水遊び 投稿者: 投稿日:6月30日(金)23時01分
 空の蒼と海の蒼が交じり合う彼方を眺めて、境目なんてなくなって一つになってしまえ
ばいいのにと、楓はそんな夢想と戯れる。
 北海道。一人旅。ホテルのシングルルーム。開け放った窓。潮風。晩夏。
 すべてが蒼い世界は、乾くこともなく濡れることもなく、曇ることもなく照ることもな
く、ただ流れ、そよぐ世界。
 雨も降らない世界。
『――それからお庭に粒のおっきな雨が落ちて白い水しぶきがあがってて、煙ってて、だ
から気づかなかったんだけど足首くらいまで水がたまってて、道路は川みたいになってて、
なんかさっきから雨戸の隙間から水が漏ってきて……雨戸が風でガタガタいって、なんか
重たいものがあたったような音が聞こえて――』
 携帯電話の向こうから妹の涙声が聞こえてくる。
 今朝、隆山が台風十九号の暴風雨圏に入った。地上に上がった台風は速度を落とし、午
前十一時前の現在も隆山は風速三十メートル以上の暴風と一時間八十ミリを越える豪雨の
ただ中にあった。
 でも北海道は快晴。特に日本海側は雲一つない青空。凪いだ海は波頭の白も目立たない。
白のない蒼い世界。
「こっちはいい天気よ」
 妹の声が途切れた束の間に、楓は穏やかな言葉を挿し入れる。




 そこには、空と海の境目はなかった。色彩のない、暗灰色の世界。
 すべてが水の世界。
「千鶴姉ーっ! 風呂場のガラス割れて浴室水浸しだぞっ!」
「耕一さんに地下室の荷物を蔵に上げた後、外から板を打ちつけてもらうことになってま
すっ! 浴室なら少しくらい濡れたって平気よ、それよりも梓は食料の用意して! いつ
台所が使えなくなるか判らないんだから、一日分くらいはお願いねっ!」
「わかった! ――って換気扇さっき塞いだーっ! どうする!?」
「なんとかしなさいっ!」
「なんとかってなんだー!!」
 暴力的に叩きつける雨と風の音の中、自然と叫ぶような口調になっていた。
 梓の叫びを無視して、今まで声だけの存在だった千鶴が、雨戸の目張り用のタオルとガ
ムテープを抱えて居間に顔を出す。
「初音、楓と連絡とれた!?」
「うんっ、楓お姉ちゃん元気だよ!」
「ちょっと電話貸して――楓、こっちの状況だいたい判るわね!?」
『初音に聞いたから、それなりに』
「じゃあこのまま電話に出ていて! 一度切ったらもう繋がらないかもしれないし、だか
らついでに初音の相手してて! この子恐がりだし私も梓も構ってあげられないから!」
『うん』
「頼んだわね! ――初音、そういうことだから、楓とお話してて。それと私も梓も手が
放せないから、初音は異常がないか家の中見回ってきて!」
「うん、わかった!」




 部屋の中に視線を戻すと、音量を絞ったテレビに気象衛星からの映像が映っている。無
意識に隆山の辺りを目が探しているが、雲で真っ白く覆われてよく判らなかった。
 画面が切り替わる。アメダスの降雨量のグラフが日本地図に重ねられるが、グラフの棒
が密集し、そして長過ぎて、やはり隆山を見つけることは出来なかった。




