皿もってきてね」
 立ち上がって出口に向かう結花に、健太郎も黙ってついてゆく。
「わたし、もう帰るけど」
「ああ。俺も今日は閉店」
「もう?」
「こんな天気じゃ、商売あがったりだ」
「ふうん。じゃあ、今日もご飯食べにくる?」
「またか?」
「うん。またお買い物、し過ぎちゃって」
 タダ飯を断るいわれはない、との可愛げのない健太郎の応えに、結花は気分を悪くした
ふうもなくうなずいた。
「じゃあ、あとでね。お皿、もってきなさいよ」
「はいはい」





 何かが欠けたままでいても、日常は綻ぶこともなく続いていく。
 欠けた隙間を、べつの何かで埋め続けながら。
 それは例えば静かに落ちる、逢魔ヶ時に降る雨だとか。
 
 
 雨は、翌朝には、止んでいた。
 
 



<了>