鬼跡 (痕SSこんぺ委員会 長編部門参加作品) 投稿者:隼魔樹 投稿日:1月16日(木)23時56分
 ざわり、と木々が揺らめいた。
 自身では動く事すらかなわぬ植物が、まるで気圧されたかのようにざわ、ざわと梢を揺
らす。枝と枝がふれあい、それがやがて大きな音となっていく。
 風は――ない、珍しく今宵はまったくといっていいほど風が吹かなかった。海に出るも
のであれば凪のような、と形容したかもしれない。
 なのに木々は落ち着かなく、それとはまったく逆に森や、木の洞、その下の茂みに、ひ
っそりと息づく動物や鳥達の気配はない。
 日頃から野山を駆け巡る栗鼠から、獣に分類され時には人を襲う狼、猪まで一様に息を
潜めている。
 まるで、何かを恐れるかのように。
 動かないものが動き、動くべき筈のものが動かない。相反する静寂とざわめき。
 異様な緊張感が、この山を支配していた。
 雲間から覗く、上弦の三日月が煌々と光を浴びせるこの山を、人はある名で呼ぶ。

                                 ――雨月山、と――


                                   SS「鬼跡」


 一人の女が瞑目している。
 このあたりでは見かけぬ、どこか異国の装いであろう奇妙な服を纏った、齢二十ほどの
長い黒髪の女だ。少女の面影を残しつつも、顔つきなどにあどけなさはなく、逆に匂いた
つような成熟した色香を振りまいていた。
 雨月山の山頂付近、木々がまばらになり月の光が地面を照らしている。女はその中の一
本の木に寄りかかるように体を預け、じっと目を閉じている。
 そのまま、微動だにしない。
 時折上下する胸の膨らみがなければ、死んでいるのではと勘違いしそうなほど、静かに
佇んでいる。周囲の木々に隠れるように、一切の気配がない。
 静かに……ただ、静かに。
 そのまま、幾許かの時が流れる。
 不意に、女が目を開く。
 深い蒼、全てを見透かすかのような透明な光を宿した瞳だった。
 それが露になっただけで、先程まで完全に周囲に同化し、埋没していた女の気配が力を
取り戻す。目を開くというごく自然な動作だけで、女は強烈な重圧を辺りに振りまいた。
 無視する事など到底かなわぬ、太陽のような圧力。
「――流石だな、リズエル」
 含み笑いを噛み殺したような、男の声が響く。
「どれほど前から気づいていた? これでも姿隠しには多少の自信があったのだがな。驚
いてすらくれんとは、いささか残念だ」
「本当に隠す気があるのならば、もっと遠くから気配を絶ちなさい。少なくともこの山に
足を踏み入れる前から――ね。本気であったとは思えないけど、ユウラ」
 そこで一旦言葉を切り、後ろに目をやる。そこにいたのは一人の若い男。リズエルと呼
ばれた女と同じような装束を纏っている。細面の顔は繊細さを感じさせるが、その瞳の奥
には剣呑な光が宿っていた。
「それと、せめてその濃密な血の香りをどうにかしなさい。自分の居場所を吹聴している
ようなものよ……」
「――おや、これはこれは」
 ふざけているのか、今気づいたとばかりに男――ユウラは自分の体を見やる。その体は
おびただしい量の血で覆われていた。自ら流した血ではない、全て返り血だ。しかも一人
や二人ではない、装束の元色が判別できぬくらいに染め上げられ、まるで最初から真紅の
装いだったように見える。
 確かにこれではいくら気配を隠しても無駄だろう。二人は特別発達した知覚力を備えて
いたが、そんなものを抜きにしてそこらの素人でもすぐに解るに違いない。
「……アズエルとエディフェルは?」
「アタシはここに、姉様」
 リズエルが呼びかけるとユウラの後ろから、若い女が現れた。姉様、と呼んだとおり二
人は血族であるのだろう。短く切りそろえた赤い髪で大分印象が違うが、顔立ちなどの根
本で似た部分が見受けられる。
「エディフェルはもう少ししたら帰るってさ、あいつらの中に気に入った奴でもいたのか
ね――もっとも、全員狩ってきたから意味ないんだけどさ」
 くっく、と笑う。ユウラのように血に染まってこそいないが、その笑いは同質のものだ
った。
 戦う? 殺す? ――いや、相手の命を『狩る』事を楽しんでいる顔。
「その様子だと上手くいったみたいね、私達の討伐隊を狩るのは」
「当然だ。この星の生物は脆い、ラーゴートの爬虫類の様な頑健さも、クレェルの機械人
の様な知略も技術もない。敗れる道理があるはずはない――もっともその脆さ故にこの生
物の命の炎は――格別に美しいのだがな」
「――そう」
 悦に入ったように話すユウラに素っ気無く返すリズエル。
「ならばこの場にももう用はないわ、ヨークに戻りましょう」
「エディフェルはどうするんだい、姉様」
「あの子なら一人でいても心配はないわ、そのうち帰って来るでしょう……行くわよ」
 そう言うとリズエルは跳躍した。特に準備動作も見せずに、高々と。雨月山の木々は歳
を経ており、それに伴い大きく成長している。

                          ――それを、一息に飛び越える――

 がさがさと枝が体を揺らすのをものともせずに、木々の頂を越える。雲間から覗く月明
りに照らされて、後ろになびいた髪を光が映し出す。
 その姿は美しかった、この世のものとは思えぬ程に。
 重力に引かれて降下すると、手近な木の枝を蹴り、また飛び上がる。
 滑るように、空中を走る。
 そうして、僅か数秒でリズエルは二人の視界から姿を消した。
「まったく、姉様はせっかちなんからな、もう少し余韻を楽しんでもいいだろうに……な
あ、ユウラ」
 傍らの男に呼びかけるも、返事はない。
「ユウラ?」
 不審に思いそちらに顔を向けると、心ここにあらず、といった様子の男の姿があった。
 その視線の先にはリズエルが消えた方に向いている。既に彼女の姿はないのだが、空間
に残ったその一素子まで刻み付けるように、じっとそこを凝視する。
「……またか」
 アズエルは苦笑する、この男がこうなるのはいつもの事だ。彼がリズエルを見つめる目
には、特別な意味があること知っている。
 そして同時にそれが絶対にかなわない事も。
「やめときな……と言っても聞かないんだろうね、どうせ。まったく、ここまで行くとほ
んと病気だな」
「……そうだな、病んでいるのかもしれん」
 お、とアズエルは思った。今日はユウラの立ち直りがいつもより早い。
「だが、それを諦めるつもりはさらさらないがな。この病気は本能に直結したものだ、抑
さえようとすれば必然的に歪みを生ずる、それでは面白くあるまい?」
「アンタは……」
「貴様もそうだろう、アズエル。理性を補助とし本能を主とする。理性によって自らを高
め、本能によってそれを爆発させる。そうして我らエルクゥはあるのだからな」
「否定はしないよ、でもね……アンタはそれを出来る立場じゃない」
 半ば諦めを、半ば興味を含んでアズエルは言葉を紡ぐ。
「第一に、姉様はエルクゥの皇族、しかもその長女だ。本来ならアンタみたいな下級戦士
レベルが直接相手に出来る存在じゃない。今は甘く見てくれてるけど、この先もそうであ
るかは保証できないね」
 アタシは例外だけど、と心の中で続ける。当然リズエルの妹であるアズエルも皇族に位
置する。彼女の言葉を肯定するなら、同格の口を叩くなどできない筈だ。だが彼女はユウ
ラの自信に満ちた……言い換えれば不遜な言動を心地よく思っていた。
 よくある話だが、戦闘種族エルクゥにおいても特定の血は尊重される。もっとも人間の
場合とは違い、血による『権威』ではなく『実力』を重んじるのが違いではあるが。
 皇族の次女、ともなれば生まれた時から別格の扱いを受けるものだ。そういった事が嫌
いなアズエルは、自分に対して何の頓着もないユウラの態度は好ましいものに映るのだ。
 故に、今日の『狩り』にも特別に彼を同行させたのだが。
「第二に、エルクゥ同士での殺し合いは禁忌の最上位だ。計画しただけでも死の裁きを受
ける……忘れたわけじゃないんだろう?」
 エルクゥ社会において、異種族は全て獲物――『狩り』の対象である。しかしその反面
同族での殺戮行為は厳しく罰せられるのだ。
 まぁ、当たり前であるが。戦闘本能が過剰に発達したエルクゥが互いに無制限で殺し合
った場合、短期間で種の最低維持数を割り込んでしまうだろう。
 それを防ぐために、最低限の法は必要なのだ。
「無論、覚えてはいる……だが、そんなもので消せる想いでもあるまい」
「本気かい?」
「骨の髄まで……な」
 陶然とした目つきのまま答える。それを見てアズエルは忌々しそうに舌打ちした。

「全く……アタシの気も知らないで……」

                その声は小さく、誰の鼓膜を震わせることもなかった。


 いつからだろう、と彼は考えた。
 どこからだろう、と彼は記憶を探った。
 記憶層の一番奥に残る記憶は、まだ彼がほんの少年だった頃。
 星の海をを渡る前、まだ彼が戦士としての訓練を受けていた時期。
 ひょんな事から彼は皇宮の奥に迷い込んでしまった。
 そこは神秘の場所。
 特に選ばれたエルクゥ以外進入することすらかなわぬ筈だった。
 だが、少年にそんな事が解るはずもなく。
 好奇心のままに彼は歩いた。
 途中邪魔される事もあったが、五月蝿く言う前に殴り倒した。
 そうして、その一番奥まった一室で。
 二つの出会いが訪れた。

