.ソトハアメ 投稿者:雅 ノボル 投稿日:5月27日(土)12時55分
 5月の終わり、ちょっと汗ばむような陽気の日。
 午後の講義の無かった私は、久々に街へ出向いた。
 たまには大きな書店で、ゆっくりと海外ミステリの原書を探してみるのもい
いかと思った。

 午前中の講義が終わると、私は遊びに誘う友人たちの誘いを丁重に断って、
いつも向かう図書館を通りすぎ、大学の正門に設けられたバス停から、悠凪駅
へ行く。
 バスの中は、お昼過ぎということもあって、子供連れの人や御年寄、そして
別の大学の学生で席を埋めていた。
 丁度,運転手さんの後ろの席が空いていたので、周りに御年寄の人が立って
いない事を確認して座る。
 席に座ると、窓からの陽射しがきつく、クーラーの入っていないバスの中は
湿気で蒸し暑さを覚える。
 しかたない、少し窓をあけよう。
 窓の棧の下にあるノブを下に押しながら、1段だけ窓を上げる。
 なかなか力を入れても上がらない窓は、しばし抵抗した後、あっけなく持ち
上がり、外から風が入りこんできた。
 バスの走り具合に合わせて、窓からの風は止まったり凪いだりするけれど、
先ほどの蒸し暑い車内に比べれば、ずっと快適になった。
 バスに揺られることしばし、バスは悠凪駅のロータリーに止まる、ここから
目的の場所までは,電車で30分ぐらい。
 左手にある腕時計を見ると、1時ちょっと前。
 もう少しで急行がこの駅に到着するから、それに乗っていこう。

 駅の改札を通り、上りのホームで急行電車をしばし待つ。
 この駅で急行に追い抜かれる各駅停車の電車は、もうホームに入って急行に
乗りかえるお客さんの為に、ドアを開け放していた。
 乗り換え待ちの列で並んでいると、ほどなく急行がホームに滑り込んでくる。
 ドアが開くと、まばらに人が降り、そしてホームで待っていた人達が、次々
に電車に乗ろうとする。
 ホームから、急行の車内の人の多さを見て、私は急行に乗るのをあきらめた。
 各駅停車でも、目的地には15分遅れて着く。別に急ぎの用というわけでも
ない。
 ため息一つついて、私は急行に乗る人の列から離れて、各駅停車に乗った。

 電車に揺られる事しばし。目的地の駅に近づくにつれて、私の乗る電車の中
も混み始めてきた。
 席に座りながら、読みかけの小説に目を落としていれば、時間なんてあっと
いう間に過ぎてしまう。
 もう10分ほどで目的地と言う辺りで、別の鉄道との乗換駅に着く。車内は
立つ人の姿も出ていた。
 周りを見渡すと、扉の近くで座れる席を探しているおばあさんがいた。よく
みると、どこか具合が悪いのか、表情につらいものが混じっていた。
 誰も席を譲る気配も無いので、私はおばあさんを手招きして、席を譲った。
 おばあさんは、あと10分ほどで降りますから……… と遠慮していたのだ
けど、おばあさんが立っている姿が辛そうに見えたから、そのまま席を譲った。
「すみませんねぇ。ちょっと,腰が痛くなってきてしまって……… ありがと
うございます」
 おばあさんが丁重に謝りながら、私が座っていた席に座る。
 見た目にも,明らかに無理をしていたのだろう、おばあさんは席に座ると、
辛そうだった表情が少し和らいでいた。
 そんなおばあさんの様子を見て、私もやっと安心する。そっと席の近くを離
れて、近くの吊革につかまっておく。
 あと10分で目的地。立っていてもそれほど苦ではないけれど、もう本は読
めない。でも、そんなときのちょっとした暇つぶしも知っているから問題無い。
 さっきまで読んでいた小説の文感を、自分の描いたイメージへ投影してみる。
 周りの景色、登場人物の姿、様子、表情。こまかく、詳しく。文章の中に含
まれていたイメージを、自分なりに想像の中で模写する。
 すると、登場人物達が台詞にあわせて、イメージの中で動きはじめる。


