降れや雪 (痕SSこんぺ委員会 長編部門参加作品) 投稿者:名無しだもん 投稿日:1月17日(金)00時20分
 ベンチのしたに猫がいる。それに気づいて初音はしまったと思った。思っても遅かった。目が合ったという事実を、もうなかったことにはできない。足を止めて、雨が傘をうつ落ち着いた音を聞きながら、自分の目線よりずっと下にいる猫から逃れることはできなかった。
 もう十二月であるが、雪はまだ隆山におとずれていない。かつて有名な詩人の手になる小説で金沢が北国と呼ばれたのも昔の話で、近年は比較的雪の少ない冬が続いている。長期予報によれば、それでも年明けから厳しい寒波がくることが予想されているが、それでも「私の小さいころは、もっとものすごい雪が降ったものよ」という長女のこの季節特有の口癖を覆せはしないだろう。
 しかし雪にならぬ雨は冷たい。情緒的に言えば、雪そのものよりひややかに感ぜられることも少なくない。この日は、初音にとってそんな寂しい雨だった。
 猫はまだ小さい。というより、生まれて間もないように見える。初音は猫の成長に詳しくないのだが、それでも長くて二ヶ月だろうと見当をつけた。彼女のちいさい掌にのるほどしかないのである。空からの冷酷な仕打ちに体をぬらし、泥で身は汚されて、まだおさない体の線は、ひどい震えのせいで安定することがない。べたりと体にはりついた毛並みは、その寄る辺なさを証明するように、子猫をますますちいさく頼りないものに見せていた。
 猫がいちど鳴いた。さらにもういちど、たてつづけに鳴いた。目は初音のほうを向いていたが、見ているのは初音ではなくて、もっと遠くにある何かである。その証拠に、初音が後ろを見てみても、意味のあるものはなにも見つけることができなかった。
「にゃあ」
 初音もまた、猫にあわせて鳴いてみた。そうすることで猫と感情を共有できるのではないかとの、原始的な、しかしそれゆえに巧まぬ心延えがあった。感ぜられたのは悲しさだけだった。姉たち三人に見捨てられて、世界にたったひとりになってしまったような錯覚がよぎって、それで初音も悲しくなった。
 初音は子猫をてのひらにとりあげた。あつらえたように手に収まる体は強く震えていたのだが、じっさいにそうしてみると、それ以上に心臓の鼓動がびっくりするほど早くて正確であることにおどろいた。これがいのちということなのだ。それに気づくと、初音はもうどうしようもなかった。
 千鶴が喜ばぬことを知りながら、ほかにとるべき行動なんてなかったのである。

 千鶴は猫が嫌いだ。犬も嫌いだ。鳥や亀や鼠のたぐいも嫌いだろうが、敢えて確かめた妹はいない。嫌いというより、正確には受け入れようとしない。妹たちがそれぞれいちどは口にしたことのある、ペットを飼おうという提案に、首をタテにふったことがないのである。
 だから隠す必要がある。すくなくとも(「わからずやの」)長女から。初音は玄関を少しだけ開けて、タタキの靴を確認した。先に帰っている者はいない。ふつう、いちばん最初に帰宅するのは初音である。そもそも施錠されたものを初音が開けているのだから、先乗りしている者がいるわけはないのだが、そんな秘密めいたやり方を、初音のおさなさは楽しいものに感じていた。
「ここがあなたの新しいおうち」
 母親ぶって言い聞かせながら、ちいさくしか開かれていない玄関に、スパイさながらに体をすべりこませる。
 あがりこむと、ただちに台所にむかった。初音の好意のあらわれ方は、もっとも素朴なかたちで子猫をもてなそうとした。冷蔵庫のなかには千鶴が愛飲する牛乳が豊富にある。歓待といえば食餌につながる単純な精神が、その不適切を見極められるはずもなかった。
 しかし濡れた体をそのままにはしておけない。まずは猫を食卓にのせておいて、浴室からいそいそとタオルをもちだす。水を吸ったボロのような猫をぬぐってやりながら、初音はそんな他愛ない行為にすら楽しみを感じた。末っ子である初音にとって、面倒を見られることはあっても見る機会はまずなく、その意味では新しいきょうだいでもできたような、いっそ血をわけた子供といってもよいような下にもおかぬ扱いぶりであった。
 猫は目を閉じて、タオルごしの愛撫に幸せそうに身を任せていたが、ふと台所の入り口に目をむけた。初音もつられて同じ場所を見る。
 楓が無言で立っていた。
 制服姿で、まだ鞄を手にしている。いま帰宅したばかりなのだろう。初音が夢中で気づかなかったというのもあるが、それ以前に楓にはふしぎな歩きかたをする癖がある。意図しているのかしていないのか、どんなコツがあるものなのか、足を運ぶときに音というものをほとんど立てないのである。
 楓はまず初音を見て、ただいまを言うかわりに頭をすこし下げた。そしてつぎに、目線だけを動かして猫をとらえる。
「――猫ね」
 見たままを口にした。はじめて猫を見るような眠たい物言いだった。首をかしげて、初音と猫を交互に見つめる。その行動にも視線にも明らかな感情は込められていないのだが、うしろめたい初音にはなんだか非難されているように感ぜられて、居心地が悪い。
 しばらくしてから、楓はやっと妹に視線を固定した。
「その猫は」
 問われて、初音は目をそらした。自分が間違ったことをしたとは思わないが、ペット無用が千鶴の方針であることも承知している。言うべき言葉が見つからなかった。
 楓はなにをどう考えているのかわかりにくい顔色で、とくべつ追求するようなこともしなかった。そのかわり、
「千鶴姉さんが帰ってきたら、ちゃんと自分で説明するのよ」
と言った。
 初音は目をそらしたままで頷いた。行動に責任をもつことに同意したというよりは、たんなるその場しのぎに近い。それをどう理解しているものか、楓も同じように頷いた。約束だ、と念を押したりはしない。伝えたからには、あとは初音の問題である。
 楓は自室にもどるために踵をかえした。と、なにか気になることがあるみたいに首をひとつかしげてから、首だけで初音に振りかえった。
「それから、動物を食卓にあげたりしないこと」
 初音は黙って猫を食卓から抱き上げた。それを確認して、ひとつ頷き、どうにもわかりにくい姉はようやっと自室に去った。
 それからは追われるようなあわただしさで子猫に牛乳をあたえ、そのあとは夕食まで自室にひきこもってしまった。もちろんそれで猫は当面かくまうことができる。しかしそれ以上に、みずからがほかの姉たちから身を隠したがっている心の動きに、初音aは気づくことがなかった。

 こんな日にかぎって、めずらしく千鶴は機嫌が悪かった。ひとつの企業の、まがりなりにも頂点として、毎日が楽しいだけであろうはずがない。たいていのときは仕事で抱えた感情を家庭にもちこまないように努力していた。妹たちに余計な気を使わせたくないからであるが、それは無理をしているということだ。たまに忍耐のほころびるときがある。
 千鶴は不機嫌になると途端にしゃべらなくなる。なにか口でキイキイ言っているうちはまだ余裕のある証拠だ。仕事で四方に愛想をふりまくことを強制される立場にある人間がしばしばそうであるように、彼女もまた言葉でのやりとりに猜疑心をいだいている。だからほんとうになにか言いたいときには、かえって無口になるのだ。
 妹たちへの責任感から、家に帰れば「ただいま」を言い、食卓については「いただきます」を言う。しかしそうやって最低限のことを口にすればするだけ、あとにつづく沈黙に妹たちは萎縮するのだった。
 食器と箸と咀嚼の音が静かに響くなかで、初音はずっと顔をあげられずにいた。うつむいたまま機械的に食事を摂る。千鶴に、というより柏木の家長に、言わねばならないことがある。でも言えない。沈黙の圧力をはねのけるほど初音には膂力がなく、いまの千鶴が初音の提案を肯定的に捉えてくれるとはとても思えないとの予想が、なによりぐずぐずさせる要因であった。
 初音はちらりと楓を見た。楓も、箸をくわえたまま初音を見ていた。あわてて目をそらす。楓はなにも言ってこない。この件にかんするすべてを自分の管轄からはずしてしまったような、興味のない目である。しかし初音を見ていたということは、表にあらわれるほどには無関心でないということだ。それを考えると、初音はますますいたたまれない気持ちになる。
 あまり噛まずにほとんど飲み込むだけのやり方で、初音は食事を済ませた。千鶴は行儀の悪い食べかたを咎めるようにちろと睨んだが、それだけだった。最後の皿を空けるとすぐにごちそうさまをし、逃げるように食卓から立ち去った。
 ――どうしよう。言えなかったな。
 後ろ髪ひかれる思いが残る。いますぐにでも引き返して、姉に事情を話すべきだ。そうしなければ話がなにも進まないことを知りつつ、現実にはどうにもできない。物事が重要であればあるだけそれに近づくことが敷居高く感ぜられる逃避的な心理で、初音はけっきょく自室の扉のまえまで来てしまった。
 ここが最後の一線である。いま言えなければ、けっきょく千鶴にばれてしまうまで自分からは言い出せまい。いつかはばれる。ばれるくらいなら自分から言うほうが話がより容易になる。でも、それができるくらいなら悩まない。最後の葛藤だった。
 猫はずいぶん疲れていたようだ。体を拭かれて食事をすませ、安心できる環境であることを知ると、初音のベッドで眠ってしまった。その安らいだ子猫の寝顔を思ったとき、初音はぜんぶどうでもよくなった。もういちど猫を見てからでも遅くはない、そんな誤った結論に達してしまう。いや、それは実は結論ではなくて問題の保留なのだが、その弁別がつけられない。子供なのだ。
 初音は許されない扉を開けて、次に部屋のなかを見て大声をあげた。思いもかけぬ惨状だった。