「……貴方は?」
 静かに自分を誰何する声に、ユウラは声を失い立ち尽くしていた。
 皇宮の最秘奥、皇族達が生活する区画の一室。
 そこがどこだかも解らず迷い込み、まさか誰もいないだろうと思い扉を開けた直後。一
人の少女が目に入った。
 瞬間、少年はその姿に目を奪われた。
 透き通るような長い黒髪、全てを見通すかのような瞳。体から滲みでるかのような、神
々しいまでの気品。
 少年と同じ頃であろう少女は、生まれながらにして別格のカリスマを持ち合わせていた。
 気位が高いだけの貴族階級のエルクゥなどとは比べ物にならない。自らを誇ることもせ
ず、淡々とただ立っているだけで、辺りの全てを支配する圧倒的な力。

 神秘的すぎる少女。

 生まれながらにしての皇の一族。
 
「貴方は?」
 答えない少年に、少女はもう一度声をかける。それで我に返った少年はごくり、と唾を
飲み込むと、多大な苦労の末に口を開いた。
「……ユウラ」
 麻痺して動かない体を無理矢理動かして紡いだ言葉は、掠れるように辺りに響いた。
 緊張で、いつの間にか背中が汗で濡れている。彼にとっては初めての経験だ、今までど
んな相手と会っても自然体を崩すことが無かったというのに。
 恐怖に酷似した畏怖が少年を襲う。
「ユウラと言うのですか。私は……」
「知っている、皇女リズエル……現女皇の長女だろう」
 相手が自分の事を知らないからと言って、逆もそうであるとは限らない。少年は以前に
はるか遠くからではあったが、一度だけその姿を見たことがあった。
 その時はまだ幼い妹達をつれて、群集に向かって手を振っていた。遠目から見ただけで
はなんとも思わなかったものだが。
「では、貴方が私の側仕えになるのですか?」
 皇族には幼少の時より何人かの側使えがつくのが習わしだ。大抵は貴族階級のエルクゥ
から選ばれるのだが、実力でその地位をもぎ取る者もいる。
 リズエルの母、現女皇の側近であるダリエリの様に。
「……何?」
 鸚鵡返しに問い返す。それに反応して初めてリズエルは訝しげな表情を作った。
「違うのですか? ならば何故貴方はここにいるのです」
「それは……」
 言葉に迷う。単純に迷い込んだだけなのだが、それを言うのはどこか憚られた。
 正直に答えてしまえばいいのだが、妙な意地が邪魔をする。確かに迷うと言うのは間抜
けな事であり、ユウラのプライドがそれを認めることを拒否してもおかしくはない。
(どう言えばいいか……ん? 側仕え……だと)
 その単語に引っかかるものがあった。
「……その前にひとつ聞きたい」
「何でしょうか?」
「今回、側仕えになる奴がどんなのか知っているか?」
 リズエルは少しだけ考えた後、頭を振った。
「見たことはありません、しかし少しくらいなら聞いています。確か貴方と同じ十三歳く
らいの少年だと」
 それを聞いてユウラは納得の表情を浮かべた。
「……やはりか」
「それがどうかしたのですか?」
「そいつならさっき会った……少々撫でてやったら眠りこけたようだ。寝不足だったのだ
ろうな」
 事実は当然ながら違う、
 不審者を見咎めたそのエルクゥがユウラを詰問し、それを鬱陶しく思ったユウラが問答
無用で一撃を喰らわせただけの話だ。
 その時を思い出して少しだけ笑う。
 軽く撫でてやっただけのつもりだったが、反対の壁にめり込む様に派手に吹き飛んでい
た。死にはしないだろうが、当分動くことはできまい。 
(ふん……とんだ晴れの日になったものだな)
 目を覚ました時に起こるであろうごたごたを考えると、愉快だった。想像しただけで口
元が緩む。
「なえほど……では貴方はこれからどうするつもりですか?」
 その表情から事情を読みとったのだろう、苦笑気味の顔を作りユウラに問いかける。
「そうだな……」
 何とはなしに辺りを見渡す。
 今まで気付かなかったが、ここはドーム状のかなり大きな部屋だった。天井は高く、二
十メートルほどもあるだろう。それに比して奥行きも広い。
 少年は人目でこの構造を見抜いた。彼がもっとも気に入っている場所と同じ作りだった
からだ。
 それは即ち練武場。
 血と闘争の支配する心地よい空間だった。
 それを確認した瞬間。

「お前と一戦交えたい……というのはどうだ」 
  
 滑るように、口が意志を形にした。

 どくん。

 心臓が鳴る。
 
 どくん、どくん。

 早鐘のように鳴る。

 どくん、どくん、どくん。
 
 血流が速度を上げる、呼吸が浅く、早く、幾度も繰り返す。
 たった一言。
 一言口にしただけで、ユウラの体は、畏怖に、恐怖に――そしてその先にある歓喜に打
ち震える。
(そうか、そうだったのだな……)
 くく、と笑う。
 リズエルと対峙したときより感じていた緊張。
 それは最初彼女の発する威厳に対する畏れだと思っていた。
 未知の物、神聖な物に対する無意識の恐怖に自分も囚われたと、単純に考えていた。
 しかし、どうやらそれは違ったらしい。
 体はこの奥底から沸き上がるような、衝動は――。
(これも一種の一目惚れと言うべきなのだろうな、どうやら俺は……)

 ――リズエルの……目の前の女の命の炎が見たくてしょうがないらしい――

 皇族を手にかける、その行為がどういう結果を生むか、ユウラは勿論知っている。
 皇族が特別視されるのは宇宙を渡る箱船、ヨークと交信できるなどの数々の特殊能力を
持っているからだ。
 それはエルクゥという種族にとって、無くてはならないもの。
 もしそれを犯せば、想像を絶する過酷な裁きが与えられるだろう。

                           (だが……それがどうした?)

 未来の事などどうでもいい。
 今この身に滾る歓喜、戦いへの渇望、命という炎の織りなす芸術、それに比べればどう
と言うことはない。
 所詮未来は先の話。
 ユウラが生きているのは、あくまで現在という時の流れなのだ。

「……どうだ?」
 期待を込めた目でユウラはリズエルを見据える。
 その目は煌々と激しい光を放ち、全身から闘気を発してリズエルを挑発していた。
「拒否します、私は同族同士で無益な衝突をするつもりはありません。と言いたいところ
ですが」
 ユウラの発する鬼気に臆することなく、リズエルはじっとその目を見つめる。
「貴方はもうそれでは収まらないようですね」
「ああ」
 短く答えて唇を歪める。ユウラは僅かだがリズエルの言葉が早くなっているのに気がつ
いた。彼女もユウラの気に引きずられている。
「それがどういう結果を招くか、知っていますね」
「無論」
 一語一語事に緊張感が高まっていく。
「なら仕方がありません――相手になりましょう、ですが、そのかわり――」
 
「死んだとしても、文句は言わないように――もっとも、死んだ後に喋る口があれば、で
すが――」

                     そうして、リズエルはにこりと微笑んだ。

 ざっと空気が変質する。
 ユウラの発する鬼気は焔の気、辺りを燃やし尽くすまで焦がすことを止めない。
 対してリズエルは水――いや氷の気。全てを凍てつかせ、砕く。
 まさに陰と陽。
 それらが広大な練武場に充満した。
 メキメキと言う音が聞こえる。細胞が組み替えられ、戦闘用の肉体へと入れ替わる。質
量が増し、床にかかる圧力が増す。
 そして。
 相反する二者、もしかしたらそれ故に惹かれあうかもしれない存在が。
 轟音を立てて、激突した。


 いつからだろう、と彼女は考えた。
 どこからだろう、と彼女は記憶を探った。
 記憶層の一番奥に残る記憶は、まだ彼女がほんの少女だった頃
 まだ社会を知らず、世界を知らず、宇宙を知らなかった時。
 ほんの些細な気まぐれが原因だった。
 姉の側仕えになると言う男を見てやろうと思ったのが全ての始まり。
 守り役の目を盗み、皇宮の中をひた走る。
 そして辿り着いた先で。
 彼女は、生涯忘れられない光景を目にする事になった。
 
 思えば、この時から物語の引き金は引かれていたのだろう。

「ん……なんだ、この音?」
 奥から聞こえてくる音に、アズエルは首を傾げた。
 こんな音は、初めて聞く。
 何かがぶつかるような……あるいは打ち合うような、そんな音。
「……なんなんだろ?」
 この辺りに限らず皇宮の壁は、ほぼ全てに防音設備が行き届いている。
 どこかの部屋で何かあったとしても、それが外に漏れることはまず無いと言っていい。
 だから、興味がわいた。
「面白そうだね……行ってみるか」
 装束をなびかせ、タン、タン、と走りだす。
 音の源泉はすぐに解った。何せそこは少女が最初に目指していた場所だったから。
「姉様が何かしてるのかな?」
 近づくほどに、音は激しさを、大きさを増していく。
 それに比するように、アズエルの興味も増大していく。子供らしい好奇心に後押しされ
て、だんだんと急ぎ足が早まっていく。
 それが全力疾走になるのに、さほどの時間はかからなかった。
 そしてその小さな手が練武場の扉を開けたとき。