「流しの排水口がゴボゴボ鳴ってるーっ!!」
「千鶴お姉ちゃーんっ!! 玄関にみずーっ!!」
「梓! 排水は水面の高さよりはあがってこないから床下浸水するくらいまでなんとか使
えるわよ、つまらないことで大声出さないでっ! 初音も少し水が入ってきたくらいで騒
がないのっ!」
「少しじゃないよー! 十センチくらいたまってるよー!!」
 沈黙。雨と風の音に家の中が満たされる――。
「床下浸水してるじゃないかーっ!!」
 廊下を全力疾走して千鶴が玄関に現れる。
「どうして!? 高台にある家がどうして水に浸かってるのっ!?」
「しらないよーっ」
『流れ出る量よりも流れ込んでくる量が多いんでしょう。裏山を背負ってるから、そこに
降った雨が集まってきてるんだと思う』
「楓お姉ちゃんが、裏山に降った雨が集まってきてるんじゃないかって」
「ああ、そうかもねっ! ――って原因判っても何の解決にもならないーっ!!」
『畳は濡れたらおしまいだから、念のためにあげたほうがいいと思う』
「畳あげたほうがいいんじゃないかって、楓お姉ちゃんが」
「まさか、床上浸水はしないでしょ……」
「念のためって」
「……そうね、やっておいてもいいかも――って家に畳何枚あると思ってるのーっ!!」
『八十二枚』
「八十二枚だって 」
「…………」
『それと床に直接置いてある物と押し入れの下の段の荷物とか』
「床に置いてあるものと押し入れの下の段の荷物もって」
「…………」
『電化製品はコンセント抜いておいたほうがいい。出来ればブレーカー落とすのがベスト』
「電気のコンセント抜いて、ブレーカー落としたほうがいいって」
「…………」
『がんばってください』
「がんばってくださいって……」
「……畳替えの時期よね」
 畳替え〈季語・冬〉。
 そして束の間の沈黙。
「梓っ! そっち終わったら畳と荷物運ぶの手伝って!」
 千鶴が沈黙を決意と言葉で埋める。
「わかったーっ! ――ってどこにー!?」
「……どこがいいー!?」
 考えなしの決意だった。
「しるかーっ!!」
「――楓ー……」
「楓お姉ちゃーん」
『二間続きの客間あるでしょ? もともと荷物置いてないし、十畳で二間だから、あそこ
に畳を運び込めば四枚重ねて八十枚。その上に荷物置けば、荷物は助かるかも』
「畳はどうなるの?」
 楓が喋り出す直前に電話を代わっていた千鶴が訊く。
『畳替えの時期ですから』
 畳替え〈季語・冬〉。
「八十枚も畳運んで結果が運任せ!?」
『報われない努力も、また人生ですから』
「十代で人生を語らないでっ!!」
『決めるのは姉さんです。それと運ぶ畳は最大で六十二枚』
「あんまり変わらないじゃない……判ったわよ、やるわよ――梓っ! 終わったら私のと
ころ来て! 説明はその時するから!」
 初音に子機を渡しながら台所へ叫ぶ。
「わかったー!」
「それじゃ初音、あなたと楓の部屋の大切なものはあなたが整理して運ぶのよ。重いもの
は私が運ぶけど」
「うん、わかった」
 その場を千鶴が去ると、初音も自分達の部屋へ向かおうと歩き出す。
『初音、言うの忘れてたんだけど』
「なに?」
 何でもないことであるような、淡々とした口調。
『懐中電灯とろうそくの用意、しておいたほうがいいわよ』
「言うの忘れないでよーっ!」




 電話が鳴った。楓はその音に室内へ視線を戻す。
 その電話の相手には心当たりがあった。電話に出る。果たしてそれはフロントからの電
話。チェックアウトの確認の電話。
 考えたのは一瞬。宿泊をもう一日延ばすことにする。
 少なくとも、窓の外の蒼に飽きるまでは、ここに居てもいい気がした。
 受話器を置いて、再び窓辺へ寄る。
 蒼を見下ろし、蒼を見上げる。
 一羽の鳥が蒼の中を舞っている。羽ばたくことなく、高みへと。
『ああーっ! でんきがーっ!!』
 ただ、高みへと。
『――懐中電灯は机のうえだよーっ!』
 その姿に自分の意識を重ねる。蒼の中にいる自分をイメージする。
『くらいよーっ! お姉ちゃんこっちだよーっ!」
 猛禽の世界をイメージする。
『なんで今お化粧なおすのーっ! たすけにきてよーっ!』
 静かな世界をイメージする――のに失敗する。
 ひとつ、ため息。
「初音、大丈夫?」
『どっちかというとダメだよーっ』




 柏木家緊急家族会議。
「……亀姉」
 食器棚と冷蔵庫の隙間で、梓。
「……なによ」
 タンスとタンスの狭間で衣類に埋もれながら、千鶴。
 並べた四姉妹のベッドの上で、受話器を耳におろおろする初音。
 そして、部屋の中心に、ろうそくの火が揺れる食卓。
「お姉さまはタンスもまともに運べないんですかねぇ」
「ちょっとつまづいただけじゃないのっ」
 タンスから放り出された衣類に埋もれながら、千鶴が反論する。
「三棹続けて転がしてちょっとかっ」
「私、大川栄作じゃないのよっ、タンス運ぶの上手くなくてもおかしくないわっ!」
「誰だそれー!?」
「とにかく今はそんなこと話してる場合じゃないでしょっ」
「それはそうだけど――じゃあこれからどうするんだよっ」
「人事は尽くしたわ」
「…………」
「…………」
「もうやることないってことかっ!」
「平たく言えばそう」
「そんな悠長なこと言ってられるかーっ!!」
「梓、じゃあ何をしたらいいの? 外に出てっていうのはなしよ、今外へ出るのがどれだ
け危険か、あなたも判るでしょ」
 諭すような姉の言葉に勢いをそがれて、梓が口ごもる。
「それは――そうだけど……」
「大丈夫よ、やれることはやったんだもの。あとは台風が通り過ぎるのを待ちましょ。こ
んなときにじっとしてなくちゃいけない不安は私も同じよ、だけどそれが一番いい方法な
のよ」
「うん――わかった……」
「じゃあ食事にしましょ。お腹がいっぱいになれば気分も落ち着くわよ」
 柏木家緊急食事会。
 姉妹三人がろうそくの明かりでブランチを食べる中、初音がふと思い出したように、手
にしたおにぎりを置いた。
「楓お姉ちゃん、おおかわえいさくって誰?」
『福岡県出身の演歌歌手。代表曲『さざんかの宿』。特技、箪笥運び』
「お姉ちゃん、なんで演歌歌手の人のことまでよく知ってるの?」
『一般教養』
「ちがうと思うよー」




