レディ・ジョイ (痕SSこんぺ委員会 中編部門参加作品) 投稿者:三丸くすくす 投稿日:1月17日(金)00時53分
その月の経済誌『エコノミック・ナウ』の表紙を飾ったのは、淑やかに微笑む鶴来屋会長・柏木千鶴その人であった。
「わぁ〜、カッコいいなぁ千鶴お姉ちゃん。ほら、梓お姉ちゃんも見て見て!」
「はいはい、ホント、スーツがよく似合っているわ」
梓はすぐに朝食の準備に取り掛かってしまった。
初音は「もう」と頬を膨らませたが、くるりと笑顔に戻って隣の耕一に話し掛ける。
「耕一お兄ちゃん、ほら、この写真もキレイに撮れているね!」
耕一はすっかり雑誌に魅入っていて、「ああ」「おお」と生返事を繰り返していた。そんな耕一を見て、初音はまた可笑しそうにクスクスと笑う。
耕一は今朝早くに柏木の家に到着した。その足で早朝のコンビニに走り、抱えられるだけの雑誌を買い込んできたのだ。
そこへ制服姿の楓が入ってくる。今朝は起きるのが遅かった楓は、耕一を見て「あ」と声を上げたが、耕一には気づいてもらえなかった。
「おはよう楓、千鶴姉は?」
「まだ寝ているみたい」
梓は壁の時計を見て、手にもったオタマをくるりと回した。
「昨日もだいぶ遅かったからね。ギリギリまで寝かせといてあげるか」
「あ、それなら」
耕一が反射的に手を上げた。
「俺が起こしに行っていいかな?」
「うん、きっとそれがいいよ!千鶴お姉ちゃんも耕一お兄ちゃんに会うの楽しみにしていたから、とっても喜ぶと思うよ!」
自分の事の様に手を叩いて喜ぶ初音に、耕一はつくづくこの子はいい子だなあと思った。
さあ、そうと決めたら一秒でもここにいるのがもどかしい。勇んで立ち上がった耕一だが、そのはずみで側に立っていた楓とぶつかりそうになる。
「おっと!」
どうにか激突を免れた耕一は、そこでようやく楓を見つけた。
「楓ちゃん、久しぶり!」
「…お久しぶりです」
楓は丁寧に頭を下げた。
「勉強大変そうだね。俺、今日からしばらくお邪魔するから、わからないことがあったら何でも聞いてくれよ。まっ、楓ちゃんならその必要もないか。はっはっはっ!」
耕一は楓の肩をぐいぐいと数回揉むと、身を翻すように廊下へ出て行った。
「……」
楓はきょとんとそれを見送っていたが、
「ほっときな。ビョーキみたいなもんだから」
梓がそう言うと、こくりと頷いて椅子に座った。
そこへ雑誌を手にした初音がにこにこして寄っていく。
「楓お姉ちゃん、ほらほらほら!」
「……?」
それを見て、梓はまた大きな溜め息をついた。

引っ切り無しに鳴り響く電話。山のように積み重なった書類。
「会長、この度のプロジェクトの件ですが会長のご意見を…」
「会長、〇〇支社が大幅な業績赤字となっています。早急な対応案を…」
「会長、大規模なリストラ策を打ち出すべきです。会長のご判断を…」
会長室のドアから次々と社員たちが押し寄せてくる。
「いえ、だからそれはですね…」
「その件は私も対応策を考えていまして…」
「私の一存で決定できるものでは…」
千鶴は何とかさばこうとするが社員たちはなおも迫ってくる。
「会長、〇〇建設の〇〇様よりお電話が入っております」
「会長、本日までにとお約束いただいた例の書類は…」
「会長、13時にお約束の〇〇様がいらっしゃいました」
「会長!」「会長!」「会長!」「会長!」「会長!」
ああ、もう何から手をつければよいのかわからない。どうして自分ばかりがこんな大変な思いをしなければならないのだろう。
千鶴は耳を塞いでいやいやをするように首を振った。
だいたい大学を出て間もない自分に、鶴来屋の会長など務まるわけがなかったのだ。
それでも電話は鳴り止まない。書類は積もっていく。社員たちが詰め寄ってくる。
プルルルルル!プルルルルル!プルルルルル!プルルルルル!
ドサッ ドサドサドサッ
カイチョウ!カイチョウ!カイチョウ!カイチョウ!
「……」
ぷち。
「――――グオォォオオオオオオオオオオオオーーーーーーーーーッッッ!!!!!」
千鶴の爪が鋭利な刃物のように変化する!