              そこに広がっていたのは、少女の想像を絶する光景だった。

 宙を舞う。
 ひらひらとまるで踊るように空間を滑る。
 空を駆ける。
 ダン、と重い音を立て、凄まじい勢いで空を走る。
 エルクゥの戦いに場所など関係ない。
 開けた場所なら、その全てを使って。
 閉ざされた場所なら、その障害を打ち壊して。
 ただ、心の赴くままに戦う。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
 ユウラが雄叫びを上げる。
 まだ年若い彼では、完全戦闘体型――最強の獣の姿をとることはできない。
 だが、リズエルは既にその力を完全に使いこなしている。
 圧倒的に、ユウラに不利な状況。
 しかし、彼は引かない。引くことなど考えもしない。
 これは彼が心の底から望んだ戦いだからだ。

                  ――それに自ら水を差すなど、どうしてできようか?――

「はああああっ!」
 自分の体から流れる血飛沫をまき散らしながら、右拳を突き出す。
 既にその腕は獣のそれに変わっていた、分厚い筋肉と装甲のような表皮に覆われ、その
先には剣のような鉤爪を備えた禍々しい腕。
 部分的になら、今のユウラでも体を改変できる。
 唸りを上げてそれはリズエルに迫った。
 横殴りの強烈な一撃、その威力は練武のために作られたこの部屋の壁が、床が身をもっ
て証明している。
 エルクゥの強烈な力に耐えられるはずのそれが、見るも無惨な穴を穿たれている。それ
らは全てユウラの誤爆によって付けられたものだ。
 その威力だけなら、成体のエルクゥを凌駕しかねいない実力を、彼は秘めている。
 その一撃を、リズエルは左腕で受け止める。
 ただガ−ドするだけではなく、自らの左腕を相手の腕に叩きつけるようにして、払う。
 ごうん、と腕同士がふれあったとは思えぬ音。
 その勢いと質量を換算すると、軽く数トンに匹敵するだけの力が、両者の体を揺らす。
 耐えきれず、二人とも吹き飛んだ。
 熟し切った果実が内側から爆ぜるように、逆の方向にはじき飛ばされる。
 リズエルはなんとか空中で体を捻り、体勢を立て直す。くるりと一回転して、足から着
地した。殺しきれなかった慣性が、そのまま彼女の体を後ろへ押しやる。
 ユウラはそのまま吹き飛ばされ、壁に激突する――かに見えた。だが寸前で彼は身を捻
り、着地するのではなく、壁に左腕を思い切り叩きつけた。
 作用と反作用。
 強烈な慣性を中和するように生まれた新たな衝撃が、ユウラの体を受け止めた。壁にま
た新たな大穴を作り、彼は床に降り立つ。
 その腕は少し歪な方向に曲がっていた、だがそれを気にした風もない。これくらいなら
すぐに治る。
 二人の視線が絡み合う。
 既に二人とも満身創痍と言っていい状況だった。
 ユウラは先の傷に加え、全身に鉤爪で引き裂かれた後が残っていた。再生が間に合わな
いくらいの無数の傷。彼が呼吸すると、呼応するように新たな血があふれる。
 リズエルも無傷ではない。直接体へ届いたものこそ無いが、ユウラの拳が、足が、全身
が生み出す衝撃は少なからぬ損場を与えている。衣服もあちこちが千切れ飛び、あられも
ない姿を晒している。
 そこまで緊迫した状況でいながら、二人は――笑っていた。
 ユウラは心の底からの歓喜に打ち震えた、妙に清々しい表情を。
 リズエルは淡い微笑を――憐憫でも同情でもなく、彼女の心の内を示すかのように艶や
かに。
「くく……楽しいな」
「そうですね……」
 短く言葉を交わすと、再び二人は一陣の風となった。
 リズエルがその爪を振るう。横薙ぎに薙ぎ払われたそれは、素早く反応したユウラの腕
にガードされる……かに見えたが、腕同士がふれ合う寸前、リズエルの姿がかき消える。
「ちっ!」
 舌打ちしユウラは後ろを振り向く、正面からの攻撃に見せかけ、一瞬の内に相手の背後
まで回り込む。このフェイントをリズエルは多用していた。故に実は正面よりも背中の傷
の方が多い。
 それを予測し、彼女がいるであろう方向に、見当だけで蹴りを放つ。
 腰が回転し、捻りを加えた蹴撃が唸りを上げた。上下どちらにも変化できる、中段蹴り。
 だが、それは虚しく虚空に消えた。予測した場所に彼女はいない。
 滾るような殺気を抑えようともしないユウラに比べて、リズエルのそれは澄んだ湖面の
ように穏やかだ。戦いの最中とは思えぬくらいに。
 周囲を凍てつかせる鬼気も、その気になれば波一つない水面にまで抑えることができる、
 気配で相手の居場所が掴めない――これほどやりにくいことはない。
「があっっ!!」
 衝撃は上から来た、予想外の場所からだ。首の頸動脈を裂かんとするその一撃を、ギリ
ギリの所でユウラはかわした。しかし空間を裂く――文字通り空間を引き裂くその爪から
逃れきることはできなかった。
 辛うじて引きちぎられはしなかったが、血が噴水となり流出する。後から後から抑え切
れぬマグマのように噴き出る。
 本来ならそこで勝負はついた筈だった。いかに強靱なエルクゥといえど、ここまでの深
手を負って戦い続けることは不可能。
 だが、そんな固定観念をものともせず、ユウラは動く。
 コンマ数秒のタイムラグ。
 着地の衝撃で、ほんの少し動きの鈍ったリズエルの心臓を狙い、剣のような鉤爪を突き
出す。
 当たれば当然の事ながら致命傷。
 咄嗟に身を捻るが、体勢が悪い。かわしきることはできない、あれだけの傷で即座に動
かれるとも思っていなかったのだろう、驚愕に目を見開いている。
 にやり、とユウラは思いきり笑った。
「くうっ!」
 生存本能の赴くままに、リズエルは全力で上半身を回転させ、迫り来る凶器から身を逸
らす。足を曲げ、衝撃を吸収しようとした体勢では不利だ。
 それでも必死で体を動かす。遺伝子レベルで刷り込まれた戦闘本能は何を優先すべきか
をよく心得ていた。
 即ち、それは生きること。
 生き残ってこそ、相手の喉笛を掻ききることができるのだ、死んでしまえばただの肉塊、
そんなものに価値はない。
 ぶちぶち、と無理な機動に筋繊維が音と立てて引き千切れる。
 最後まで諦めなかったことが、リズエルを救った。凶器となった拳は、狙いを僅かにそ
れ、左肩を食い破る。
「っっっっあああっ!!」
 リズエルが苦鳴を上げる。左腕は当分使えまい――もっとも命の値段と比較すれば、こ
ちらの方が遙かに安い。
 苦痛の声を上げつつも、リズエルの瞳は冷静だった。独楽のように回転する形となった
体を利用し、そのまま右脚をユウラの体に叩きつける。
 カモシカのような脚が、ユウラの横腹にめり込む。
 メキャと言う音は口にの代わりに体が上げた悲鳴だったろうか。
 吹き飛び、壁にめり込む。今度は衝撃を殺すことすらできない、まともに激突する。
「はぁ……はぁ……ぅ……はぁ……」
 リズエルの口から苦しげな呼吸が漏れる。痛みと想像を絶する運動で肺が新鮮な酸素を
求めているのだ。
 しかし、瞳はじっとユウラが倒れている場所を見つめている。彼がこの程度で倒れはし
ないと知っているかのように。
 そして。
 その予想はあらゆる意味において正しかった。


「…………………………ぁ」
 小さく、アズエルは息を呑む。ごくりと唾を飲み込んだ喉がひりひりと痛んだ。緊張で
乾ききった喉には、僅かな水分では癒しにならない。
 目の前で起きている光景が、信じられなかった。
(何……なんだよこれ……アイツ……誰だ……?)
 アズエルは知っている、一番上の姉がその物腰とは裏腹の、凶暴な力を秘めていること
を。
 アズエルは知っている、練武の相手として選ばれた、選りすぐりの成体エルクゥを、姉
が軽く一蹴したことを。
 それだけに、信じられなかった。
「姉様と……互角に戦ってる?」
 まるで現実感がなかった。
 これがダリエリなど、精鋭中の精鋭であれば、まだ納得できたかもしれない。しかし今
姉と戦っているのはアズエルとも、リズエルともそう歳が変わらない少年。
 アズエルが目を疑うのも、無理はないだろう。
 その視線の先で、少年――ユウラが身を起こした。全身を首から溢れる血で染めながら
少しも戦闘意志を失っていない。
 その瞳は爛々と輝き、限りない喜びに満ちている。
 唇は笑みの形に彩られ、あの姉を――リズエルを畏れてはいない。
「あ……」
 どくん、と体の中で何かが動いた。
 あんな瞳は見たことがない。
 不屈の闘志、決して媚びぬ鋼のようなまなざし、そんなものを見たのはアズエルは初め
てだった。
 崇拝の視線なら、何度も浴びせかけられた。欲に満ちた厭らしい視線や、嫉妬の視線な
どに晒されたこともある。
 だが、あの輝きはそんなものとは次元が違った。
 それを単純に、純粋に――アズエルは凄いと思った。
(アタシも……あんな風になりたい……)
 知らず、拳を握りしめる。じっとりと滲んだ汗は恐怖ではなく武者震いによるもの。
 二人の行動の全てを見逃すまいと、無心に見つめる。が、視線の隅に邪魔が入った。皇
宮警備の任に当たるエルクゥが、数人、こちらに向かっている。
 アズエルが扉を開けたことで、音はより大きく響いている。それを聞きとがめたのだろ
う。あるいは、ユウラが叩きのめしたエルクゥが目覚めたのかもしれない。
 ち、と心の中で舌打ちする。無粋な邪魔に入って欲しくはない。
 アズエルの側まで来たエルクゥ達は、口々に喋り出す。
「アズエル様! これは一体何事ですか!?」
「侵入者があるとの報告を受けています、ご無事ですか!?」
「おい……あれを!」
「!? リズエル様と……誰だもう一人は! しかもあのお姿……!!」
「いかん、二人を引き離せ! 皇宮の奥深くまで進入し、あまつさえ皇族に手をかけるな
ど。断じてさせてはならん!」
「おう! 行くぞみな――!!」


