鬼性の縁 (痕SSこんぺ委員会 長編部門参加作品) 投稿者:東西 投稿日:1月17日(金)00時32分
「まだ食べぬか?」
 逞しい体躯の男が尋ねる。
「……」
 少女は、それに沈黙をもって応える。
 男は、いらだちを隠そうともせず、膳に並んだ碗を取ると、やや冷めた様子の白米を掻
き込む。
 少女は、その様子を上目遣いで一度だけ見て、再び視線を膝の上に並べた両の拳へと戻
す。
「リネット」
 今度は、名前で呼ばれ、少女が面を上げる。
「なにが不服だ?」
 リネットは答えない。
 これがまた次郎衛門を苛立たせた。
「望みは叶えたであろう!
 お前から全てを奪った鬼の一族、全てに報いを受けさせた!
 お前の望み通りに俺が!
 エディフェルの最期を看取ったこの俺がだっ!」
 大声が響く。
 唯一、外界と室を隔てる障子を揺すり、大きく響く。
 都や集落ならば、さぞ近所迷惑になるのだろうが、この場所では気にする必要がない。
「ふん……っ」
 男が立ち上がり、その部屋を出る。
 リネットはそれを追おうともしない。反応すらしない。ただ、一言、自らの代わりに言
葉をその背を追わせる。
「ジローエモン……」
 そう、ここは「鬼殺し」の次郎衛門が居を構える山の中。



「ちっ」
 次郎衛門が舌打ちをする。
 リネットが居る部屋とは別の室、とはいえ、ただ、障子で隔てただけの隣室。
 寝ころび、腕を枕とし、眠るわけでもなく、何かをするでも、考えるでもなく、ただ、
天井の梁を眺めている。それが、この頃の常である。が、今日は、少し違った。先ほどの
リネットとのやりとりである。
「大概にしろと言うのだ……」
 言葉にして思う。
 ――だれがだろう。
 食事を取らぬリネットに、先ほどは怒鳴り散らした。間違いないことだが、その時に自
分が吐いた言葉に、彼は納得がいってはいなかった。
 「鬼殺し」の字を得た戦。
 それは、決して大義名分で始めたことではない。この地を統治する者からすれば、治安
の為、物の怪を退治しただけのことだが、次郎衛門からすれば、それこそ知ったことでは
なかった。大敗を喫した一度目の戦は、立身出世や多少の正義感はあった。が、実際に鬼
を討ち滅ぼした二度目の戦は、ただただ復讐の念に駆られてのことだった。
「腹立たしい……」
 次郎衛門は、伴侶であったリネットの姉、エディフェルの敵を討ち、鬼の総括者の首を
墓前に供えるまでした。
 痛快だった。
 憑き物が落ちたような気分だった。
 が、憑いたものが落ちた後、何も残らなかった。
『後程、領主様よりお達しがあります、それが来るまで連絡が取れるようにして、お待ち
くだされ』
 領主よりの使いと名乗ったものは、エディフェルとの思い出を残すこの庵にやってきて、
そのような言葉を残し、去った。妙にそわそわと、噴き出る汗を忙しそうに拭いているの
が印象に残る、小男だった。
 その男には、ここにとどまる旨を伝え、帰した。
 以前の次郎衛門ならば、己が成した功績と、召し抱えられるという結果に満足して人里
に降り、堂々と生活をしていただろう。が、すべてが終わった今では、ただ、エディフェ
ルとの思い出に身を沈める生活を、この庵にて送っている。
 ふと、次郎衛門は障子越しに、未だ変わらぬ佇まいで居るはずのリネットを見る。
 鬼を滅ぼす結果となった戦の貢献者にして、裏切り者。
 その罪を背負わせたのも、次郎衛門である。
 リネットは、姉達の遺志を継ぎ人と鬼の仲を取り持とうと、亡き姉の一人、エディフェ
ルの伴侶である次郎衛門を頼った。
 切々と、エディフェルが去った後の事情を次郎衛門に語った。
 エディフェルを失い、自身もまた幽世の住人のようになっていた次郎衛門は、興味なさ
げに聞いていた。が、リネットが話を終えたとき、嗤った。狂ったように嗤った後、
『その話、承知した』
 そう言って、また嗤いだした。
 悲劇が、転がり、止まったときには、たった一握りが残っただけだった。
 同族すべてを失ったリネットには、次郎衛門という唯一の頼りが残った。
 復讐という生きる糧を失った次郎衛門には、リネットという捨てるに捨てきれない伴侶
の形見が残った。
 『縁』だけが、お互いの手に残った。
 後は、見捨てられぬ次郎衛門が、リネットの生活を見ることになった。



 次郎衛門が去った室、リネットが未だに膳と向かい合っていた。
 眺めて……眺めて……やがて、ほんの少しだけ箸をのばし、慣れない手つきで食す。
 次郎衛門の厄介になってからの日常。
