使いたい時には………(六月のお題:傘) 投稿者:雅 ノボル 投稿日:7月1日(日)01時46分
 世の中のよく起こりうる事柄をまとめた、アーサー・ブロックという人が書いた
「マーフィーの法則」と言う本が少し前にブームになったけれど、そんな法則の中
に、こんな言葉があったと思う。

「使いたいものは、本当に使いたい時に壊れていて使えない」

 大学の授業も終って、図書館でミステリ雑誌の閲覧をしていたら、急に空が曇り
始めたと思った途端に降りはじめた。
 あらかじめ折り畳み傘を持ってきてたのはいいけれど、図書館から出ようとして
傘を開いて初めて気がついた。
「あ……… 骨が折れてる………」
 傘の骨が2本並んで、根元の軸の所からポッキリと折れてしまっていた。
 これでは傘としては使えない。
「困ったな………」
 空の様子を図書館の入り口から見てみるけれど、まだ当分止みそうにない。


         Leaf presents "WHITE ALBUM" Misaki Sawakura's Side Story
                           使いたい時には………
                        When I want to use it………

                          Wrote By Noboru MIYABI

 時間を見てみると午後3時40分とすこし。まだまだ学内には人はいるけれど、
傘に余りが有るとは思えない。
 替えの傘を買おうかと思って、雨に煙る大学のキャンバスの中を見渡してみる。
 建物伝いに歩いて行けば、学生生協のある食堂へはなんとか濡られずに行けれる
けれど、この急な雨のおかげで傘は多分売り切れてると思う。
 私だって家を出る際に、以前捻挫した足首がなにもしていないのに鈍く痛くなら
なければ、傘を持ってこなかっただろうし。
 いま降っている雨は、本当に通りすがりのにわか雨。けれど、その雨足は強くて
すぐには止みそうもない。

「どうしようかな………」

 図書館は少し遅くまで開いているとは言え、閉館するまでに雨が止む保証はない。
 にわか雨だからと言って、傘をささずに家へ帰るには、まだ少しだけ雨は冷たく
て激しく降り続いている。
 このまま雨の中をバス停まで歩いて行けば、バス停につくまでにすっかり身体を
冷え切らせて、風邪を引いてしまうだろう。
 もうすぐ梅雨の季節とは言うけれど、気温は晴れていた時とは打って変わって、
寒く感じるくらい。それも雨が地熱や気温を奪っているからなのだけれど。
 気分的にだって、ずぶ濡れの中をお家まで帰りたくはない。
 たとえ傘をさしてもあまり効果の無いくらいの雨量でも、頭が濡れてるのと濡れ
ないのでは、随分と結果は変わってくる。
 腕時計を見てみると、4時少し前。図書館の閉館は午後7時だから、3時間ほど
図書館で雨をやり過ごせそう。

「ちょっとの暇つぶしのつもりだったのに………」

 天候を怨んでも仕方が無いと、自分に言い聞かせるように呟いた。


『雨と言うものは好きでは無い。いやはっきりと言ってしまえば大嫌いである。
 雨はそれだけで精神を陰鬱へと病んでしまうもののようだ。
 ありていに言わせてもらえば、雨の日には自分が陰鬱になるような犯罪がしばし
起こりうる。
 そんな日の事件など、身体が冷え切ってしまうばかりか、気持ちにまで鬱の気が
蔓延してきそうに感じてしまう。
 こうして安楽椅子に揺られて、部屋のなかで安穏としている方が、まだ犯罪とは
切り離された健全な生き方と言えよう。とはいえ余り部屋の中に居過ぎても、鬱気
はもたげてくるのだが。
 そんな鬱気を飲みこんでしまおうと思って、すぐ後ろの戸棚にしまい込んである
ティーポットと茶器を取り出して、薬缶にお湯をいっぱいに沸かし、数日前に新た
に買い込んでおいた好みの紅茶の缶を2つ3つ開けて、一人で午後の茶を飲む事で
気を紛らわす。
 一人で茶をたしなむ時には、シュガーとクリームは入れない。シュガーもクリー
ムも、せっかくの香りを殺すアイテムにしかなリ得ない。
 特にこれらの茶葉は全て、今年の最上級品の茶葉だ。こういうものは、カフィと
同じで何も入れないで香りを楽しむものだ。
 だが、そんな至福な時に限って、私の手を頼る人物と言うのは来訪するらしい。
まるで、自分の在室が知られているかのようにだ。
 事務所の扉を2回、軽くノックする音が聞こえた。
 この雨の中、私を陰鬱な気持ちにした挙句に、濡れる事を強要してくれる依頼者
がやって来たようだ。さて、今日は如何様な難題を持ち込んで来たのだろうか?
 せっかく干していたコートとアンブレラは、乾いているのだろうか………』