                                    「黙れ!!!」


 その一喝に。
 その場にいたエルクゥ達は、全て凍り付いたようにその体を止めた。
「介入は無用だ、誰もこの戦いに手を出すな!」
 凛とした口調で、命令を下したのはアズエル。まだ幼い少女とは思えぬ威厳を纏ってい
る。その姿を見て警備の者は一様に思った――まだ年若いとはいえ、確かにこの少女はエ
ルクゥの皇族であるのだと、あのリズエルの妹姫であるのだと。
「し、しかしそれでは我らの責が――それにリズエル様にも危険が」    
 一人が勇気を振り絞り、抗弁する。
「不用だ。あれくらいでどうにかなる姉様じゃない。それに――アタシの命令が聞けないとでも?」
「しかし……」
「この戦いはアタシが預かる、いいから誰も手を出すなっ!」
「……はっ」
 激しい口調で命令するアズエルに、エルクゥ達は 不承不承、引き下がった。
 それを見届ける暇さえ惜しみ、アズエルは練武場に視線を戻す。そこでは、最終局面が
迎えられようとしていた。


                                 はあ――はあ――

                                 くく――はぁ――

 荒い息と歓喜の笑み、その二つを同時にユウラは浮かべた。
(そうだ……これを見たかったのだ……!)
 魂が織りなす命の炎、その輝きの深奥を、ユウラは垣間見ていた。
 ゆらゆらと燃ゆる、リズエルの青白い炎。
 常に形を変え、一定の形を取らない。呼吸と共に揺らめき、動作と共にぱちぱちと爆ぜ
る。生きた炎。
 リズエルの胸の奥に生まれたその炎を、ユウラは恍惚と見つめていた。
「……満足ですか?」
 起きあがったリズエルが、問いかけてくる。それを聞いてふと思った。自分の命の輝き
はどんな色を、形をしているのだろう、と。だがそれを自らは見ることはできない。
 ――もしかしたら、そのもどかしさが、この衝動に繋がっているのか?――
 埒もないことを考える、だがあながち的外れでもないだろう。他人の命を燃やせられる
と言うことは、自分の炎を燃やすことに繋がるのだから。
 もしかしたら、自分は鏡を欲しているのかもしれない――そんな馬鹿なことを考える。
「……いや、まだまだだな」
 そう、まだ頂点には達していない。今までも素晴らしい時間では会ったが、これからの
数秒には遠く及ばないだろう。
 その先を想像するだけで歓喜にわななく。肉体の痛みなどそれを装飾する飾りにすぎな
い。
「……そうですか」
 その一言だけで全てを察したのだろう、リズエルが構えをとる。左腕は深手のため使え
ないが、二本の脚は健在だ、その機動力はいささかも衰えていない。
 ぽたぽたと鮮血で床を濡らしながら、ゆっくりとユウラが前に出る。一歩、二歩。そこ
で彼は歩みを止める。
 一触即発――そんな生易しいものではない、とアズエルは旗から見て思った。
 殺気は剣となり、闘気は槍となり、鬼気は爪となり互いに相手の体を切り刻んでいる。
そんなイメージ。
 少しでも隙を見せれば、それは現実となるだろう。
 それが、さらに密度を増していく。
 想像の中で、二人は互いに幾百、幾千となく殺し合っている。それは極めて精巧な近未
来のシュミレート結果。
 不確かな均衡。
 壊れることを予定調和として受け入れた、危ういバランス。
 先程までの轟音が嘘のような静寂。
 そして。
 ついにそれが音を立てて壊れる時が来た。

 リズエルが飛び上がる、まるでその背に羽が生えたかのように、ふわりと飛び上がる。

 ユウラが地を駆ける、床を破砕する勢いで疾駆、飛び上がったリズエルの真下に入る。

 くるん、と一回転してリズエルが天井に着地する。吸い付けられるようにゆっくりと降
り立ち――次の瞬間、凄まじい勢いで天井を蹴る。

 ユウラが床をダンと踏み抜く、めり込んだ脚はその体を床に縫いつけた。これなら何が
あっても倒れることはない。
 
 一瞬の交錯、百分の一秒単位で幾度めかの死線が交錯する。

 それから一秒も立たない内に、勝敗という名の決着は決定していた。

 凄まじい勢いで空より来る狩人を、地上の狩猟者が迎え撃つ。見る見る距離が縮まる。
五メートル、二メートル、一メートル。
 ゼロ。
 フェイントも何もない、単純な一撃。その爪をリズエルは振るった。自分の体重、加速
度、重力による付加までを加えた、彼女の破壊力を最大限にまで高めた一撃。
 それをユウラは真っ向から受け止める、その体でもって。胸板を爪が切り開き、ずぶり
と音を立て異物が体の中に進入する。苦痛の粒子が肉体を駆けめぐり、鋭利な刃が心臓ま
で後一歩と迫る。
 だが、同時にユウラの爪がリズエルを捉える。加速度がついた事が仇となり、いとも簡
単に肉を抉った。びちゃ、と滴る血がその頬を濡らす。
「………………………………………………」
「………………………………………………」
 互いに致命傷の数ミクロン手前で、体が止まる。後少し何かがあれば――それこそ少し
だけ爪を捻れば相手に死を与えれると知りながら、その余力はない。
 既に、二人は意識を失っていたから。
 崩れ落ちるリズエルの体を、ユウラが抱き留めるように支える。床に縫いつけた体は、
意識を失ってなおびくともせずにその体重を支える。
 こうして。
 幼き日の出会いは終わりを告げた。
 三人の子供に消える事のない軌跡を――あるいは痕を残して。


「懐かしい夢……だね」
 自室のベッドに横たわり、身を起こすこともなくアズエルは呟いた。
 あの後、すぐに医療室に運ばれ治療を受けた二人は、奇跡的に後一歩の所で死を免れた。
だが、本当に問題だったのはその後だ。リズエルを挑発し、戦いを挑んだのはユウラであ
ると事が判明したためである。
 何より、ユウラにそのことを隠す気がないのが問題だった。質問されれば求められるま
まに事実を話した。
 当然、ただですむ筈がない。即日死の裁きが降りようとしたが。
 それをアズエルが止めた。
『こいつはアタシの側仕えにする。丁度アタシもそろそろ欲しいと思ってたからね』
 そう言って強引にユウラを助命した。強権に頼るのは彼女の本意ではなかったが、ユウ
ラを救うにはそれしかなかった。
 そこまでしたのはただ――あの瞳を見ていたかったから。
 あの強さの源泉を知りたいと思ったから。
 あれから数年――その想いは別の方向へと進化を遂げようとしていた。
「ユウラ……」
 その名を呼ぶと、ちくりと胸に痛みが走る。最近、こう言うことが多い。
「物思いに耽るなんて、アタシらしくないんだけどなぁ……」
 誰にともなく一人ごちる。
 こん、こん。
「……誰?」
 不意に響いたノックの音に、顔も上げずに返事をする。
「私よ、少し話したいことがあるの……入るわね」
「……姉様?」
 部屋の主の承諾を待たず、リズエルが入り込んだのを見て驚く。本来、ここまで彼女は
性急な達ではない。それを見てアズエルは、何か不測の事態が起きたことを悟った。