「私って……卑怯だ」
 死にたくないのに、死にたい振りをしている。
 最初は、死ぬつもりで始めたことだったかもしれない、だが、途中から怖くなった。
 夢で見る。
 あの血と炎で彩られた舞台。
 全てが飲み込まれ、土へと帰っていった。
 この星の者でない者達が、この星で生まれた者達のように……故郷の土に帰れなかった
同胞に哀れみと共に、この星の者達と同じように土になれることに一抹の安堵を覚えた。
 他の星よりやってきた自分たち、原住民をあやめてきた自分たち、それでも許し、平等
に扱ってくれる自然に感謝した。しかし……
「誰も……許してはくれない、許されてはならない」
 ただ、自分だけは許されることはない。
 リネットは、ただ、そう思えてならなかった。



 さらに、それからしばらくすると、次郎衛門に領主からの使いが再度やってきた。
『急ぎ馳せ参じるように』
 今まで待たせておいて、何が急ぎ来るようにか……心中にて苦笑いを浮かべ、了解した
旨を使いの者に伝えると、身支度を整える。
「ジローエモン……」
 一度目の呼びかけは無視した。
「……ジローエモン」
 二度目……一つため息をつく。
 その不安気な声は捨て犬を思い出させられる。
 今までなら、自分自身、生きると言うこと自体に余裕がなかったので無視もできるもの
だったが、見捨てきれない、ましてや、子犬などではない者からとなれば無視もできない。
「今から領主のもとに赴く」
 用意と言っても、簡単なものだ。あちらが用意した着物を、登城してから着替えればよ
いのだから、入城する際に、不審に思われるような格好をしていなければいいだけのもの。
「お前も来るか?」
 皮肉に歪められた笑顔をリネットに向ける。
「俺に唆されて、お前の一族を皆殺しにする力を与えたもう一人の首を取りに?」
 リネットが怯える。
 他者を傷つけることで喜ぶのではなく、自分を苛んで喜ぶ者の顔を見て、ただ、怯える。
「そうでないのなら、大人しく待っていろ」
 顔をリネットから背け、支度に落ち度がないことを確認すると、それ以上の問答をさせ
ぬように、すぐさま立ち上がる。
 草鞋を履き、馴染みを確かめ、戸を開ける。
「あ……」
 リネットがたまらずに声を上げると、
「おそらく、明日まで戻るまい。
 それまで、好きにするがいいさ。外に出るも良いが……その奇異な出で立ちで、本来、
獲物である者共に襲われぬようにな」
「……気をつけて」
 一瞬だけ、堪らずに次郎衛門を睨んだリネットだったが、すぐさま泣きそうな表情を作
り、駆けるように奥に戻っていった。
「……ふん、睨む気概はあったか……」
 つまらなげに呟くと、次郎衛門は領主の城へと足を進めた。
 少し出立を遅らせていれば、次郎衛門にも届いたのだろうか?
 日が高いにもかかわらず、薄暗い屋内に響きだした細い、細い嗚咽が……



 さて、ここの領主の住まいは城と言っても、実際は砦に等しい。いや、砦よりも屋敷と
言った方がより正しいかもしれない。
 一般的に山城と呼ばれ、山に面して作られた大仰な砦のようなものである。が、領主の
住まいとしてある為、中身はきっちりとした屋敷の形式を取っている。この屋敷を大きく
余裕を持って壁で囲い、さらに、堀でも囲んである。辺りは、天然の森で囲まれ、人の通
りが自然に作った細道のみが、唯一のまともな通りであった。
 そして、次郎衛門は、今、其処を歩いている。
 上を見上げれば鳥が舞い、森を見れば動物たちが警戒して身を潜める。のどかで当たり
前な空気が流れている。そんな中をゆっくりと歩いているのだが、その様子とは裏腹に、
次郎衛門は何故か胸騒ぎを覚えていた。 
 そんな胸騒ぎを消すように、ふと愉快に思ったことを思い出す。
(あの使者は傑作だったな)
 使者というのは、次郎衛門に登城の伝令を伝えに来た者のことである。
 二度目に訪れた者は、一度目の者とは違っていて、がっしりとした武士然とした者だっ
た。おどおどとした様子はなく、ただ居丈高に物事を伝えていった。だが……
「腰の物をいつでも抜ける姿勢で……か」
 と言っても、其処まであからさまなものではなかった。ただ、一人目よりもきっちりと
間合いを取り、大きな声を張り上げていたのも気勢を削がぬため。しっかりとした態度の
中でも、目だけが恐れを浮かべていた。ある意味、一人目よりもしっかりと感じられた。
「厄介な……事にならなければいいんだがな……」
 ため息をつくが、ふと思い直す。
