蜘蛛の糸 (痕SSこんぺ委員会 短編部門参加作品) 投稿者:夏葵 投稿日:1月17日(金)01時28分











 まな板には白布に包まれた鱈(たら)の切り身。名刺大に切りそろえられた出汁昆布がその隣に並んでいる。
 金ボールに張った清水に沈んでいるのは滑らかな絹ごし豆腐。笊(ざる)にあけられた長葱、春菊、白菜。
 千鶴は洗ったばかりの小さなボウルを乾いた布巾で拭っていた。
 この時期は指先が冷たい。
 
『もうすぐ帰るから』

 千鶴は先ほどの電話を思い返した。大らかで優しくて、限りない温もりに満ちたあの人の声。
 吐く息の白さまで伝わりそうなその息づかいに、彼女は緩む頬を押さえきれない。

 台所の窓から覗く空は、すでに山向こうまで茜色に染まっていた。
 窓枠に切り取られたキャンパスを悠然と飛ぶカラスたちもそろそろ帰り支度を始めているのだろう。
 思ったより時間がかかってしまった。千鶴は苦笑いをしながら自らの頭を小突いた。
 
 大学から帰ってきたのが三時をだいぶ過ぎた頃だったのは覚えているのだが、それからは時計を見る暇もなかった。
 久しぶりの夕餉の支度だけに腕が鈍っているのかもしれない。
 
 本来、妹たちがすべてを取り仕切る家事全般において彼女には居場所がない。
 特に食事に関しては梓が自らの役目だと頑として譲らない。梓が居ないときには初音か楓がその役を買ってでる。
 
 千鶴はだから食事の用意などほとんどさせて貰えない。
 手伝おうとしても丁重に断られる。――理由はわかっているけれど。
 
 だからこそ、こんな機会でもなければ。
 妹たちが修学旅行で揃って家を空ける、こんな時でもなければ。
 千鶴は熱湯に浸しておいた小さな陶器の小鍋を引き上げた。
 
「私の手料理なんて、食べさせてあげられないから…」

 列車から降りたあの人がこの家に辿り着くまで、あと三十分ぐらいだろうか。
 大柄な体躯を持っていながら、あの人は歩くのがとてもゆっくりだ。
 時には風景を愛でながら、ある時は少しだけ遠回りして。一歩一歩。何かを思い出すようにして彼は歩く。
 
 千鶴は拭き上げた小鍋をまな板の脇に置いた。

 一人前と言うにはやや小さめのその鍋は、確かお爺様の愛用の品だったと千鶴は記憶している。
 連れ合いを早くに亡くし、一人で晩酌を過ごす事の多かった老人は、毎回その鍋で豆腐や野菜を食していた。
 自分で用意し、自ら手をかけた料理に千鶴は飽きないものなのかと尋ねた事を覚えている。

『これはな。お前の祖母さんが生きてたときに良く作ってくれたものだよ。
 単純な料理なのに不思議と美味かった。あれこれ真似して作ってみるんだが、なかなかあの懐かしい味にならなくてなぁ』

 そんな鍋も祖父の死去とともにどこかへと仕舞われ、長い間眠っていたものだ。
 昨年の大掃除の時、彼が蔵の中から見つけて来るまでは。

 千鶴が彼にその鍋の来歴を語ってみせると懐かしそうに捧げ持って目を細めていた。
 大事にするから使っても良いかな、と聞く彼に、千鶴は頷いて見せたものだった。
 早速、次の日にはどこからか小さな可愛らしい七輪を買ってきて、束の間の晩酌を楽しんでいた。

「あ、いけない」

 千鶴は慌てて縁側に走った。
 もう七輪の炭が熾っているはずだ。デパートで買い求めた七輪用の炭はとても小さくて、すぐに炊きあがってしまう。
 七輪を覗き込んでみると、思った通り薄暮の風に晒されて、パチパチと音を奏でていた。
 七輪を居間のテーブルに運び、縁側のガラス戸を閉じようとして千鶴はそのままにしておく事にした。

