夕方、黄昏の黄金色に染まる川岸。 ちょっと肌寒い空気がまるで停止したように動かない。 だから、すぐ側の体温をむしろより強く感じる。 全て光のコントラストに飲み込まれてモノクロームに感じる、夕暮れに。 向かい合って。 互いに呼吸が触れ合う程の距離に。 「……」 目が覚めた。 「うー…いいとこだったのにぃ」 思わず呟いて、しかめ面で時計を見る。 七時二十七分。そろそろ準備をしないと、『本物』の先輩を捕まえられなくなる。 私は夢の余韻をかなぐり捨てていつもの制服に着替える事にした。 正夢 10月も半ばを過ぎて、もう隆山は冬支度に入った。 まだ冬制服でも良いけど、しばらくしたら手袋とかマフラーが必要になる。 ――……走ってきたけど…… いつもなら、大体同じ時間に同じように朝登校してくる先輩が『見える』場所できょろきょろする。 でも、勿論見つからない。 「うー」 うなったって誰も聞いてくれない。 とりあえず学校に向かう。 まあ、朝の先輩の夢が幸せだったからとりあえず余韻に浸ろう。 梓先輩が、潤んだ瞳で私を見ている。 少し肩をすくめるようにして、ゆっくり近づいてくる。 ん? なんだかイメージが違う。 うーん…今朝の夢って、こんなんだったっけ? 「こらかおり」 顔を上げる。 「おはよう。……あれ、先輩は?」 声をかけてきたのは陸上部の友人。 気がつくと私は校門のすぐ側にいた。 「んー?あれ、先輩は私が目を付けたんだからね」 彼女は困ったように眉を寄せて、口元には笑みを浮かべて答える。 「私はあなたのような趣味はありません」 「な、なんと!梓先輩ファンクラブ会員No.1の名を汚すつもり?」 彼女は呆れたのかため息をついて額を抱える。 うーん、もう少し仕草が可愛かったら良いんだけど。 いつか萌えについてこの娘にも語っておかないといけないわね。 「……じゃあ、あなたは?かおり」 「私は主催者だから」 そんな馬鹿な話をしながら校門をくぐる。 僅かなそんな隙――視界の隅を、見覚えのある髪型が横切る。 「あっ、せんぱ……」 でも先輩の姿はすぐに人混みと校舎の陰に消える。 聞こえなかったのだろうか。 「ちょっと、行くよ、かおり」 「えあ、あー、うん」 おかしい。 私は直感した。少なくとも私が妄想の中に落ち込んでいた時抜かれていたのだとしても。 ――先輩が声をかけてこないはずはない こちらが探さなくても、少なくとも見かけたら挨拶はしてくれる。 勿論それは私への愛の一部なのは確かだけど。 気になって気になって、気になって気になって気になって…気がつくと昼休みの時間だった。 「!」 だから。 私はすぐさま鞄からお弁当の包みを取り出すと、何事か叫ぶクラスメートを振りきって私は先輩の教室へと急ぐ。 「っと」 「先輩」 階段を一つ飛ばしで駆け抜けて、スカートがまくれようが誰がいようが関係なしに。 踊り場に飛び込んだ私の目の前に。 「な、なんだよかおり」 先輩が驚いた顔をして立ちつくしていた。 なんだか両掌をこっちに向けて引いている。 とりあえずちゃーんす! 「先輩!一緒にお昼しません?」 小首を傾げてにっこり。 どんな人間でもこれで落としてみせる、そんな自信の一品。 でも梓先輩は引いたまま、困った表情を浮かべた。 何故か引っかかるような気がした。 「ご、ゴメンかお」 「確か先輩、いつもお弁当ですよね?お昼」 あー、とかうーとか良いながら先輩は目をふらふらさせている。 まあこんな時はもう無理矢理にでも引っ張って行くに限る。 私は強引に先輩の左腕を引っかけると、そのまま上に昇ろうと思いっきり体重をかけて引っ張る。 「うわ、痛い痛いってばかおり、判ったよ、判ったから。私まだ弁当持ってきてないからとりあえず離してよ」 「……逃げません?」 顔にぎくりという文字が浮かぶ。 「逃げない逃げない。んじゃ、あたしと一緒に教室まで来ればいいでしょ」 と言うわけで。 先輩と連れだって、屋上でお昼としゃれ込む事になった。 冷凍食品のコロッケ、レトルトパウチのハンバーグ、刻んだだけのサラダに比べるともう。 「先輩のお弁当、いつ見てもおいしそうですね」 「ん?」 先輩は自分の口の中におかずを放り込んだまま、ひょいと私の弁当箱を覗き込む。 「んーん……かおりのも、おいしそうだけど」 「だったら代えて貰えます?私はその卵焼きが…」 そう言うと、案の定苦笑いしてまた一歩下がる。 「どーして逃げるんですかぁ!」 「いやだって、あの、かおり。前そう言ってあたしの箸に直接噛みついただろう」 「だって先輩の箸ですよーっ」 あ、しまった。 ますます引いてしまった。 うーむ、これでは今日は諦めるしかないみたい。 「…かおり」 ひょいと横から卵焼きが突き出されて、思わず顔を上げる。 先輩は少しだけ恥ずかしそうな感じで笑って胸を張る。 あ、大きいから何だか。 「食べていいよ。そんな顔見て昼食べたくないから」 やっぱり。 私は、そこで気づいた。 でも言うべきかどうか迷う。 今目の前にいる先輩が、先輩らしくないなんて、それでも赦せない。 「…何かあったんですか?朝だって」 朝だって、私を無視して行った。 だから、だから気になっていたのに。 「……かおり、その前に、いい?」 「何ですか先輩」 「それは卵焼きじゃなくて、出汁巻きよ」 「あーっ、かおり、ゴメン、ゴメンってばっ」 もう。 