「いや……厄介な方が良いかもな。手間が省けて……」
 そう言った矢先に、大きな門構えが見えてきた。
 門番は2人、これまたあからさまなおびえから、次郎衛門を見つけてからは視線を合わ
そうとしない。
 ――地獄の門に餓鬼が二匹……か
 立ち止まり、門を見上げる。
 その様子に、門番2人が身を震わせる。門を見て、何を思っているのかよりも、何かを
されるかも、と言う意識が先に立つのだろう。
 ――ふん……
「ご苦労な事だな」
 次郎衛門が門をくぐると、大きなきしみを上げ、門番がその門扉を閉じる。
 何故か、エディフェルの姿を思い浮かべ、久しぶりに次郎衛門は微笑みを浮かべた。



――次郎衛門宅
 家の中をのそのそと動く影がある。ごそごそと、主に食べ物を置く場所を中心に移動し
ている。やがて、影は、一つの壺を見つけ、中身をつまみ、口へと放り込む。
「……ーーーーーーーっ!!!???」
 すぐさま吐き出し、転げ回る。
「す……すっぱい……なに?これ……」
 少し落ち着くと、再び壺に蓋を施して元在った場所に戻す。そして、寝床に潜り込み、
家の主を待つ。
 これで三日目である。
「……うそつき……一日で帰ってくるような事言ってたのに……」
 布団を被る。
 闇の中に、この三日間が浮かんでは消える。
 情けないことに、餓えた記憶と孤独に怯えた風景しか浮かんではこない。姉たちは先立
ち、一族は滅びた。この世界の全てが敵のように再認識させられた。全てが全て、自分を
排除しようとしているのだと……そう思えるようになってきた。
(やっぱり……捨てられたのかな? 私)
 次郎衛門が浮かんだ折りに、そんなことを考えてしまい、身を何度も震わせた。
(死ぬのが怖い、一人が怖い、捨てられるのが怖い……怖いものだらけだよ、エディフェ
ル姉様)
 リネットに一番近かった姉。
 優しい憧れだった姉。
 この世界に迷い込んだとき、真っ先にこの世界へと飛び込んだ、強かった姉。
 真っ先に世界と、一族に排除された姉。
「……勇気が欲しい、死ぬ勇気でも、生きる勇気でもいいから……姉さん」
(あと……文句を言う勇気も……)
 三日間も閉じこめられ、餓えぎりぎりのところで食べ物を漁るような真似をさせられ、
リネットの身体も精神もぎりぎりの所にある。
「……なんだ……行き先分かってるんだもん……文句くらい言えるじゃない……」
 布団を被りながらリネットが立ち上がる。
 次郎衛門が向かった先は知っている。場所も分かっている。エディフェルが健在だった
時分に、よく散歩に出掛け、立派な建物が隠れるように立っているのを見つけた。あとで、
エディフェルが調べてきていたのだ。彼処には、この土地を統率するような者が居るのだ
と、だから、次郎衛門は彼処に向かったのだと……リネットはそう信じている。
 その夜、月夜に鬼が舞った。



――領主屋敷門前
「おい……」
「なんだ?」
「虫の音が……止んでないか?」
「気にするな」
「でもよ……」
 門番が二人立っている。
 鬼の脅威が去り、他の表だった外敵の動きもない。ここ最近は、座り込んで勤めに支障
がない程度に隠れて酒を飲む。それが楽しみの二人だったのだが、今日は違う辺りの様子
に緊張をあらわにしている。
「思い出さないか?」
「……何をだよ」
 そう聞き返す相方も、その内容に心覚えがあるのだろう。訪ねながらも身震いを起こす。
「……鬼がさ、里を襲うときの山の様子にさ」
 自分が言ったことに怖気を催したのか、身震いする。
「馬鹿言うな、鬼は一匹残らず退治されただろうが……今、中にいる次郎衛門によ」
「だけど、打ち漏らしがあったら?
 その次郎衛門に恨みを抱いて、ここにいることを知っていたら?
 んで、中でどうなっているのかも知ったら……」
 ゴクリ
 どちらともなく喉を鳴らす。
 ゆっくりと、門越し、屋敷の中に視線を向けるが、当然門の木目以外何も見えない。
「第一、次郎衛門が急遽ここに呼ばれることになった、娘の噂……」
 其処まで口にしたとき、冷たい空気が二人の頬を撫でる。
「ひゃっ!?」
 今までとは、あまりに違う風の変化に思わず声を上げる二人。
 向き直った正面、小道の先に小さな影があることに気がつく。
「誰だっ!?」
 現れた影に一瞬肝を冷やした二人だが、職務意識と現れた影が小柄だったことから強気
を取り戻す。
「止まれっ!
 ここは御領主様のお屋敷、用なき者が来るところではないっ!
 また、用があるにしてもこのような刻限であるっ!