 あの人は外の風が好きだ。
 彼が寝起きする客間にはエアコンがない。
 増築した姉妹達の部屋にはエアコンを入れてあるが、昔ながらの客間は風通しも良いためそのままにしてあった。
 一度、冷暖房器具を入れようかと千鶴が尋ねたとき彼は笑って断った。

「都会に比べれば、こっちは涼しいからね。それに俺はこの故郷の空気が好きなんだ」

 冗談めかした口調だったが彼の言葉は真面目だった。
 ここに住み始めて半年を過ぎた、ちょうど冬にさしかかろうとしていた今頃の時期だった。
 千鶴と彼は縁側に腰掛けお茶を啜っていた。

「だんだんと風も冷たくなってきましたね」
「そうだね」
「お酒も美味しく頂けますね」
「そんな事言って、あんまり飲みはしないじゃないか」
「叔父さまが飲んでいらっしゃるのを見るのが好きなんです。本当に美味しそうに飲むから」
「そうかな」

 叔父――柏木賢治は照れたように頭を掻いた。
 その表情がなんだか可愛くて笑いが零れそうになった。千鶴は口元を押さえる。
 彼女はそんな叔父の子供っぽい仕草が好きだった。

「そうですね。そろそろ鍋でもしませんか。妹たちも喜ぶと思いますし。私が腕を奮いますから」
「ははは、また梓に怒られるよ」
「どういう意味です?」

 千鶴は上目使いにうーっと軽く睨む。
 賢治は大きな手を千鶴の頭に伸ばした。艶やかな髪の感触を楽しむように指で梳く。
 千鶴はその指の動きに身を任せた。彼は穏やかな瞳をしていた。

「それにさ。千鶴も卒論やらで忙しいだろう。来年になったらもう少しは楽になるだろうから、その時に頼むよ」
「本当に楽になるんですか?」
「国立大主席の綺麗な姪が、鶴来屋に入ってきてくれるからな」




 切った白菜を古伊万里の皿に盛る。
 白菜の緑と白。伊万里の赤が鮮やかに際だつ。近くの農家から分けて貰った無農薬の白菜だ。
 一人分には少し多すぎる気もしたが、彼なら二・三人前ぐらいなら平らげてくれるだろう。

「お母様ぐらいに出来たら、あの人も喜んでくれるだろうな」

 勉強や部活にばかりかまけてないでもっと母の手伝いをすれば良かったと思う。
 両親が亡くなってからは料理を習う機会などなかったし、それどころでもなかった。
 一通りの事は教えて貰っていたが進んで料理を作る事はなかった。まだ梓の方が母親のやる事を近くで見ていたと思う。

 母はこの街で生まれた。ある老舗旅館の娘だったと聞いている。
 母は一人娘だったから、鶴来屋の跡取りである父と結婚したときに旅館は鶴来屋に合併されたという。
 見方では政略結婚とも言えるが母は恋愛だったと主張していた。
 
 母は大人しそうな見かけに寄らず社交的で、家庭料理よりも外食を好んでいた。
 旅館の娘らしく家事は一通りこなしていたが、常に千鶴に言っていた。

「女性はね。ご飯さえ美味しく炊ければ、それで良いの。料理は板前に敵うはずがないんだから。
 それに千鶴は几帳面だから、そのうちいい彼氏が出来たら自然と料理は覚えるわよ。料理の腕なんて半分は男性が決めるんだから…」

 そう言いながらも母の料理の腕前は玄人裸足だった。敵わないなと素直に思う。

 炊飯器のデジタル表示が残り五分を切った。
 それから蒸らしが十五分ほど。彼が帰ってきて、着替えをしてビールを飲む頃にはちょうど良い塩梅だろう。
 千鶴は冷蔵庫から塩辛を取り出した。拍子木に切っておいた山芋と和える。
 あしらいはとんぶりにした。
 
 どの小皿に盛ろうか。
 
 千鶴は背後にある食器棚を開け、重ねられている器を物色した。
 陶器よりも磁器が良い。なんとなくそう思った。
 鍋が金物であれば陶器の暖かみで合わせたかもしれない。
 でも今日はひんやりとして透き通るような磁器が相応しいように思えた。
 千鶴は九谷の小鉢を取り出した。
 