「乾いているのだろうか……… っと、出だしはこんな感じかな」
 雨が通り過ぎるのを待つ間、友達からお願いされていた劇のシナリオ原案みたい
なものを書いていた。
 その人からは「好きに書いていいよ」と言われていたので、探偵物の古典とも言
える「安楽椅子探偵」を自分なりのアレンジで書き綴る。
 主役の人間が紅茶をたしなみ始めるあたりで、本当に私自身も喉が渇いてきた。
切りの良い所まで書いたから、私も一休みしようか。

 シナリオを書き連ねたルーズリーフをバインダーに閉じて、バッグに大事にしま
ってから、図書館のドリンクコーナーへ移動する。
 本当は自分で紅茶を淹れて飲みたい気分だけれど、残念ながらここでは出来ない。
雨が降ってさえなければ、きっとエコーズでコーヒーと紅茶の香りに包まれながら、
続きを書き綴っていたんだろうけど。

 閲覧室とは隔てられた場所に作られたドリンクコーナーは、ちょっとした談話室
にも使える場所になっている。
 ここにも私と似たり寄ったりな人達が、外を眺めては顔を曇らせたり、物憂げに
空を見つめていたりしてる。
 大学の建物から先に行けずに、無為な時間を潰す何かもすでに費えてしまってる
様子で、誰もが手持ち無沙汰な雰囲気で一杯。
 私も読む本が無くなったら、そうなっちゃうのかな?

 あまりジロジロと他人の事を見るのも失礼なので、紙コップ式のドリンクディス
ペンサーで、硬貨を入れて飲み物を選ぶ。
 劇の主人公みたく紅茶も良いかな?
 そう思って紅茶のボタンを押して、出来あがるのを待つ。
 ドリンクディスペンサーとは言え、最近のは本物の茶葉を使ってドリップする物
もあるくらいで、淹れる時に辺りに広がるお茶の香りとか、コーヒーの香りがが、
それを如実に物語ってくれる。
 でも、少々値段が高くなるのは仕方ないのだけれど。

 香り漂う紅茶の紙カップを持ちながら、人の多いドリンクコーナーの空いてる席
を捜していると………

「あ……… はるかちゃん?」

 よく見知った人が窓越しの外を見ていた。
 でも私が声を掛けても、ぼぉっとしたまま外を見ていたので、そっと立ち去ろう
としたら。

「ん、ここあいてるよ?」

 外を見たまま、はるかちゃんはそう呟いた。
 たぶん、はるかちゃんは声を掛けた人物が私だと言う事に、全く気がついてない
のだけれど。
 軽くあたりを見まわして見ても、はるかちゃんの言うとおり空いている席がなさ
そうだったので、そのまま彼女のとなりに腰を落ち付ける。
 何より、全く知らない人の隣よりかは、知っている人の隣の方が気分的にはホッ
とするし。

 少し温くなった紅茶を飲む間、はるかちゃんはあいかわらず窓の先の風景をぼぉ
っと見ていた。
 たぶん、はるかちゃんは窓の先の風景の、その先にあるものを見ていたんじゃな
いかと思う。
 彼女は、雨の日が好きでは無いから。