「そりゃあ初音、子猫に牛乳のませたらハラこわすよ」
 呆れたように梓は笑った。知らなかったのか、と尋ねられて、初音は無言で頷いた。
 姉妹総出で部屋を片づけたあとだ。牛乳のせいで腹をくだした子猫が、部屋のあちこちで粗相していたのである。軟便がしみついた本やシーツは捨てれば済む。しかし汚れたじゅうたんはほどこしようがなかった。梓の苦闘も報われず、きれいにしようと思えばじゅうたんそのものを取りかえるしかない。経済的な問題はない。しかし千鶴の規範がそれを妨げるであろう。
 この片づけで初音は役に立たなかった。季子として他人の面倒を見たことがないという素性は、こんなとき雄弁にあらわれる。たんに経験上のノウハウという点だけでなく、下の世話にたいしての文化的な嫌悪は重大だった。その対極にある態度は千鶴のもので、歳のはなれた妹たちの面倒を見てきた彼女には排泄物や吐瀉物はものの数ではないのである。そこに人と猫のちがいはなくて、生き物の面倒を見るということがどういうことであるのかの現実があるのみだった。
 初音がおどろくほど千鶴は冷静だった。言われずとも、ここにいたる過程をだいたい想像することができたのである。そして騒動の発端のひとつが自分の不機嫌にあることは明白だった。猫を隠していたことを責めようとはしなかった。
 かわりに、全員を居間に集めて、初音にたいして冷徹に宣言した。
「うちでは、ペットは飼えません」
 核心だけを伝えた。
「どうして」
「どうしても」
 説得力はなくとも、異議を完封するだけの権威が千鶴にはあった。正確に言えば、それだけの権威を妹たちは長女に認めていた。家父長は家父長であるという理由だけで家族に絶対服従の命令権を持っているのと同じ理屈で、彼女は妹たちの支配者であった。権力が自己の意思を他人の行動にたいして押しつける可能性であるとするならば、千鶴は秩序を守るためときとして暴君としてふるまうことも辞さなかった。
 しかし家長の恣意のおよばぬ部分もある。初音は千鶴の欲しいままの人形ではなかった。千鶴の命令は、子猫と競合させたばあい、どれだけの価値があるだろうか。捨てられて行くところのない、放っておけば死ぬだけのいのちを、見捨てることを許すだけの正当性をもつだろうか。初音はおさない頭で、必死に計量し、いくども試し算をした。回答はつねに同じだった。
 それでも、初音は黙っていた。
 話が通ったと思った千鶴はため息をついて、窓の外を見た。朝から降り続いた雨はもう止んでいる。
「もとの場所に返してらっしゃい」
 そう宣告した。
 しばらく千鶴を睨みつけてから、初音は無言で立ちあがった。千鶴が梓に目配せする。梓はその意図を汲んで立ちあがった。初音の肩を抱いて、やさしく導く。いま猫は、玄関におかれたダンボール箱のなかで、自分の運命も知らないまま眠っている。新しい家を得て安心しているように、誰もが思えた。僥倖は現実に砕かれる。
 ふたりは家を出ていった。箱は初音が抱えた。箱が大きすぎてひどく持ちにくそうだったのを、大事そうに扱った。子を抱く母にも、お気に入りのおもちゃを抱える子供にも見えた。そのふたつの曖昧な影が、そのまま初音のいまの精神状態であった。
「いいの、姉さん」
 居残った楓は、初音と猫より、千鶴のことを心配している。表に出さない千鶴の苦悩の深さを見逃さなかった。楓はいつもそうだ。いつも人とは違ったところを見て、違ったように考えている。ずれている、とも言いうるその決定的な感性のずれは、彼女なりの賢さとやさしさのあらわれであると千鶴は信じていた。
「いいのよ」
 楓はなにも言わず、テーブルに置かれた姉の手に、自分の手をそっと重ねた。そのおかげで千鶴は、やっとすこしだけ笑うことができた。

 初音の足どりは重い。それを急きたてるようなことを、梓はしなかった。妹のちいさなコンパスにあわせて、ひどくゆっくり、もの憂げに歩いた。初音の肩を抱いたまま、ふたりともなにもしゃべらない。冬の夜特有の幻聴を引き起こすような静けさが、気に障るほど身に凍みた。
 五分も歩いただろうか。歩みが遅いせいでほとんど家から離れていない。とつぜん、初音が足を止めた。
「初音」
 梓が顔をのぞきこむ。初音は気難しげに眉をしかめて、くちびるをとがらせていた。
「初音」
 もういちど名前を呼ぶ。初音は応えない。と、急に肩にかけられた梓の手を跳ねのけて、家にむかって駆けだした。
「初音っ」
 両手に荷物を抱えた女の子の足に追いつくのは、梓にとって難しい作業ではなかった。しかし追いついても止めずに、初音と並んで梓は駆け足をつづけた。やりたいようにやらせるのがいちばんだ、と思った。
 門をぬけて玄関を開けはなち、靴をとばして框をまたぐ。後についていた梓がその靴を几帳面に整えた。ひとりにあそこまで興奮されると、もうひとりはいくらかうんざりするほど冷静になるものだ。
 玄関の音から近づいてくる足音まで、一連のものすごい物音に千鶴も楓も驚いた。なにもできぬまま、音がどんどん大きくなるのを聞いているだけである。すぐに襖に初音がたどりついたのを見て、ああやっぱり、と千鶴はぼんやり考えた。
 千鶴と目があうなり、初音は叫んだ。
「お姉ちゃんの馬鹿あ!」
 直後、初音の目から涙が堰を切ってあふれた。ひどく逆上しているせいで全身が小刻みに震えている。言いたいことが山ほどあるが、感情の乱れのせいで言葉にならなかった。その罵声だけが初音のせいいっぱいだった。
 千鶴はそれに驚くより面食らった。これほど取り乱す初音を見たことがないからで、それはこれまでの初音の我慢がどれほどのことであったかのよい証左であるのだが、それゆえに千鶴はこんなばあいにたいする正しい対処を知らなかった。
「うちでは、ペットは飼えません」
「お姉ちゃんの馬鹿あ!」
 さっきよりも大きい声でなじられた。自分の言葉が実効力をともなわないことを認めないわけにはいかなかった。初音の不躾を咎めようと楓が口を開きかけたが、千鶴はそれを手で制した。争っても無駄なときがある。それはわかる。問題は、いまがそのときなのかどうかだ。
 初音のうしろに立った梓が、初音の肩に手をおいて千鶴の名を呼んだ。それ以上は言わなかった。別のやり方を望んでいることは、目を見ればわかった。困り顔で楓は千鶴を見ている。
 それぞれの妹が、それぞれの思いで長女を見つめていた。
「ひきとってくれる人を探します。新しい飼い主が見つかるまでよ」
 重圧に千鶴が折れた。疲れ果てたようにため息をつき、目頭を指でつよく押さえつける。それ以上の譲歩は、千鶴にとって考えられなかった。

