「桜、咲く」(三月お題「桜」サンプルSS) 投稿者:刃霧星椰 投稿日:4月1日(日)00時26分
四月、といえば、新しい生活が始まる季節。
彼女も、新しい生活を始めるために故郷を離れてこの街にやってきた、そんな一人だった。
持っているのは、少し大きめの鞄一つだけ。
他の荷物は、もう新しい住居に送ってしまっている。
さっさとそこへ行けばいいようなものだが、彼女はここで――この公園の、咲き乱れる桜の木の下で、
人を待っていた。
『うーん、その時間だとバイトだなぁ……そうだ、ウチの近くに公園があったの覚えてる? そこで待
 っててくれるかな?』
数日前に待ち合わせの相手と電話で交わした約束。
それを思い出して、ほぅ、と小さくため息をついた。
座っているベンチの上を見上げると、ちょうど満開の桜。
今年は暖かかったせいかいつもより早く花が咲き、ちょうど今が満開だった。
ざぁ、と強めの風が吹いて、桜の花びらが舞い落ちる。
「あ――」
その光景を見た彼女は、目を細めて昔のことを思い出していた。
――あの日も、こんな感じだったな、と。


『桜、咲く』


その日――次郎衛門と出会い、いくつかの偶然と必然を重ね、互いに惹かれあって共に暮らし始めてか
らしばらく立った頃。
次郎衛門は山で狩った獲物を他の食べ物などと交換する、といって山を下りていった。
一人残されたエディフェルは、小さな庵の中を掃除したり、次郎衛門の着物を洗ったりして時間をつぶ
していた。
「――つまらん」
一通り仕事――というか、家事――を終え、ぽつりと呟いた。
人気のない山の中、話し相手すらいない状態で一人きり。
以前の彼女ならば、別段なにも感じなかっただろう。しかし、次郎衛門と心を通わせた今は、一人でい
ることが寂しかった。
ふと、野菜や野草などを入れてあるかごを見てみると、ほとんどなくなっていた。
これでは、今晩の食材にも足りないだろう。
「――よし」
エディフェルは笠をかぶり、そのかごを手に持った。
野草を取りに行くのだ。
『よいか、一人では出歩いてはならぬぞ』
常々次郎衛門に言われている言葉が浮かぶが、すぐにかき消した。
里人や他のエルクゥに見つかると厄介だ、ということらしい。
しかし、エディフェルとてエルクゥ四皇女の一人である。里人に見つからずに山々を歩き回ることはた
やすいし、たとえエルクゥに見つかったとしても、それが男のエルクゥだろうが勝てるだけの実力も自
信もある。
まぁ、少しの間なら怒られまい。
そう考えて庵を出た。
この時期は食べられる野草が多い。
エディフェルはそれらの名前を知っているわけではないが、次郎衛門に食べられるもの、そうでないも
のを教えてもらっていた。
歩いていく道々、覚えている限りの野草を摘んではかごの中に入れていく。
「つくし、わらび、ふきのとう…………」
名前を教えてもらった野草は、それを確認するように一々名前を呟いてかごに入れる。
野草を摘みながらとはいえ、エディフェルの歩く速度は普通の人より早い。
だから、気がつくと庵からかなり離れた場所に来ていた。
かごもいっぱいになっている。
「うむ、かなり取れたな……これなら二、三日は大丈夫だろう」
自分の仕事に満足して辺りを見回し、あることに気づいた。
「……どこだ、ここは?」
全く見覚えのない場所だった。道に迷ったのである。
野草を探すうちに調子に乗ってかなり遠くまで来てしまったようだ。
実際にはそこまで遠いわけではなかろうが、道がわからない。
エディフェルは、どうしたものかと思案する。
家に帰るだけならばたやすい。
次郎衛門のエルクゥの波動を辿ればいいのだ。
星々を狩猟者として渡り歩いていたときは、いつもそうしていた。
狩りを行った帰り道は、ヨークに残っている者の波動を辿るのだ。
だが、それは相手にも気づかれてしまうことになる。
それに、よく似た波長を持つ姉や妹に察知されて追っ手がかかった場合、次郎衛門に迷惑がかかること
になるだろう。
なにより、次郎衛門に勝手に出歩いたことを怒られるのが嫌だった。
かといって、庵に帰る道は判らない……。

