『某月某日 最近、姉の様子がおかしい。 おかしいと言うと言い過ぎのような気もするが、とにかくおかしい。 毎日、ずっと鏡を見ては、にこにこと笑っていたり、ため息をついたりする。 それは鏡の前だけではなくて、日常生活においてもそうだ。 急に怒り出したり、笑い出したりする。 感情の制御が不安定のような感じ。 たいていの場合、怒り出した時には梓姉さんが側にいて、笑い出した時には初音が側にいるので、 まあ、いつものことだと言えば、いつものことなのだれども。 その度に耕一さんがうろたえたり、困った顔をしたりするので、問題と言えば問題だ。 原因を突き止めなければならないだろう』 楓はそこでペンを止めると、日記帳を閉じた。 誰にも見つからないように秘密の場所に日記帳を仕舞うと、そのまま自分の部屋から出た。 今日は、楓がひいきにしているお笑いタレントが出演する番組がある。 廊下の床板を踏む音が軽やかに響いた。 柏木家の居間。 そこで、柏木耕一は悩んでいた。 それはその。 まだ決まっていない就職のこととか、卒業の単位が足りるのかとか、年相応の悩みはいろいろと あったけれども。 「耕一さん」 背中から声をかけられて、あぐらを掻いて座り込んでいた耕一は、驚いて後ろを振り返った。 「お茶が入りましたよ」 静かに、卓の上にお茶が置かれる。 茶碗の数は二つ。 「今日は、静かでいい日ですね」 そう言いながら耕一の横に座ったのは、柏木家の長女の千鶴。 楚々とした外見は良家のお嬢様然としているが、高級温泉旅館「鶴来屋」を核とする鶴来屋グループ の若き女会長。未だ就職先も見つからない貧乏学生の耕一と、立場が違うと言えば違う。 「えっ……ええ、まあ、その。そうですね、千鶴さん」 千鶴の言葉に、耕一は少し言いづらそうに答えた。 立場に臆した、などということはない。 耕一にとって、千鶴はあくまで幼い頃から見知っている「千鶴さん」である。 臆している理由は一つ。 耕一は今、肩を通じて、ほんのりと千鶴の体温を感じていた。 触れあっている。 千鶴は耕一に肩を寄せるようにして、静かに座っていた。 自分から話しかけるようなことはせず、ただ耕一の次の言葉を待っている。 「あー、その。千鶴さん、シャンプー替えました?」 肩にかかるようにして、側にある千鶴の長い黒髪。 それが気になって、耕一はそんなことを口にした。 「ええ。耕一さんが前に好きだと言っていた香りに」 そっと、そんなことを言う。 肩にかかる、わずかな重み。 肩から感じる、柔らかな暖かみ。 鼻腔をくすぐる、ほのかな香り。 ぐらつきそうになる理性に必死でエールを送りながら、耕一は耐えていた。 何も言わない、千鶴の甘い誘惑に。 柏木家の台所。 長女である千鶴は料理センスが全くなく、三女である楓は料理をしないので、実質的に二人の 女性の領土となっている場所。 「なんだよ、あれ」 そこで、柏木家の次女、梓は不満顔で頬をふくらませて、お茶を一気に飲み干していた。 ぬるい。 あまり長い間、居間に座っている二人の様子をながめていたので、茶碗の中身はすっかり冷めていた。 「あはは……その、しかたないんじゃないかな。千鶴お姉ちゃん、最近、耕一お兄ちゃんと仲がいい みたいだし」 梓をなだめたのは彼女の妹、柏木家の末妹の初音。 すぐにお茶のお代わりを梓の前に置くと、自分も椅子に座った。 「それにしたってさあ」 台所のテーブルの上に突っ伏すと、まるで飲み屋で酔いつぶれる親父のような格好で、梓は愚痴を 続ける。 最初にお茶を煎れ始めたのは、梓だった。 耕一が暇そうに居間に座り込んでいたので、お茶でも持って行ってやろうと思ったのだ。 梓がお湯を沸かしていると、初音が台所にやって来て、何も言わない間に茶碗や盆の準備を始めた。 そこまではいい、と梓は思った。 我が妹ながら、よく気が付く。 もう少し初音が小さかったら、頭を撫でて褒めてやるところだった。 問題なのは、お茶を煎れ終わった瞬間、千鶴がどこからともなく台所に入ってきて、盆ごと茶碗を 持って行ってしまったことだ。 盆の上に載っていた茶碗は二つ。 暗に、千鶴が「あんたたちはついて来るな」と言っているように梓は解釈した。 「いいよ、初音。あんたのお茶だろ。あんたが飲みなよ」 「ううん。梓お姉ちゃん、今、飲みたい気分だろうから」 「お茶飲んだって仕方がないって……」 よく出来た妹に愚痴りながら、梓は先ほどの情景を思い出した。 