私は真剣だったのに。 「茶化すからです」 お弁当を太股の上に置いたまま、器用にそっぽを向いた私の前に身体を持ってくる。 「ゴメンって。あの…判ったよ、話すから許してよ」 「本当ですか?」 顔を上げる。 先輩は両手を合わせて私に必死になって謝ってる。 そして真剣に私を見つめて続ける。 「その代わり、ここじゃない。放課後で良いでしょ」 う゛。 その顔。 せっかくすぐ近くにあるんだし。 油断してるし。 ちゅ 「う、わっ」 「判りました先輩♪楽しみにしてます!」 へっへっへ、額にキスしただけで顔が真っ赤になってる〜。 「かおり!」 「いーからお昼しちゃいましょう」 先輩の作った出汁巻きおいしいし。 ちょっと役得気分です。 そんなこんなんで、やっぱり放課後まであっという間。 本気で午後の授業受けていたのかどうかも怪しくなってきたので、今度の試験が心配だ。 「せーんぷぁーい♪」 「かおりぃっ、大きな声で叫ぶな!」 だきっ。 ぎゅっ。 「えへへへーっ、でーとですぅ」 どさくさ紛れに腰に抱きついて。 先輩ってしっかり運動してるから、身体締まってるし、腰も細いし。 こーやって抱きしめちゃえば解きようもないし。 「いいから離れろって」 「いーやーでーすー」 ずるずる。 ずるずる。 引きずられながら先輩の温もりを感じる。 あー……幸せ。 「もう。ついたよかおり。離れなさい」 「へ?」 と顔をあげる。 「うわぁ…」 多分その時の顔は、表現するよりも情けないものだったろうと思う。 でも、多分忘れられない。 「綺麗だろ?だからこの時期のこの辺って、帰り道に寄る事にしてるんだ」 一面の黄金色。 風が吹いて立てるさざ波のような音。 綺麗な――綺麗な、収穫を待つ稲の穂は丁度夕日に照らされた水面のようだった。 思わず私は梓先輩から身体を離し、音を立てる稲の水面を見つめていた。 本来の通学路から僅かに外れ、余り人気もなく、耳に届くのも穂が風で揺れて立てる音だけ。 たっぷり一呼吸以上、何もかも忘れたみたいに見つめてから先輩の方に顔を向けた。 先輩も稲穂を見つめていた。でも、僅かに目を伏せたその横顔はどこか寂しげな気がした。 「先輩」 目が覚めたみたいに、ゆっくりとこっちを向いて微笑む先輩。 「ゴメン。……何だか、心配させたみたいで」 私はぶんぶんと首を振って否定する。 「あのさー。……ちょっと、らしくないんだけど。なんだか『特に』かおりには会いたくなかったから」 「がーん。それって一番傷つきますよぉ」 それにそんな事をさらりと言ってのけるなんて、なんて酷いんだろ。 でも大丈夫、私は先輩を信じていますから! それが愛ですから! それでも目の端に涙を浮かべて、先輩を見返します。ええ。 「ちょ、ちょっと、違うってかおり。……ねえ。あたしも――『おんなのこ』なんだよね」 ふんふん。 私は頷いて目をぱちくりさせる。 「そうじゃないって、自分に言い聞かせたって、駄目なんだよね」 そして又、昼の時や先刻みたいに寂しそうに微笑む。 「おっかげでさー、昨日からちょっと落ち込んでるの」 何となく、何があったのか想像はついた。 ちゃーんすだけど、多分、ちゃんすじゃない。 今先輩は、寂しそうでも笑っている。 今朝、わざわざ私を避けた理由も、恐らくそれだろう。 笑いながら話してくれてるから、もう今は大丈夫なんだろうし。 だから私はすねて見せるしかなかった。 「ふーんだ。だから私を避けたって、それどういう意味ですか」 ぷいっと顔を背けたけど、いつもの梓先輩とは違った。 いつもだったら慌てて声をかけてくるんだけども、不意に沈黙が降りてこっちが不安になる。 「せんぱ…」 振り向いて、私は息をのんだ。 「ありがと」 本当に触れる程近くにいて、先輩はそのまま私を抱きしめてくれた。 一瞬何が起こったのか判らなくて、頭の中が真っ白になる。 「もう大丈夫」 うん。うん。 言われなくても、それは判ってるよ。 …でもですね、先輩。それは油断って奴ですよ。 私の油断に急襲したからには、きちんとそれ相応の処遇って奴を教えてあげないといけないですよね。 「ぁん、ちょ、んんっ」 ほら、良い声で鳴いてる鳴いてる。 「んとっ」 「こんの馬鹿っ」 ああん。 振りほどきざま思いっきり突き飛ばされて、危うく田圃に落ちるとこだった。 もう少し触っていたかったなぁ…… 「何するんですか先輩♪これからですよ」 わきわきと両手をいやらしーく動かして、私はにたにた笑いながら近づいていく。 今度はさすがに警戒色を示して、先輩は険しい表情を作って飛び退くように後退っていく。 「こら、かおり!だからあたしは、あんたには会いたくなかったんだよっ」 「せんぷぁ〜いっ♪」 陸上部でも有数の脚力が、柔らかい地面を蹴った。 勿論、ただのマネージャーの私があの脚に追いつけるはずはない。 「本気で好きなんですよ〜っ」 「五月蠅い判ってる!だからイヤだったんだっ!」 それは判ってても、今朝や昼の先輩なんかじゃ、私はイヤだ。 やっと元に戻ってくれた。 梓先輩はこういう人でなくっちゃいけないって思う。 だから多分。 喩え振り向いてくれなくても追いかけてるのが、私らしいのかも知れない。 「ちくしょーっ、誰かたすけてーっ」 了