東の旅衣 巻の二 投稿者:AIAUS 投稿日:9月11日(月)01時10分
藤田隆信吉衛門が一子、藤田浩之は、今年の夏に元服の儀を迎えた。
名前を藤田浩之新衛門に改めて、名実ともに大人としての資格を得たことになる。
その元服の儀に併せて、藤田家ではもう一つ、重大な儀式を残していた。

晴れて成人となった浩之と、肥前蓮池十万石の大名、神岸家の娘、あかりとの婚礼の儀である。

隆信の実家である藤田家は神岸家と懇意の仲であり、形あるにつけ、形なきにつけ、非常に交流
が深い。隆信も出島から帰って実家に戻った時は、必ず浩之を連れて神岸の家に立ち寄り、縁を
絶やさぬように努めてきた。
あかりは神岸家の殿様の四女であり、幼き頃から浩之を「浩之ちゃん、浩之ちゃん」と呼んで
慕っている。
浩之もそれを憎からず覚え、実の妹のように接していたのである。
その姿を見ていたのが、神岸の殿様の奥方、ひかりだった。
あかりが結婚を考えなければならない年齢になり、誰がふさわしかろうかと家中で議題に登った
時、ひかりは強く藤田浩之を推薦したのである。
浩之は示現流の一派、坂下平四朗の下で熱心に剣術を学び、また阿蘭陀通司である父から語学や
蘭学を教えられ、これらに通じるようになっており、文武両道の若者として神岸家でも大変に
評判が高かった。しかし、武士の子にしては柔弱、優しすぎる向きがあり、彼を評するに、

「知恵才覚の点ではならぶ者はいないが、勇気については今ひとつ欠けているように思われる」

との声もあった。
しかし、ひかりはいくらかあった反対派を辛抱強く説得し、なんとか浩之を、あかりの夫とする
ことを承知させたのである。
そのことが決まったのが、一週間前。

「隆信殿。貴殿の一子、浩之を、神岸家の四女、あかりと結婚させることが決まり申した。
お喜び下され」

そのことを藤田家から隆信が知らされたのが、五日前。
その日のうちに、隆信は浩之に急に婚礼の儀が決まってしまったことを知らせた。
「あまりに急な申し出なので、神岸家に待ってもらうこともできると思うが・・・どうする?」
「どうすると言われてましても、主家の命じることはお受けするしかありますまい」
心配そうに聞く父親に対して、元服を間近に備えた浩之は泰然として答える。
しかし、声音は若干震えていた。
確かに浩之は、幼い時から、あかりと親しく過ごしていたが、それはあくまで兄と妹としての仲
であって、あかりを女子として見たことは一度もないのである。
その点が、レミィ=クリストフアとは大分に異なる。

「しかし、浩之・・・レミィ殿のことはいいのか?」

隆信が言っているのは、浩之が五年前にレミィと交わした再会の約束のことである。
「是非もないことでございます」
是も非もない。
つまり、どうしようもないことだ、と浩之は言った。
浩之がどれだけレミィのことを思おうと、彼女はすでに遠い異国の地にいるのである。鎖国が法度
となっている今、浩之が彼女に再会できる可能性は皆無なのだ。
「それでは、あかり殿との婚礼を承知するのだな?」
「謹んでお受けいたします」
父親の言葉に、浩之は深々と頭を下げる。
「わかった。では、婚礼は元服が終わった次の日に行われる。そのつもりでいなさい」
隆信はそう言ってから、浩之の部屋を出て行った。
残された浩之は読みかけの蘭学の本を開いたが、その日はまったく頭に入ることがなかった。


元服の二日前。
浩之の元服を祝いに、友人である佐藤雅史がやってきた。
雅史はすでに元服を済ませており、一人前の大人として浩之の門出を喜びに来たのだ。
さらに、婚礼という慶事まで重なるのであるから、これは友人として来ないわけにはいかない。
だが、その主役である浩之に元気がない。
「どうしたの、浩之?」
雅史は不思議そうな顔をして聞いたが、浩之は溜め息で答えるばかり。
何を悩んでいるのか聞き出そうとしたが、まったく要領を得ない。
なぜなら、浩之から妹のような幼馴染、あかりのことをよく聞かされていた雅史は、あかりとの
婚礼のことで浩之が悩んでいるなどとは思いも及ばなかったからだ。

