いつか、何処かで 投稿者:狭間クロウ 投稿日:3月24日(日)20時06分
  === いつか、何処かで ===


 開け放たれた縁側から、夏虫の羽を摺り合わせる音が風に乗って居間へと運ばれてくる。
 この日は数時間前に降ったスコールのような夕立が、大気から地表から熱を奪ってくれたの
か、連日連夜働き詰めの扇風機を休ませてもさほど暑苦しさは感じられない。と、柏木賢治に
は思えた。最も賢治がそう思えるのも、よく冷えたビールが喉を潤してくれているからであろ
う。それが風呂上がりであれば尚更である。
 ただし、さっきまで賢治と一緒に風呂に入っていた少年には、そうは思えない。だから、風
呂上がりでパンツに肌着姿の少年は、扇風機の前に屈み込むと後ろを振り返る。瞳に映るのは、
冷えたビールの乗ったちゃぶ台を前に、柱を背もたれにして胡座をかいて座っている賢治の姿。
 賢治の方に頭だけを向けて、少年は不満げに言う。
「父ちゃん、暑いよぉ。扇風機をつけてもいいかぁ?」
「あー、ダメだ。今日は扇風機さんはお休みだ。――それよりも、耕一。暑いならお前もこっ
ち来て一緒に飲め」
 賢治は、手にしていたコップの中身を素速く空にするとちゃぶ台の上に置き、新たにビール
を注ぎながら嬉々とした顔で空いてる左手で手招きしながら、耕一に言う。
 賢治を見つめていた耕一は、賢治の手招きに誘われるかのように四つ這いで近寄ると、賢治
の右隣に座り直す。
 ビールの注がれるコップを興味深げな瞳で見つめる耕一に、「ホラ、おいしいぞ」と言いな
がら賢治はビールをコップの八分目ほど迄に注ぎ差し出す。
 差し出されたビールを、耕一はしげしげと見詰める。子供の耕一には、賢治の愛用する物が
身に着ける物が全て『大人のアイテム』として、その瞳に映し出されている。だから耕一には
興味があった。
 何か、少しだけでも、大人になれるような、そんな気がしたから。
 耕一が差し出されたコップを両手で挟むように掴んだ時、「駄目ですよ」と言いながらお盆
に麦茶と空のコップを乗せた耕一の母が、台所から居間に入ってきた。
「耕一はまだ子供なんですから……」そう言いながら、彼女は賢治を見る。その表情は、子供
のした可愛らしい悪戯を見つけた母親のような表情で。
「でもなぁ、折角息子を持ったんだから酒ぐらい飲み交わしても……」
だから、賢治は恨み言のように言ってみた。
 いつの間にかに隣に来た耕一に麦茶を用意してやりながら、彼女は「なに言ってるんですか」
と返す。今度はちょっと呆れた顔をして。


「……そう言えば、兄貴がぼやいていたなぁ。俺の所は娘ばかりで将来は酒を飲み交わす楽し
みがないって。――それよりも、ホレ。お前も付き合え」
 そう言って、賢治は手にしていたコップをちゃぶ台の上に置くとビール瓶を右手に持ち、左
隣に座る妻に勧める。
 耕一は、もう隣の寝室で眠っている。
 就寝までの一時。夫婦で過ごす。
 洗い物も済ませ、風呂上がりの彼女が「じゃあ、少しだけ」と答える。
「オッ、少しと言わずたっぷり飲め」
「アラ? 酔わせてどうかするつもりですか?」
 微笑みと共に、彼女は返す。
「何を。酔わせずとも――」
 そう言って、賢治は素速く妻を抱き締める。
 73パーセントぐらい本気で。
 いつの間にかに、賢治が手にしていたビール瓶はちゃぶ台の上にある。
「コラッ!」
 と、彼女が賢治の額にチョップを放つが、「きかぬ!」と賢治は世紀末覇王張りの調子で言
い放ち、彼女を押し倒す。
 この瞬間から、100パーセント本気で。
 それでも、彼女を押し倒す時に頭を打たないように素速く右手を添えた賢治は、もしかした
ら紳士と呼べるかも知れないが、それも、彼女の右乳房を掴む左手がなかったらの話。
 押し倒された彼女は、小さく驚きの悲鳴を上げる。
 そして、賢治は彼女の薄く艶やかな唇を奪おうと無防備に顔を近づけて、「ぐえぇ!」と短
く発し動きが止まる。彼女の左フックが、素晴らしい角度とスピードで賢治の顎を捕らえ振り
抜かれたから。
 賢治の脳は激しく揺す振られ、賢治は顔から畳に沈む。
 既に賢治の腕の中から逃れている彼女は、「もう少し空気を読みなさいね、あなた」と聖母
のような微笑みをむけながら言う。
 が、その声は賢治の意識までには余り届いてはいない。そして、賢治の「夫婦だからいいじ
ゃんか〜」という声にならない呟きは、彼女には永遠に届かないだろう。
 柏木賢治は、気持ちの若い男である。