 盛りつけた鍋の材料と酒の肴を居間に運ぶ。
 すると七輪の向こうに小さな影が走った。千鶴は両手に皿を持ったまま立ち尽くした。

 小さな小さな蜘蛛(くも)だった。
 行き先を決められないのかそれとも降りられないのか、机の端まで進んだ後じっとしている。
 
 千鶴は虫の類が嫌いだった。特にゴキブリや足の長い蜘蛛は見るだけでも鳥肌が立ってしまう。
 小学生の頃、どうにか独り寝が出来るようになった夜、天井を這う黒い影に驚いて泣き出した事もあった。
 街路灯に群れる蛾はもちろんの事、小学生が争うように捕まえていたクワガタも、あの夏の夜を連想させるから嫌だった。
 
 虫の夢を見て泣きながら目を覚ますこともあった。
 そんな時、必ず母は千鶴を抱き寄せて背中をぽんぽんと叩いてくれた。泣きやむまでそうしていてくれた。
 母の胸の暖かさ。息づかい。母の声で千鶴は再び眠りに落ちる事が出来た。

 それは幸せな記憶だった。
 
 醒めれば絶望に彩られた無惨な現実が待っていたのだから。
 父と母を亡くした幼い姉妹達は、世間の荒い波の中に無防備なまま放り出された。
 まだ中学生でしかなかった千鶴に、忍び寄る醜悪な未来など予想できるはずもなかった。
 ただ悲しみ、途方に暮れるだけの毎日。
 
 頼る者も、信じられる者も、彼女たちの周りから居なくなった。
 かわりに入り込んできたのは隙を窺いながら徘徊するハイエナ達だった。
 思い出すのも苦痛なあの頃、千鶴を姉妹たちを救ってくれるひとは彼女の傍にはいてはくれなかった。
 
 蜘蛛は辺りを睥睨するかのように佇んでいる。
 千鶴は音を立てないようにテーブルに皿を置いた。あれほど嫌っていたのに、いまはもう虫を恐れる事がなくなってきている。
 それがあの人のおかげだと千鶴は判っていた。彼の存在のおかげで千鶴の欠けてしまった部分が補われつつあった。
 何年ぶりかに帰ってきてくれた叔父は千鶴に安心を与えてくれる。傍にいてくれるだけで千鶴は救われている。

「昆虫はなにもしないよ。彼らは季節を導く水先案内人だから。
 春を告げる蝶々。夏を呼ぶあぶら蝉。秋を奏でる蟋蟀。冬を教える蓑虫。みんな役割があるんだよ」
 
 疲れて帰ってきているのに彼はいつも優しい。
 千鶴の抱いている不安をあっという間に霧消させてしまう。だから千鶴は言える。

「もう蜘蛛も怖くないですよ」
「ははは、それは勇気があるな」
「勇気をくださるのは叔父さまがいてくださるから」
「俺がかい? それは恐縮だね」

 なんの気取りもない口調。
 彼の良さはきっと他人とはかなり違う。そっと見守らないとすぐに見過ごしてしまうような。
 それは優しさや思いやりと言った、ありきたりの言葉では言い表せない、彼だけの特別な雰囲気。
 傍にいるだけで落ち着けてしまう。些細な事にこだわっていた自分を恥ずかしく思えてしまう。

 彼の纏ったまるで太陽のような暖かさ。
 
 時に彼は、千鶴自身すら気付かなかった彼女の性格を見つけてくれる事がある。
 あれは秋の初め、夏の暑さがそろそろ翳りを見せ始めた頃だった。
 渡る夕方の風を眺めていた彼の背中に寄り添ったとき、ふと千鶴は茜空に漂う雲に気付いて「あ、イルカみたい…」と呟いた。

「イルカか…。面白いな。子供の頃ならそんな台詞も自然と出てきたけど、この年になるとそんな事も忘れてしまうものな。千鶴はきっと良いお母さんになれるよ」
「私が? お母さんに…」
「なんだいその鳩が豆鉄砲を食らったような顔は。俺の言った事はそんなに変かい?」