まるで長年連れ添った間のように、肩を寄せ合って座る二人。 耕一は、別に嫌がってはいなかった。 「……ずるいよ、千鶴姉」 そんな梓のつぶやきに。 「……」 初音は同意することも否定することも出来ず。 ただ、黙っていた。 『某月某日。 あの芸人は、もうそろそろ終わるかもしれない。 一発芸は一発で終わるからこそ価値があるのに、むやみに乱発している。 笑わせる、から、笑われている、に変わっていることに気づいていない。 デビュー直後から目をかけていたのに、輝きを失ってしまったのは残念だ。 もう一皮剥ければ、あの芸人も本当の芸人になるのだろう。 しかし、それを待っているほど、お笑いというものは流れが遅い世界ではない。 そう言えば、姉さんの様子がおかしい。 今度は、一人だけではなくて、二人ともおかしくなってきた。 いつものことと言えば、いつものことだけれども。 耕一さんは本当に困っているようだ。 もっと別のことで悩まなければいけない時期なのに、姉二人で耕一さんの悩みを増やしている。 優しいのは、あの人のいいところだけれども』 書き終わって閉じると、いつものように秘密の場所に日記帳を仕舞い、楓は部屋を出た。 いつの間にか着替え終わった制服からは、まだタンスの中の虫除けの匂いがする。 全てが実り、色づき、冷たい冬に備える季節。 秋の風を吸い込めるのが楽しみで、楓はいつもより早足で廊下を歩いていった。 「おつかれさまです、会長」 スーツ姿の男性が頭を下げる。 つられて耕一もお辞儀をしたが、千鶴は目で挨拶を返しただけで、男性の横を通り過ぎてしまった。 「耕一さん。いいんですよ、いちいち挨拶していたら、仕事をする前に疲れてしまいますから」 「あはは。俺は仕事をしに来たわけじゃないですから」 耕一は今、千鶴に誘われて、鶴来屋グループの主軸である高級温泉旅館「鶴来屋」に遊びに来ている。 遊びに来たと言っても、千鶴はスーツを来て、会長として社内を歩いているし、耕一も私服で来ている のに、「会長の連れてきた客」として扱われていた。 「そうですね。今日は、お仕事に来たわけではありませんね」 家では見せない硬い表情で、千鶴は耕一の前を歩く。 隆山地方随一の企業体である鶴来屋グループ。 その会長職ともなれば、いろんなしがらみに応じなければいけないのだろう。 次々と頭を下げてくる社内の人間に対して気まずさを感じながら、耕一は千鶴の後についていった。 鶴来屋会長室。 大きなビルの最上階に位置する部屋は、とても広くて、豪華な作りだった。 「どうぞ」 埋まるほど毛足の長い絨毯に苦労しながら、耕一は千鶴に言われたようにソファーに座る。 本皮のソファーは、やはり埋まるほどに柔らかく背中を包んだ。 「それでどうしたの、千鶴さん。いきなり、会社に来て欲しいって」 何度も受けた面接で、ソファーに座ったことは幾度かあるが。 「ええ。大事な話ですので、家よりはこちらで話した方がいいと思いまして」 あらかじめ準備してあったのか。千鶴は耕一の前にコーヒーを置くと、自分もソファーに座った。 場所は、耕一の横。 やはり、肩が触れ合うほどに近い。 「えっ、えっと。その、千鶴さん?」 照れて離れるには、千鶴の表情は硬すぎた。 真面目な顔をして聞くには距離が近すぎ、くだけた顔をして聞くには相手が真面目過ぎる。 耕一は困ってしまって、千鶴の次の言葉を待った。 一呼吸おいて。 「耕一さん。うちで働くつもりはありませんか?」 「へっ?」 一流企業の会長直々の言葉である。 耕一が普通の学生であれば、諸手を挙げて喜ぶべき言葉だ。 だが、耕一は普通の学生ではなく、千鶴もまた、普通の一流企業の会長ではなかった。 「急になんですか、千鶴さん。そりゃ俺も、千鶴さんと一緒に働ければ嬉しいですけど」 その言葉に嘘はない。 千鶴は耕一にとって優しいお姉さんのような存在であり、彼女が側にいるということは嬉しい ことだった。 だが、千鶴は普通の経緯で鶴来屋の会長になったわけではない。 鶴来屋グループの創設者であり初代会長である柏木耕平、つまり耕一の祖父が他界した後。 その息子、つまり千鶴の父親が後継者となってグループを率いるようになったのだが、不幸なことに その数年後、不可解な事故で千鶴の両親は亡くなってしまった。 空白になった会長席と社長席。 