 日本のミステリ物だ。飄々とした雰囲気の、あまり格好は良くないけれど、
どこかに鋭さを持っているような中年の警部。
 そしてまだ若いが、どこかに暗い影を持つ、キャリア出身のエリート刑事の
2人組。
 彼らが追うのは、地元有数の名士の、自殺と思しき自動車事故。そしてその
数週間後に発生した連続猟奇殺人事件。
 連続性も、何もないはずの二つの事件。
 なのに、警部にはどうしてもその二つが、どこかで絡んで離れない糸のよう
に思えてならないでいた。
 猟奇殺人の方の現場検証から帰ってきた警部が、署の自分の席で煮詰まった
頭を覚ます為に、濃い目のコーヒーを飲むシーンがある。
 頭を覚ますはずのコーヒーの香りも、たなびく苦みも、主人公である警部に
はなんの助けにもなってくれなかった。
 彼にとって、今追いかけてる事件は、まずいコーヒーの後味以上に苦く、理
解し得ない状況だったのだろうか………


 ふと気が付くと、もう目的地の駅だった。幸いにもこの電車の終点だったか
ら、乗り過ごす事こそなかったけれど、人の動きに私の意識も現実に戻される。
 私も人の流れに逆らうことなく、改札口を出ると、お目当ての書店へと足を
向けた。

 お目当ての書店は、駅からちょっと遠い。
 品揃えこそ、近辺で最大の量を誇るのだけれど、駅から遠いせいか、平日の
昼過ぎだと言うのに、人の姿はそう多くない。
 6階にある洋書のフロアに行くと、人の入りはそれほど少なくもなかった。
 日本人だけでなく外国の人もいるせいか、小声ながらも日本語の他に、英語
やドイツ語も聞こえてくる。
 ミステリ物のコーナーを探し当てて、そこに並んでいた本のタイトルをひと
とおり見た後に、いくつか気になった作品を手に取ってページをめくってみる。
 それを繰り返す事しばし……… これはと思うものは、手元に残しておき、
そうでないものは元のところへ戻す。そうして手元に残った2冊だけ、買って
いく事にした。
 時計を見ると、まだ4時を少し過ぎたところ。帰るのには少し時間が早いよ
うな気がしたので、どうしようかとちょっと迷った。
 たまには、別のジャンルも読んでみたら? と、最近、友達から言われてい
た事を思い出して、思い切って同じフロアのSFのコーナーへ行ってみる。
 私はあまりSFは好きじゃないけれど、友達から「一度読んでみると面白い
かも」と教えてくれたシリーズがある。
 そのシリーズの置いてあるコーナーを見て、ちょっと呆然とする。タイトル
を見るだけも、都合5つのシリーズと、9つのムービーノベライズを抱えた、
初めて見た人が、ちょっと圧倒するようなシリーズだった。
 私も、ちょっと引きそうになった。
 けれどその友人は、お互いの読書の方向性の違いを知っている上で、こんな
風に教えてくれた。

「うん、確かに畑が違うかもしれないけどさ。でも、このネクストジェネレー
ションって呼ばれているシリーズの艦長はディクソン・ヒルを、航法士のアン
ドロイドなんかは、自分がなりきるぐらいに熱心なシャーロッキアンなんだよ。
その二人が彼らになりきりながら、問題を解決していくって話もあるくらいな
んだ。タイトルを教えてあげるから、機会があれば、読んでみて感想を聞かせ
てよ」

 その人は、私がミステリの愛読者だという事を知っていて、感想が聞きたい
からと言って教えてくれたのだ。
 棚にそろっている本をチェックすると、幸いにもそのタイトルの本があった
ので、手にとって少し読んでみる。
 原書で、しかも専門用語に翻弄されたけれど、この時ばかりは、その友人に
嵌められたと思う他なかった。読めば読むほど、キャラクターの匂いが強烈に
出てきて、続きを読ませてとばかりにページをめくっていたからだ。
 これは、もう少しゆっくりと読むべきだと思ったから、買っていく事にした。
 ついでに映画のコーナーで、専門の解説書があった筈だから、これも買って
いこう。

 本屋を出ると、5時少し前。少し喉が乾いてきた。
 この本屋の周辺にある喫茶店は、いまの時間帯はどこも混んでいる筈。
 少し遠くなるけど、気兼ねなく一息着ける所に行く事にする。
 電車で数駅ほど行った所にある、大切なお友達が切り盛りしている喫茶店。
 そこで少し,ゆっくりしてから帰ろう。
 空を見上げると、来るときには快晴だった空が、うっすらと曇っていた。
 家に帰るまで、雨が降らないでほしいな。

 大切なお友達の喫茶店へは、駅から少し歩いた所にあった。
 本当は、お店のすぐ近くに地下鉄の駅があるのだけれど、本屋のある駅から
は、その地下鉄の駅まで直接行く事が出来ないから、仕方がない。
 車の多い表通りを避けて裏通りに入り、少し歩くとそのお店はある。
 「エコーズ」
 それが、そのお店の名前。
 お店まであと一息と言う所で、やっぱり雨が降ってきた。
 周りに雨宿りできる所は……… ない。
 仕方がない、本の入った鞄を雨に濡れないように抱えて、お店に急ぐ。
 アスファルトは、あっという間に黒く濡れ、水を吸った土の匂いがする中を
ひた走る。もう全身がじっとりと濡れている。まいったな。

 カランカラン。バタン!