 猫はユキと呼ばれることになった。薄汚れた体を洗ってやると、おどろくほど毛並みが白かった。これから冬の厳しくなってゆく時節にふさわしい名前に、初音の発案によるこの名前を梓も楓も歓迎した。ただ千鶴ひとりが、つねに「あの子」か「この子」とだけ呼ぶようになる。
「なんかあるのか」
 初音がユキとともに眠り、千鶴も早々に部屋に引き取って、梓と楓だけが居間でお茶を飲んでいた。
「なにが」
 心当たりのないような顔で楓が聞き返す。が、ほんとうに心当たりのないのかどうか、梓にも判断できないほど楓は表情に乏しかった。
「千鶴姉があそこまでこだわる理由だよ」
 態度が不自然なほど頑固だ。べつに千鶴本人が動物ぎらいという事実はないし(すくなくとも梓はその事実を認識していない)、千鶴にかぎらず家族の誰かにアレルギーがあるということもない。一軒家だから、世話やしつけの問題はあるにせよ、一般家庭よりもペットを飼うことにたいするハードルはずっと低いはずである。なにか特別な理由があるにちがいなかった。
 そこへ、楓の態度である。初音の癇癪に最後には戸惑ったようだが、それまではずっと千鶴の味方をしていた。楓が猫嫌いということもないはずで(梓の認識によればむしろ好きなはずだ)、その無条件の支持ぶりには、背景になにかあるように思えてならないのである。
 梓が試すような目で楓を見ているあいだ、楓はずっと空になった茶碗に目を落としていた。梓は急かさなかった。依怙地さにかけて楓は千鶴に劣らない。無理に口を割らせようとするのは逆効果であることを、生活のなかで身をもって体験している。じっと待った。
「私も連れて帰ったことがあるの。犬だったけど」
 初耳だった。そして、じぶんがそのことをまったく知らなかったという事実を鑑みれば、ことの顛末はだいたい理解できる。
「で、また捨てに行かされたのか」
「ううん。千鶴姉さんは飼うことに賛成してくれたわ」
 梓は率直に驚いた。どうも千鶴の方針が理解できない。猫はだめで犬ならいいとか、そんな単純なことでもないだろう。
「それ、いつごろ」
「私が小学校の五年か六年のころ」
 とんでもない昔というほどでもないが、人ひとりの考えが変わるのに十分な時間ではある。いずれにしても、飼うことに賛成されたならされたで、その犬の顔を梓がいちども見たことがないのはどう考えても解せなかった。
「叔父さんが殺したの」
 意外な話ではなかった。それでもそのことを考えていなかったのは、できれば考えたくない話題だからだろう。梓は顔一杯に渋面をつくった。賢治が興奮すればどうなるかよく知っている。たまたま発作的な熱狂に犬が居あわせれば、どうなるかは容易に想像がついた。
 しかし楓の話は、梓の想像とはすこし違っていた。
「興奮しているところに居あわせたんじゃなくて、犬を見てひどく興奮したの」
 絶望的な状況に、梓は掌に顔を埋めた。
人間とペットは、情緒的な面はさておき、法的関係にあっては主人と奴隷にすぎない。生殺与奪の権利はすべて主人にある。奴隷はモノでしかなく、他人からの損害にはその代償を請求できるが、主人による暴力からはなんの保護も受けない。唯一頼りになるのは人間らしい倫理であるが、賢治のばあいそれがどれだけ期待できただろうか。晩年にそれだけの自制があるくらいなら、彼は自殺などしなかったであろう。むしろこの件がきっかけのひとつであったとしてもふしぎではなかった。
 その日、千鶴は悟ったのだ。柏木の家系にとって、小動物は血をたっぷり含んだボロ雑巾くらいの価値でしかないことに。千鶴も楓も、犬の生き血搾りをまだ夢に見る。こんな家系と愛玩動物の関係はふたつしかない。個々の個性も把握できないほどの数を常にそろえてひとつひとつ消費していくか、そもそも関係をもたないかだ。千鶴は最大限のやさしさで、後者を選んだ。
「でも、あたしたちは叔父さんや耕一みたいな興奮はしないし……」
「ぜったい?」
 その保証ができる人間は、すくなくとも地球上に誰もいない。梓の直情がときに鬼の力を持て余すことも事実である。現在他人に危害を及ぼすほどでないとはいえ、それが将来変わらないと主張するほど、梓は楽天的ではなかった。
「でも、だったら、よく千鶴姉は承知したな」
「条件つきだったでしょう」
 梓はため息をついた。そんな背景であの譲歩がなされたのだとすれば、ウヤムヤのうちにユキが柏木家に居つくということはありえまい。いつになるかわからないが、近い将来、必ず千鶴は里親を探し出し、柏木家からユキを去らしめるであろう。
「この話、初音には?」
「言ってない。言わない。言うとしたら千鶴姉さんだと思う」
「――そうだな」
 千鶴は、梓が思う以上にずっとしっかり考えている。任せておいて間違いはないはずだ。

 ところが梓の信頼に反して、千鶴はなかなか里親を見つけてこなかった。これは千鶴が熱心でなかったからではなく、むしろその反対で、真剣に探すがゆえに注文がうるさかったからである。
 山積みの仕事もそこそこに、電話で、あるいは直接対面して、また足立にも手伝わせて、人脈のかぎりを尽くした。候補はきわめて容易に、しかも数多く見つかった。千鶴の(というより鶴来屋の)関係者には裕福な者たちが多いから、その意味で彼ら以上の適性はない。ただ、千鶴には、彼らのほとんどにたいしてあまり好い思い出がないのである。彼女が会長に就任するとき、彼らにどれだけ悩まされたか。疑心暗鬼であるとしても、人間的に信頼はしていなかった。
 逆に、千鶴に信頼できる少数の友人たちはみながまだ若く、猫の面倒を見られる余裕などなかった。たとえば耕一。
「足立さん。猫飼いません?」
「ウチは年寄り世帯ですから。十五年先も生きてる自信はないです」
 老い先を楯に取られては強く勧めることもできない。生真面目すぎてうまい落しどころを見つけられないでいる千鶴に、子どものころの不器用な「ちーちゃん」の影を見て、不謹慎と知りながら足立は微笑まずにはいられないのだった。

 四人姉妹の、ユキにたいする接しかたはそれぞれだった。
 主婦役にふさわしく、ユキの世話は事実上、梓の責任だった。面倒の見方は堂に入っていて丁寧だったから、ユキも梓に難なくなついた。傍から見れば人間と猫の好ましい関係も、当の本人は違う感想を抱いている。
「こいつ、あたしのことを自動エサ出し機かなにかと勘違いしているよ。ぜったいそうだ」
 ペットを飼う家庭の主婦が抱く強迫観念から、梓もまた逃れられないでいた。
 ふだん、家のどこにいるとも知れないユキが、空腹のときにだけ梓のもとにやってきて声高に不満を訴える。人間の食事のために台所に立っているときが多いが、基本的に時と場合は選ばれない。手を離せなかったり鬱陶しかったりで、無視を決めこんでいると、抗議とばかりに爪を蹴立てて梓の背中にとりついた。
 そのたびに梓は奇声をあげて、反射的にひっぱたこうとするのだが、ユキはずっと敏捷だった。手が伸びたころにはもう間合いを離れて、ふたたび不満げな泣き声をあげるのである。本気を出せばどれだけでも捉えられるのに、相手の上手を認めているのが梓の甘さであり、世話好きな性格のあらわれだった。
 楓とユキの関係はもっとも不可解である。ほかの姉妹は両者が親しそうに遊んでいるところを見たことがない。楓はユキを無視しないが、いつも距離を置いている。撫でたり抱いたりをすることがない。どちらかといえば、無関心をつらぬいていた。
 ユキのほうでもそれを察しているのか、みずから楓に甘えたりすることがなかった。無闇に距離をつめたりすることがなく、ふたりのあいだには一種の緊張が見てとれた。
 ところが楓がこたつでうたたねをしているときなど、きまってユキが楓の胸に頭をこすりつけて眠っているのである。楓もそれに気づいているのかいないのか、ユキの背中にやさしく手をあてていた。姉妹たちはこの気ままな、しかしふしぎと波長のあっている関係をなかば呆れながら、いっぽうでどこかうらやましい思いで見つめるのだった。
 初音はとにかく溺愛した。猫かわいがりという言葉の、まさにそのとおりだった。自分では弟ができたようなつもりでいたが、周りが見ればままごとの母親役でしかなかった。しかしじっさいにユキの面倒を見ていた梓ですら文句のひとつも言わなかったから、けっきょくはみな末っ子の都合の良い母親ぶりを暖かく見守っていたのである。
 ユキをめぐって動きだした柏木家の新しい流れに、ひとり距離を置いているかに見えたのは千鶴である。じっさいには里親探しに煩悶していたのであり、妹たちが考えるほど無関心ではいられなかったのだが、自宅を離れて貰い手を探していた状況など、ほかの者にはわかるはずもなかった。
 いずれにしてもユキに直接かかわることを千鶴は避けていた。無視していたというほうが正しい。家庭内に猫などいないかのごとくのふるまいだった。言及する最低限の必要があるばあいでも、名前でなく指示代名詞でしか呼ばなかったから、良く言っても冷遇である。
 この態度は千鶴と初音の関係に溝をつくらずにはおかなかった。初音は自分がわがままをとおしていることを自覚していたが、それもひとつの命を救うという正当性に裏打ちされていると信じていたから、子どもらしい正義感に反省はなかった。いっぽうで千鶴も、この問題にかんしては自分が悪役であり嫌われ役であることを知っていたから、それが引け目になって初音に常のように接することができないでいた。
 しかしユキの件がどうあれ、もっとも根本的なところでふたりは互いに信じ、好きあっているのだから、素直に和解できないことが心のこりになってしかたがない。