青菜に塩を振りかけたような態の浩之。
雅史は別の話題を振ってみることにした。

「そういえば今度、異国の船が江戸に入るそうだね」
「はあ」
「それも、阿蘭陀船じゃないんだって」
「ふう」
「浩之、聞いてる?」
「ほお」
「・・・確か、船を率いている提督の名前がジョージ=クリストフアだとか」
「なにぃ! クリストフア殿がっ!」
ガタガタガタ・・・。

いきなり浩之が立ち上がったので、雅史は驚いて後ろにひっくり返った。
「いっ、いきなりなに?」
「雅史! それは本当なのか? 本当にジョージ殿が江戸に?」
「阿蘭陀商館の人が言っていたから、本当だと思うけど」

レミィ殿に会えるかもしれない。

浩之はそう思って色めきたったが、自分の置かれた立場を思い出して我に返った。
自分はあかりと結婚して、藤田家の安泰を図らなければならない。
藤田家は九千五百石を誇るとはいえ、旗本である。それに対して、神岸家は十万石の大名。
浩之にかかっている責任は軽くはない。
それに、武士である浩之は町人と違い、気軽に旅ができるような身分でもないのだ。
約束を交わしたとはいえ、藤田家の一員としての責務から逃れることはできない。

「はあ」

浩之がまた溜め息をついたのを、雅史は呆れ顔で見ていた。


そして、今日が元服の日。
元服を終えた浩之は自室に戻り、明日に控えた婚礼の儀のことよりも、江戸にレミィが来る
かもしれない、ということで思い悩んでいる。

「失礼いたします。浩之様、入ってもよろしいでしょうか?」

障子の向こうから聞こえてくるのは、若い女の声。
浩之がそれに応えると、音もなく障子を開けて見慣れた女性が入ってきた。
神岸あかり、その人である。

「お久しぶりでございます、浩之様」

あかりは淡い赤色の着物を着ていた。
その姿を見て、浩之は声が出ない。
「あっ、ああ。一ヶ月振りくらいかな?」
かろうじて、それだけを口にする。
「それぐらいだよね、浩之ちゃん」
いつもの口調で答えてしまい、あかりが手で口を押さえ、顔を赤らめた。
「いけない。浩之ちゃんの妻になるのに、私ったら・・・」
「それでいいよ、あかり。婚礼は明日だ」
「そうだよね、明日なんだよね」
あかりは頬を赤く染めた。その姿を浩之は可愛らしいとは思うけれども、やはり妹にしか思えない。
あかりはそんな浩之の思いを他所に、膝が接するくらいにまで体を近づけてきた。
「ねえ、私、いい奥さんになれるかな?」
そう聞いてくる顔は童女のようにあどけなく、浩之はますます意気消沈するのである。

「これは・・・うまくいかぬかな?」

障子越しに二人の様子を聞いていた隆信は、首をひねって思念顔をしながら、その場を離れた。


ついに、婚礼の儀がやってきた。
十万石の大名の娘とはいえ、あかりは四女であるから、その儀は藤田家の中で質素に行われた。
白無垢に身を包んだ、あかりの姿はとても美しく、浩之でさえも目を奪われてしまうほどであった。
固めの杯を飲み干す二人。

「嬉しい・・・とても嬉しい」

一筋の涙をこぼしながら微笑む花嫁の姿を見て、浩之は息を呑んだ。
そして、あかりを妻にすることを決心したのである。


そして、初夜の晩。
若い二人に気を使って、宴会を楽しむ親戚一同は別館に場所を移している。
一つの布団に並んだ枕は二つ。
あかりは簡素な白の衣だけを身に付けて、対面に座る浩之の顔を見ている。
「あっ、あはは・・・なんか緊張しちゃうね」
「うっ、うむ・・・実は私もなんだ」
布団をチラチラと横目で見ながら、照れ笑いを繰り返す二人。
「さっ、先に入っちゃうね」
あかりはそそくさと布団に入り、目だけを覗かせるようにして顔を出す。
「こっ、このままでもいるわけにもいかないから、そろそろ参ろうか」
浩之も体を堅くしながら、あかりに続いて布団に入る。

「浩之ちゃん・・・」
「あかり・・・」

もしもこの時、万事がうまく運んでいたのであれば、この先の道中はなかったであろう。

翌日未明、浩之は出奔した。


「ああ、やはりな。そういうことになったか」

藤田家、神岸家が浩之がいなくなったことで大騒ぎになっている中、藤田隆信吉衛門だけは
泰然として、事の行く末を見守っていたそうである。

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この作品はイベントSS掲示板「紀行SS」連載の、「東の旅衣」第一話です。
三ヶ月で15回の予定ですので、ゆるりとお楽しみ下さい。

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