ヒュッ
ザンッ! バシュッ! ズバアァッ!!
鬼の爪が山になった書類を切り刻み、鳴り響く電話を破壊し、押し寄せる社員たちへ振り下ろされていった。
社員たちはコンピューターゲームのザコキャラのように小気味のよい音を立てて消滅していった。
「キエテシマエ…!!!」
最後の一人に向かって爪が振り下ろされる!
その人物を見て、千鶴は瞳がハッと見開かれた。
「伯父サマ――――!?」
柏木賢治は千鶴を見つめたまま動かない。
鬼の爪は大きな弧を描き、賢治の胸元へ振り下ろされていく。
「止マッテェェェェェーーーーーーー――――………!!」

目の前にあるのは見慣れた天井。窓から入り込む光に徐々に現実感が戻ってくる。
千鶴は体を起こした。軽いめまいがする。どことなく体が重い。
千鶴はふらふらと立ち上がって部屋の明かりをつけた。眩しさに顔をしかめる。
「アラ…」
足元を見ると、そこには真っ白な鳥の羽が大量に散らばっていた。
千鶴はそのまま視線を上げる。ベッドの中の抱き枕が、上から下へ見事なまでに引き裂かれていた。
「…オ気ニ入リダッタノニ…」
千鶴は抱き枕の無残な姿に悲しい顔をした。そういえば、夢を見ていたような気がする。はて、どんな夢だったか。
意識をもう少し集中させれば思い出せそうだったが、今の千鶴にはそれさえ億劫だった。思い出せたとしても、それが良い夢だとはとても思えなかった。
「フゥ…」
やっぱり体が重い。疲れが溜まっているのかもしれない。

鬼の力をコントロールできるようになった耕一の六感は、日常生活の中でも鋭敏に研ぎ澄まされている。普段の耕一であれば、その異常に気づいたはずだった。
耕一は顔が自然にニヤけるのを抑えもせずに、廊下を小躍りしながら千鶴の部屋に向かっている。こんな姿を他人に見られても、耕一は満面の笑顔で挨拶を返してしまうに違いなかった。
数ヶ月ぶりに恋人と会えるのだ。
耕一が学業に専念することは千鶴の希望であったし、その千鶴に見合う男になれるようにとの耕一自身の自覚も手伝っていた。今すぐにでも会いたいという気持ちを必死に抑えて、耕一は勉学に励んだ。
そして、季節も変わろうとしていたある日、再会の約束の電話は千鶴の方からかかってきたのだった。
今日は文字通り一日中千鶴と一緒にいることができる。千鶴の仕事姿をみたいという希望が通ったのだ。もっとも千鶴本人は、最後まで「恥ずかしいですから…」と渋っていたが。
千鶴の部屋の前にくると、中からは明かりが漏れていた。
「なんだ、もう起きちゃっていたのか」
耕一は落胆したが、その顔は相変わらずだった。
ドアを軽くノックする。
千鶴はまだ寝ぼけていたから、ノックの主が耕一だとは考えもしなかった。
「ハァーイ…」
あくび交じりに返事をする。千鶴は楓が起こしに来たのだと思った。
初音だったらノックのあと、
「千鶴お姉ちゃん、朝だよぉ〜…」
と遠慮がちな声が聞こえてくるだろうし、梓ならぶっきらぼうにドアを数度叩いたあと、
「千鶴姉、早く起きないと遅刻するぞ!」
とドア越しにも頭に響く怒声が聞こえてくるだろう。
足元に散らばった羽毛をどうしようかと考えたが、時計を見て、それほど余裕がないことに気がつく。
千鶴は寝巻き姿のまま目を擦りながら部屋のドアを開けた。
「…コウイチ…サン…?!」
影を射した眼窩に、血色の瞳が鈍く光っていた。ダークグレーの髪の毛が浅黒く色を失った唇にまばらにかかっている。
その唇から発せられた冷たい風は、耕一の心臓を一瞬にして凍らせた。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっっっっっっっ!!!!!!?????」
耕一は駆け出した。ほとんど前に倒れこみながら廊下の角を曲がっていく。
ドタドタッ ドダンッ!!