 ある日、初音は学校行事のつごうで、平日であるにもかかわらず正午すぎに帰宅した。柏木家の正門まえに車がつけられていた。鶴来屋の社用車で、千鶴の専用車だが、運転するのはほとんど足立である。千鶴は大型の乗用車をどこかにこすらずに運転することができない。いっぽうで足立も、千鶴の運転手をするような軽々しい立場にはまったくないのであるが、仕事の関係というよりも、むしろ親子の愛情(とびきりの愛娘にたいする父親のやつだ)でもって千鶴の通勤や、あるいは外出時に車をまわすのをひそかな(公然の秘密はヒミツなのだ)楽しみとしていた。
 はたしてこのときも、運転席にいたのは足立だった。
 足立は近づいてくる初音に声をかけた。初音もあいさつを返して小走りに近寄る。用向きを尋ねる初音に、足立は困り顔を見せた。
「会長がどこにいるか、わからないかい」
 もちろん知らない。たったいま帰ってきたばかりだし、千鶴のお昼の習慣など聞いたことがない。足立がこんなところを探していることすら驚きだった。
 すくなくとも現状において、広告塔以上の役割を持たない千鶴には、昼のひとときというのは地元の、あるいは遠隔地の、さまざまな種類の名士たちと会食するための重要な時間である。妹たちのことも考えてできるだけ自宅で食事を摂るようにしていたから、それだけいっそう昼食の時間は千鶴の自由にはならなかった。
 その千鶴が、さいきん昼休みになると、そそくさ会社を抜け出しているという。
「どこかでひとりでごはん食べてるとか」
「それならわかるはずなんだけどねえ」
 隆山一帯のサービス業、ことに飲食店で、千鶴の顔を知らぬ者はない。あたりを牛耳る企業の会長であるし、ましてマスメディアに露出することもある有名人である。足立がすこし探索の指先を伸ばせば、情報の断片なりとも見つからぬはずがなかった。
「じゃあ、やっぱりおうち?」
「ほかに行く場所があるとも思えないんだがなあ」
 けっきょく隆山にあって私的な領域など、千鶴には数少ない。自宅をおいてどれだけの場所があるか。が、その自宅にも鍵がかかっていて、だれかいる気配がないのである。
 足立には千鶴の指示を仰がねばならない用事がある。
「急ぐ用事じゃないんだけど、どうも最近様子がおかしいから、気になっててね」
 と言われても、初音にはなんの心あたりもなかった。千鶴の仕事ぶりにたいする無知と、はじめて聞かされる長女の窮屈な生活に目をまわしている。私人としてだけでなく公人として、千鶴は初音に想像もつかぬほどの重大な地位にあることをいまさら思い知らされた。
 と、
「初音。足立さん」
 うしろから声がした。当の千鶴だった。なにかおおきな荷物を両手にかかえて、目をぱちくりさせながらつっ立っている。
「なんですか、こんなところで」
 お互いさまである。が、千鶴はそんなことに気づかない。ただふしぎそうな顔をしていた。
 足立がなにか言うよりはやく、初音が口を開いた。
「なに、その袋」
「これ?」
 千鶴はいま気づいたような顔で両手の荷物に目を落とし、瞬間気まずそうな顔をした。
「ねえ。なに、その袋」
 初音はなおも言った。顔が笑っている。それがなんなのか、半透明の袋ごしに一目瞭然であるにもかかわらず、聞いている。意地悪なのではなくて、千鶴の口から直接答えを聞きたいのである。
「トイレ用の砂と離乳食よ」
 千鶴はついに白状した。
 行方の追えぬはずだった。いかに鶴来屋でもペット産業とはほとんど無関係であるし、だいいち千鶴が行ったのはさいきん都会からやってきた脱サラの経営するペットショップで、隆山の古い人間関係の外にある。それゆえに客足が乏しかったから、いっそう千鶴の足取りが追えるはずもなかった。
 昼間でも世話は必要である。とくに子猫はそうだ。学校に通う妹たちが昼休みに抜け出すことは難しい。あくまで比較の問題として、自由が利くのは社会人の千鶴以外になかった。
 夜間の世話は梓がした。が、誰も帰宅しない柏木家で、ユキがひとりで遊んだものを散らかしたり、餌をあたえ、トイレの砂をかえて躾をし、あるいは粗相の始末をしていたのは千鶴だったのである。
 初音はにこにこ笑いながら、跳びつかんばかりの勢いで千鶴の腕にかぶりついた。
「こら!」
 ただでさえ重い荷物に初音の体重が加わって、腕が抜けるほどの手応えがある。
「やめなさい初音、人前で。重いんだから。どうせなら荷物をもってちょうだい」
「うん」
 言うだけで行動にうつさない。二度とこの手を離さないと言うように、甘えて千鶴の腕にぶらさがるだけだった。
「初音!」
 必要以上に声を荒げて叱責するのは、もちろん照れ隠しである。騒ぎながら門をくぐるふたりを尻目に、足立は車をだした。仕事は大事だ。だが野暮は罪だ。遅れたぶんは、あとで馬車馬のように働いて取り戻してしまえばよいのである。大量の仕事をまえに千鶴がひいこら言うのを想像するのは楽しく、それを自分が助けてやるのは喜びだった。善意が倒錯した喜びを見出すことなんてめずらしくないのである。

 別れは石火の速さで忍び寄っていた。
 ユキが餌を食べづらそうにしているのに気づいたのは梓である。ちょっと口にふくんで、まるで歯になにか挟まっているかのようにさかんに口内を手でこそぐような仕種をする。そのせいで口からよだれを垂らすこともあった。手にすこしだけ血がついていることもある。こころなしか体が熱いようにも思えた。
「千鶴姉。病院につれていってやりたいんだけど」
 そろっての夕食のあと、梓はそう頼んだ。
 千鶴はひとつ頷いて電話にむかった。千鶴がユキを回避するのはやさしさのゆえである。病気を放置しておく意思はさらさらなかった。
 電話の相手は隆山のふるい寄生地主の家柄で、戦後もなお広大な土地を有していた。決してよい評判のない男であるが、犬の育成には一家言をもっていると言われていた。良い動物病院を知っているだろうと考えたのである。妹たちは千鶴にべったりくっついて成り行きを見守ろうとした。千鶴の原則としてユキが家族としてでなく客として扱われることを理解していても、もうユキは彼女たちの大事な一部になっていたのである。
 じっさい彼は良い病院を紹介した。が、それまでにさんざんもったいつけられ、世間につきあわされ、ときにビジネスに話がとび、私的なことまでも尋ねられた。こんなくだらない会話を強いられるのは千鶴にとって日常茶飯事なのだが、彼女が気にしたのは、それが妹たちの目の前でおこなわれたことである。いいかげんな世間話は大嫌いだが、そのいいかげんな話にいいかげんな対応をしている姿を見られるのは苦痛だった。
 翌日の昼食をともにする約束をして、それを形に早々に電話を切った。妹たちのうがかがうような目が痛かった。被害妄想だと知りつつ、それが千鶴の不誠実を軽蔑するように見えてしかたないのである。
「さ、良い病院を紹介してもらったから、さっそく電話しましょう」
 取り繕うようにそう言った。
 病院は予約制で、診察は七時までだったが、予約は九時まで受けつけているという。電話で動物の種類と症状を伝え、予約の交渉をした。予約は初音の名前で取られた。
「で、お名前は」
「は? 柏木、柏木初音ですが」
「ああ、いえ、猫ちゃんの名前です」
 千鶴はとなりにいる初音を見た。ユキを抱いて千鶴を見上げている。ユキがくしゃみをした。
「――ユキです」
 初音がほんとうにうれしそうに笑った。梓も楓も笑っていた。事情がどうあれ、千鶴がユキの名前を口にするのを聞くのは、妹たちにとってこれがはじめてだった。

