――サー 「はぁ……なんだか、嫌になるわ」 「何がだ?」 小さな庵の中、ため息をつく女に男が尋ねた。 「この雨が、よ。ここのところ毎日毎日雨で鬱陶しくないの?」 「ふむ……しかし、この時期の雨は悪いばかりではないからな」 ちら、と外の様子を見た後、男は再び刀身の手入れを始めた。 蝋燭に照らされて鈍く光る刀身は、少しの曇りもなく手入れが十分なことを示している。 「お前はこの国のことを知らぬからそう嫌がるのであろうが、この雨がなければ民百姓は至極困るのだよ。作物 が育たぬでな」 チャキン、と刀を鞘に収め、壁に立てかけると、男は女に向き直った。 「それに、雨が降らねば夏に水が足りなくなる。そうなれば私もお主も困るであろう?」 「それは――そうだけど、これでは満足に食べ物も集められないじゃない」 「だから晴れているときに蓄えておいたであろう?干し魚も木の実もまだ十分にある」 それでもまだ不満顔の女を見て、男は苦笑した。 「なに?」 「いや……そうだな、そろそろ頃合いだ。いいものを見せてやろうと思うが……来るか?」 そう言って男は立ち上がると、笠を手に取った。 「どこへ?」 「案ずることはない……すぐ近くだ」 それを聞いて、女も立ち上がり、やはり笠を手に取った。 「――どうだ?」 「こんなものが近くにあるなんて……なんていう花なの?」 男に誘われてたどり着いた場所には、雨の中、花が咲いていた。 薄紫の小さな花が集まって、房を作っている。 「紫陽花だよ。どうだ、美しいと思わないか?」 「――よく、わからない。そういうこと、考えたことがないから」 寂しそうに俯く女の肩を、雨がぬらす。 「都の公達は、こういうものを見て美しいと愛で、詩を詠むと言うがな――実のところ、私にもよくわからん」 気にすることはない、と、ぽんぽんと女の肩を叩いて、雫を払ってやる。 彼女は少し前――男と出会うまで、仲間と共に戦いに明け暮れるだけの暮らしだった。 花を見て美しいと思うとか、星を見て感動するという生活とは無縁だったのだ。 男はそんな彼女に徐々に普通の、年相応の娘のもつような感情を持たせようと努力していた。 花を見て微笑んだりしている彼女の方が、きっと綺麗なのだと思っていたから。 「でも、見てても飽きない……また、見たいと思う」 「そうか……」 どれほど二人でそうして紫陽花を見ていただろうか、やがて笠を叩く雨音が止んだ。 「お、上がったようだな……」 そう言って空を見上げる彼につられ、彼女も笠を外して見上げた。 薄暗い雲が、徐々に晴れ、陽射しが差し込んでくる。 「あ……」 そして、彼女が何かに気づいた。 「ジロウエモン、あれ……」 「どうした、エディフェル……ああ……」 彼女の指さす先には、虹が架かっていた。 紫陽花のそばに、小さく。 「小さな虹……初めて見た」 「空に架かる虹は何度も見たことがあるがな……紫陽花に架かる虹は、私も初めてだよ。……どうした?」 ふと横を見て、じっと虹を見つめたまま動かないエディフェルに気づく。 「なんだか……ここが暖かくなる……まるで、ジロウエモン、あなたに出会った時みたい」 胸をそっと押さえるエディフェルの、その優しげな表情に次郎右衛門は見とれた。 そして、こう思う。 自分が躍起にならなくとも、この娘とて普通の娘と変わらぬのだ、ただそれを表す術を知らぬだけなのだ、と。 そして、自分でも気づかぬままに、エディフェルを抱き寄せていたのだった。 昼寝から目覚めてみると、雨が降っていた。 相当な暇人だ、と思いながら、テレビでも見ようと居間にむかう途中、縁側を通ると庭に白い傘が咲いている。 「楓ちゃん?」 白い傘が振り向くと、楓が居た。 「何してるの?」 濡れるのもかまわず、そこにあったサンダルを履いて側へ行く。 「……思い出していたんです」 楓の視線の先には、紫陽花。 「ああ……そんな季節かぁ……」 どこか遠い眼をする耕一。 最近、こんな顔をよく見る。 不安そうな、懐かしそうな、少し哀しそうな顔。 あの頃のことを思い出したせいだろうか? 「大丈夫ですよ……」 楓が傘を畳み、耕一の腕を取る。 「今度は、ずっと一緒ですから」 側に立つ、長い間待ち続けた人と見上げる先には、まるで、今の自分たちのように、寄り添う虹が二重の大きな 虹がかかっていた。