 出尚すがよいっ!」
 手にした武器、槍を構えながら威嚇するが、影はためらいなく近づいていく。
「おい……」
「ああ、わかってる。ちょっとでも、おかしな行動を起こしたらやるぞ」
 目配せをしあい、算段を確認する。
 影は、篝火によって、その姿を浮かす距離にまで近付いてきていた。門番達からすれば、
見慣れない装束を身に纏った少女が其処に在った。
「おいっ」
 一人が、一歩前に踏み出すと、少女がやっと口を開く。
「ジローエモン……イル?ココニ」
 無表情に、片言の言葉を話す。
 その装束と相成った不気味さは、全てを沈黙させた。
「……?」
 返答が返ってこないことに、小首を傾げる少女。いっそ可愛らしくすら見える仕草も、
門番2人には異様さをます要因にしかならなかった。
 少女が門を見て、やや上方に視線を移す。
「……ジローエモン……イル」
 途端に、少女に変化が現れる。
 いや、見た目はほとんど変化はないのだが、その足下の大地が悲鳴を上げはじめるのを
皮切りに、辺りの獣が騒ぐ。唯一明確な身体的変化、瞳が朱に染まり瞳孔が縦に割れる、
獣相が生まれた。
『ひっ!!お、鬼っ!?』
 詰め寄っていた者は一歩下がり。控えていた者は、門にその身を押しつける。哀れなほ
どに恐れ、怯え、錯乱する。
 しかし、当の鬼は一瞬、悲しげな表情で一瞥をしただけで、門を飛び越える。
 鬼と共に警鐘の音が、夜の闇を引き裂き飛んだ。



――領主屋敷奥の牢
 けたたましい音が鳴る。
 それは、領主の屋敷全体に広がり、一番奥の牢屋にも聞こえてきた。
 牢屋と言っても、浅い洞窟に格子をはめたもので、作りはとても簡素、というよりも、
使用を目的に作られたようには見えない。
 そして、その闇は久方ぶりの客を迎えていた。
「……騒がしいな」
 客、次郎衛門が目をさます。
「盗人か?まったく……警戒厳重な領主の屋敷に来るとは、余程肝が据わった奴か、間抜
けだな」
 格子にもたれなおし、夜空を眺める。
「ちっ……間抜けは、俺もかわらんか」
 次郎衛門がこのようなところに拘束された原因は、もちろん三日前のあの日にある。



――三日前
「次郎衛門、此度の働きご苦労であった。感謝するぞ」
「は、手前如きに勿体なきお言葉……」
 領主のねぎらいの言葉に、深々と頭を垂れる次郎衛門。
 領主は豪快に笑い、かしこまるなと声をかける。自分も堅いことは苦手だと言い姿勢を
崩した。
「まぁ、今宵は宴を開く、楽しめ」
 そう言って通された別室では、既に配膳が終わり。他の客人、主に、あの鬼の戦をかい
くぐった者達が集められていた。
 領主が席に着き、次郎衛門に左手前の席、客賓の中でもっとも領主に近い席に招かれる。
 そして、宴が始まった。
 美味い食事に美味い酒、皆、最初こそ領主の手前と言うことで、遠慮もあったが、当の
領主が、無礼講ぞ。と共に騒ぎ出してからは、まさしく祭りのような活気になる。
 飲んで、食べて、飲んで、話して、飲んで、騒ぐ……憂さを晴らすように、イヤな記憶
を忘れるように、飲む。が、そんな中にあっても、次郎衛門だけは、騒ぎの輪には加わら
ず、淡々と食事を取っていた。
 どうと言うことはない、ただ、次郎衛門には疎ましかっただけだ。
 あの鬼との戦は、エディフェルの弔い、自分から大切な物を奪った鬼達への復讐、そう
割り切っている。だからこそ、大義名分成就のこの宴自体が気にくわない。だから、騒ぐ
気は全くなかった。が、もちろん、力を借りた義理だけは返したいとも思っていたので、
邪魔をする気も、興を削ぐようなことをする気もなかった。
 だが……
「そういえば、次郎衛門殿」
 酒に酔った一人が声をかけてくる。
 次郎衛門が、振り向くと、特に見覚えがある顔には見えなかったが、その顔には、下品
な笑いが浮かんでいた。
「なんでも、鬼の集落から娘を一人連れてきたそうですな?」
「連れてきてません」
「何も隠さずとも……」
「隠してなどおりませんよ」
 次郎衛門のとりつく島もない返答に、諦めようとした矢先に、別方向から声がかかる。
「儂は、鬼の娘を匿っていると聞いたがな」
 次郎衛門がゆっくりと視線を向ける。
 その男も同じように笑っている。だが、下品……というような笑いではない。人を陥れ
るのを楽しむような、そんな厭らしい笑い方。
 内容が内容だけに、辺りが水を打ったように静まりかえる。
「……たしかに」
 次郎衛門が言葉を選ぶ。
「一人、娘を家に置いております。何せ、旅の生活が長かった為、一つ所で暮らすという
事になれておらず、家事の細かいところを頼んでおります」
「ほう……しかし、かなり変わった装束を纏っておるとか?
 しかも、髪の色が我らとは異なると聞いておりますが?」
 にやにやと、相手を追いつめるのが楽しいと言った笑い方が、先ほどよりも表立ってく
る。周囲も、どう宥めていいのか分からず、また、もし鬼の生き残りだというのならば?