 医者には初音が行き、梓が同伴した。
 病状はあいかわらずだったが、食欲そのものはあったからふたりともあまり心配はしていない。メシを食えれば大丈夫だという素朴な信仰は、とくに梓に強かった。ただ、ひどく食べにくそうにしているのは、口内炎の症状があるように思える。やはり放っておくことはできなかった。
 医者の診察は、こんなところがはじめてのふたりがおどろくほど丁寧になされた。体重を量ったり、外見のチェックをする。そのあいだにもふたりから拾った経緯やふだんの生活を聞き出しているのは、問診というより世間話のようで、安心してそれに答えることができた。採血のあと、しばらく待つように言いおいて、医者は診察室をはずした。
 ずいぶん長くまたされたような気がした。慣れない診察室にあるものといえば寄生虫や病んだ犬猫の写真くらいで、居心地のいいものではなかった。十五分か二十分ほどであったのが、ふたりだけではえらくもてあました。だからといって悪い予感がしたわけではなく、純粋に不慣れなだけである。
 医者は戻るなり言った。
「患部にある種の白血球が異常に集まってます。そのせいで口のなかに潰瘍ができてますね」
「治りますか」
 初音と梓が同時に尋ねた。
「治ります」
 読み上げるような調子で答えた。ふたりが安心するよりもはやく、言葉を継いだ。
「潰瘍は完治する性質のものです。が、この子、エイズをもってますね」
「――は?」
 声をあげたのは初音か梓か、どっちだったろうか。ひょっとしたら、どちらもなにも言っていないかもしれない。とにかく空気が変わった。
「すでに発病してます。子猫だとそれだけで命の危険がありますから、これは幸いでした」事務的に続ける。「ただ、潰瘍は健康な猫なら問題なく治りますが、エイズはどうしようもありません。ステロイドで潰瘍は治せますが、そうすると猫には完全に抵抗力がなくなります。抗生物質を同時に与えはしますが、もしなにかの病気を併発すれば、子猫の体力ではもたないでしょう」
 死にます、と直接的な言葉を口にするのは無神経である。にもかかわらず事実を伝えねばならない医師の苦悩が表現のなかに潜んでいた。が、それを斟酌できるだけの余裕はふたりにはなかった。呆然としてる。
「ええと」梓が先に立ち直った。「で、あたしらにどうしろと?」
 喧嘩ごしの物言いである。医師が責められる立場にまったくないという意味では、逆ギレというよりもやくざの因縁にずっと近かった。が、医師もこんなことには慣れている。事務的な説明を続けた。
「少なくともステロイドを投与しているあいだは、屋外に出さないでください。潰瘍が治っても、できるなら出さないでください。ほかの伝染病をもらってくる可能性があります。ほかに病気がなくてさえ、発病したエイズは子猫の体力には厳しいです。飼い主のかたが、常に気をつけていてあげてください」
 じつは気をつけていてもどうなるものでもない。パンドラの箱のむかしから災いはあらゆるところに潜んでいるのだから。医師が伝えたのは、闘病のための心構えにすぎなかった。不治の病にとって闘病というのは、比較的死が近くにあることを認めたうえで生きることである。
「この子、一匹だけで捨てられてたんですね。ほかにキョウダイらしいのはいなかった?」
「はい」
「見捨てられたかな。そういう飼い主、いるんですよ」
 猫のエイズ感染はたいていがオス同士の喧嘩による。しかしまだ幼いユキにはその可能性は薄い。むしろ、事例としては珍しいが、猫エイズは母子感染があると考えられている。最低限の潜伏期間を経て発病したのだとすれば、時間的にありえない話ではない。
「とね、捨てるわけです。病気の猫を」
 死ぬのを見るのが可哀想ということか、キズモノなどいらないということなのか。前者は一見心やさしいようでもあるが、ペットは飼い主を満足のみさせるものと考えている点で、モノ扱いしていることに変わりない。梓は、けっきょく小動物をモノ扱いにしかできなかった賢治のことを思い出した。人間であるためには、それではいけないのだ。
 あとどれだけ生きるものかわからない。発病後、数年を生きることもある。医師は直接の事例を知らないが、天寿をまっとうできる例すらあるかもしれない。しかし子猫の話だ。寿命よりは体力との戦いになる。医師はむしろ現状を悲観視していた。病気の子猫に、医学の理屈が通じずどれだけ泣かされてきたことか。
「柏木さんはいっしょに闘ってあげてくださいね。死ねばひとりですが、死ぬときひとりなのはさみしいじゃないですか」
 とつぜん医師の事務的な態度がほどけて、その下から疲れた老人の顔が浮かんできた。見たところ六十を超えている。これまでに看取った猫のことを思い出しているようにも、自身の死に際を考えているようにも見えた。
 初音はユキを抱きしめた。確かな鼓動はモノでない証である。

 なにが変わり、なにが変えられるというものでもない。ユキの運命がどうであろうと、それぞれがそれぞれとしてふるまうほかはない。みな、いつもどおり淡々と生活した。それがおそらく闘いだったにちがいない。
 ただひとり、ユキだけが変化を見せた。病状よりも態度が変わった。変に甘えるようになったり、かと思えば気難しく人が近くにいるのを嫌ったりするようになった。猫に医師の診断が理解できるはずもない。やはり人間たちの微妙な変化を見ぬいて、それにさとく反応した結果にちがいない。
 こんな変化の蚊帳のそとにあったのが唯一、千鶴とユキの関係だった。事前も事後も千鶴ひとりが態度の濃淡を一切変えず、ただユキにたいして無関心をつらぬいたから、ユキも千鶴を無視していられた。このころのユキにとって、もっとも安心できるのは、皮肉な意味で千鶴をおいてほかになかった。
 年は越せた。みながそれなりに冬休みを楽しむことができた。
 が、学校が始まるようになってからユキの状態が急変した。人間の肺炎に症状が似ていたが、詳しいことはだれにもわからなかった。梓と初音がいそいで病院に連れてゆき、予約がなかったにもかかわらず医師は時間をつくって診てくれた。
 ところがユキの姿を見るなり、ろくに診察らしいこともせず、こう宣告した。
「数日延命することはできるかもしれません」治すことはできないし、どのみち死ぬということだ。「連れて帰られることをおすすめします。病院の檻のなかで管につながれて死ぬことは、けっしてしあわせなことじゃありません」
 医師の口から出た死という言葉に、ふたりはどんな反論もできなかった。

 夜をこせないだろうとみなが理解している。看取りながら最期を待つしかなかった。
 ユキについての連絡を千鶴がうけたとき、まだ勤務時間中だった。急いで帰る、と電話をかけてきた楓には伝えたが、現実には変わらず仕事を続けた。個人的な、他人から見て些細な理由で仕事の進捗を左右できるほど、軽い立場にはない。
 しかし精一杯のことはした。七時前になると、夜の予定をキャンセルしてただちに帰宅した。東京のある大企業による百人単位の慰安旅行についての商談に同席する予定を反故にしたのだから、千鶴は自分を責めた。
「会長失格ね」
 帰り支度を整えながら言う千鶴に、足立は、
「いてもいなくても、もともと商談には影響ありませんよ」ありていに告げた。「むこうさんは名物をナマで見逃すわけですから、機嫌は好くないでしょうがね。いまさら下交渉は覆りません。接待の席に上等のホステスがいるかどうかのちがいです」
 手を止めて千鶴は足立を睨んだ。誰もがそれに同意するだろう。だが直接聞かされていい気持ちがするわけもない。口にしたのが信頼している足立であればなおさらだった。
「はっきり言いますね」
 せいぜい憎々しげに聞こえるよう言ったが、足立はすこしも堪えていないふうである。
「が、柏木家にとっては、あなたのいるいないが重大な影響をあたえます。はやく帰んなさい。そっちがどれだけいいかしれない」
 後半は組織の人間としてではなく、保護者きどりで発言した。ふつうの言いかたで千鶴の未練が残らぬようにするのはむずかしい。が、こんなとき仕事に思いを残したまま帰宅することが誰のためにもならないと、足立は知っている。このくらいは言ってかまわんだろうと思えた。
 じっさい、千鶴はすこしだけ笑って、すなおに「はい」と応えたのだから、それで間違いではなかったにちがいない。

 千鶴が帰宅して真っ先にしたことは、梓に夕食の用意をさせることだった。火の入らない台所は家を殺す。どんな状況にあっても必要なことがあるのだ。
 梓は戸惑った。料理をするような気分ではなかったし、食欲もなかった。楓も初音もそうだった。
 しかし千鶴は、こんなとき妹たちを操る術を心得ている。長いつきあいだ。伊達に長女ではないのである。
「では、私が夕食をつくって、ムリヤリにでもあなたたちに食べさせます」
 無言で梓が台所に行くのを、複雑な思いで千鶴は見届けた。傍から見れば道化であるにもかかわらず、何の笑いもなく、むしろそんなところに権威を認められてしまう逆転が、どれだけ妹たちが事態を深刻に捉えているかを物語っていた。
 手を抜いてもしかたないと思っていたが、ありあわせの材料とはいえ、意外にしっかりした食事が用意されたことに千鶴は驚いた。梓もまた、料理をしている途中に、こんな場合にこそ日常的な行為を演じることがどれだけ心の平安になるかに気づいたのである。
 食事はひとりづつ交替で摂った。残りの者はユキを看た。が、千鶴ひとりはさいしょからさいごまで食卓につき、それぞれの妹たちと食事をともにした。結果、総量で単純計算三人分を、淡々と平らげた。
 食後、誰も茶を淹れようとする者がなかったので、千鶴はひとり流しに水を飲みに行った。梓がひとりで洗い物をしていたので、すこしどかせて蛇口から冷水を流す。千鶴がコップに口をつけたとき、梓が言った。
「ありがとうな」
 千鶴は応えず、水を飲み干した。感謝されることなどなにもないと言わんばかりの態度を見て、梓は、
「いや、なんでもない」
洗い物を続ける。腹がくちくなると、梓も肝がすわった。間もなくユキが死ぬことを受け入れた。受け入れれば、死後のことを考えるほかない。残る者には仕事がある。千鶴はさいしょからそれに気づき、そのための準備をしているのだ。それは冷徹さのゆえか、それともやさしさのせいだろうか。その両者はいったいどれだけちがっているのだろうか。梓にはわからない。ただ、千鶴にはかなわないことを知っただけだ。
「千鶴姉ってさ」
 もう千鶴は梓に背をむけて台所を去ろうとしている。鴨居のしたで足を止めて、振り返った。
「なに」
「――いや、なんでもない」
 千鶴は肩をすくめただけで出て行った。自分が言おうとしていた内容も、言おうとして言わなかったこともどちらも馬鹿馬鹿しく感ぜられて、梓は難しい顔で洗い物を続けた。