「コ、耕一サンッ!?」
我に返った千鶴が廊下の角へ駆け寄ったころには、耕一の姿はどこにもなかった。
「イッタイドウシタノカシラ…?」
千鶴がその理由に気づいたのは、顔を洗いに洗面所へいき、鏡と向かい合った瞬間だった。
「キャアアァァァァァァーーーー!!!????」
それは悲鳴というよりも雄叫びに近かった。生きとし生けるもの全てを竦み上がらせる鬼の咆哮。
食卓にいた三姉妹とトイレに駆け込んでいた耕一は、その瞬間ビクリと体を強張らせた。

柏木家の食卓は、氷室のように冷たい空気に包まれていて、言葉を交わす者はなかった。
千鶴と他四名は長方形のテーブルに対角線上に座っている。
千鶴がお椀を手にすすすと近づくと、他四名は反対周りにすすすと移動した。
千鶴が反対周りにまたすすすと近づくと、他四名はそのまた反対周りにすすすと移動する。
そんなことが数度繰り返されると、千鶴はとうとう泣き出してしまった。
「酷イワ、耕一サンマデ私ヲ避ケルノデスネ…グスッ…」
耕一は慌てて立ち上がり弁解する
「い、いや、別に避けているわけでは…」
「ジャアコッチニ来テクダサイ」
「……う…」
耕一は困ってまわりを見た。
梓は我関せずといったように食事を進めている。初音はどうしたらよいのかわからないという表情で、箸を持ったまま千鶴と耕一を交互に見ていた。楓は耳を伏せて小さくなっている。
「ウウッ…私ハミンナヲ思ッテ辛イ仕事ニモ耐エテイルノニ、コノ仕打チハアンマリダワ……ヨヨヨ…」
「ち、違うよお姉ちゃん、みんな意地悪してるんじゃなくて…」
「そ、そうだよ。俺たちが千鶴さんを避けたりするわけないじゃないか。これはただちょっと…」
「チョット…?」
「…生理的に…」
ウワァァァァン、と千鶴は顔を伏せてしまった。
「ち、違うでしょお兄ちゃん、みんな心配しているんだよね?」
「ご、ごめん、つい…」
見かねた梓は茶碗を置き、目の前の鬼と化した千鶴に目をやった。
姿形は本来の千鶴とさほど変わりなかったが、人間の本能に直に突きつけられるような鋭い眼光と殺気は、やはり鬼の持つそれであった。ここにいる者は常人以上に鬼の気に耐性があったが、それでも目を合わせることは困難だった。
「千鶴姉、身に覚えは?」
ウウン、と千鶴は首を振る。
「元に戻れそうにはないのか?」
ウン、と千鶴は頷く。
「仕方ない。今日は会社を休んで一日寝てな。明日には元に戻っているかもしれない」
「きっと疲れているんだよ。このところずっと働き詰めだったし…」
初音が心配そうに同意する。
「ダメ。ダメナノ」
千鶴は首を振った。
「今日ハ大事ナ集会ガアルノ。会長ノ私ガ欠席スルワケニハイカナイワ」
「そうはいっても、そのなりで外に出るわけにはいかないだろ」
「ソレデモ行カナクチャ。タクサンノ人ガ来ルシ、イマ私ガ頑張ラナイト…」
千鶴はうつむいてしまった。
四人は顔を見合わせた。一番大変な思いをしているのは千鶴なのだ。この若さで鶴来屋の会長を務めることなど、並大抵の苦労と努力でできるものじゃない。その点には理解があったつもりだったが、やはりそれぞれ千鶴に対して甘えがあったのかもしれない。千鶴がこんなになってしまったのは、自分たちにも一因があるのだ。
「……」
楓はご飯とおかずを持つと、千鶴の隣に座った。梓も初音も耕一も、千鶴を囲むように座った。
「アナタタチ…」
「ほら。腹が減っていたら力が出ないだろ」
「辛いことがあったら何でも言ってね。みんな出来る限りお姉ちゃんのお手伝いするから」
「……」
楓も頷いている。
「耕一、今日は千鶴姉と一緒に会社に行くんだろ?」
梓の言おうとしていることは、耕一にもわかった。
「ああ、任せてくれ。何かあったら千鶴さんは俺が守るから」
「耕一サン…アリガトウゴザイマス…」
千鶴は涙を拭って微笑む。
「千鶴さん。梓の言うとおりしっかり食べておかないと」
「…ハイ。ソレジャ、イタダキマス」
千鶴は頷いてお椀と箸を手に持った。
ばきっ!