と言う思考と興味から、ただ事の成り行きを見守る形になっている。
「……」
 場の雰囲気の変化を見て、次郎衛門が口を噤む。
「しかも、なかなかの器量よしだと聞き及んでおりますよ……魔性の美しさとか」
「見せて回るほどの娘ではございませぬ」
「それとも……本当に鬼の娘で……次郎衛門殿は、鬼に魂を喰われておいでか?」
 次郎衛門が膳を蹴って立ち上がり、睨み付ける。
 双方とも、ごくごく自然に立っている。それでも、場の雰囲気は、次に不用意な発言を
すれば、爆発することを告げている。
「なれば、儂も……」
 口許が厭らしく歪む。
「一匹だけでも、生け捕りにして飼っておけば良かったですなぁ」
 切れた。
 次郎衛門の自制が、それと同時に放たれた拳により空気が切り裂かれた。
 争いとは呼べない惨事だった。
 一方的に次郎衛門が暴行を加えた形だった。
 喧嘩を売った方も多少腕に覚えがあったのだろうが、相手が悪い。前線に身を置き、今、
解放はしないとはいえ鬼の力を手に入れている次郎衛門を止められる人間など居はしなか
った。その場にいる、領主以外の者が必死になって止めようとしたが、引きずられ、投げ
飛ばされ、全く歯が立たない。
「まったく……人の屋敷で……」
 今の今まで傍観を決め込み、どこか楽しげに眺めていた領主が、刀を手に取る。
「あ……」
 言葉でなく、実際に縋り付くように止めようとした家臣を片手で制止し、次郎衛門の後
ろに立つ。
「……たくっ」
 後ろに立たれても気がつけない次郎衛門、其処に無慈悲に鞘をつけて一撃をくれる。鬼
の力を解放していない状態では流石に常人と大差なく、一撃で白目を剥く。
「裏手の牢に入れて、頭を冷やさせろ」
 そして、愚かな犠牲者の方に目をやる。
「息はしているか?」
「はい……かなり手ひどくやられてはいますが……」
 その一言に、鼻を一つ鳴らすと、傷の手当てを言い渡し宴の終了を告げた。
「どいつもこいつも、つまらんことを……」
 そう言い残し、領主自身も部屋を出た。



――二日前
 次郎衛門は、硬い剥き出しの岩肌の上で身を起こした。
「……ここは」
 頭を振り、意識を覚醒させる。酒は残っているわけではなさそうだが、何故か頭が痛い。
「牢?」
 唯一の外界との接点にはめられている格子を見て、理解する。そして、格子に近付き、
表を伺うと、眠りこけている牢番と思わしき男に気が付く。
「おい、そこの奴」
 呼ばれて牢番は飛び起きる。
「おい、俺をここから……」
 次郎衛門が言い終わるよりも早く、牢番は大慌てで屋敷の方へと走り出す。
「あ、こらっ!」
 呼び止めようとしたときには既に見えなくなっていた。
「なんだというのだ……」
 呆気にとられ、座り込む。
 ややあって、人がやってきた。
「次郎衛門」
 その声に、ふて寝のように寝転がっていた次郎衛門が身を起こす。
「領主……」
「そうだ……昨夜のことは覚えているな?」
「はっ、お見苦しいところを」
 次郎衛門が深々と頭を垂れる。
「全くだ……おかげで宴は白けてお開きだ」
 大仰に首を振る。
「……鬼の娘というのは、本当か?」
 射るような視線で尋ねる。
 次郎衛門は、頭を垂れたまま無言を貫く。
「お前は、鬼に骨抜きにされたか?」
 答えない。
「同情、憐憫の類で行ったことか?」
「いいえ、決して」
 次郎衛門が、ゆっくりと頭を上げる。しかし、その緩慢な動作とは反対に力強い瞳を返
す。
「……ならば、我らがその娘を討ったとて、なんの問題もないな?」
「……それは……」
 逡巡する。
「それとも……」
 領主の刀抜き放たれ、次郎衛門に切っ先を向ける。
「お前自身が鬼か?」
 答えない。
「……あながち、妬み嫉みからの言葉ではなかったと言うことか……」
 残念そうに呟く。
「もうしばらく、其処に泊まっていけ……まだ、悪いようにはせん」
「はっ」
 そうして、領主は屋敷へと戻っていった。
 その後、次郎衛門は一人で考えていた。
「……あれを殺せば……鬼は消えるのか」
 あれとは、当然リネットのことを指す。
 考えてみると、まだ、やり遂げていないような気がしてきた。鬼の全てを滅ぼす、滅ぼ
そうと思った。それには、当然自分も含まれる。
「今更、自分の命が惜しいわけもない……なにより、エディフェルと同じ所に行けるなら
ば……」
 本気でそう考えた。
 リネットは、あの様子ならば、放って置いても勝手に死ぬ。
 自分が、自分に決着をつければ、全てが終わる。楽になる。寂しくなくなる……。今の
次郎衛門にとっては逆らいがたい誘惑だった。
 右手に意識を集中する。
 鼓動が一つ大きくはね、右腕に鬼の力が宿るのを感じた。まだ、鬼の姿に変じはしない
までも、人一人の首を引きちぎるには十分な力が宿っていることを次郎衛門は自覚してい
る。
(これで……胸を貫けば……)
 瞳が胡乱となる。熱に魘されたように、身体は楽に、頭には霞がかかる。
 欲望に負けて、その腕を自分の胸に向けたその時、後ろに覚えのある気配が近付いてく
るのを感じた。
「おい、次郎衛門」
 それは、無遠慮に次郎衛門に声をかけた。
「昨日は世話になったな」
 振り向くと、昨日次郎衛門自身が、胸のつかえがとれるほどに殴り続けた男の顔があっ
た。痛々しいほどに、包帯まみれになった身体で歩いてくる。
「ああ……あんたか、なんか用か?」
 半眼で、興味の欠片も見せずに応答する。
「……ああ、お前が置いている娘というのを貰おうと思ってな」
「そうか」
 一瞬、怒りに歪みかけた顔を、厭らしい笑みにかえた男だが、また直ぐさま真っ赤にさ
せ怒鳴り散らす。
「すましているのも今の内だからなっ!