 風向きがかわったのか、楓の髪をかすかに揺らしていた流れがとまった。透明で、蒼い
流れ。
 近づけば色を失い、遠ざかると圧倒的な存在感で心を奪う色が在る。
 絶対に手の届かない色がある。
 目の前に、広がる。
 透明でありさえすれば、自分も遠くの人からは蒼く見えるのだろうか?
「耕一さん、どうしてる?」
 蒼になれるのだろうか?




「あああっ、すっかり忘れてたー!!」
「耕一さんっ、今いきますからねっ!!」
「待て、あたしもいくっ!!」
「おいてかないでよーっ!」
 玄関。目の前に、外と中から補強と目張りをされ、ちょっと開けるのに時間のかかりそ
うな戸があった。
「ここからじゃダメかっ!?」
「出入り口みんな塞いじゃってるよーっ!」
「こんなものは開きます!」
 長靴代わりのブーツを履いて水の溜まった玄関に降りると、千鶴は普通に戸に手をかけ
て、普通に横に動かす。なんか取り返しのつかなそうな音を立てながら、戸だったものが
開いてゆく。
 外は、なんかすごいことになっていた。
 飛んじゃいけないものが飛んでいた。
 二重遭難という言葉がよく似合う光景だった。
 そんな嵐の中へ、ためらいなく飛び込んでゆく長女の姿は、頼もしくもあり、また妙に
似合ってもいた。
 ある意味、家族にとって彼女の存在は、自然災害のようなものなので。怒らすと手が付
けられないところとか。
 そんな感慨を妹達に抱かせながら、千鶴が風雨の中に消え、そして我に返った梓が続く。
『初音は残りなさい。電波も届かなくなるし、それに誰かが残らないと駄目だから』
 そんな楓の指示で、初音はその場に留まったものの、待つほどもなく梓がびしょ濡れに
なって戻ってきた。
「耕一見つかったぞっ! 元気だっ」
「ほんとっ!?」
「裏の塀に穴が開いて、それ手で塞いでて動けなかったんだ。なんだか判らないけどその
穴から水が噴き出してくるんだ。ああっ! 門を開けにきたんだったっ!」
 それ以上の説明を放り出して、梓は再び嵐の中へ飛び出す。ただ、今度は家の中からで
も姉の行動が見え、言ったように門を力任せに開こうと――していたが、開かないようだっ
た。
『オランダは国土の四分の一が海面下にあるの。堤防を築いて風車で水を汲み上げて排水
して、干拓地を造った。オランダの正式名称ネーデルラントは低い土地という意味なの』
「とつぜん何のはなしなのー?」
『ある日、一人の少年が堤防の一カ所から水がしみ出してくるところを見つけたの。そし
て、少年は知っていた。その小さな一穴がやがて堤防をも壊すきっかけになるということ
を。少年はその穴を手で塞いだ。大人に発見されるまで、ずっと。少年はその街を救った
のです――おわり』
「…………」
『…………』
「せつめいしてー」
『初音、何でも人に訊くんじゃなくて、自分で考える癖をつけなきゃ駄目』
「こんどからそうするからー」
『しようのない子ね――これは私の推測だけど、そこは今、水槽になっていると思う。塀
に囲まれた水槽。梓姉さんが門を開けられないのは、多分、内側からしか水圧がかかって
ないから、つまり外に水が溜まってないってこと。床下浸水してるのは近所では家だけの
筈。塀の穴から水が噴き出してくる理由が判らないけど、でも少なくとも耕一さんがそれ
を抑えられなくなった時、そこは終わりだと思う』
「――おわり……?」
『しばらく鶴来屋で生活しましょうか』
「そんなこといわないでたすけてよーっ」
『千鶴姉さんに門を壊してもらいなさい。それで排水できると思う。もともとその為に梓
姉さんが開けようとしてるんだと思うけど』
「うん――あっ、千鶴お姉ちゃんっ!」
「梓っ、何モタモタしてるのっ!」
「重くてビクともしないんだよっ!」
「ちょっとどきなさい!」
 梓をどかして門に手をかけた千鶴は、勝手口でも開けるような感じで、ひょいと門を引
く。
「――楓お姉ちゃん」
『何?』
「門、普通に開いたよ……」
『…………』
「……水がどんどんひいていくよ……」
『…………』
「……梓お姉ちゃんがぶるぶるふるえてしゃがみ込んでるよ――」
『――初音』
「なに?」
『千鶴姉さんの前では、何があっても素直ないい子でいなさいね……』
「……うん、わかったよ――」
『――それで、今そっちはどうなってる?』
「千鶴お姉ちゃんが梓お姉ちゃん引きずっ――連れて外いっちゃった」
『きっと塀の穴を外から見に行ったんだと思う。塀から水が噴き出すって変な現象だし、
最悪塀が壊れて水が流れ込んできたら、門開けてても意味がないかもしれないし。千鶴姉
さん、的確に判断してるようだから安心していいよ』
「うん――あっ、梓お姉ちゃん帰っ――通り過ぎていっちゃった。――あ、千鶴お姉ちゃ
んっ!」
 強風の中、普通に歩いて玄関に辿り着く千鶴。
「初音、原因判ったわよ」
「げんいん?」
「家が水に浸かった訳。水門に続いてる裏の山道あるでしょ、あそこの入り口が土砂崩れ
で転がってきた大きな岩で塞がれてるのよ。それで山道沿いに流れてきた水が堰き止めら
れて家の裏に溜まったらしいの。梓が反対側見に行ってるけど、多分そっちも塞がってる
筈よ。その土砂崩れで石かなんかあたったんだと思うけど裏の塀に穴が開いて、そこから
噴き出してきた水と降ってくる雨が塀の中に溜まったのね」
「もう大丈夫?」
「裏に溜まった水をなんとかすればね。今のままじゃいつ塀が崩れるか判らないもの。そ
うなったら家もただじゃ済まないわ――梓! どうだった!?」
「やっぱり塞がってる! 地滑りかなんかあったんだと思うけど、木が何本も倒れて折り
重なってるっ!」
「木をどかすほうが面倒ね――判ったわ。じゃあ姉さん、ちょっと岩割ってくるわね。パ
カッと」
 そんな言葉を残して、颯爽と嵐の中に消える姉。
 それを呆然と見送る妹達。
「……梓お姉ちゃん、岩ってどのくらいあるの?」
「……四、五メートル――かな……」
「…………」
「…………」
『千鶴姉さん、割った後のこと考えてるのかしら』
 素手で割れることが前提で、違和感なく話が進んだ。
「え? どういうこと――」
 多分、それが千鶴言うところの『パカッ』だったのだろう。小さな雷が落ちたような硬
質な音が響いた。
 そして、プチ地響き。