そのため、経営者の名義は柏木家の長女である柏木千鶴に移され、実質の経営は千鶴の父親の弟である 柏木賢治、つまりは耕一の父親が社長となって行うようになった。 そして千鶴が大学を卒業して社会人になると、彼女は会長として鶴来屋の頂点に据えられ、それまで 社長業に専念していた柏木賢治は社長兼会長代理となった。 しかし、やはり不幸なことに、その後まもなく、柏木賢治も不可解な事故によって亡くなってしまった。 不幸である。 耕一も千鶴も、不可解な事故が何故起きたのか、どうして自分たちの父親が死ななくてはならなかった のか、その理由も無念も、すべてを知っているから。 だが、知らない者たちにとっては、すべてが千鶴にとって都合のいいように動いているように見えた。 それは仕方がないことなのだろう。 街の一区画を占めるほど大きな柏木の家。 温泉町にそびえ立つ巨大なビル。 普通に人生を生きていく者にとっては願っても得られないほどの富。 それらが皆、千鶴の手の中に収まっているのだから。 当初、警察も柏木賢治の死を殺人事件として疑っていた。 嫌疑は、もちろん千鶴にかかっていた。 昔から彼女を知る耕一は、千鶴を疑うようなことはしなかったが、父親の死については何も疑いを、 いや悲しみを抱いてはいなかった。 その本当の理由を知るまでは。 自分が、つまり千鶴の親戚である自分が、縁故のような形で鶴来屋に入社すれば、それを妬む者も 当然出てくる。千鶴にとって不利になることは父親も望まないだろう。 「まだ決心してくださいませんか、耕一さん」 前にも何度か、こうして耕一は千鶴に入社を勧められていた。 その度に、耕一は曖昧に濁したまま、結局、返事を返さなかった。 「うーん。まあ、そのあれなんだけども」 そして、今回もまた。 千鶴の側にいられることは耕一にとって嬉しい。 そして、彼女の下で働いて、その助けになれることは、もっと嬉しいことだろう。 だが、自分が彼女から得られる喜びよりも、彼女に与える負担の方が大きいことは分かり切っていた。 だからこその煮え切らない態度。 「私と一緒にお仕事するのは嫌ですか?」 「うっ!?」 甘い誘惑は続く。 家に帰ると、玄関で初音が出迎えてくれた。 「ただいまー」 「あっ、耕一お兄ちゃん!」 出迎えると言うよりは、ちょうどいいところに助けが来たというような表情だ。 「こっち、こっち。梓お姉ちゃんがね」 「梓がどうしたって?」 「うん。大変なの。とにかく、はやく、こっちに」 初音に手を引っ張られて、耕一はあわてて靴を脱いで、家の中に入った。 引っ張られて連れられた先は、梓の部屋の前。 少しだけ開けられた部屋の扉の隙間から、中の様子が見える。 「……」 赤い顔をして、うつむいて床に座り込んでいる梓。 さらに赤い顔、いや紅い顔をして、梓の顔を見つめている制服を着た女の子。梓と同じように床に 座ってはいるが、梓がへたり込んでいるのに対し、女の子の方は前屈みになって獲物に飛びかかる寸前と いった様子だ。 女の子の名前は日吉かおり。 耕一がもっとも苦手とする、女の子に恋する女の子である。 「なんだか、さっきからずっと、あのままで動かないの。耕一お兄ちゃん、なんとかしてあげて」 両手を握って耕一に助けを求める初音。 だが、耕一は大きく首を横に振ると、隙間から目を離した。 「行こう、初音ちゃん。邪魔をするもんじゃない」 「えーっ……むぐぅ!」 大きな声で抗議しようとした初音の口を手で押さえて、耕一は隙間をのぞいた。 幸い、まだ気づかれた様子はない。 「だから、俺にはどうしようも出来ないって。いいじゃないか、初音ちゃん。あとでお赤飯で祝って あげよう。うん、それがいい」 「うーっ、うーっ!」 耕一は日吉かおりが苦手である。 あの女であることを最大限に利用した最高の嫌味空間。 まるで、教室に入ったら中には女子生徒しかいなくて、一斉に自分を見られたような気まずさ。 たとえ柏木家の力を持ってしても、その気まずさに耐えることなど出来ない。 「……ぷはっ! だって、耕一お兄ちゃん! このままだと、梓お姉ちゃんが食べられちゃうよっ!」 剛球一閃。 耕一の腕から抜け出した初音から投げられたボールは、インコース高め過ぎの直球で、弛緩した梓の 脳髄を痛撃した。 食べられちゃう。 ビクンっ! その言葉の響きで、梓の肩が動いた。 瞬間、太ったネズミに飛びかかる飢えた猫の俊敏さで、かおりが梓の上にのしかかろうとする。 「ひゃああああっ!」 