「あれ、美咲さんがいる」

 唐突に我に返ったはるかちゃんが、私が隣にいる事に気がついた。
 けれど驚いているのか飄々としてるのかさえ、全く解らない。
 それくらいに、ごく自然にはるかちゃんは言う。まるで、私が隣に居ても、それ
が当たり前な事くらいに。

「美咲さんも雨宿り?」

 はるかちゃんに言われて、こくんと頷いた。
 するとはるかちゃんは何故か嬉しそうな顔をしてこう言った。

「あはは、私も」

 困っているのに、なんだか困ってなさそうな、そんな感じではるかちゃんが言う。

「でも、美咲さんが傘を忘れてくるなんて珍しい」

 心底珍しいものでも見るかのように、私の事を見るはるかちゃん。
 けど私だって忘れ物をすることはあるし、ましてや傘が壊れてるなんて気がつか
なかったし………
 皆が思っているほど、私は完璧な人間じゃないと思っているのに………

「ん、難しい顔してる?」

 私が悩んでいる所を、はるかちゃんがそう指摘する。
 ………私の難しい顔って一体どんなのかな?
 などと思いつつも、不思議がってるままのはるかちゃんに答える方が先だった。

「珍しい、だなんて……… 傘、壊れちゃってたから………」

 そう、本当に珍しいことじゃない。
 大抵、私は間が悪い場に居合せる事が多いからだ。何だか、私だけ一人損をする、
そんな目に良く合う。
 私がそう言うと一人得心した様子で、ちょっと目を瞬かせて。

「そうなんだ」

 と、はるかちゃんが言った。
 今度は別に驚いている様子でもなく、心底納得した様だった。
 納得した途端に、はるかちゃんは自分の足元に置いていたディバックを取り寄せ
て、何かを探し始める。

「ん、あった」

 ディバックからはるかちゃんが取りだしたのは、一枚のチョコと男物の傘だった。
傘を左脇に抱えてから、いつもの見なれた包装に包まれた板チョコを割って、半分
を私に差し出した。

「とりあえず、食べて」

 そう言うと、はるかちゃんは割った半分の方を食べ始める。
 私は手渡されたチョコと、はるかちゃんの持っている傘とを見比べながら、頭の
中では疑問だらけで一杯だった。
 はるかちゃんがチョコレートを絶やした事なんて殆どないけれど、一体いつ補充
しているのか永遠の謎だったりする。
 ハーシーズのチョコなんて、この辺だと少し大きめの雑貨店でないと、置いてい
ないはずだし。
 それよりも不思議だったのは、なぜ傘があるのにはるかちゃんは図書館で雨宿り
をしていたんだろう?
 早くもはるかちゃんの脇の傘を見てか、周り中から痛い視線を感じているのだけ
れど、はるかちゃんはそんな事すらどうだっていいような感じで、一人美味しそう
にチョコレートを頬張っている。

「美咲さん、食べないの?」

 パキッとチョコレートを食べ易く小さく割りながら、はるかちゃんが不思議そう
に聞いてきた。
 このまま手に持っているとチョコが溶けてしまいそうなので、私もちょっと柔ら
かくなったチョコを小さく折って、一つまみしてから。

「それよりも、その傘……… どうした傘があるのに?」

 私がそう指摘すると、はるかちゃんはさも当然の用にしてこう答えた。

「私、自転車だから」

 そう言われて、はるかちゃんは最近自転車で通学している事を、ようやく思い出
した。

「この雨でも帰れない事はないけど……… 危ないし」

 確かに、自転車だと片手運転は危ない。はるかちゃんの持っている銀色の自転車
は外国製の高級品だ。 
 スピードも出るらしく、このまえ冬弥君と一緒にいた時も、電車をカモッたとと
か、高速道路で外車を抜いたとかなんとか……… ウソなんだろうけど。

「でも、悪いよ……… それにせっかく傘があるなら、はるかちゃん帰れたのに」

 せっかくある傘を借りるなんて、なんだか自分だけ良ければって言う風に思えて
しまうから。だから、私は慌てて、手まで振って遠慮しちゃった。
 けど、はるかちゃんはちょっと考え込んでから。