『
  鉄砲水がーっ!! ていうか土石流がーっ!!

「門から逆流してくるよー!! ――って庭のほうからもみずー!!」
  塀――じゃなくて耕一大丈夫かーっ!! それともダメだから水かー!?

「梓お姉ちゃん外ーっ!!」
  どうした初音っ!?
「千鶴お姉ちゃんが流されていったよー!!」
  ええっ!!
「うつ伏せでーっ!!」
  たすけてくるっ!!

「――ああっ!! 梓お姉ちゃんがなんだか判らないうちにあっさりと濁流にー!!
 ついでに電柱がーっ!! 電柱が」プチッ
』
 楓は耳に当てていた携帯電話を目の前に持ってきて電源を切る。
 奇跡的に生きていた電話回線が、電柱もろともお亡くなりになったようだった。
 楓は再び、空の蒼と海の蒼が交じり合う彼方を眺める。
 北海道。一人旅。ホテルのシングルルーム。開け放った窓。潮風。晩夏。
 そして、姉妹達のことを想う。
 濁流に流されていったと聞かされた姉達に感じる、絶対的な安心感。きっと、「死ぬか
と思った」の一言で済まされるのだろう。絶対に死なない人達だから。
 妹を心配する気持ちも薄かった。あの姉の妹の、何を心配したらいいのだろう。
 愉快な人達。自然災害の中にあり、あれ程に愉快な人達なのだった。
 だから、自分は一人で、独りで旅に出たのだ。
 自分があの姉妹達と同じ血を引いている、その現実と向き合うために。
 何かを見つけることが出来るのか、それとも諦めることを知るだけなのか。
 そんな心の旅の途に、窓の外の蒼は目に痛い程に純粋で、心に痛いくらいに蒼かった。
 蒼かった。