雨の記憶〜紫陽花〜 投稿者:刃霧星椰 投稿日:5月28日(日)21時40分
――サー

「はぁ……なんだか、嫌になるわ」
「何がだ?」

小さな庵の中、ため息をつく女に男が尋ねた。

「この雨が、よ。ここのところ毎日毎日雨で鬱陶しくないの?」
「ふむ……しかし、この時期の雨は悪いばかりではないからな」
ちら、と外の様子を見た後、男は再び刀身の手入れを始めた。
蝋燭に照らされて鈍く光る刀身は、少しの曇りもなく手入れが十分なことを示している。
「お前はこの国のことを知らぬからそう嫌がるのであろうが、この雨がなければ民百姓は至極困るのだよ。作物
 が育たぬでな」
チャキン、と刀を鞘に収め、壁に立てかけると、男は女に向き直った。
「それに、雨が降らねば夏に水が足りなくなる。そうなれば私もお主も困るであろう?」
「それは――そうだけど、これでは満足に食べ物も集められないじゃない」
「だから晴れているときに蓄えておいたであろう?干し魚も木の実もまだ十分にある」
それでもまだ不満顔の女を見て、男は苦笑した。
「なに?」
「いや……そうだな、そろそろ頃合いだ。いいものを見せてやろうと思うが……来るか?」
そう言って男は立ち上がると、笠を手に取った。
「どこへ?」
「案ずることはない……すぐ近くだ」
それを聞いて、女も立ち上がり、やはり笠を手に取った。




「――どうだ?」
「こんなものが近くにあるなんて……なんていう花なの?」
男に誘われてたどり着いた場所には、雨の中、花が咲いていた。
薄紫の小さな花が集まって、房を作っている。
「紫陽花だよ。どうだ、美しいと思わないか?」
「――よく、わからない。そういうこと、考えたことがないから」
寂しそうに俯く女の肩を、雨がぬらす。
「都の公達は、こういうものを見て美しいと愛で、詩を詠むと言うがな――実のところ、私にもよくわからん」
気にすることはない、と、ぽんぽんと女の肩を叩いて、雫を払ってやる。
彼女は少し前――男と出会うまで、仲間と共に戦いに明け暮れるだけの暮らしだった。
花を見て美しいと思うとか、星を見て感動するという生活とは無縁だったのだ。
男はそんな彼女に徐々に普通の、年相応の娘のもつような感情を持たせようと努力していた。
花を見て微笑んだりしている彼女の方が、きっと綺麗なのだと思っていたから。
「でも、見てても飽きない……また、見たいと思う」
「そうか……」



どれほど二人でそうして紫陽花を見ていただろうか、やがて笠を叩く雨音が止んだ。
「お、上がったようだな……」
そう言って空を見上げる彼につられ、彼女も笠を外して見上げた。
薄暗い雲が、徐々に晴れ、陽射しが差し込んでくる。
「あ……」
そして、彼女が何かに気づいた。
「ジロウエモン、あれ……」
「どうした、エディフェル……ああ……」
彼女の指さす先には、虹が架かっていた。
紫陽花のそばに、小さく。
「小さな虹……初めて見た」
「空に架かる虹は何度も見たことがあるがな……紫陽花に架かる虹は、私も初めてだよ。……どうした?」
ふと横を見て、じっと虹を見つめたまま動かないエディフェルに気づく。
「なんだか……ここが暖かくなる……まるで、ジロウエモン、あなたに出会った時みたい」
胸をそっと押さえるエディフェルの、その優しげな表情に次郎右衛門は見とれた。
そして、こう思う。
自分が躍起にならなくとも、この娘とて普通の娘と変わらぬのだ、ただそれを表す術を知らぬだけなのだ、と。
そして、自分でも気づかぬままに、エディフェルを抱き寄せていたのだった。








昼寝から目覚めてみると、雨が降っていた。
相当な暇人だ、と思いながら、テレビでも見ようと居間にむかう途中、縁側を通ると庭に白い傘が咲いている。
「楓ちゃん?」
白い傘が振り向くと、楓が居た。
「何してるの?」
濡れるのもかまわず、そこにあったサンダルを履いて側へ行く。
「……思い出していたんです」
楓の視線の先には、紫陽花。
「ああ……そんな季節かぁ……」
どこか遠い眼をする耕一。
最近、こんな顔をよく見る。
不安そうな、懐かしそうな、少し哀しそうな顔。
あの頃のことを思い出したせいだろうか?
「大丈夫ですよ……」
楓が傘を畳み、耕一の腕を取る。
「今度は、ずっと一緒ですから」
側に立つ、長い間待ち続けた人と見上げる先には、まるで、今の自分たちのように、寄り添う虹が二重の大きな
虹がかかっていた。