 夜の十時をまわると、もう後がなかった。
 千鶴は夕食後、ずっと部屋で本を読んでいた。妹たちになんのかかわりも持とうとしなかったかわり、ドアはずっと開け放っていた。気配を感じて千鶴が目をあげると、そこに楓が立っていた。
「おねがい」
 千鶴は黙って立ち上がり、楓の肩を抱いて初音の部屋に行った。
 初音の部屋からはひどい臭いがした。もう意識をなくしたユキが糞尿を垂れ流す。後始末はするものの、汚れたタオルやティッシュはかたわらのゴミ袋につっこまれるだけだから、臭いをおさえることができなかった。
 後始末をしていたのは、すべて初音である。
 千鶴が部屋に踏み入ると、初音が振り返った。千鶴はその目を知っている。両親が死んだとき、また賢治が死んだとき、千鶴は常にその目を鏡のなかに見出した。
「おねがい。病院に連れてって」
 意外にしっかりした話し方だった。泣いてもいない。これが最期であることを知っているが、落ち着いているわけではない。この期におよんでなお死を認めたくないだけだ。泣くのを我慢していれば、悲しいことなど起こらないことになると信じている。
「もうユキはもたないわ」
「うん」
「いまさらバタバタさせたりしたら、かえってかわいしょうでしょう?」
「うん」
 初音はなにを言われても素直にうなずいた。千鶴の説得に耳を貸し、最後まで逆らわず、しかし千鶴が話し終えると、笑いながら「でもね」と言葉を継いだ。
「一秒でも長く生きてもらいたいと思うの、間違ってるかな」
 言ったとたん、涙が流れて表情が無惨に崩れた。千鶴はこの末っ子を甘く見ていたことを思い知った。ユキの死を認めていないわけではなく、むしろ自分の苦悩をうまく処理できないことを痛切に悔いている。千鶴は冷徹な心の片隅で、すばやく計った。死ぬ者を重視すべきか、生きる者を救うべきか。
 考える前から結論は出ていた。たとえどんな残酷に見えても、千鶴はつねに妹のことを考えているのだから。ほんとうなら優先順位をつけられる問題ではない。しかしこの際、結論を出さずになあなあで済ましてしまうことこそが最上の罪に思えた。冷酷に割り切ろう。どうせ自分は鬼なのだ。だが、鬼は自分ひとりで十分なのだ。
 千鶴は電話帳をくって、医師の自宅の電話番号を調べた。もうとうに病院は閉まっている。直接あたるほかにない。しかし、
「申し訳ありませんが」彼はいちおう、申し訳なさそうに言った。「時間外の診察はいっさいお断りしております」
「なぜです」
「わたくしの健康上の理由です」
 獣医の多くは小規模経営だ。人間用の病院でも二十四時間体制を十分にととのえることは厳しいのに、獣医でそれを実現するのはずっと難しい。時間を問わず患畜を受け入れていては、体が持たないのだ。
「それに柏木さんのお宅の、ユキちゃんでしたね、正直もう手のほどこしようはありませんよ。点滴や投薬で、無理にもわずかな延命ができるかもしれませんが」
「それだってかまいません。おねがいできませんでしょうか」
「お気の毒ですが」
 そう言って、医師は交渉を打ち切った。無駄だと悟った千鶴は電話を置こうとした。が、できない。傍らで初音が自分を見上げている。それを思うと、どんなことをしても診てもらわねばならない、そんな切羽つまった感情が首をもたげてくる。それは見栄だろうか。妹のまえでいい格好をしたいだけのことではないのだろうか。
 どうでもよかった。
「わたくしは鶴来屋の柏木ですが?」
 電話のむこうで医師がしばらく黙り込んだ。彼らはその教育課程の性質上、権威にたいして敏感になる。ただその反応のしかたは、強いものにおもねることを目指す場合と、逆に極端な反発を見せるばあいとの両極端に分かれがちだ。この医師がどちらであるのか、またそもそも、鶴来屋の看板が医者にとってどれだけ魅力的なものであるか、判断がつかない。最悪、鶴来屋に傷がつくことだってありうる。その危険を背負っても、賭けの見返りが欲しかった。
 千鶴は息をつめて返答を待った。
「――一時間後、病院のほうにいらしてください」
 上出来だ。が、まだ詰めが残っている。相手が一歩引いたら二歩三歩と詰め寄るいやらしい交渉術は千鶴が汚れていることの証であるが、それが必要とされる場合にその使用をためらわないことは、千鶴がすぐれて純真であることをなによりも伝える態度だった。
「三十分にしてください」
「わかりました。三十分」
 すぐに電話を切って、次女の名前を呼ばわりながら、
「すぐにタクシーを呼んでちょうだい。急がせて」
言うあいだに自室に飛び込んでコートをひっつかむ。
「三十分だろ。はやすぎるよ」
 鶴来屋の会長が急ぐとあれば、雲助は万難(おもに交通にかかわる法規と倫理)を拝しておっとり刀で駆けつける。ここまで五分とかからないし、病気の猫がいて急げないことを考えても、病院までは車で十分ほどだ。しかし、
「三十分は口だけよ。五分とたたず来てるわ」
 獣医の自宅と病院はすぐ近い。権力に押し切られるたぐいの人間の行動はよく把握しているつもりである。
 一時間を三十分にさせたのは、文字通りの意味ではなくて、可能な限りはやくしろとの腹芸だ。相手のペースでなく自分の都合でものごとを動かすとの言外の宣言だ。文字に書いた契約よりも、口頭でのやりとりをとおした個人の信用が重んじられる田舎社会の、世間知らずの梓ではまだ理解することができない、不潔なコードである。
 コートを肩にかけながら、千鶴は初音の部屋にむかった。初音と、楓と、死ぬユキがいる。
「楓、初音、今夜はもう休みなさい。私は遅くなるかもしれないから」
「わたしも行く」
 初音が立ちあがった。かたくなに目を光らせている。千鶴は初音の肩に手を按いて、ひざを曲げて視線を合わせた。冴えた千鶴の物言いには、相手に有無を言わせない迫力がある。
「あなたは明日、学校があるでしょう。もう寝なさい」そして楓を見て、「初音をおねがいね」
 楓はちいさくうなずいた。初音をひきとめるように初音の肩を抱く。それと入れ替わるように千鶴は手を離し、ひざを伸ばした。目礼するようにうなずいてから、ユキをゆっくり抱き上げる。千鶴がユキに触れるのを見るのは、妹たちにとってこれがはじめてだった。そして最後である。
「千鶴姉。タクシー来たよ」
 柏木家を訪ねるタクシーは門前でクラクションをならしたりしない。丁寧に呼び鈴をとおしてうかがいをたてる。
 千鶴は梓にむかってうなずいた。ユキの息はもう細く、なにより不規則だった。いまから病院にいったところで、延命どころか、病院まで命がもつかどうかも知れない。いまさらこんなことにどれだけの意味があるのか。そんな戸惑いはおくびにもださなかった。千鶴は毅然とふるまわねばならない。初音に疑問をいだかせてはならない。でなければ、ユキを苦しめるだけで、すべてがダメになってしまう。
「おやすみなさい」
初音にむかってやさしく言う。それで安らかに眠れるわけもないことは知っていた。それでも言わずにはいられなかった。ひょっとすると、いちばん弱いのは自分なのかもしれない――そんな迷いを、背中で切り捨てた。
「梓。あとのことは頼んだわよ」
 火の元に気をつけろの、戸締りはしっかりのと、口うるさく注意しながら、玄関にむかう。妹たちが総出で見送りに出た。
 千鶴が戸を開けると、夜の冷気が屋内に流れ込んできた。眉をしかめて一歩外に踏み出す。むき出しになった頬の皮の下まで凍みてくる寒さが苛んだ。空を仰ぐと暗灰色の雲が夜の空を隙間なく覆っている。
 ――雪になるわね。
 なぜかそんなことが気になってしかたなかった。
 身震いがした。それで意識が現実にもどる。足早に正門を抜けようとした。と、
「やっぱりわたしも行く!」
 声に驚いて振り向くと、初音が玄関を駆け抜けてくるところだった。
「戻りなさい!」
「いや! わたしも行く」
 置いていかれまいとして初音は夢中で千鶴の腕にむしゃぶりついた。その勢いと重さに千鶴が思わず体勢をくずしてしまう。その動きにあわせて、腕に抱かれていたユキの首が、空を掃くようにぐるんと揺れた。
 ふたりのあいだの空気が凍った。空気の冷たさを抜けて、なにかそれ以上に温度の低いものが背筋をかけぬけ、身がすくむほどの寒さがした。
 初音が千鶴の腕にかけた体重を抜く。それで千鶴が体勢をなおすと、それにあわせてまたユキの首が揺れた。生き物を抱いているときのみずみずしい感触はもうなく、砂の詰まった袋でも抱いているような頼りない重量が手のなかにのこるのみである。
 もう二度と据わらない首が痛々しい。千鶴は注意深く首をささえてやりながら、黙って初音の手にユキの体を譲った。初音はあまりはっきりしない表情で千鶴を見つめている。起こったことを理解していないのか、するつもりがないのか。
 千鶴は二度、首を左右にふった。
 初音はユキを抱いたまま立っている。千鶴はこのときはじめて、初音が靴を履いていないことに気づいた。
 ――冷たいだろうに。
 スカートから突き出た曲線の乏しい足が凍った土を踏みしめているのを見て、そんなことを思った。ふと空を見上げる。寒空はやはり曇っていた。
 ――明日は雪ね。雪。
 そんなことでも考えていなければ、この苦痛に堪えられそうになかった。