 やると言ったら、絶対に儂はやるぞっ!
 お前如きに飼える代物が儂に飼えぬはずがないのだからなっ!!」
 格子を掴み、更にまくし立てる。
「飽きたらうっぱらってやる!
 鬼なら高く売れよう!珍しいからなぁっ!」
 そうして、高笑いをはじめたその時、大口を開けた顎を次郎衛門が掴む。
「……いいだろう、やって見せろ」
「ぐっ!ぐぅっ!!」
 懸命に次郎衛門の掌をはぎ取ろうとするが、次郎衛門は既に鬼の力を発動させている。
いきなり、顎を砕かれないだけ幸運だと言えるのだろうが、その力は徐々に骨を軋ませ、
砕くほどに強くなっていく。
「その時は、鬼の恐ろしさを再確認するがいい。
 もし、上手くいっても俺の耳には絶対に入れるなよ?
 人の身で鬼を制することが出来ると思うな。鬼を制することが出来るのは鬼だけだ」
 メキョ
「ふぐぅっ!?」
 次郎衛門の腕が、音を立てつつ変化していく。人の物ではない、もっと攻撃的な力強さ
をもつ異形へと変化していく。
「うぅ!? うぅっ!!!」
 先ほどよりも強く、その腕を引きはがそうとするが、微動だにしない。それでも諦めず
に暴れ続けていると、次郎衛門の方が解放した。
 その男は、しりもちを付き、何事か喋ろうとするが、顎が動かない。本人ですら気が付
いていなかったが、先ほどの次郎衛門の腕の変化の時にたてた音の中には、自分の顎の骨
が砕けた音も混じっていたのだ。
 そして、その男は這々の体で駆けだした。
「ふん、馬鹿が」
 再び、寝転がる。
 既に、先ほどの己を殺すという欲求はどこかに消えてしまった。
「……情けない」
 右手を眺めながら思う。
 何が情けないのだろうか……と。



 そして、今、何が情けないのかが分からないまま、いまだに牢にいる。
「迂闊だったな……俺も」
 鬼の力を人に見せれば、当然人の世界には戻れなくなる。それは分かっていたはずなの
に、あの体たらくである。
 あの後、すぐに処刑されなかったのが不思議だ。
 そして、ふと、思う。
「……なんだ、俺はまだ人の世で生きることを考えていたのか……」
 自嘲の笑みが浮かぶ。
 そうしたら、分からなかったことが分かった。
「ああ……どっちつかずの俺自身が情けないのか……あいつと一緒か」
 結局、リネットと一緒で、まだ人であることに未練を持ち、生きることに未練を持って
いる。死ぬ死ぬと言っても、所詮その程度のことなのだと認識させられる。
「飯……くってるのかなぁ……あいつ」
「……食べてないです」
 返ってくるはずのない返答に、慌てて声の出たところを見る。
「……リネット」
 闇の中からゆっくりと月光にその身を晒し、涙目になりながらエルクゥとしての力を解
放したリネットであった。
「なんでこんな所に……」
 リネットは、その問いに答えることなく、格子に近付いて次郎衛門の手にそっと手を重
ねる。戦を終えてからの怯えた様子はなく、その表情からは凛とした雰囲気を感じられる。
「お……」
 次郎衛門が再び呼び掛けようとしたところで、リネットは格子の中に手を差し込み……
 パァンッ!
 次郎衛門の顔を張った。
「……あ?」
 唐突に起こった予想も出来ない事態に次郎衛門が呆けていると、また、今度は反対側の
頬に痛みが走る。
「怒ってるんです」
 また張られる。
「何日も何日も放って置かれて……私怒ってるんですっ」
 二度、三度と言葉に乗せて、次郎衛門の頬を張る。
 その間、次郎衛門は呆けたまま張られ続けていたが、リネットが泣き出したのを見て、
その腕を取る。
「……泣きながら張らなくてもいいだろう」
「貴方にまで見捨てられたかと思った……
 貴方までどこかに行ってしまったのかと思った。
 そう思ったら、堪らず寂しくなって文句が言いたくなったんですっ」
 リネットの嗚咽と、未だ鳴り響く警鐘の音が辺りを支配する。
「……そうか……」
 その時、はじめてリネットがエディフェルと重なった。
 次郎衛門に鬼の力を与えて、一族から隠れて暮らしている間、エディフェルは寂しいと
口にすることはなかったが、話しをしているときにふと漏れる姉妹の話題の中、その表情
がわずかに変わるときがあった。
「あいつも……やはり寂しかったのだろうな」
 ぽつりと、次郎衛門が漏らした言葉に、リネットが顔を上げる。
「エディフェル姉様のこと?」
「ああ……っと、ゆっくり話している場合じゃないようだな。人が来た」
 遠くから聞こえてくる足音、そして、わずかに「次郎衛門の方に向かった」という言葉
が聞こえてくることから、間違いなく、こちら側へとやってくるだろう。
「すこし、離れていろ」
 リネットは逆らうことなく、牢から離れる。
 それを確認し、次郎衛門はゆっくりと力を解放する。鬼へと姿を変じる直前、人の姿で
鬼の力を振るえる限界にまで引き出し、格子をこじ開ける。
「ついてこい」
 リネットが頷くのを確認してから、次郎衛門が駆けだした。
 夜の空気が気持ちよかった。風をも寄せ付けず、ただ、後ろへと流れていく全てを感じ
ながら、ただ、走った。
 途中、リネットを追う一団と遭遇しそうになったが、木の上でやり過ごす。ふと、後ろ