素っ頓狂な悲鳴を上げて、転がるように梓が部屋から飛び出てきた。 ドスン。 ちょうど梓の部屋の前に耕一が立っていたので、その厚い胸板に梓の顔がぶつかった。 「こっ、耕一っ! 耕一っ!」 パニックを起こしているのか、梓は耕一の後ろに回り込むと、まるで、いじめられっ子に追いかけられて 父親の背中に逃げ込んだ幼子のような表情で、まだ部屋の中にいる、かおりの顔を見ている。 「ちっ」 悪役風の舌打ちをして、かおりは立ち上がり、パンパンと制服のスカートについた埃を払った。 「のぞいていたんですね」 「いっ、いや、俺はそんなつもりは……」 耕一が弁解するよりも早く、かおりは耕一のところまで歩み寄り、その前に仁王立ちになった。 「のぞいていたんですね、梓先輩の部屋の中を。なにかあると期待していたんですか。変態」 「へっ、変態って……」 その「なにか」をしようとしていたのはおまえだろうが。 そう言おうとしたが、かおりの視線があまりにも痛かったので、耕一は言い出すことが出来なかった。 「最低です、あなた。女の子の部屋の中を覗き見るなんて」 言っていることは正しい。だが、行動は間違っているような。 いや、間違っていないのだろう。かおりの基準では。だが、世間一般の価値観とは大分かけ離れている と思って、耕一は何とか正気を保つことが出来た。 「それよりも、返して下さい」 「返せって?」 無言で、かおりは耕一の後ろに隠れている梓を指差す。また、ビクリと梓の肩が震えた。 「いや、その。返せって言われても。梓も嫌がっているみたいだし。今日のところはあきらめてくれよ」 今日のところは、と言ってしまうあたり、本当に耕一は、かおりが苦手のようである。 「駄目です。返して下さい。今日は、梓先輩と思い出を作るって決めたんですから」 「おっ、思い出って……」 ポッと初音の頬が染まり、梓の頬は真っ青になった。 「いや、そういうのってさ。もっと場所を選ぶべきだろう。ほら、こんな古い家じゃなくて。 他にあるんじゃないか。雰囲気があるところがさ」 「雰囲気? ……なるほど。それも一理あるような」 ブルブルと梓は首を横に振っているが、かおりは首を縦に何度か振って納得している。 「わかりました、梓せんぷぁい! 今日のところは出直します。またっ!」 シュタッ! そう言って爽やかに手を挙げると、かおりはダダダっと廊下を走って、柏木家から出て行ってしまった。 「ふう。なんとか撃退できたか」 「でも、耕一お兄ちゃん。アレが最後とは思えない。梓お姉ちゃんがいる限り、また、第二、第三の アレが現れるかもしれないよ……って、いったあぁぁ!」 この間、耕一と一緒に見た古い映画のテレビ放送。 その真似をして初音が言った呑気なセリフに、梓は思いっきり初音の尻をつねることでお返ししたのである。 『某月某日。 やってしまった。 芸がなくなった芸人が下ネタに走るのは常のことだけれども。 ポロリに自分だけではなく、他の人間も巻き込むのはいただけない。 ましてや巻き込んだのは同じ芸人ではなく、綺麗所であるべき売れっ子タレント。 あの芸人は終わった。 花が咲く前に散ってしまったのは残念だけれども、ツボミはまた生まれ出る。 私は、その時を待つことにしよう。 ポロリと言えば最近、姉さん二人が涼しそうな服を着るようになった。 これから寒くなるばかりだと言うのに、何を考えているのだろう。 対抗するつもりがあるのか、初音まで布地が少なくなってきたような気がする。 まったく。 やはり、柏木では綺麗所は私だけなのだろうか。 耕一さんは嬉しそうなので、それはいいことなのだが。 ……いや、やっぱり、よくない。 絶対に、よくない』 少し機嫌が悪くなった楓は、書き終わった日記帳を秘密の場所に押し込むと、タンスの前に立った。 たしか、夏の前に買った薄手のブラウスがあったはずである。 肩がまるごと出てしまうので結局、着ることはなかったのだが。 やるしかない。 やってまうしかない。 楓はそう決心すると、急いでブラウスに袖を通した。 「だーっ! ちょ、ちょっと待て! 折れる、折れるってばっ!」 「んー。おかしいな。本当に極まったら、悲鳴なんかあげられないはずなのに」 梓が座っている耕一に、背中から腕関節技をかけている。 子供の頃は毎日のようにやった他愛のない、じゃれ合い。 思春期を過ぎて、お互いに育ち終わった後は、さすがにしなかったのだが。 