 木々の間を飛ぶ。
 下草を踏みつぶしながら地を駆ける。
 アズエルの走りは直線的だ、邪魔するものがあればなぎ倒す。それは男のエルクゥの行
動に近い。周囲に被害を与えないように配慮する、リズエルやエディフェルのそれとは明
らかに違う。
『エディフェルが戻ってこないの』
 二十分程前のことを思い出す。開口一番姉はそう切り出した。
『この星の暦でもう十日も時間が過ぎたわ、この間あなた達と一緒に討伐隊を狩ったとき
以来、その姿を見ていないの……何かあったのかもしれないわ』
 考えすぎだ、とアズエルは思った。ヨ−クがこの星に不時着してから、短くない月日が
たってる。その間の調査で、この星にエルクゥに匹敵する武力を持つ生命体は存在しない
事が判明していた。
 しかし、一方でエディフェルが帰らないのも事実。
 この星に降りたエルクゥのリーダーとして、また姉妹の長姉としてリズエルが妹の心配
をするのも無理はない。
 だから、エディフェルを探して欲しいと言う姉の頼みを、アズエルは二つ返事で引き受
けた。何もないだろうが、気晴らしには丁度良いと思ったからだ。
「……っと、こっちだな」
 目印も何もない森の中で、彼女はまるで目的の場所を知っているように歩みを進める。
 エルクゥは個体間の共感能力を持つ。離れていても何となく相手のことが解るのだ。姉
妹ともなれば相手の場所を見抜くぐらい簡単なこと。
 その導きに従う。反応は近かった、もうすぐそこに妹がいる。
「しかし……何やってんのね? あいつは」
 アズエルには妹の意図が読めなかった。確かに無事ではあるのだが……。
 しばらくして森が途切れる。
 その先には開けた空間が広がっていた、沢も見える。森の中に開いた小さな空間はひっ
そりと住むには丁度いいのだろう。沢から川の幸を、森から山の恵みを充分に受けとれる。
それを裏付けるように朽ちかけた庵と、畑が見えた。以前にもここに住んでいた者がいる
のだろう。
「いや……あれは今でも住んでるね」
 庵からは煮炊きの名残らしい煙が上がっている。誰かが住んでいる確かな証拠だ。
「物好きだね……この辺りにいたらいつアタシ達に狙われるかもしれないのに」
 まさか知らないわけはあるまい。既に二度もこの星の生物――人間から討伐隊を送られ
ているのだ。巷ではさぞや恐れられていることだろう。
 そんな事を考えていると、庵の扉が開いた。どこかで見た人間の男と――。
(エディフェル!?)
 続いて現れたのは、彼女の妹だった。
 目的の人物はあっさりと見つかった、特に怪我をしている風もない。姉から与えられた
任務は達成されたといっていいだろう。
 だが、何故エディフェルが人間と一緒にいるのか?
 その答えはない。一瞬虜にされたかとも思ったが、そんな戦闘能力を人間が持っている
はずはないと思い直す。
(いや、それにしちゃ……あの男から感じる気配、アタシ達に似てるね)
 事情を聞く必要があると、アズエルは判断した。心の中で妹に呼びかける。

『エディフェル』
『……そのお声はアズエル姉様ですか?』
『ああ、今近くまで来てる……これがどういうことか解るな』
『……はい』
『とりあえず事情を聞かせな、アタシの位置は解るだろ』
『解ります……それで……あの……彼に……次郎衛門に手出しは……』
『ふん……ジロ−エモンって言うのかアイツは……安心しな、とりあえずは手出ししない
よ。とりあえずは……ね。早くきな』
『解りました……
 
「……どうしたのだ?」
 不意に動きを止めたエディフェルに、傍らの精悍な男――次郎衛門が訝しげな声をかけ
る。 
「いえ……特に何も。私は昨日しかけた罠に何かかかっていないか見てきます」
「む、解った……しかしいやに性急だな?」
「ふふ……ちょっとついでにこの辺りを散歩してこようと思って」
「なるほど」
 納得の笑みを次郎衛門は浮かべた。
「確かにお前にとってあの庵は窮屈だろうな、今日は思い切り羽を伸ばして来るがいい。
まぁまず危険はないだろうが……一応気を付けて、な」
「……はい」
 気遣いが嬉しかったのだろう。うっすらと頬を赤く染めて答えると、エディフェルはた
んと跳躍してその場を後にした。
「さて、水でも組んでくるか……ふふ、この俺ともあろう者が、こんな穏やかな時を持て
るとはな……エディフェルには感謝せねばなるまい」
 そう言うと次郎衛門はゆっくりと沢に向かった。
 一時の安息――それが以下に脆いものであるかを、彼は知らない。愛する者と一緒に過
ごして行く日々を、このまま続けていけると思っていた。
 今は、まだ。


「さてと……説明してもらえるんだろうね」
「はい」
 森の中、木々に持たれかた状態で、アズエルは話しかけた。日は既に中天に昇り、心地
よい陽射しが葉と葉の隙間を縫って降り注ぐ。このまま寝ることができれば、さぞや気持
ちがいいだろうと思わせる天気、
 だが、それとは裏腹にアズエルの声にも、エディフェルの声にも緊張が見え隠れする。
二人とも眠気など感じている余裕はない。、 
「あの人……次郎衛門は、この間私達が狩った討伐隊の生き残りです」
「なる……」
 道理で見覚えがあった筈だ、とアズエルは思った。あの夜――アズエルとユウラとエデ
ィフェルの三人で二十人を越える討伐隊を狩った。その中の一人であれば、顔ぐらいは合
わせているだろう。
「で、何でアイツは生きてる? あの時にゃ全員とどめさしたと思ってたんだけどね……」
「はい、確かにあの時は致命傷でした」
「矛盾してるね、あの時死んでたなら今生きてる筈がない。大方アンタが助けたんだろ?」
「……はい」
 小さく頷く妹を見てアズエルは苦笑した。物好きな事だ、とも思う。彼らにとっては自
分達は天敵に他ならない。助けたところで逆に恨まれるのがいいところだろう。
「やれやれ……で、なんでそんなことをしたんだ?」
「それは……」
 瞬間、エディフェルの顔が赤く染まり、俯く。一瞬何事かと思い、慌ててアズエルは身
を起こした。
「どうした!? どこか悪いのか!?」
「………………………………いえ、大丈夫です」
 少しの間を置いて帰って来た言葉は、以外にしっかりしていた。顔色も単に赤くなって
いるだけで特に調子が悪そうな所もない。何かこにの星独自の土着病にでもかかったか、
と危惧していたアズエルは、ほっと息をつく。
「ふぅ……それならいいんだけど」
「すみません、心配させて」
「ああ、気にしないでいーよ。アンタが元気でいてくれるなら、それでいいんだから」
「ふふ……ありがとう御座います」
 空気が柔らかくなる、今のやりとりで両者の緊張がほぐれたようだ。そうなれば元は仲
睦まじい姉妹。事を構える理由はない。
「やれやれ……にしてもそんな態度とるって事は……さてはアイツに惚れたな」
「……………………………………………………………………………………………………」
 からかい混じりに言うと、エディフェルは再び顔を真っ赤にして俯いてしまった。顔か
ら湯気が立ちそうな程紅潮している。
「ありゃ、図星?」
「………………………………………………………………………………………………はい」
 蚊の泣くような小さな声でエでィフェルは答える。普段感情をあまり見せない妹の反応
をアズエルは面白いと思った。
「やれやれ、姉二人を差し置いて、よくもやってくれたね。リネットもこれを聞いたらど
う思うかな」
「あの……それは姉様達には迷惑をかけたと思ってますし、リネットにも、その……」
 くっくっと含み笑うアズエルに、エディフェルは必死で抗弁する。
「ああ、冗談冗談。アタシも姉様もリネットだって、別に何も言わないさ。むしろ喜ぶん
じゃないのかね。エディフエルが初めてアタシら姉妹以外に興味を持ったんだから」
「もう……」
 苦笑する妹に、優しい目を向ける。同時にちくり、とまた心のどこかが痛んだ。その瞳
を――幸せを零れ落ちそうなくらいに一杯に湛えた輝きを――直視てしまったせいだろ
う。
(アタシも、あんな風になれるのかな……)
 一人の男の顔を思い浮かべる。無愛想で、傲岸で、不遜で――でもその揺るぎ無い自信
に満ちた態度に心轢かれる。
 ここ数年で、ユウラへの想いは確かな恋心に形を変えていた。
 それをアズエルは自覚している。
 同時に、ユウラの気持ちが自分ではなく姉に向いている事も理解していた。
 それでもこの想いは止められそうにない。いつか――エディフェルのように幸せな顔に
なれる日が来るのだろうか?
「……アズエル姉様?」
 考え込むような素振りを見せた姉に、エディフェルが不思議そうに呼びかける。
「ああ、何でもないよ。しかしあの男……よく生き延びたもんだね、あのままだと絶対死
ぬと思ったけど……何か特別な方法でも使ったか?」
 話題を逸らそうと、特に他意もなく口にした言葉は、しかし劇的な効果をもたらした。
 
                        一瞬で、エディフェルの顔が青ざめる。

「エディフェル、どうした……? …………まさか!?」
「……………………………………………………………………………………………………」
 自分の言った言葉と妹の態度、その二つが脳裏で組み合わさる。最悪の予想がせり上が
る。吹き抜けていく風がまるで心を映したかのように、激しく梢を揺らす。

「アンタ……まさか……あの男を助けるために、自分の血を使ったっていうのか!!?」
 エディフェルは何も答えない。その沈黙こそが雄弁な回答だった。

「なんて……事を……」
 絶句する。
 狩りの対象を交流すること、これ自体は特に禁忌ではない。物好きなと思われることは
あっても苦笑と共に片づけられてしまう類のものだ。
 だが相手に血を与える――エルクゥとしての力を与えること、これは同族殺しにも匹敵
する禁忌なのだ。
 特に皇族ともなれば、その力の源泉は血によるところが多く、神聖視すらされている。
それを異種族に――よりにもよって狩の獲物に与え、救ったなど。
 絶対に許されるはずがない。
 もしこの事が露見すれば各自にエディフェルは――処刑される。
(道理で、あの男……妙にアタシ達に似た雰囲気を持ってる筈だ……)
 ぎり、と心の中で歯軋りする。黙っていればばれないと言うのは浅はかな考えだ。エル
クゥ同士の共感能力。これがある限りどう取り繕ってもいずれ事は明るみに出る。
 回避する方法は、一つしかない。
 厳しい顔で、アズエルは庵の方を見つめた。今ここであの男を殺す以外に、エディフェ
ルが助かる道はない。