 千鶴は慌てて首を振ってそんな事はないと否定した。頬に血が昇るのを実感する。
 彼は笑うことなく、じっと朱に染まる庭先を見ていた。

「子供はいつも夢見ているからな。子供に触れ合う人間はその夢を大事にしてやらないといけない。鼻で笑っていたらいつまで経っても子供の気持ちなんかわからないさ」
「いつもこんな事ばかり考えている訳じゃないですよ」
「そうだな。…いやしかし、千鶴のそそっかしさを考えるとあながち的外れでも…痛っ!」
「お仕置きです」
 
 微笑を零しながらそう言って、千鶴はつねっていた彼の背中に頬を付けた。
 布地越しに伝わる暖かさに千鶴は不安になった。数瞬の躊躇いの後、彼女は掠れた声で聞いた。

「ここにいらした事を後悔なさっているのですか…」
「…いや。そんな事はないよ」

 言葉と裏腹に、千鶴の頬に伝わる震えは彼の逡巡を教えるようだった。
 或いは考えすぎかもしれない。でも今の千鶴は彼がいなければ生きてはいけない。温もりを知ってしまえば、それを失う事を彼女は極端に恐れてしまう。
 この人は私を囲ってくれる垣根みたいなものかもしれない。千鶴はそう思った。
 触れている肌から彼の汗の匂いがした。
 
 この匂いが好きなのだ。




 漆塗りの箸を二組揃えた。
 あと数分で彼は玄関の戸を開けるだろう。
 
 お帰りなさいの言葉を千鶴はまだかけた事がない。
 なんの気兼ねなくそれを言える梓や初音を羨ましく思う。楓は彼のために美味しいお茶を淹れられる。
 
 千鶴が彼のために出来る事はほとんどないに等しい。少し悔しい。彼は千鶴だけのものではないから。
 その笑顔は姉妹達に満遍なく降り注ぐ。判っていても千鶴の胸はざわざわと疼く。止められない。
 
 自分が臆病になっている事を千鶴は自覚している。
 彼に代わる人はもう居ない。そう思うと言いようのない不安が彼女を襲う。
 一人っきりだと感じる事がこれほど怖い事だとは思わなかった。

 もしあの人が居なくなってしまったら――。

 そう考えるだけで唇が震えてくる。
 地面が失われたように何もかもが覚束なくなる。
 新聞やテレビで交通事故や殺人事件が報道されていればすぐに目がいく。名前を確認してしまう。
 
 そんな心配も彼が戻ってきてくれる事で途端に消えてしまう。
 彼の顔を見ていれば、彼の笑い声を聞いていれば、そんな不安はあっという間に消え去ってしまう。

「編み物をするのかい?」

 叔父がここに帰ってきて暫くしたときの事だ。
 仏壇の前に座り、母の形見である毛糸針を所在なげに弄くっていると後ろから声をかけてきた。

「母が好きでしたから。…でも私には無理。編み物なんてした事ないし、それに不器用だから…」
「そうか。でも最初から諦めるのはどうかと思うな。君のお母さんだって最初から上手だった訳じゃないだろう?」
「…一度、編んで貰ったセーターはいろんな所から糸がはみ出してました」
「でも嬉しかったんだよな」

 彼はニコリとした。千鶴は頬を染め頷いて見せた。
 それから彼と両親の話をした。妹たちの前では決して話さなかった思い出話を次々と喋った。
 話す事は後から後から沸いてきて止められなかった。その時になって千鶴は気付いた。
 そうか。私は誰かに聞いてもらいたかったんだ。

「じゃあ今度、マフラーか何か、編んでくれないか」

 糸がはみ出していても良いからと言われて、千鶴は恥ずかしそうに承諾した。
 あれからもう結構な年月が過ぎている。彼のために編み始めたマフラーは手の平ぐらいの長さのまま、ずっと止まったまま。
 彼はもう忘れてしまっただろうか。
 