昨日、耕一と一緒に見た格闘技番組がいけなかったのだろう。 やにわに格闘技熱に火がついた梓は、どこからかプロレス雑誌を持ち出して、舌を噛みそうな名前の技を 耕一に仕掛けていた。 「腕の角度がおかしいのかな。えっと……こうかな?」 ギリギリギリ。 梓に引っ張られて、耕一の腕の筋肉がきしみ始める。 「あたたたたたっ……」 痛みに耐えかねて、耕一は情けない悲鳴を上げたが、それも途中で止まった。 「おっ? 極まったかな?」 そう言って梓は嬉しそうに笑ったが、耕一が悲鳴を止めたのは、別の理由からである。 耕一の後頭部に、当たっているのだ。梓の胸の柔らかい部分が。 腕は地獄、頭は極楽。 何とも言えない状況になって、耕一は複雑な顔をして黙ってしまった。 「……耕一? ありゃ? やり過ぎちゃったか?」 耕一が無口になったのは痛みのせいだと思っている梓は、さすがに彼がかわいそうになって、腕関節技を 解こうとした。 だが。 「……」 耕一は無言である。また、別の理由から。 「……楓?」 「……」 かけられた腕関節技の痛みと、もう一つの別の感触から悶絶している耕一。 その耕一の前に楓は膝をついて座り込み、じっと彼の瞳を覗き込んでいる。 「……」 なんだか照れ臭くなって耕一が顔を背けようとすると、楓は自分から目を反らさせないように、 彼の頬に手を当てた。 まるで鞠を弄ぶ猫のような仕草をする楓は、いつもより肌が出た格好をしていた。 もう少し顔を近寄せれば、唇と唇が軽く触れてしまいそうな微妙な距離。 心なしか、頬もわずかに紅く染まっているような。 実に、妖しい雰囲気である。 「ちょ、ちょっと、楓っ!」 その雰囲気に女の直感で危機を感じ取ったのか、梓がいつになく尖った声を上げた。 「……?」 姉の叱責に、楓は軽く首をかしげるだけだった。 そして、また耕一の瞳を覗き込んでいく。 まるで、その瞳の奥に眠る何者かに呼びかけるような仕草で。 「やめなってっ! 耕一が嫌がっているだろ!」 ズルズルズルズルズル。 「ぐわぁぁぁぁあああああああっ!」 背中から腕関節技をかけていた梓が力まかせに引っ張って、楓から離れさせようとしたので、 耕一は雄叫びのように大きな悲鳴を上げた。 トトトトト。 だが、そんな激痛に苛まれた男が吐き出す断末魔の声には臆せず、楓は転がる鞠を追いかける猫の 俊敏さをもって、耕一の瞳を追いかけていく。 「もう。ついてくるなったらっ!」 ズルズルズルズルズル。 「……」 トトトトト。 「ぎゃああああああああ!!」 ベキベキベキ。 不幸な三重奏が第一楽章の演奏を終えそうになった頃。 ピシャ! 鋭い音を立てて、障子が開いた。 「こら、あなたたちっ! ご近所迷惑でしょうっ!」 子供を叱る母親。 そんな表情をして、千鶴が楓、梓、耕一の三人をにらんでいる。 「えっ、いや。だって、楓が……」 長女の本当の怖さを知っている梓が言いよどむ姿を、楓はじっと見ている。 後先考えずに力任せに引っ張ったので、肩までめくれあがってしまったTシャツを、楓はじっと見ている。 あんなに大きいのにノーブラなのは問題だと思いながら、楓はじっと見ている。 垂れてしまったらどうするのだろうか。いや、それは私たちからすれば贅沢すぎる悩みだけれどもと 少し嫉みながら、楓はじっと見ている。 後頭部に直に当たる感触が気になって振り向いた耕一の頬にモロに梓の胸が当たってしまった光景を、 楓はじっと見ている。 きゃああ! と梓が悲鳴を上げたが、それは自分の胸に耕一の頬が当たったせいか、それとも千鶴の顔が 母親の怒り顔から鬼女の怒髪天に変わったせいなのか、どっちだろうと思いながら、楓はじっと見ている。 そして、楓は逃げた。 天井に飛びつき、梁に指をかけ、千鶴の殺傷可能範囲外ギリギリに身を避け、そのまま天井を這うように して、その場所を離れていく。 「あぁ、ずぅ、すぅわぁぁぁぁ!」 「ひゃああああ! ちっ、千鶴姉、勘弁してぇ!」 「うひぃぃいい! 俺は被害者だってえええっ!」 鬼女一人の血の凍るような怒声と犠牲となった人間二人の断末魔の悲鳴。 「やっぱり、ヨゴレ芸人って難しい……」 こっそり、ひどいことを言いながら、楓は天井の梁を伝って、外へと逃げ出していった。 「いて、いてててててっ!」 耕一が悲鳴を上げているのは、千鶴に染みる傷薬を塗られているから。 「まったく梓ったら、加減というものを知らないんだから」 加減を知らない。 