                     だが、その前にエディフェルが立ちはだかった。

「……どくんだ」
「できません」
「どくんだ!」
「できません!」
 アズエルは、妹がこんな大きな声を出すところを見たことがない。それだけ強い思いな
のだろう。
 だが姉として、みずみす妹が殺される原因を放っておくわけには行かない。
 ごう、と鬼気を解放する。ばさばさと木々がざわめき、我先にと小動物達が逃げ出して
行く。穏やかな空気は完全にかき消え、緊迫の微粒子が辺りを満たす。
 それでもエディフェルは引かなかった。逆に自らも鬼気を放出している――あくまでア
ズエルを封じる構えだ。
「……どうしても、どかない気か」
「はい、次郎衛門を殺させはしません」
「そのために危険になるのエディフェル……お前なんだぞ」
「理解しています」
「なら……もう一度だけ、言うよ。どきな……アタシは姉様の代理として、なにより姉と
して、アンタを殺させるわけには行かないんだ」
 ざく、と大地を踏みしめて一歩を踏み出す。乾いた地面が足の形に陥没した、既にアズ
エルは戦闘体勢とっている。
 これ以上は聞く耳を持たない――行動で示した解答を、エディフェルは自らの体でもっ
て抑えこむ。
 
           「もしそれ以上歩みを進めるなら――アズエル姉様、貴方を討ちます」

 ぴたりと、アズエルの足が止まった。

「本気か」
「はい」

 短いやりとり、それだけに互いの激しい意志がぶつかり合う。視線が火花を散らし、互
いに眼を凝らし睨み合う。

 そのまま。どれだけの時が過ぎただろう。
 痛々しい沈黙は、第三の侵入者によって破られた。

「……何をしている」
「お前は……」
「次郎衛門……」
 二人の視線が同時に侵入者の方を向く、そこには厳しい顔をした次郎衛門が立っていた。
既に腰の刀に手が伸びている。いつでも抜ける体勢だ。
「貴様……あの時の鬼の娘か」
「ふん……また会うことになるとはね、死に損ない。こんな事になるなら、あの時きっち
り殺しておけば良かったよ」
「何をしに来た」
 その問いにアズエルは揶揄するような笑みを浮かべる。
「はん……解らないのかい? アンタを殺しに来てやったんだよ……それと、エディフェ
ルにを迎えにね」
 
 瞬間、次郎衛門の刀が閃く。

 神業のような速度で放たれた刃は、アズエルの首筋でぎりぎり静止していた。

「次郎衛門!」
 エディフェルが悲鳴のような声を上げる。首筋に突きつけられた刃は、その気になれば
一瞬でアズエルの命を奪うだろう。
「エディフェル……何者なのだ、この鬼の娘は」
「私の……姉です」
 次郎衛門が息を呑む、しかし首から下はまるで彫像のようにアズエルを狙ったまま動か
ない。
 その様子も見てアズエルはちっと心の中で舌打ちした。
(攻撃が完全には見えなかった……きっちりエルクゥとして覚醒してるってことだね……)
 蘇生はしたが、エルクゥとしての力は受け継がなかった――そんな都合のいい願望は、
脆くもうち砕かれた。
 もう一度、エディフェルに視線をやる。
 強い視線が引く気が無いことを雄弁に物語っていた。
(説得は無理……かといって二人相手に勝ち目はないか……)
 アズエルとエディフェルの実力は伯仲している。そこに新たな要素――エルクゥの力を
得た次郎衛門が加われば、どうやっても勝ち目はない。これが下級戦士ぐらいの実力であ
ればともかく、侮れない実力を持っているのは、先刻の斬撃が証明している。
 ならば。
「ふん……二体一か。こうなるとアタシに分が悪そうだね、今回は引いてやるよ」
 首に突きつけられた刃を握りしめ、ゆっくりと引き剥がす。素手で握っているのに少し
も血が零れようとしない。
「それが賢明と言うものだろうな」
 次郎衛門もそれ以上刀に力を込めはしない。
「だが覚えておきな……いつか誰かがエディフェルを迎えに来る。その時に話し合いで解
決できるなんて思わない方ががいいよ」
 捨てぜりふとも取れる言葉を残し、飛び上がる。
「せいぜいその間に対策でも考えておきな……」
 その言葉を最後に、アズエルは二人の前からかき消えた。


(……あれだけ言っておけば、当面は何とかなる……といいね)
 二人から少し離れたところで、アズエルは心の中で呟く。
 エディフェルを連れ戻すことも、次郎衛門を殺すこともできなかったが、アズエルが姿
を見せたことが結果的にはいい警告になるだろう。
 あの時はああ言ったが、次郎衛門を殺すのは本意ではない。妹が本気で惚れている相手
なら、誰であれ祝福したかった。
(アタシは当分無理そうだしね……)
 苦笑。ユウラと添い遂げるのは、それが可能だとしても当分先になるだろう。
 なればこそ――せっかくの幸せを得た妹の邪魔をしたくはない。
(リズエル姉様と相談しないとね……)
 急ぎ善後策を練らなければらない。事によったら、二人を密かに逃がす必要も出てくる
だろう。
 だが、時は既に遅かった。
 偶然にも、アズエルより早くエディフェルと次郎衛門を見つけたエルクゥがいたのであ
る。
 アズエルが対処するより先に――エディフェルの行為は、地球に降りた全エルクゥの知
るところとなってしまったのだ。


「絶対に許すわけにはいかぬ!」
 数刻後、ヨークの一室では有力者を集めた会議が行われていた。議題は勿論エディフェ
ルの事である。
 貴族階級のエルクゥの一人がつばを飛ばしながら喚くのを、ユウラは醒めた目で見つめ
ていた。彼は身分こそ低いが、アズエルの側仕えであることから列席を許されたのだ。数
あわせという側面も強かったが。
(どうでもいいことでよく怒鳴る……)
 今回の事を特にユウラは問題とは思っていない。元々自身が無法者のような気質を持っ
ているのと、現状でレザムに帰る手段が無い以上、人間と交わるのも一つの選択肢だから
だ。
(それよりも……)
 ちらりと上座にいるリズエルを見やる。彼女は俯いてじっと何かを堪えるように何も言
わない。
(ちっ……)
 小さく舌打ちする。この星に降りてからと言うもの、リズエルはすっかり精彩を無くし
てしまった。以前と同じように振る舞ってはいるが、ユウラから見れば演技であるのがあ
りありと解る。
 この星から出ることのできない責任を感じているのだろう。だとしてもそんな姿をユウ
ラを見たくはなかった。気落ちは彼女の炎を鈍らせる。
 それでもこの星に降りて月日がたち、最近は多少マシになってきていたのだが――今回
の事件で、また振り出しに戻りそうな気配だ。
 つまらなかった。
 初めて彼女と会った時のような、あの輝きをもう一度も見たいと思った。
 しかしリズエルはこの一団の長である。望んでも立場がそれを許さない。無理矢理に事
を起こしても横やりが入るばかりで、満足に戦うことすらできまい。
(何か無いか……あの女と全力で戦う手段が……)
「ユウラ、主はどう思う?」
「……ん?」
 物思いに耽っていたユウラは、リズエルのお目付役として同行し、この場の議長となっ
ているダリエリの声で我に返った。周りを見る。どうやら多数決でエディフェルへの裁き
を決めようとしているようだ。
 今のところ勢力は同数、エディフェルが皇族であることから慎重論も多いらしい。
「そうだな……」
 反射的にどうでもいいと答えそうになったところで――ふと、一つの考えが頭に浮かん
だ。

 もしここで反対し、エディフェルの死が決まれば、その憎悪は自分に向くのではないか?

 憎悪をその体に満たし、自分を狩らんとするリズエル――その姿を想像するだけで心が
沸き立つ、震える。
 発言するのはもう自分しかいない。つまりは、事実上決定権はユウラにある。
 アズエルが、必死に懇願するような目を向けていた。彼女はエディフェルを助命してく
れと言うのだろう。
 そしてリズエルもまた、縋るような目をユウラに向けていた。そんな彼女を見たのは初
めてだった。
 
 それで――ユウラの心は決まった。

                  ニヤリと笑い、答える。

「そうだな……やはり殺すしかあるまい」

 かくして、エディフェルの処刑が決定した。皇族であることから、リズエルの手で裁き
を下すこととなる。


「ユウラ!」
 満面を朱に染めたアズエルが迫ってくるのを見ても、ユウラは特に驚かなかった、むし
ろここで彼女が何も言ってこない方がおかしい。
「言いたいことは解るぞ」
「黙れよ! 何で反対しなかった!? アンタのせいでエディフェルが……!」
 烈火ような剣幕で詰め寄る。
 それを見てユウラは彼女を好ましいと思った。今のリズエルにこれほどの活力あれば、
あのような手段を画策せずともすんだかもしれない、などと考える。
 そして何を馬鹿な、と笑った。
 そんな言い訳をして何になる、これを望んだのはあくまで自分の――ユウラの身勝手な
のだ。それを他者になすりつけるなど、無様を通り越して滑稽と言うべきだろう。
「何がおかしい!」
 その笑いを自分への挑発ととったか、アズエルがさらに怒りを深める。
「ふん……なんでと聞いたな? 答えてやろう」
「……言えよ」
 一拍の間をおいて、ユウラは言葉を発する。