そのとき、がさがさと音がした。
エディフェルはそれに敏感に反応し、反射的に身構えて音のした方を向く。
すると、茂みの中から現れたのは小さな……おそらくは生まれて一月も経っていないだろう、子鹿だっ
た。
自分に敵意のないものだと知って、エディフェルは警戒を解く。
「なんだ……おどろかせないでくれ……」
エルクゥの追っ手かと思っていたので、安堵の息をついた。
手練れのエルクゥの戦士――たとえば、彼女の長姉や次姉ならば、殺気すら消したまま相手を仕留める
こともできるのだ。そういう相手が一番怖い。
すぐにその動物――子鹿は立ち去るだろうと思ったのだが、子鹿はじっとエディフェルの方を警戒した
様子で見ている。
「どうしたのだ? 私はなにもせぬぞ?」
そう言ってみるが、鹿に言葉が判るはずもない。
実際、エディフェルは鹿をどうこうするつもりはなかった。
食糧として必要な動物は次郎衛門が取ってくるし、エディフェルは大した抵抗もしないであろうそうい
った動物を興味本位で狩ることはしなかった。
狩るならば、並の動物よりも精神が発達している分だけ美しい炎を散らす人間の方が面白い。
だから、このような弱い動物を狩ることは、エディフェルは嫌っている。
しばらくエディフェルを見つめていた子鹿は、安全だと思ったのかおそるおそるエディフェルに近寄っ
て来た。
「ふむ、おまえ、まだ子供だな……親はどうした? はぐれたのか?」
近寄ってきた子鹿の頭を優しく撫でながらエディフェルが訊ねるが、子鹿はくんくんとエディフェルの
脚や腰の辺りの匂いをかぐだけで、何も答えない。
「私と同じ……ねぐらがわからなくなったのだな」
しばらく子鹿の頭を撫でながら、子鹿のしたいようにさせていた。
すると、子鹿は不意にエディフェルからつい、と離れると、ゆっくりと歩き始めた。
「行くのか?」
エディフェルの言葉に、子鹿は振り返った。
そして、そのままじっとエディフェルを見つめる。
不思議に思ったエディフェルが近づこうとするとまた子鹿は歩き始める。
やはり行くのか、と思ってエディフェルが立ち止まると、子鹿はまた立ち止まってエディフェルの方を
じっと見つめた。
「……ついてこい、というわけか?」
エディフェルが子鹿についていくように歩き始めると、子鹿もその先に立って歩き始める。
今度はエディフェルも子鹿も立ち止まらずに歩いていく。
「どこへ連れていくのだ?」
どうせ理解はできていないのだ、と判っていても、子鹿についつい訊ねてしまう。
子鹿は当然無言で歩く。
それくらい歩いたか、急に子鹿が走り出した。
「おい、どうしたのだ? 待て!」
エディフェルも何事かと急いで後を追う。
普通の人間ならばここで見失うのだろうが、エディフェルはエルクゥである。子鹿を見失わず、ちゃん
とついていくことが出来た。
もっとも、少し走ったところで子鹿が走り出した原因がわかったのだが。
子鹿が走っていった先には、親がいたのだ。
親鹿は、森の開けた場所にいた。
そこには天然の泉があり、回りはちょっとした広場のようになっている。
その場所を囲んでいる木々も他の山の木とは違い、薄桃色の花びらをこれでもかというほどに咲き誇ら
せていた。
再会した鹿の親子は、仲良く水を飲んでいた。
他にもいくらか動物がいるところを見ると、ここは水飲み場なのだろう。
「なんだ、親がいたから走ったのか……」
エディフェルはどこかほっとした。
かごを脇に置き、花の咲いている手近な木の幹に背をもたれて座り込んだ。
視線は水を飲んでいる鹿の親子を捉えている。
もしかすると、子鹿はただここからちょっと遊びに出ただけなのかもしれない。
親はきっとここで待っているから遊んでおいで、と子鹿を送り出したのかもしれない。
そして、子鹿は自分をいい遊び相手だと思って、近寄ってきたのかもしれない。
エディフェルは、野生の動物がそんなことをするわけがない、とわかっているのに、何故かそんなふう
に思った。
「ふふふ、私と遊んだというよりは、私が遊ばれたのかもしれないな……」
こんな人気のない場所に一人でいるなど、危ないことこの上ないのに、何故かエディフェルは落ち着い
ていた。
もし、裏切った同族がこんなところで緊張感もなく座っていたら、自分ならば迷わずに襲いかかるであ
ろう。
だが、追っ手など来ない、と心のどこかでわかっていた。
そして、鹿の親子を見続けていた。