確かに、梓に関節技をかけられた腕はひどく痛んでいた。 だが、傷薬を塗らなければいけないほどの切り傷を耕一にこしらえたのは、千鶴その人である。 それは確かにそうなのだが。 「本当にもう。耕一さん、今が大切な時期なのに……」 本当に申し訳なさそうな顔をして、指先に傷薬をつけて耕一の体に出来た傷一つ一つに優しく 塗り込んでいく千鶴の顔を見ては、耕一は何も言えなかった。 大切な時期。 それは確かに、そうなのだろう。 耕一は、このまま千鶴に全部の傷を治療させるのは申し訳ないような気がしてきた。 「もういいですよ、千鶴さん。ほら、もう痛くないですから」 そう言って、耕一は梓に関節技をかけられていた腕を元気に振って見せる。 実際、もうそんなに痛んではいない。 その回復力の速さは耕一の中に流れる呪われた血の成せる技なのだが、今はありがたかった。 「駄目ですよ。まだ、一番大きな傷が残っているんですから」 そう言うと千鶴はたっぷりと指先に傷薬をつけて、耕一の頬に当てた。 傷薬の冷たさの中から、わずかに感じる千鶴の指の暖かさ。 そんな微かな温度に当てられて、耕一の頬は赤くなってしまう。 耕一の頬に、千鶴の爪先の痕はない。 千鶴が一生懸命に傷薬を塗っているのは、さっき梓の暖かさに触れた側の頬。 私以外の女の子を見ては駄目。 暗に、千鶴は耕一にそう願いを立てている。 梓の暖かさに触れた場所に、自分の暖かさを塗り込めながら。 その甘い誘惑に耐えながら、耕一は自分の頬に千鶴の体温が移っていくのを感じていた。 『某月某日 奇跡というものはある。 奇妙な現実というものはある。 ポロリを綺麗所のタレントにやってしまった芸人が、まだテレビに出演していた。 なんと、自分が恥をかかせてしまった綺麗所のタレントを相方として。 何が、あったのだろうか。 この前までは、あの芸人と対極の立場にいたはずのタレントが、今は同じ立場で、笑いを誘うのに 適した表情と身振りで動いている。 引き出しているのは、あの芸人の才能であり、引き出されているのは、あのタレントの才能である。 間違いなく、彼らは天才だ。 私は彼らを追いかけよう。 見る目がない人々は、タレントの転身を堕落と笑うかもしれない。 あの芸人を、タレントを堕落させたメフィストフェレスだと憎むかも知れない。 しかし、私には見える。 彼らが、お笑いの道を駆け上がっていく姿が。 この奇跡の出会いを、私は覚えておこう。 それに対して。 姉たちの様子がおかしい。 この前のポロリから、姉二人の中は険悪になったようだ。 一人は何より焦っているように見えるし、一人は邪魔をしたがっているように見える。 初音は、その間に立って狼狽しているばかりだ。 私も正直、狼狽している。 邪魔をしたいとは思わないけれど、姉さんは何を焦っているのだろう。 確かに、この家族のような関係がいつまでも続くはずがない。 いつかは、あの人も誰か一人を選ぶのだろうから。 ……その意味では、私も焦っているのかもしれない』 パタ。 まるで他人の日記帳を閉じるかのような気怠い動きで、楓は自分の日記帳を秘密の場所に仕舞った。 千鶴は今日も耕一を連れて、どこかに出かけてしまった。 最近、二人だけの外出が多いような気がする。 大学の休みが終われば、耕一はまた帰ってしまう。 そのことを、姉妹の四人はみんな知っている。 だからこそ。 千鶴の独走とも取れる行動は、残りの姉妹三人の神経を苛立たせていた。 祝日のデパート。 休みを楽しむ家族連れや学生が、その中を賑わせていた。 そんな賑やかな場所で、耕一と千鶴は連れだって歩いている。 「耕一さん。ほら、あれ。沖縄の物産展ですって」 右手で嬉しそうに指差し、子供のように微笑む千鶴。 「サトウキビとか売っているのかな?」 そう言う耕一の動きは、どこかぎこちなかった。 ぎこちなくさせているのは、千鶴の左手。 まるで、そこにあることが当然であるかのように、耕一の右手にしがみついている。 腕を組みましょう。 そんな誘いはなかった。 二人で一緒に出かけた時には、自然に千鶴の腕は耕一の腕に絡んでいた。 千鶴の体温を直に感じて、耕一の鼓動は速くなっている。 そして、千鶴の鼓動もまた速くなっていることが、くっついている腕から感じ取ることが出来た。 互いに速くなる鼓動。 千鶴が、自分をどこに連れて行こうとしているのか。 