    「リズエルと戦う機会を作るため――それ以上でもそれ以下でもない」

「なっ……」
 絶句するアズエル。さらに畳みかけるようにユウラは言葉を繋ぐ。
「今のお前の反応でよく解った。あの女はその任を確実に果たすだろう。だがその後は?
そのまま妹を手に掛けて終わりか? ――否。それで済むわけがない。噴出した感情は駆
けめぐり体を焦がす。その時に俺がこの事を話せば――」
 唇を歪める。

            「あの女は、間違いなく俺を殺しに来る」

 その言葉が終わった瞬間、ユウラは凄まじい勢いで後方に吹き飛ばされた。
「なんで……なんだよ」
 小さく、消え入るような声。ユウラを吹き飛ばしたその体勢のままでアズエルは言葉を
紡ぐ。
 ぽたりと、床を雫が濡らした。
 涙。
 熱い液体がぽたぽたと瞳から零れている。頬を伝い、首を渡る。そのまま重力に引かれ
落ちる、幾つも、幾つも。

「いつもいつも姉様姉様って……アンタにはそれしかないのかよ! 姉様と戦うためにエ
ディフェルまで犠牲にして、自分の命までダシにして……なんで、そこまでするんだ!!」

 涙に濡れた声で絶叫する。ユウラの言葉が心の深奥からでた言葉ならば、アズエルの叫
びは心の深遠から出た迸り。

 それに、静かにユウラは答える。頬を殴られ、口から流れ出る血を拭おうともしない。
「……お前の気持ちは知っている」
 立ち上がりながら、ユウラは話す。もう何年も共にあるのだ、アズエルの気付かぬはず
がない――ずっと気付かぬ振りをしていたのだ。

「お前は俺に近い、共にあると心地がいい。おそらく相性という点から見れば誰よりも俺
と引き合うだろう――だがな、お前が俺に好意を寄せるように、俺もリズエルへの想いを
止められはしない」

 目を瞑り思い出す。初めてあったあの少女を、あの時の痕は今ではもう無い――しかし
心には未だ鮮明に焼き付いているのだ焦がれと言う痕が。
「刹那的と言われようと、なんと言われようと、どうでもいい。俺はあの女の命の炎を見
たい、燃え続ける炎を見たい。あの日からそのために生きている――そしてその炎が衰え
るなら、もう一度火をともす」
 アズエルは何も答えない。
「お前とある時は楽しかった。お前の我がままに振り回されるのも、ぶつけてくる生の感
情も心地よかった……だがな、俺達はあまりに近すぎる」
 すすり泣きが聞こえた、アズエルの心が引き裂かれていくのが解る。ざくりとユウラの
心も千切れるように痛んだ。先程の言葉は嘘ではない、本当にユウラはアズエルに好意を
抱いている。
 肉親のような、決して愛には変わらぬ情愛を。
「俺から言うのはそれだけだ……」
 言い終えると、アズエルの方をそれ以上見ようともせず、歩き出す。
 アズエルは、追ってこなかった。

          ――ここに、一つの物語が終わりを告げた――


 その夜。
 ユウラはエディフェルが住んでいると言う庵の近くに来ていた。これから裁きを下すリ
ズエルの見届け役として。
 気分はこれ以上無いほどに高揚していた。
 既に別のエルクゥの一団が次郎衛門を誘い出し、リズエルはエディフェルを呼び出しに
成功している。遠からずして決着はつくだろう。
 その後どうなるか――ユウラにも想像はつかない。しかし恐ろしく甘美な一時になる事
は確信できた。
 月は満月、空には星が瞬き、風がざわめいている。いつかの夜のように動物達は気配を
殺し、嵐が好き去るのを待っている。
 人の形をした獣、獣の形をした鬼の嵐を。
 空気が冷たくユウラを包む、彼は知らなかったがこの季節を人は秋と呼ぶ。そしてこの
時の満月は中秋の名月と呼ばれる。
 言葉は知らないが、ユウラもこの光景を美しいと思った。目に焼き付けるように佇む。
 風が吹き抜ける。
 少し伸びた髪をさわさわと揺らす。

 そして、幾らかの時がたち。
 
 一人の女が、その姿を現した。

「――来たか」
 瞳の先、山の頂から女が降りてくる。
 その髪と同じ紅蓮の装束に身を包み。
 木々の間を縫うように飛び、迫る。
 リズエルではない、そのことをユウラは確信していた。半ば弛緩していた体を引き締め
る。
 ドン、と重い音と共に女は降り立った、その重量に地面が沈む。見た目からは信じられ
ぬほどの質量と活力がその身に宿っている。
 ユウラの装束は黒。闇に溶け込むはずのそれが今は月明かりに照らされて美しく輝いて
いる。
 赤と黒。
 ――これほどまでに互いの心の内を示す色もあるまい。
 空気が密度を増す。
「――どうした。今日はお前の役目はないはずだが」
 解りきったことをユウラは口にする。相手が何を考えているかなど、手に取るように解
る。
 なぜなら彼女はもう一人のユウラであるから。
 鏡のように映すのではなく、同じ人形師によって作られた、ヒトガタのように同一なも
の。
 それでいて決して相容れぬモノ。
 その理由は簡にして単。
 ユウラは男で――あちらは女だから。
 相手は答えず、地を蹴った。問答無用とばかりに、一足飛びに飛びかかる。軸足下の地
面が抉れ、土が飛び散る。それが再び地面につくより先にユウラに迫る。
 足刀が閃き、ユウラの体を打った。
 それに対しユウラは左の肘を全力で突き出す。受けるのでも防ぐのでもなく、相手の攻
撃に攻撃で返す。肘と足首が衝突する、互いの体が衝撃に震える。
 そのまま女は体を空中で回転させた、激突点を支点としての空中後ろ回し蹴り。左の踵
がユウラのこめかみを襲う。
 僅かに首を逸らす。
 最小限の動作でユウラは二段蹴りをかわした。鎌鼬を生じさせそうな程力のある蹴りが
目の前を横切っていく。
 そして、二人は離れた。後退し、互いに距離をとる。
 今のは挨拶代わり、どちらも本気ではない。
 月に一瞬だけ雲がかかり、すぐに晴れる。
「なかなかの力だ――腕を上げたな」
 ユウラの呼びかけに女が初めて口を開く。
「アタシを舐めないで貰いたいね、これでも星を渡る狩猟者の長――皇族なんだから、さ」
「確かに、な。過小評価するつもりはなかったが、それ以上の腕だ――俺を殺しに来たか」
「ああ」
 短く答え、女は髪を掻き上げた。
「アンタはこのままだと姉様に殺される――確実に」
「その通りだ」
 死の宣告に平然と答える。
「だけどね、それはアタシも嫌なんだ――だから、姉様にアンタは渡さない」
「だから俺を殺すか、随分と吹っ切ったな」
「誰かさんが思いきりぶち壊してくれたんでね、強制的に吹っ切れた」
「らしいな――隠しようもない殺意が見えるぞ。その純粋な気はリズエルに匹敵する」
 その言葉に女は忌々しげに舌打ちする。ユウラは賞賛しているのだろうが、それが誉め
言葉に聞こえない。
「アンタもつくづく女心に疎いね……この状態で姉様のことを口にする?」
「悪いな、女の扱いなぞに縁がなかったのでな。弟のようなやつならいつも一緒にいたが」
「言ってくれるね……まぁいいか。ここで全てを終わらせるんだし」
 口調はさばさばとしたものだった。周囲に漂う緊張感と無縁のように、親しげに話しか
ける。
「ここでアンタを殺し、姉様を止める。そして姉妹全員であの男とどこかへ逃げる……そ
れで終わりだ」
「それを許すとでも思っているのか?」
「さぁ? それはアンタ次第だね……だから殺すつもりできな」
 鬼気が爆発的に膨れ上がる、周囲の木々がばちばちと燃えだした。女の気が真紅の炎で
辺りを照らす。
「アタシを殺さなきゃ、姉様の所には行けないよ」
「ふふ……受けてたとう。名目上の俺の主。エルクゥ第二皇女」
 炎をともした枯れ葉が、ユウラの鬼気と共に舞う。

                  「アズエル」

 宴が始まる。
 血の夢に狂いし鬼達の宴が。
 舞い散る火の粉が炎を移し、周囲を燃やす。初めは小さかった炎はだんだんと勢い増す。
彼らの心を映すように。
 一本の樹がその熱に耐えかねたように、燃え落ちる。
 それを中心に、二人は走った。
 ユウラは右に、アズエルは左に。
 二人で一つの円を描くようにしながら、近づく。
 みるみる距離が縮まる、彼らにとってこの程度の距離など会って無きが如し。
 ユウラが、仕掛ける。凶器に変えた右拳でアズエルの心臓を狙い、突き出す。それをア
ズエルは炎を纏った左拳で払い受けた、じゅうと肉の焦げる音。
 そしてお返しとばかりに右の拳を放つ、灯った炎がユウラの顔を映し出した。がしとい
う音と共に拳を掴む。再び肉の焦げる音。
 だが、それはフェイク。
 この間にアズエルは次の攻撃に移っている。左足がかき消え、次の瞬間深々とユウラの
横腹を薙ぐ。防御する暇すらなく、ユウラは吹っ飛ぶ。
 望まぬ空中飛行を強いられながら、ユウラの体が変わっていく。筋肉が膨れ上がり、皮
膚が角質化していく。質量が数倍に上昇し、肉の鎧が全身を包む。手の、足の爪が鋭利さ
を増し、口からは牙が覗く。巨大化した体が大地を踏みしめる。
 数秒も経たずに変異は終了した。エルクゥの真の力――最強の狩猟者の姿がそこにある。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!」