を振り向く、今まで、気の向くままに走り、風と共に走っていたが、リネットのことをす
っかり忘れていたことに気が付いたからだ。
 振り向くと、気にしたほど離れてはいないことが確認出来る。また、次郎衛門の視線に
気がつき、リネットも微笑んで返す。
 そして、次郎衛門は、リネットを伴って再び走り出す。
 領主の屋敷は、もうすぐ目の前にある。

――領主の屋敷
 屋敷の一室に、領主は座していた。
 警鐘が鳴り響き、人の雑多な足音と話し声が夜の帳に充ちている。
 外の音が部屋に響き渡る。
 障子一枚を隔てただけで、聞こえてくる音は何処か遠くから流れてくるかのように聞こ
え、障子を境に絡み合う橙の光と白銀の光。風情を感じるよりも先に、非日常の緊迫感が
小さな部屋に留まり、部屋を俗世から隔離しているようにも感じる。
 燈灯がゆらりと影を揺らした。
 領主は、薄く目を開く。
 そして、紛れもない異界が広がったのを肌で感じる。
「鬼……か」
 カタ……
 ほんの僅かな振動。
 同時に月にかかった雲が一時だけの闇を作り出し、闇を抜けたとき、領主は人の世にあ
ることを忘れた。
 ゆっくりと光が作り上げる影、何をするでもなく立ちつくしているように見る影が二つ、
気がつけば其処にあった。
「あれだけの者達から逃げおおせ、さらに儂の居るところにやってくる……物の怪の類と
言わずなんというかな?」
「俺達は、鬼……と呼んでいました」
 二つの影、大きな影の方が語り出す。
「しかし、彼等には彼等自身の呼び方があったとか……」
「どうでもいいことだな」
 障子の影から、畳に落ちる影へと視線を移す。
「鬼達が自分たちをなんと呼ぼうとも、あれらは害獣だ」
 きっぱりと言い捨てる。
「そう……害獣です。
 それは、俺にとってもその通りの存在でしたのでよく分かります」
 身動ぎ一つしない影、しかし、気配はここに来て居心地の悪い物に変わる。
 領主は何も尋ねない。
 何も珍しいことではなかった。肉親を殺され、友を殺され、ただ復讐の為に征伐隊に加
わった者は数えきれずにいる。それらから見ても、鬼は十分に害獣である。
「しかし、害獣の中にも人の心を解する者が居ました」
「それが、お前の伴って居る者か?」
 影が頷く。
「それと、私を鬼とし、命を助けてくれた者です」
「そうか……それで、此処には何をしに?
 牢を出たのなら、用はもう無かろう」
「そうですね……俺が鬼であることを知っている貴方に釘を刺しに来ました」
「儂を殺すか?」
 苦笑を浮かべ、影に尋ねる。
 その声に、驚いたように身動ぎしたのは以外にも小さな影の方だった。
 その影は、大きな影の裾を引き、聞き取りにくい言葉でいさめているように領主には思
えた。
「殺しはしません」
 領主は、大きな影とのやりとりを何処か楽しんでいる。
 大きな影もそれに付き合っている、なのに小さな影だけがワケもわからず出てくる言葉
に翻弄され、遊ばれている。小さな影だけが、慌ただしく状況についていこうと必死にな
っている。今も、ホッしたように手を裾から離したはいいが、辺りの人の気配を探り、き
ょろきょろと首を巡らせている。
「ただ、俺達はもう人里から離れようと思います。
 だから、邪魔をするな……と、それだけ言いに来ました。
 人としてあり、鬼としてもある以上、人里で隠していくのもいつかは限界が来るでしょ
う。大きな騒ぎになる前に、身を隠します」
「それは……参ったな」
 領主が首を掻く。
「……参ったとは?」
「鬼は野放しにしておきたくない。
 しておくと、危険だとは思わないか? 次郎衛門」
 大きな影、次郎衛門は答えない。
「鬼は飼えぬ、が、鬼の力もつ人ならば飼えると思っていたのだが……」
「……俺は、飼われるのは嫌いですね」
「ふむ、言葉が悪かったな。
 鬼人を配下にもてば、この地も安泰なのだが……仕官する気はないか?」
「この力、人の世で振るえば、俺達の身にも災厄が降りかかるでしょう。
 利用される気もありません。」
「なに、ただ、鬼瓦のようにいればいいだけよ。
 此より後、おぬしの力ではなく、他国にも聞こえるであろう、鬼殺しの名声の方がより
大きな力となる」
 鬼殺しが、鬼などとは誰も思うまい。領主はそう付け加える。
「……それは……」
「褒美は、村一つ領地にやってお前を召し抱える、そのつもりだった。
 それが、こちらにとってより有益な話になっただけの話しだ。
 もし、断れば、お主達には一生追っ手がかかる。
 儂等も勝てぬ戦はせぬ、嫌がらせの如くちくちくと追いかけ回す」
「……それは、嫌ですね」
 影が面白そうに声を漏らす。
「ただ人里に降りればおかしな噂も立とうが、権力を持ち、統治という名目で降りれば、
そのような噂どうとでもなる。どうだ?」
「……権力者の鏡ですね」
 苦笑する。
「しかし、貴方も肝が据わった人だ。鬼を相手に交渉などと」
「交渉が成功しなければ、最悪殺される。
 なまじ、今殺されなくても、鬼を放っておく危険は犯せない。いつか、儂を殺しにこさ
せるほどに追いつめざるを得ない。ならば、今、虚勢でも何でも張って監視出来るように
する」
「なるほど」
 次郎衛門が短く答える。
「さて……お前はどうする?