しばらくたった後、不意に親鹿が顔を上げてきょろきょろと辺りを見回すと、子鹿と一緒に森の奥へと
入っていった。他の動物たちも素早く茂みや木の上に身を隠す。
エディフェルも、その動物並の感覚で誰かが近づいていることに気づいていた。
ただ、敵意がないことがわかったのでその場を動かなかった。
何よりも、よく知っている気配だったから。
予想通りの人物が、エディフェルの来た方からやってきた。
「……こんなところにいたのか。心配したぞ、エディフェル?」
「次郎衛門……どうしてここがわかった?」
現れた次郎衛門に、エディフェルは不思議に思った。
道に迷っている自分を見つけることは、簡単ではなかったはずだ。
「勘だ。もっとも、おまえのいるところならば、たとえどこであろうともわかるような気はするがな。
 俺とおまえは、繋がっているのだからな」
次郎衛門の答えに、それもそうか、と呟くとエディフェルは立ち上がった。
「それで、どうしたのだ?」
「どうしたもなにもあるものか。俺の言いつけを破って勝手に出歩いたのはエディフェルではないか」
「そうだったな……すまぬとは思っているぞ。こうして探しに来てもらったのだしな」
心なしかエディフェルはしょんぼりしているようだ。
「何故、庵から離れたのだ?」
次郎衛門の質問に、エディフェルはかごをと差しだした。
「野草を取っていたんだ。今夜食べる分もなかったからな……怒っているか?」
しかめっ面でエディフェルの前に立つ次郎衛門を、エディフェルは上目遣いでおそるおそる見た。
すると、次郎衛門は一度目を閉じた。
「いや……怒ってはないよ」
表情がおだやかなものに変わる。
「心配はしたけれどもな……無事ならばいい。それに、おまえが勝手に出かけなかったらこんな美しい
 場所があることも知らぬままだったろう」
次郎衛門は心底安堵したように言った。
「――それにしても、この山にこんなところがあるとは知らなんだ」
そう言って、花の咲き誇る木々――桜を見上げた。
「このように綺麗な桜があると知っていたら、里で買ってきた酒を持ってくればよかったな」
少し悔しそうにしている様子は、どこか子供っぽかった。
「さくら?」
「この木の名前だよ……この時期になると数日の間だけ咲いて、すぐに散ってしまう。歌にもよく詠ま
 れるほど有名な花だよ。もっとも、歌などに詠まれなくとも美しいことに代わりはないが」
次郎衛門の話は、半分ほどしか聞いていない。
ただ、この薄桃色の花の名が「桜」というのだということがわかって、少し嬉しかった。
「そんなに惜しいならば、また明日酒を持ってここに来ればよいではないか?」
「それもそうだな……」
エディフェルの提案に、次郎衛門は一も二もなく頷いた。
「それに――」
「それに……なんだ?」
「運がよければ、お主も会えるやもしれんぞ?」
その言葉に、次郎衛門はわけがわからない、と言った顔をする。
「会えるとは、誰にだ? 誰かと会っていたのか?」
よもやエルクゥの追っ手ではないかと心配する次郎衛門を見ておかしそうにクスリとほほえんだ後、エ
ディフェルはこう言った。
「それは、秘密だ」






「――でちゃん、楓ちゃん?」
自分を呼ぶ声が聞こえて目を開けるとその人がいた。
心配そうに自分をのぞき込んでいる顔は、紛れもなく自分が待ち合わせをした相手。
「耕一、さん?」
「びっくりしたよ、もぅ。楓ちゃん、ぐっすり眠ってるんだもんなぁ」
目を覚ました楓を見て、苦笑する耕一。
「そう、ですか……」
まだ、ぼーっとしている。
あのころに戻っていた時間が、結構長かったような気がする。
「それじゃ、さっそくだから行こうか? それとももう少し休んでる?」
「いえ、大丈夫です……」
楓が立ち上がると、耕一は楓の鞄を持ち、歩き出す。
楓も少し遅れてそれについていく。
「そうだ、楓ちゃん――」
急に耕一が振り返った。
「なんですか?」
「いや、一応ちゃんと言っておこうと思って……これからよろしくね、楓ちゃん?」
「……はい、こちらこそよろしくお願いします、耕一さん」
にっこりとほほえんで、楓は耕一に返した。
こうして、柏木耕一と大学に入ったばかりの柏木楓の二人での暮らしが、広くはないアパートで始まる
のだった。
それは、あたかもあの二人があの庵で暮らしていたときのように…………。


                                         Fin

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