 急いで扉を開けて、お店の中に入りこむ。普通だったら、こんな恥ずかしい
ことなんてしたくはないのだけれど……… 
「い、いらっしゃいませ……… あ、美咲さん!?」
 聞きなれた声。冬弥君? やっぱりそうだった。ずぶぬれの私を見て驚いて
いる。
「冬弥? み、美咲さん!? どうしたの? 風邪引いちゃうよ?」
 そして……… 彰君。
「み、みさきさん? た、大変! 冬弥君タオルないの!?」
 それから……… 由綺ちゃん………
 なんだか、凄く恥ずかしい所を、みんなに見せてしまった………
「藤井さん、お知り合いの方ですか? ………早く奥にお連れした方よろしい
のでは?」
 ………ほかのお客さんかな? でも冬弥君を知っているようだけど。
 と、とにかく。みんなを落ち着かせないと………
「うん、大丈夫、大丈夫だから………」
 みんな私のことを心配して、私の周りに集まってしまった。なんだかとって
も恥ずかしい。雨に濡れてしまったけれど、私は本当に大丈夫なのに………

 外は雨。まだ大粒の雨が降りつづけている。
 結局、あの騒ぎが落ち着いたのは、由綺ちゃんのマネージャーさんが、全て
を取り仕切ってからだった。
 お店のマスターさんの好意で、濡れてしまった衣服を店の奥で乾かしてもら
い、衣服が乾くまでの替えを、マスターさんが用意してくれた服をお借りして
着こんでいる。
 何故マスターさんが、メイドロボの服を一式持っていたのかは、永遠に謎な
のだけれど………
 いまは服が乾くまでのあいだ、お店のほうで買ってきた本を読んでいる。
 買ってきた本は、どれも濡れることなく無事だった。おかげで服が乾くまで
の時間は潰せそうだ。
 冬弥君の淹れてくれたコーヒーで、幾分ぬくもりを取り戻したのと、すぐに
服を着替えられたおかげで、風邪をひくことはなかった。
 けれど、いま思い返しても凄く恥ずかしい。不可抗力とは言え、騒ぎの原因
を作ってしまったのだから。
 それでも冬弥君達は、気にしなくてくれて良いと言う。
 けれども、私は………
「美咲さん、また自分を責めちゃいけないよ」
 冬弥君が、コーヒーのお替りをそっと差し出しながら、小声でそう言った。
「不可抗力なんだからさ、それに誰もあんな姿のままの美咲さんを、放ってお
けるわけないじゃない。みんな心配だったんだよ」
 ちょっと不器用に微笑みながら、冬弥君が囁く。
「服が乾いたら教えますから、それまではのんびりしててよ、美咲さん」
 そして、今度は少し大きな声で、私に話しかけてくれた。
 お店に備え付けの時計を見ると、もう夜の7時半すぎ。
 けれど雨のせいで、お客は私しかいない。
 由綺ちゃんと、マネージャーさんはさっきの騒ぎが収まると、またお仕事に
戻っていってしまった。けれど、二人の様子を見ていて、由綺ちゃんもまた、
私のことを心配してくれていたのだと痛感する。それと同時に、マネージャー
さんや冬弥君に彰君、そして私……… みんなの力を借りながら、自分の世界
で頑張っているんだなと安心した。
 みんな、みんな、それぞれの分野で、少しづつ、頑張りつづけている。

 外は雨、冷たい雨。時には人の心にも響くつめたさを持っている。
 けれど「雨降って地固まる」と言うことわざもある。
 雨が降っていると、人はやさしくなれるのかもしれない。
 外は雨。冷たい雨。でも心は優しくなれる。それは、雨がもたらしてくれた
魔法のせいなのかもしれない。

 ソトハアメ ツメタイアメ

 でも、心は温かくなれる………
 それは、冬弥君の淹れてくれたコーヒー以上に、心を暖かくしてくれる。

 いまも雨は降りつづける。
 私の心を暖めてくれながら………