 遠くからバイクの排気音が聞こえてきた。耳鳴りに思えていた音が救急車のサイレンだと気付いて千鶴は不安になった。
 七輪の炭火が消えかかり始めていた。台所に行き、小さな炭を入れた袋を取ってきた。壁に掛かる大きな古時計を見て、ため息。
 駅に着いたと電話が来てから、もう三十分以上経過している。

「どうしたんだろう。なにかあったのかな…」

 千鶴の中の不安が大きく膨らみ始めた。
 意味もなく居間と台所を行ったり来たりする。気になっていた蜘蛛はもう視界にも入らなかった。
 手は無意識のうちに前掛けをはずしていた。考えすぎだと思えば思うほど、胸の圧迫感は強くなった。
 訳もなく腕を組み、ずれてもいない座布団を何度も直してみた。

 四十分が過ぎた。

 これまで彼が駅から三十分以上かかる事はなかった。千鶴の心臓は痛いくらいに焦燥を訴えるようになった。
 千鶴は玄関に向かった。ブラウスの襟元を直そうと胸に手をかけると床にボタンがひとつ外れて落ちた。

 何故? 迎えに行こうとしたこんなときに…。
 
 落ちたボタンを拾って握りしめる。
 切れた糸屑が、手の平からこぼれ落ちた。




 千鶴は門の外に出た。
 駅の方に向かって走り出した。走っているうちにだんだんと苦しくなってきた。冷たい風が顔を掠めていく。
 なぜだかわからないが涙があふれ出した。彼の名前を呟きながら坂を下り、表通りに出る。
 まだ姿は見えない。

 通り過ぎる人の群れを掻き分け、彼が歩いてくる方角へ向かう。
 いろんな人にぶつかりそうになりながら、千鶴は走った。怪訝そうな目で見送る人々は視界に入らなかった。
 目の前ががぼやける。色を失う。身体は水の中を駆けているかのように重かった。
 
 頬にあたる風がより一層冷たくなった。自分を囲むすべてのものがお前は一人ぼっちなんだと合唱しているようだった。
 千鶴は違うと呟いて頬を拭う。苦しい。あせりが千鶴の胸を焦がした。早く顔を見せて。
 いくつかの角を曲がり、横断歩道を渡って、川沿いの堤へと出た。
 千鶴は立ち止まった。

 そこに彼はいた。
 自転車を抱えている。横には少女が一人蹲っていた。
 小学生らしい女の子は手の甲で涙を拭っていた。
 
「賢治さん」

 千鶴は息を切らしながら名前を呼んだ。
 賢治は千鶴を見ると手を上げて笑った。賢治と女の子のところにちょっと年嵩の男の子が走ってきて頭を下げた。
 賢治は男の子に自転車を預けると、しゃがみ込んで女の子の頭を撫でた。一言二言話すとぽんと肩を叩いて立ち上がる。

「どうしたんだ?」
「――あんまり遅いものだから」
「あの娘が自転車の練習中に倒れてね。ちょっと膝を擦り剥いちゃったんだ」

 振り返ると少年と少女が頭を下げて、ありがとうございました、と声をかけた。
 賢治は照れたように頭を掻くと千鶴に視線を移した。その途端にまた涙が零れだした。

「どうした?」

 何でもないと言いたかったが声にならなかった。ただ首を横に振ることでその事を伝えようとした。
 賢治はそれ以上何も聞かずに、千鶴の手を取って歩き出した。千鶴は彼に引かれるまま、走ってきた道を戻っていく。

「ほら」

 賢治が千鶴の頭に手を伸ばした。風に煽られてボサボサになっていた彼女の髪を暖かな指先で梳いた。
 千鶴は立ち止まって彼のするがままに任せた。まだ涙は止まりそうになかった。
 
 山向こうに沈みかけた冬の太陽が、賢治の肩越しに最後の余光を降り注いだ。
 けれども闇に飲まれるようにそれは段々と消え去るのだろう。夜はまだ始まったばかりでしかない。
 
 千鶴は不安を押し殺すように、ただ泣き続けた。
 涙で、すべてが流れ去る事を祈って。



 ――了――