 体中を駆けめぐる開放感に、ユウラは雄叫びを上げた。
「ハッ……ようやく本気を出したね!」
 本能を揺さぶる恐怖を生み出す咆哮――ユウラに漲る力は同じエルクゥですら戦慄を禁
じ得ないほどに凄まじい。だがそれに臆した風もなく、アズエルは対峙する。
 正面からユウラに近づく。
 既に彼女は全身に炎を纏っていた。皇族として彼女が持ち得た能力、それは全てを燃や
し尽くす灼熱。
 ユウラが巨大な拳を突き出す。それにあわせてアズエルも拳を突き出す。策も何もない、
真っ向からの勝負。
 拳と拳が正面から激突する。
 大気がびりびりと震える。激突が衝撃波を生み出し、炎を吹き飛ばす。
 衝撃に耐え、二人はじりじりと押し合う。質量の分アズエルの方が分が悪い。少しづつ
後退が始まる。しかしその身の炎がユウラの拳を灼く。一千度に達した熱量で炙られれば、
さしものエルクゥの皮膚も耐えられない。細胞ごと死滅し、再生には時間がかかる。

       アズエルは――この皇女はエルクゥにとっての死神なのだ。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」
 それを理解した瞬間、ユウラの喉から歓喜の咆哮が轟く。楽しい、こんな戦いは実に久
しぶりだ。

 ――弱者をいたぶるのも。

 ――智を持って挑んでくるものと対するのも。

 ――弱い癖に、必死になって立ち向かってくるものを殺すのも。

 ――全てにそれなりの趣がある、だが――これには遠く及ばない。
 
 ――自分を圧倒しうる力

 ――自分に死を与える力。

 ――それを至近に感じるのは、死に瀕するのは絶頂にも似た歓喜

 ――自分の命を死に晒してこそ

           ――命の炎はもっともその輝きを熱くする――

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」
 三度吠えると、ユウラは連撃を放った。左の中段蹴りで牽制し。左の拳で頭を潰し、右
の鉤詰めで柔らかき臓腑を裂かんとする。

 ――心地よい、心地よい!

 法悦にも似た悦楽と共に、今のユウラはある。
 ゆらりと、アズエルの体が動いた。
 先程の意趣返しとばかりに蹴撃に肘を叩きつけ。
 頭部を狙った一撃を、紙一重で見切る。
 腹部を襲う鉤爪を一歩前に出ることで、打点を逸らす。骨が折れようが内臓が潰れよう
が構いはしない。致命傷でなければそれでいい。
 ぐるりと逆流する血を飲み干す。口の中に収まりきらなかった血がつう、と唇より零れ
出た。
 両者の距離がほぼ零にまで縮まる。
 激しい音を立てて、アズエルの体が地面にめり込む。踏み込みの勢いに地面が耐えられ
ないのだ
 瞬間、アズエルの炎が勢威を増した。
 赤から、青、それすら越えて純白の領域にまで。

               「避けなきゃ……死ぬよっ!」

 ユウラの巨体に密着するように、端から見ればその腕に抱かれるように、身動きすらし
がたい間合いで、アズエルは拳を解き放つ。
 だが。
 この技に距離など関係がない。白炎を纏った拳は、ユウラの脇腹に深々と突き刺さった。
そのまま体を進める、遮るものはない。一瞬にしてユウラの肉を蒸発させながら、背後に
突き抜ける。
「ルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
 鬼の口より苦痛の叫びが上がる。脇腹をごっそりこそぎ取られたのだ。苦痛の微粒子が
全身を駆けめぐる。
 しかし――致命傷ではない。アズエルの踏み込みはユウラの一撃で鈍っていた。後一歩
と言うところで体が流れた。殺したのは臓腑ではなく肉のみ。
 与えた損傷は――互いに互角。
 瞬時にアズエルは半歩引き、思いきり蹴りを傷口へ叩きつけた。たまらず吹き飛ぶユウ
ラの巨体。女性体でありながら、力に置いて男成体に勝るとも劣らない膂力。
 まるで舞を待っているようだった。
 特別製の耐火繊維で織られた装束を身に纏い、炎を従え、激しく舞い踊る。その様はま
るで原始の神に仕える祭礼の舞。
 凄絶に――美しかった。
 炎の巫女は歩みを進める、周囲は既に炎の海と化していた。しかし恐れることなくその
中へ踏み込む。主の帰還を祝福するかのように紅炎が二つに割れ、道を作った。
 烈風に煽られ火の粉が散る、炎は空気の流れを生み出し、生じた気流はより遠くへ紅炎
を導く。
 その先で倒れ伏していたユウラが、ゆっくりと身を起こす。
 両者とも血を一滴も流してはいない――しかしその内部は大きく傷ついている。余力は
もうない。
 好むと好まざると――次の一撃が最後となる。
 
 アズエルが地を蹴り、空へ赴く。いつか見た光景の再現、あえて姉と同じ最後の一撃を
彼女は選んだ。
 
 ユウラは微動だにしない、その一撃を待ち受ける。彼の脳裏にも一筋の記憶が蘇る、遠
き日の光景が。

 そして。
 
 全身に炎を――焔を纏い、紅蓮の鳥となったアズエルが落下を開始する。

 ユウラの筋肉がさらに膨れ上がる。最大限を越え、限界値を超え、さらに体躯が膨れ上
がる。

              ――不死鳥と漆黒の鬼の激突――

 炎の鉤爪が巨大な体躯を殺してゆく、皮膚は蒸発し、細胞は死に絶える

 不死鳥の胴を槍と化した爪が貫く、ずぶりと胸から進入し、背中からその姿を現す。

 既視感を具現化したように、過去と変わらない光景。

 だが、違うことが一つだけ。

 過去、二人の爪は互いの急所に届かなかった。

 だが、今は。

 漆黒の爪が。

             ――深々と不死鳥の心の臓を捉えていた――

「はん……結局……姉様を越えるのは……無理だったって事か……」

 心臓に大穴を開け、奇妙に満足した声で、力無くアズエルは呟いた。
 傍らには左肩から右の脇腹にかけて、五条の痕を残した鬼が佇む。
「結局……アタシと……アンタは……とことんまで似たもの同士だったんだね……あの時、
気付いた」
 緩慢とした死が訪れる、その足音を聞きながら、喋るのを止めない。
「相手が……自分の望む姿で無くなった時には……殺すことしかできない……望んだ時を
自分に焼き付けるしかできない……か。なんて、単純なんだろうね……」
 ユウラとの会話の後、アズエルが達した結論がそれだった。泣き腫らしたベッドの上で
そのことに気付いた。自分の内に眠るものに。
 近すぎる故に惹かれ――それ故に相容れることはなかったのだ、この二人の在り様は。
 
「ぁ……………………」
 意識が途切れる。空白が増大し、その後を黒が埋め尽くしていく。
 ――もう、最後の時が近い。
 ユウラは佇んだまま何も言わない、じっとアズエルを見つめている。

「……無愛想だね……こう言うときくらい、何か言えばいいのにさ」
 とは言いながらも、アズエルには解っていた。ユウラが何も言わないのを。最後までた
だじっと佇むだけなのを。

「まぁいいか……アンタはたくさんの命を狩ったけど……アンタに殺されたエルクゥはア
タシが最初で最後だ……それで……満足してやるよ」
 にこり、と最後の力で微笑む。

「行きな……行って姉様に殺されてきな……でも、次に逢った時は絶対にアンタを……手
に入れてやるから」

 その言葉を最後に。

 アズエルの命はその最後の灯火を消した。

 数瞬後。
 
               ――雨月の山に鬼の咆哮が木霊した――










 月日が流れた。
 日が昇り、沈み、月が夜を照らし、消えゆく。
 そんなことが何十万回と繰り返された後。

「あれが、柏木家の屋敷ですか」
「ああ、今はあそこに姉妹だけで住んでるそうだねぇ」
「両親も、保護者となった叔父も他界ですか……」
「不幸だねぇ、でもそんな不幸な家族を疑わなきゃならないこっちはもっと不幸かもしれ
ないねぇ」
「……はぁ」
 気のない返事。
 柏木家の巨大な屋敷。その壁の縁近くに止めた警察車両の中で、長瀬と柳川はそんな会
話を交わしていた。
 彼らは、これから肉親を亡くして沈み込む少女達に、殺人の容疑をかけに行かなくては
ない。
 嫌な感じだ……と柳川は思った。自分が酷い悪役になった気がする。
 が、それとは別に一縷の望みも抱いていた。
 最近とみに激しさを増している破壊衝動。
 自分と同じ血を引く柏木の姉妹なら――その解決策を見いだせるかもしれない。
「お、子供が出てきたねぇ……さすがにあの子らに聞くのは酷だろうなぁ」
「それは、止めておきましょう」
「だねぇ」
 車窓越しに、何とはなしにその姿を見る。
 中学生にすら見える、小柄な女の子と、短く髪をおかっぱにした少女と。

             ――いかにも活動的そうな、ヘアバンドを付けた少女と――

 どくん、と柳川の心の内で何かが蠢いた。
  何かが、始まる。
 そんな予感が、何故か、した。

「梓お姉ちゃん、早く早く、もう急がないと危ないよー」

「解ってるよ……くそ、耕一の奴がなかなか起きないから……遅刻したら全部あいつのせいだっ」

 そして。
 また別の物語が幕を開ける。