 底冷えのする居間で千鶴がひとり酒を飲んでいると、梓が黙って部屋に入ってきた。
「初音は?」
 梓は暗い顔で首を横にふった。もう二時をまわっている。ユキのちいさい体はおどろくほど急速に熱を失っていった。初音の腕から亡骸をひきはがして、とりあえずちいさな箱に収めることができたのは、何時ごろだっただろうか。千鶴はよく覚えていない。というより、時間の存在を認識していなかった。
 梓は千鶴の正面に腰をおろした。千鶴は上等な洋酒を舐めるように飲んでいる。学生時代、千鶴は酒が嫌いではなかった。が、いまはほとんど飲まない。少なくとも自発的に飲むことはまずない。宴会の席上で飲まされることはいつものことである。
 あんまり飲まないほうがいいよ、と言おうとしたが、梓は口を閉じた。封を切られたばかりの瓶の中身はほとんど減っていない。グラスに満たされたぶんも、あまり消費されてゆく様子がなかった。ただ千鶴は、グラスを口に運んでは、くちびるが濡れるていどにだけかたむけ、それを舐めとるような飲み方をしていた。
 梓は酒など飲んだことがないから、千鶴がなんでそんな飲みかたをするのか、見当がつかなかった。
「明日、朝のはやいうちに、山のなかにでも埋めてやろうと思うんだけど」
 千鶴はだまってうなずいた。梓も用件だけ話せば、ほかに話題はなにもない。通夜のように静かだった。じっさい通夜なのだ。
「ユキは」
 どれだけかの沈黙のあと、千鶴がふと口を開いた。しかしそれきりで、また黙り込んでしまう。千鶴がみずからユキの名前を口にした驚きにひきこまれて、梓は辛抱強く続きをまった。
「ユキは初音の腕で死ぬべきだったわ」
「そんなこと考えてたのか」
 初音のことではなくてユキのことを考えていたのは意外だった。またあれほど隙をみせず果断に行動してきた千鶴が、いまさらくよくよ悩んでいることも。
 ずっとそうだったのかもしれないという可能性に、梓はやっと気づいた。ユキを飼うのに反対したときも、ユキが元気だったときも、ユキが死ぬとわかったときも、ユキがしんだときも。ずっと妹たちのために先頭にたって凛々しくふるまい、その裏ではずっとひとりで悩んでいたにちがいない。そして最初から最後まで、こう考えていたのではないか。ユキ、ごめんなさい。謝りたいのに謝れない苦痛がどれほどだっただろうか。
 この日ずっと梓を縛りつけていた緊張が、いっきに緩んだ。頬に笑みすら浮かんでくる。まったくこの姉は、頑固で、依怙地で、強情で、そのくせ惚けで、のろまで、抜け作で。
「ユキが千鶴姉になついてなかったって思ってるのか」
「嫌ってたでしょうね」
 断言した。自虐的ではあるが、それが真実にちがいないと信じている。そんな姉の姿が、滑稽ながらいとおしい。生真面目な者をついからかいたくなる底意のない意地悪さで、すこしもったいつけた口調で言った。
「なあ。ユキのお気に入りだった場所知ってるか」
 千鶴はだまって首をふった。可能な限り接点をもたないようにしてきた。昼間の世話のばあいでも、直接姿を見ることはめったになく、片付けや食餌の用意を淡々とこなしていた。そんなことも千鶴にはわからないのだ。
 だが梓は、責めようと思ってこんな話題を出したのではない。ほんとうのこと、少なくとも梓がそう考えるようになったことを知ってもらいたかったのだ。
「千鶴姉のベッドだよ」
 グラスを口に運ぼうとしていた手が止まった。信じられないものを見る目で梓を見つめる。
「ユキは千鶴姉のことを嫌ってなかったさ。そう思う」
 いつもそうだった。梓が学校から帰ってきて自室に行こうとすると、いつも決まって千鶴の部屋のドアがなぜだかすこしだけ開いている。時間的に帰宅しているはずもないし、おかしいと思って覗いてみると、ユキがベッドのうえで幸せそうに眠っている姿が見えるのだ。千鶴は、自室のドアの低いところに、ちいさな爪あとがいくつもあることに気づいていまい。いつも無理に顎をあげて遠くばかりを見ていようとするから、そんなあしもとのささやかなことに気づかないのだ。
「どうして」
 千鶴はそれしか言えない。理解の範疇外である。
 じつは梓にも、ユキがどんな思いで千鶴を見ていたか理解することができるわけではない。ただ想像することはできるのである。表面のそっけない態度と、でもどこかで千鶴とつながっていたいと思うやり方は、自分と長女の関係に照らし合わせてみれば、なんとなくの結論はでてくるのだ。
「さあな。たぶん千鶴姉が――」そこまで言って、いちど口ごもる。「――ウチではいちばん年寄りだからな。猫って年寄りが好きじゃん。千鶴姉のところがいちばん落ち着いたんだろ」
 生意気を言う妹を、千鶴はものすごい目で睨んだ。言いすぎたかと、梓はあわてて口をふさぐ。が、千鶴はすぐに不機嫌な顔をほどいた。思い込みかもしれない。でも、許された気がしたのである。いや、そうではないのかもしれない。たんに贖罪のための道が示されただけなのかもしれない。それでもよかった。なんのあてもなく歩き続けることができるほど、千鶴は強くない。手がかりになるたったひとつのなにか、それが必要だった。それを手にすることができたのだ。
 千鶴はグラスを置いて立ち上がった。
「初音のところに行ってくるわ」
「そうしてやりな」
 千鶴にはまだやらなければならないことがある。生きている者のために。徹頭徹尾つらぬいたそのテーマを、このままでは失ってしまう。自分がひとりで迷っていては、決して救われない者がいる。自分が救えると考えるのは自惚れだ。しかし放っておく怠慢とくらべれば、そんなのはささいな瑕疵だった。驕慢の罰は、初音を助けたあと、自分がうければいいだけの話である。
 歩き始めた千鶴を梓が見送る。鴨居のしたで、ふと千鶴が足を止めた。
「梓」
「なに」
「あなた、大きくなったわね」
 梓はあっけにとられたあと、すぐに顔いっぱいに渋面をつくった。年寄り呼ばわりのお返しとして、子ども扱いは適切な報復であるが、梓におもしろいはずもない。その直情的な反応をみて、千鶴は微笑した。溜飲をさげたのではない。こんなつまらない会話を成立させることができるふたりの関係がたまらなく快いものに感ぜられたのである。もちろん千鶴は梓が好きだ。しかしそのことを誇らしく思うことができたのは、このときがはじめてだった。
 そしてその感情は梓ひとりにむけられるものではない。楓や初音にだって同じなのである。彼女の大事なものを守るために、千鶴はこんどこそ居間を去った。
 あとに残された梓はずっと不機嫌な顔をしている。はらいせとばかりに千鶴が残した酒に口をつけて、慣れぬアルコールに激しくむせた。
 ――言えるわけないじゃんか。
 わからず屋で意地の悪い姉にむかって、心のなかで梓は悪態をついた。言えるわけない。千鶴から、安心できるお母さんの匂いがするからだなんて、照れくさくて口が裂けても言えるわけがないのだ。

 千鶴は楓の部屋のまえに立っていた。どうするべきかすこし迷ってから、けっきょくノックをせず、ドアごしに声をかける。
「楓」
 小声だ。もし眠っていれば聞こえまい。
「もし今夜、よく眠れないようだったら、明日は学校を休んでもかまわないから」
 それだけ言った。しばらく反応をまつが、ない。もう寝たのか。眠れたのだろうか。
 千鶴が立ち去ろうとしたとき、背後でドアの開く気配がした。振り向くと、楓が静かに立っている。
「眠れないの」
 頼りない声で言った。ふしぎはない。この神経の細い子が、こんなときに眠れるわけがないのだ。そして厄介なことに、楓は内向的すぎるせいですべてを他人任せにせず、自分ひとりで処理しようとする。そのせいで楓のなかの葛藤は人一倍苦しいものになるのだ。
 こんなとき、冷たい態度であるが、すべて本人まかせにすることが最良の結果になることを、千鶴は経験上よく知っていた。ただ十分な時間を保証してやればよい。ささいなことでつまづいたり悩んだりする子だが、それを自力で越えられないほど子供でもひ弱でもないのである。
「明日は休んでもいいから」
 繰り返した。楓はすこしだけ首をかしげて聞いている。こんなしなを嫌味にならないようにつくるところは、ほかの姉妹にはない楓だけの魅力だった。
「ほんとう?」
「ええ」
 楓はひとつうなずいてから、下をむいた。なにか考えている様子だ。千鶴は楓が口を開くのを待った。
「初音のところに行くの?」
「ええ」
「賢治叔父さんの話をするの?」
「いいえ」
 それは話しても詮ないことだ。
「じゃあ、なにを話すの」
 初音に会うことに難癖をつけているわけではない。ただふしぎなのだ。こんなときに会っていったいなにを話すのか。
 そう言われても、千鶴には明快な回答があるわけではない。ただ、いま、初音と話がしたいという思いに駆られているだけである。だがそれがどんなに一方的なことであるのか、知らされたような気がした。
 困った顔の千鶴など久しく見られなかったものである。楓は静かに言った。
「虹の橋の話、おぼえてる?」
 思い出すまでに、数秒かかった。かつて賢治が犬を殺したとき、あんまり楓が悲しむので、どこかから聞きかじった話を慰めにしてやったことがある。話としては他愛ないもので、千鶴はすっかり忘れていた。だが楓は覚えていた。
 千鶴はふいに、涙が出そうな衝動に駆られた。千鶴自身、正しいのかどうかまったく確信のもてないやりかたで妹たちとつきあってきた。ときに彼女らにとって、千鶴はうとましく、また腹立たしい存在であったにちがいない。しかしこんなとき、自分の忘れていたような話を律儀に妹が覚えていてくれたときにだけ、千鶴は自分の行動の間違っていなかったことを信じることができる。報われたと思えるのである。
 千鶴は楓にやさしく笑いかけた。声が詰まるのを悟られないよう、そうね、そうするわと言うのが精一杯だった。強がりを言えるのが嬉しいことだって、たまにはあるのだ。
 楓はそれにこたえて、白い花が夜に人の気配のない水辺に咲くようなやりかたで、ひっそり笑った。