そのことに薄々気づきながらも、耕一は彼女に引かれるまま、一緒にデパートの中を歩いていった。 白のドレス。 純白のドレス。 ホワイトのドレス。 数え切れない程のドレスが飾ってあったが、その店の中にある色は全て白だった。 ウェディングドレスの展示会場。 千鶴はその前に立って、耕一の右手に腕を絡めたまま、何かを待っている。 足を前に踏み出していいのだろうか。 千鶴も、耕一も、そう思っていた。 展示会場の店員は、ドレスを整えるふりをしながら、決して二人の方を見ようとしないままで、 二人が来るのを待っている。 お似合いの二人ですよ。 怖がらないで、こちらにいらっしゃい。 飾られたドレスとこちらを向かない店員が、何も語らずにそう言っていることが、二人にはわかった。 「入ってみましょうか、千鶴さん」 思ったよりも気軽に、その言葉は耕一の口を突いて出た。 「……」 千鶴は何も言わないで、真剣な顔でうなずく。 女の正念場。 ここで何かが決まってしまうのだろう。 まるで、ダンスに出る舞姫のような軽やかさで、そして、戦場に出る女武者のような決意を持って、 千鶴は耕一を連れて、展示会場の中へと入っていった。 白の上に重なる白。そして、さらに重なる白。 耕一は、ドレスというものを間近に見たことがない。 ただ、一つの色を折り重ねた布の集まり。 それが何故、こんなにも美しくなるのだろうか。 「お待たせしました。ええ、とてもお似合いですよ」 決まり切った店員の賛辞の言葉に、耕一は同意するしかなかった。 白い光の中に輝く、長い黒髪。 時に憂いを、時に慈しみを含んだ黒い瞳も、また白い光の中にあった。 暗く沈んだ世界にいた千鶴を、白い光が押し上げている。 その白い光は、誰のためにあるのか。 誰のために、千鶴は白い光をまとったのか。 耕一はわかっていた。 だから、一歩を踏み出した。 静かに、手を差し出す。 「千鶴さん」 「はい」 耕一の手の上に、千鶴は自分の手を合わせた。 暖かな手。 千鶴に誘惑などされていなかったことに、耕一はようやく気づいた。 それは、千鶴の願い。 孤独と寂しさの中に生きてきた千鶴の、甘く切ない願い。 耕一が、優しく千鶴の手を握る。 願いは今、成就された。 『某月某日 私がひいきにしている芸人と、彼が開眼させた元タレントは今日も元気だ。 テレビの画面が狭く感じるほど、その中で二人は暴れ回っている。 けれど、私たちは元気がない。 耕一さんの就職が決まった。 これは喜ばしいことだと思う。 就職先は、鶴来屋の本店。姉さんが働いているところと同じ場所。 これも喜ばしいことだろう。 きっと、耕一さんはずっと家にいてくれるようになる。 それは、私たち四人が何より望んでいたこと。 問題なのは、そのことが姉さんと耕一さんの二人の口から語られたということだ。 二人の手は、机の下で握られていた。 何かがあったのだろう。 それが具体的に何かということは、あまり考えたくはない。 考えたくはないが、結論を出さなくてはならないのだろう。 胸が苦しい』 全てのページを埋め終わった日記帳を秘密の場所にしまうと、楓は居間に向かった。 梓と初音が待っている。 千鶴を応援するべきか、それとも卑怯だと抗議するべきか。 どちらとも決めかねている楓の足取りは、普段よりもずっと重かった。 「……ずるいよ、千鶴お姉ちゃん」 初音までが、そんなことを言う。 一番年長のはずの梓は、そんな初音の顔を見て、泣き笑いの顔を見せた。 「あきらめなよ、初音。いいじゃない、千鶴姉さんが幸せになれるんだから」 梓の悲しみは大きい。 だが、彼女はあえて、こんなことを言う。 「そうね。梓姉さんの言うとおりね」 静かに流れる風の音を聞きながら、楓もそう言った。 「……耕一お兄ちゃん、幸せになれるのかな?」 そんなことを初音に言われて、梓と楓の言葉が止まる。 千鶴がどういう女性か、三人の妹たちは知っている。 先行きは暗そうに見えた。 「でも、千鶴姉が裏切ることはないから」 「ええ。そして、耕一さんも」 それは確かだった。 不器用で、歩みが遅くて、つまずいてでも、前に進んでいる限りは、いつかは幸せにたどり着く。 「……でも、お料理とか上手じゃないよ。千鶴お姉ちゃん」 「慣れるまでは、あたしが作るよ」 慣れるとか、そういう問題じゃないということはわかっていたが、梓はそう言った。 「そうね。支え合えれば、倒れることはないもの」 楓は思う。 