 それから二人は、改めて飲み直す。
 耕一の事やたわいない話などに興じる。
 そして一時の静寂。
 不意に、彼女は静かに口にする。
「……いつか、きっと、来ますよ」
 幾許か頬を桜色に染めた彼女は、そう言いながら賢治の左肩に身を預ける。
「ん?」賢治が続きを待つ。
「いつか、何処かで…耕一と二人でお酒が飲める日が……いつの日かきっと、来ますよ」
 彼女はちょっと俯き加減で、静かにそれでもしっかりとした口調で言う。
「…あぁ、そうだな」
 ほんの少し間をあけて、賢治は答える。その間が意味する処を、二人は知っている。
「えぇ、そうですよ」
 だから、彼女は即答する。某かの期待を込めて、不安を払拭するかのように。
「あぁ」
 そして賢治はもう一度、さっきよりも強めに間をあけずに返す。
 それから、賢治は唐突に身を捩る。
 賢治の肩に身を預けていた彼女は、「あっ」と小さくアルコール混じりの息をもらしてバラ
ンスを崩す。そんな彼女を、賢治は優しく抱き締める。彼女の手にしているコップの中では、
底の方に残っている気の抜けたビールが静かに波立つ。
 賢治は、自分の胸に顔を埋める妻の髪をそっと優しくなでる。
 しっとりと水気のある髪からシャンプーの香りが仄かに漂い、賢治の鼻腔をくすぐる。
 それからどれ程が経ったであろうか。不意に「あなた…」と、微かに囁く彼女の上目遣いに
気付き、賢治は手を止めた。
 見つめ合う二人はそのまま、そっとキスをする。
 そして二人だけの時間は、そこで唐突に終わる。
「うぅーん、トイレぇー…」
 隣の寝室で寝ていた耕一が起きたから。
 いきなり襖を開け、二人の空間に乱入してきたから。
 賢治にしなだれていた彼女は、慌てて身を離す。そして賢治は取り敢えず、ぼんやりと天井
を見上げる。上手い誤魔化し方が見つからなかったようだ。

 それから、彼女はちょっとおぼつかない足取りで、耕一をトイレへ連れて行った。寝惚け眼
の耕一が、庭先で用を足そうとしたからだ。
 その割には、しっかりと「母ちゃん、どうしたの? 顔赤いぞぉ?」なんて聞いていた。そ
の時、彼女は苦笑しながらも誤魔化した。
 そして、賢治は一人居間で一時を過ごす。
 今もなお、夏虫の羽を摺り合わせる音が風に乗って運ばれてくる。
 それをぼんやりと聞きながら、柱に寄り掛かって座る賢治は静かに目を閉じる。
 頭の中で繰り返すは、妻の言葉。

『いつか、何処かで…耕一と二人でお酒が飲める日が……いつの日かきっと、来ますよ』

 さっきもした返事をもう一度、賢治は心の中で返す。

『いつか、何処かで――』

『あぁ。…そうだな、だから負ける訳にはいかないな。鬼の血如きに。過去の呪縛何かに』
 さっきした返事に、さっきは言わなかった言葉を付け加えて返す。

 言わなかった言葉。
 言わなくても解ってもらえるであろう言葉。
 …でも、あいつは言って欲しかったのではないか。と、不意に賢治は思う。
 けど、何も終わってはいない事を二人は知っている。これから始まると言う事を。

 だから、伝えたい。
 全てが終わってから「もう何も心配しなくてもいいぞ」と伝えたい。
「俺も克服したんだぞ」と伝えてあげたい。あいつが何よりも望んでいる言葉だから。
 そう賢治は思いながら、新たに決意をする。自分の中に潜む鬼との戦いに。


「あらあら」
 耕一を寝かしつけて居間に戻ってきた賢治の妻は、頬に手を当てそう漏らす。
 柱に凭れたまま眠る賢治を、彼女独特の暖かな眼差しで見詰めながら。

 夏虫の羽を摺り合わせる音は、今も尚止まない。
 それは、彼らの命の歌だから。
 一夏だけの命。だから、彼らは精一杯に歌い次の世代に繋げる。
 彼女はそんな音色を聴きながら、賢治の側で膝をつくと優しく夫を抱き締め、そっと軽くキ
スをする。

 夫婦で過ごす一時は終わる。
 数時間後には太陽が姿を現し、いつもと変わらぬ一日が始まる。
 いつもと変わらぬ一日でも、平和であるのならと彼女は思う。
 そして、願わくは全てが終わった朝が一日でも早く訪れんことをと思う。

 夏虫の羽を摺り合わせる音は、今も尚止まない。

 柏木賢治が兄夫婦の急死を知るのは、まだ先の話。


                 − 終わり −


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ども、二度目の投稿になります。三月のお題「酒」に挑戦してみました。
 ネタが在り来りで申し訳ないですが、色々と挑戦してみましたが如何でしょうか。
 ご意見、感想等いただけると幸いです。