 千鶴は初音の部屋のドアを三回、はっきりとノックした。返事はない。いることはわかっているから、そっとドアを開いた。
 初音はベッドにうつぶせていた。ぴくりとも動かない。人が横たわっているというよりは、丸太がころがっているのと同じだった。千鶴はしばらく初音をながめていた。華奢な体。棒のようにまっすぐな手足。頼りないうなじ。すべてまだ幼い子どものものだった。
 千鶴は手をのばして、そっと初音の髪をなぜた。
「初音」
 なんの反応もない。薄い影のわだかまりみたいな背中には生きているものの活力がなかった。初音はなにも聞いていないのかもしれない。それでも、千鶴は話し始めた。
「虹の橋の話、知ってる?」

   *   *   *   *   *

  天国の一歩手前に、「虹の橋」と呼ばれる場所がある。
  地上にいるだれかと親しくしていた動物は、死ぬとその「虹の橋」へ行く。
  そこには草地や丘がひろがっていて、
動物たちはいっしょになって、走ったり、遊んだりすることができる。
たっぷりの食べ物と水、そして日の光に恵まれ、
彼らは暖かく、快適に過ごしている。
病気にかかっていたり歳をとったりしていた動物たちは、
ここに来て健康と活力を取り戻し、傷ついたり不具になったりした動物たちも、
もとどおりの丈夫な体を取り戻す。
過ぎ去りし日の夢の中でのように。
動物たちは幸せに暮らしているけど、ひとつだけ不満がある。
それぞれにとって特別なだれかが、
あとに残してきただれかがいないのを寂しく感じているのだ。
動物たちはいっしょに遊んで時を過ごしている。
しかし、ついにある日、そのうちの一匹が足を止めて遠くに目を向ける。
目はきらきらと輝き、体はたまりかねたように小刻みに震えはじめる。
突然、彼はみんなから離れて、緑の草地を跳ぶように走っていく。
あなたを見つけたのだ。
とうとう出会えたあなたたちは、抱き合って再会を喜びあう。
もはや二度と別れることはない。
喜びのキスがあなたの顔に降りそそぎ、
あなたの両手は愛する友の頭と体をふたたび愛撫する。
そして、あなたは信頼にあふれたその瞳をもう一度のぞきこむ。
あなたの人生から長いあいだ姿を消していたが、
心からは一日たりとも消えたことがないその瞳。
それから、あなたたちはいっしょに「虹の橋」を渡るのだ。

   (作者不詳)

   *   *   *   *   *

千鶴が出勤しようという時間には、すでに雪が降っていた。
出勤といっても、いつもどおりの時間ではない。ふつう千鶴は、その地位にかかわらず、従業員とおなじ時間を目指すのだが、この日だけは重役出勤だ。ほとんど寝ていないし、体がひどく重い。すこし時間を遅らせねば、とてももたなかった。
 ――歳とったわね。
 自分を年寄りあつかいする梓が、このときばかりは正しく思えるのがいっそう憎らしい。
 その梓は、夜が明けるまえにユキを埋めてやったあと、朝食と弁当の用意をして、とっとと登校した。自分のていたらくとくらべて、妬ましいほどの若い体力である。ベッドで眠れなかったぶん、教室の机で眠ればいいくらいに考えているのかもしれない。
 楓も初音も自室にひっこんでいる。ふだんは必要以上に厳格で、多少の不調でも容易に欠席を許さない千鶴であるが、こんな日くらいは休んでもかまわないかと思っていた。しょせん学校である。社会に出ればもう享受できない休養の自由を、たまには楽しんでおくのも悪くはない。
 千鶴は玄関で足立の迎えを待っていた。居間でお茶でも飲みながら待っていればいいのだが、もう従業員たちはせっせと働いている時間であるかとおもうと、うしろめたくてとても座っていられなかった。
 屋内ですら吐く息が白くなる。外の冷え込みはどれほどのものだろうか。板敷きの廊下にストッキングだけで立っているのはひどくつらくて、千鶴は早々に靴を履いた。
 家のなかは死んだように静かだ。自分の息づかいと衣擦れの音しかしない。静かに立っていると血管を流れる自分の血の音すら聞こえてきそうな気がして、ふと底のない闇に落ちていくような恐怖をおぼえた。
 そこから救ったのは足音である。廊下の奥から、軽い足取りが近づいてくる。それが初音であることを、千鶴はすぐに理解した。妹たちの足音はそれぞれ違っている。梓のそれは放唱される歌のようだ。楓はそもそも足音らしい足音をたてない。
 千鶴のまえに姿をあらわしたとき、初音は制服のうえにコートを着込んで、背中に鞄を負っていた。足取りはいくらか不規則で、目もまだ赤い。相当の疲れを感じさせるのだが、ふしぎと瞳の奥に活力が感ぜられた。
「寝坊しちゃった」そう笑いかけた。「もう、二時間目はじまっちゃってるね」
「休んでもいいのよ」
 初音は首をふった。
「ううん。行く」
 すばやく靴を履く。千鶴はだまってその姿を見守っていた。
 初音が戸を開けると、道が開けるように外の光景が千鶴の目にとびこんできた。しんしんと降りそそぐ雪は、もう世界を真っ白に覆っている。
「雪だね」
「雪ね」
 そんな愚かな会話が許されるのは、きっと家族だからだ。
「ねえ、お姉ちゃん」振り返って、言った。「今年は、雪、多いよね」
「そうらしいわね」
 いつか聞いた天気予報を思い出しながら適当に応える。近年では驚くほどの雪は積もらなくなっていた。それでも今年は、平年よりは多いらしい。ねえ、と初音は満足そうに笑った。
「雪が積もってるあいだは、ずっとユキといっしょだよね」
 そんな考え方もあるか。千鶴は微笑した。それはいかにも拙い代償行為である。しかし生きることと死ぬことを一所懸命に考えて、それで出た結論であるならば、千鶴は文句をつけるつもりなどなかった。それはものごとを自分で考えようとする賢さの萌芽だ。よりよい答えのだしかたは、これから学んでいけばいい。
 生きている者には未来があるのだから。
「いってきます」
「いってらっしゃい。車に気をつけてね」
 はい。それはいつものあいさつ。戸を開けっぱなしにしたまま、初音は雪のなかに駆け出した。
 ――走りなさい。
雪の幕の向こうに初音の背中が霞んでしまうまで、千鶴は見送り続けた。
 ――そしたら、きっとどこかにたどりつくのだから。
 千鶴は思い切って敷居をまたいだ。外は寒くて、そして静かだった。雪は音を吸い込んで、視覚さえも薄暗い白一色のなかに封じてしまおうとする。ゆっくり降りてくる雪は千鶴の体すら覆いはじめ、彼女さえ景色のなかに塗りこめてしまおうとした。
 ――ユキ。あなた、私のことが嫌いじゃなかったって自惚れてもいいかしら。だってあなた、こんなにまとわりついてくるのだもの。
 千鶴にだって慰めは必要だ。それぞれいつか遠くに旅立ってゆく妹たちを見守る責任が千鶴にはある。彼女たちは走ってゆけばいい。だが千鶴はそうするわけにはいかない。千鶴までもがほしいままにすれば、いったい家族はどうなってしまうだろうか。妹たちがどこへ行ってなにをしていても、帰れる場所を守っていることが、家長の権限と引き換えの強い義務なのである。
 当てもないなにかを待ち続けるのは、容易なことではない。人間としてなにか大事なものを切り捨ててしまうか、なにか慰めを見つけるかだ。
 ――ねえ、あなたが私を好いていてくれるのなら、私は待っていられるから。
 千鶴は必要であれば愛する者も殺す鉄の女としてふるまうことができる。が、心は鉄でも石でもない。自分が支えてやっていると信じている者たちこそが、実は自分を支えてくれているという実感こそが、いつも崩れそうになる心を強くしてくれるのだ。
 千鶴は空を見上げながら、木が空へまっすぐ伸びてゆくことになんの疑問ももたないのと同じやり方で、すくりと背筋をのばした。自分の体に雪が積もってゆくことも気にしない。むしろ今は、涙が出そうなほど冷たい雪に、ふしぎとぬくもりが感ぜられてしかたないのだ。
 くちびるに薄い微笑みを浮かべながら、千鶴は足立の迎えを待っている。