 人の世にあって、人を遠ざけて生きるか。
 また、全ての人を騙し、その鬼の娘と架空の鬼として生きるか。
 少なくとも、どの選択肢をとっても、お前は人としては生きられンがな」
 騒がしさが遠のく、領主の言葉が全ての音を遠ざけ、次郎衛門の耳を打ち、思う。
 自分の身一つと、鬼であるとはいえリネットを連れて、留まるところ無き旅となると心
配がないと言えば嘘になる。正直、ここで鬼とばれたときに、死ねればどれほど楽だろう
とも思った。何もかもを投げ出して、エディフェルの待つところへと逝く、抗えない誘い
だった。
 よくよく考えれば、今からそっ首落として楽になると言う方法もある。
 鬼の力ももう必要ない、復讐は果たした。
 これを与え、俺が護ろうとしていた者はもう居ない。
 そう考えると、何故生きているのかすらも疑問に思えてくる。
 次郎衛門の頭が、暗い考えに満たされそうになったとき、その裾を引っ張られる。
 甘さを持った霧から抜けきれずに、視線をゆっくりと裾にやる。
 小さな手が、自分の裾を握っていた。
 リネットが、不安そうに、泣きそうな顔を向けている。
 一度、エディフェルが見せた顔に似ていた。家族のことを次郎衛門が訪ねたときに見せ
た寂しげで、どうしようもない物に触れた痛みを感じたような表情。
「……そうだな、お前にこんな『今』を背負わせた責任を取らないとな。俺とエディフェ
ルの我が儘で始まったことだからな」
 やさしく頭を撫でた。
 はじめて、リネットをエディフェルの肉親として、自分の妹として、次郎衛門はそう接
した。
 そして、次郎衛門は、領主に対して返事をした。



 後日、某日。
 次郎衛門とリネットは向かい合い、食事を取っていた。
「美味いか?」
 次郎衛門の問いに、リネットは箸での食事に悪戦苦闘しながら頷いている。
「お前……箸も使えなかったのか」
 次郎衛門の言葉には耳も貸さずに、おかずの魚の骨取りを続ける。
「そういえば、エディフェルも最初はなかなか使えずに癇癪を起こしていたな」
 懐かしげに次郎衛門が漏らす。
 姉の名前が出たことで、リネットが魚から次郎衛門に顔を向ける。
「あ、悪い……」
「お姉さまも……」
「ん?」
 蚊の鳴くようなリネットの声に、次郎衛門が耳を傾ける。
「お姉さまも、この『箸』と言う物を、使えずにいたの?」
「ああ、でも、使えるようになっていたぞ……それと、箸を鳴らすな、行儀が悪いから」
「行儀?」
 箸をカチャカチャとぶつけながら尋ねるリネット。
「それを止めろと……」
 次郎衛門の言葉が止まる。
 思い出したのだ。
 昔、エディフェルとやっと落ち着けたと思った時のことを、あの時もリネットと同じよ
うに、箸を使いにくそうにしているエディフェルに話しかけ、笑いかけ、箸を使えるよう
に師事をした。
「ジローエモン?」
 リネットが、次郎衛門の傍らにより、頬を拭う。
 そうされて、はじめて次郎衛門は自分が泣いていることに気がつく。
 領主に仕え、一つの土地に多少の気兼ねを置きながらも落ち着いてより、次郎衛門はよ
く夢を見る。エディフェルと暮らしていた頃の夢。
 ただ幸せだった頃。
 ただエディフェルがそばにいるだけで満たされた頃。
 ただ過ぎ去る毎日に永遠を感じていたかった頃。
 時の流れすらも優しく感じられた頃を思い出し、夢を見、涙で目を醒ます。いや、今と
同じようにリネットに拭われ、はじめて涙で目を醒ましたのだと気がつく夜。そう言うと
きは、決まって互いを包むように抱き合い、涙が出なくなるまで泣き続ける。
 そして、朝を迎え、一日が始まる。





 人に生まれ、鬼と交わり、鬼となり、鬼を想う。
 交わってしまった鬼との縁を、切られても切れなかった縁を互いの涙で確かめながら、
ただ生きていく。
 そんな者が、此処に居た。