今まで自分たち三人の妹を支えていたのは、長女である千鶴であった。 だから、今度は千鶴が誰かに支えられてもいい、と。 自分たちの姉として、母親として、保護者として、いつも側にいた千鶴。 耕一だけが、その支えになれるのであれば。 この想いを振り切ることに迷いはない。 「それでいいんだよね、お姉ちゃんたちも」 梓と楓は、ただ微笑んで、初音の言葉にうなずいていた。 「耕一さん。これじゃ卒業単位に足りませんよ。頑張らないと」 「しまったぁ……さぼるんじゃなかったなぁ」 妹たちの会議にも気づかず。 千鶴は、卒業の単位が危ない耕一の尻を叩いていた。 すでに耕一が座る机も、彼が着るスーツもあつらえてある。 耕一以上に、千鶴も必死だった。 『某月某日。 あの芸人と新しいタレントのコンビも、すっかりテレビに定着したようだ。 もう、この二人を貶めようとする者もいない。 そして、この家からスーツ姿で出かける姉さんとあの人の姿も、すっかりお馴染みのものに なってしまった。 スーツ姿のあの人は何だか違和感があったが、今は何だか頼もしい。 取締役平社員というよくわからない肩書きではあるが、将来、姉さんの横に立つ存在になるのだろう。 かつて、あの人の父親がそうだったように。 そう言えば。 私も、梓姉さんのように家から出ようと思っている。 県外でなくてもいいから、どこか一人暮らしの出来る寮がある大学で。 この家は四人で住むには広すぎるけれども、姉さんとあの人が暮らしている中では、私も初音も 邪魔者だろう。早く家を出た梓姉さんが羨ましい』 新しく揃えた日記帳に、新しいボールペンでつづって。 楓はいつものように、日記帳を秘密の場所に仕舞った。 「楓お姉ちゃん〜。ご飯できたよ〜」 初音が呼んでいる。 多分、今日も平穏に時は過ぎる。 そんなことを思って、楓は廊下の床板を軽やかに踏んだ。 サービス業というものは厳しい。 わずかなミスや少しの油断が、今まで積み上げてきた信頼を失うことに繋がりかねない。 「お辞儀の角度がなっていません」 「はっ、はい。すいません、会長」 暇があれば、平社員であるはずの耕一について手ずから指導を行う若い女性会長の姿。 それを妬む者も中にはいたが、社史という一つの流れの中に、一人の人物の息子が加わったことを 素直に喜ぶ者も多かった。 いずれは、会長の側に彼が立つのだろう。 つまらない陰謀よりも。 くだらない嫉妬よりも。 そのいつか来るべき言祝ぎを待つことの方が、ずっと楽しい。 一人、また一人と、そのことに気づいていった。 「はい。耕一さん」 千鶴が差し出した茶を、耕一は何も言わずに受取って飲む。 会社で厳しく当たっている分、家に帰った千鶴は誰よりも耕一に優しい。 そして、楓も初音も、そのことを千鶴に許していた。 耕一が、席を立って。 「ねえ、千鶴姉さん」 横に初音を座らせたままで、楓がこんなことを聞いてみた。 「耕一さんの、どこが好きになったの?」 妹として、直に義理の兄を迎えるだろう一人の女としての当たり前の質問。 その質問に、千鶴はただ黙って微笑んでいた。 微笑み。 勝利を得たからでもなく、悲しみから抜け出したからでもなく。 ただ満たされて。 「よかったね、千鶴お姉ちゃん」 「ええ。本当に、よかった」 自分たちもまた満たされていることを感じて、楓も初音もまた、同じように微笑んでいた。 『某月某日 今日は姉さんの結婚式があった。 あの人も姉さんも式の前は固くなっていたけれど、式の間は本当に幸せそうな顔で微笑んでいた。 梓姉さんも、初音も同じように微笑んでいたけれど、私は少し泣いてしまった。 なんで、泣いてしまったのか、わからないけれど。 多分、それは悲しくて泣いたわけではないと思う。 強いて言えば、姉さんの姿があんまり綺麗で、嬉しかったのだろうか。 私はやはり姉さんの妹なのだと、変に実感してしまった。 今頃、姉さんとあの人は新婚旅行の飛行機の上。 私の方は、明日から学業が待っている。 不公平な気はするけれど、姉さんも学業は頑張っていたから。 私も頑張ることにしよう。 追記: あの芸人、また芸がマンネリ化してきた。 何度も谷を渡るあたり、追いかけがいのある芸人だと言える。 相方の彼と破局を迎えるのか、それとも新たな境地を迎えるのか。 もし、新たな境地を迎えるのであれば、あの二人は永く日本のお笑いを支えることになるだろう』 (千鶴の誘惑 了)