「ん、だって美咲さんだから」

 と一言そう言った。そうでしょ? と言わんかの如くの表情で。

「え………?」

 一言で片付けるには、あまりにも抽象的で、あまりにも端的な言葉だったけれど、
その一言で、はるかちゃんが何を言いたいのか、解ってしまった。

「で、でも悪いよ。はるかちゃんのなんだし」
「………美咲さん、遠慮しなくてもいいよ」

 なおも私が断ろうとするのを、はるかちゃんは一言でそれを遮ってしまった。

「私は自転車だから、乗って帰らないといけないけれど、美咲さんはそうじゃない
から」

 そういって、にこっと笑うはるかちゃん。

「それに、雨降りっぱなしなら、濡れて帰るから」

 まるで、雨に濡れられるのも良いって感じではるかちゃんが言った。
 なんだか私の書いている劇の主人公とは正反対なキャラクターで、こんな調子の
キャラクターを主人公にしてみるのも、面白そうだと思ったけれど、それはそれ。

「ちょうど、雨も小振りになって来たし」

 はるかちゃんがそう言いながら、外の景色を見てと言うばかりに指を指し示す。
 すると、曇天の雲色はうっすらと明るさが増してきていて、雨も少し小振りにな
って来て行た。

「いいの? 本当に?」

 私がそう言うと、はるかちゃんは脇に抱えっぱなしの傘を、改めて私に差し出し
た。

「ん、遠慮しないでいいから」

 はるかちゃんが笑いながら言った。
 私は、その申し出を素直に受け取ることにした。


「『使える時にはもう用はなさない』か」

 「マーフィーの法則」通りだな、と一人ごちてみる。
 それから10分もしないうちに、雨は急速に止んでいった。辺りは一面の大きな
水溜りと、まだ建物からの水の滴り。
 そして、そんな中を天の恵みとばかりに、慌てて帰る学生の姿が、波紋混じりの
水面に揺らぐ。
 せっかくはるかちゃんから借りた傘も、使わずじまいになりそうだった。

「マーフィーの法則? 美咲さんらしいね」

 と、はるかちゃんは言ってくる。
 彼女も自転車置き場から、まだ雨の雫が所々に残った自転車を押して、私のそば
に来て行た。

「でも、使わない方がいいから」

 とも、言った。
 私もその言葉に素直に頷いてみせる。
 空に浮かぶ雲は急速に流れているけれど、大分先の方にはまだ大きくて黒い雲が
浮かんでいた。

「美咲さん、帰ろ?」

 はるかちゃんが自分の銀色の自転車に跨って、すぐにでも動き出しそうに勢いを
蓄えながら言ってきた。
 ここでのんびりして居る場合でも、なさそう。

「じゃぁ、帰ろうか」

 私も言うと、はるかちゃんは自転車をゆっくりと私の歩く速度に合わせて、自転
車を漕ぎ出した。

 雨はやはり嫌いだ。
 濡れるとか、風邪を引くだとか、そんな理由だからではなく、皆に迷惑をかける
から。だから好きではない。
 けれど………

「そうだ、はるかちゃん。傘、返すね」
「美咲さんが持ってていいよ、どうせ使わないから」

 はるかちゃんの家への分かれ道で、私はそう言ったけれど、はるかちゃんは笑っ
て私に傘を預けて帰ってしまった。
 雨が降っていると人の心はささくれたり、沈んだりするけれど、心から楽しく思
う、思える事も出来る人は居る。
 はるかちゃんは、そんな人なんだと思う。

 さぁ、私も急いで帰ろう。
 空はまた雲が空を覆って、暗くなリはじめている。このタイミングで帰らないと、
いつまた雨が振り出すかわからない。
 はるかちゃんから借りた傘とディバックを握って、急いで電車に乗って家に帰ろ
う。
 まだ水溜りの残る街路樹を、傘を持って駅に向かって歩き出す。
 雨の心配はもうないけれど、傘を使わないで済むなら、それで良いから。


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