箸の上半分が折れ、くるくると回って楓の頭に当たった。
「ア…」
「……」
楓は無言でお椀を持って立ち上がり、千鶴から一番遠い場所に座りなおした。
「ア、アラ?楓?楓チャン?」
梓も初音も耕一も黙ってそれに続く。
「梓?初音?耕一サン?ミンナ、ホラ、コッチニ来テ…」

柏木家玄関付近の電信柱に不穏な人影があった。
月刊『レディ・ジョイ』のルポライター、相田響子である。
彼女は相当に虫の居所が悪かった。
だいたい、柏木千鶴の巻頭特集はウチの雑誌が最初に取り上げるハズだったのだ。それをあの頭でっかちの編集長ときたら、話題性が低いだとか読者層がどうとか渋るものだから、言わんこっちゃない。
響子は手元の『エコノミック・ナウ』を忌まわしげに睨み付けた。
鶴来屋と柏木千鶴がこれからますます注目を集めるのは必至だった。大手他社が本格的に取材に乗り込む前に、なんとしても鶴来屋との一線を画した繋がりを確保しなければならない。たとえどんな手段を用いても、である。
「キレイ事ばかりじゃ、この仕事は食い上げだわ」
響子はファインダー越しに柏木家の玄関を覗き込んだ。すでに迎えの車が到着している。
玄関から出てきた人物は、柏木千鶴ではなかった。
「柏木…耕一くんじゃないの」
耕一は振り返って千鶴を見た。スーツを着込んだ千鶴は、少し大きめのサングラスをかけている。
「ナンダカ変ナ感ジデス。さんぐらすナンテ、カケタコトガナカッタデスカラ」
「よく似合っているよ。親父のお古だけどね」
これなら視線も上手く隠せるなと、耕一は自分のアイデアを喜んだ。
玄関を出てから千鶴はふと辺りを見回した。
「…どうしたの、千鶴さん」
「イエ…ナンダカ見ラレテイルヨウナ気ガシテ…」
「…誰もいないみたいだけど」
「キット気ノセイデスネ」
二人が車に乗り込むと、車は滑るように発進した。
「……」
車が見えなくなってからも、響子はしばらくその場を動けなかった。
「な…なによ、いまの…」
レンズ越しに柏木千鶴を覗いた途端、全身に戦慄が走ったのだ。シャッターに当てた指はいうことを聞かなかった。
響子はやっとのことで立ち上がった。自らを奮い立たせながら近くに止めておいたバイクへ走った。
本能的に「なにかがある」と察知していた。ジャーナリストとしての勘だろう。そうなると相手が何であれ状況がどうあれ、追いかけてしまうのが相田響子だった。彼女は遠くない過去に好奇心から身を滅ぼした経緯があるのだが、本人はあの件については覚えていなかったし、意識下にも大して堪えていなかったということになる。
「それに、柏木耕一くん。もしかしたら彼が鶴来屋の次期──…」
響子は様々に思いを巡らせながら、鶴来屋へ向けてバイクを走らせた。

車が玄関を出たころには、耕一はもう千鶴の殺気に慣れてしまっていた。千鶴の方も気持ちを切り替えて、会社の書類に目を通している。
が、運転手はたまったものではなかった。ハンドルを握る手は震えて、顔中に脂汗が浮いていた。
しかしそこは鶴来屋お抱えの運転手としてのプライドがあった。それにもし会長を乗せて事故など起こしてしまったら、妻も二人の子供も路頭に迷うことになる。
「そうだ、千鶴さん、これ見た?」
そんな運転手の内心などいざ知らず、耕一は明るい声でバッグから例の雑誌を取り出した。
「ア、コレハ…」
もちろん事前に話は聞いていたが、いざ自分が雑誌の表紙を飾っているのを目にすると、なんとも気恥ずかしいものだった。
「これなんか特に綺麗に撮れているよ。グラビアアイドルみたい」
「ソ、ソンナ、恥ズカシイデス…」
実際に写真の出来栄えは美しくて、千鶴もこれが自分だとは俄かに信じることが出来なかった。
「それは千鶴さんにあげるよ。俺にはほら」
耕一はそう言ってバッグを広げて見せた。中には同じ雑誌が七、八冊ほど入っていた。
「ソンナニ買ッテ、ドウスルツモリナンデスカ?」
苦笑交じりに千鶴が言う。
「うん、これが保存用で、これが観賞用。でもってこれとこれとこれが実用…」
「コ、耕一サンノエッチ!」
ドン!
耕一は突き飛ばされ、
ガンッ!
強化ガラスに頭を打ち付けてしまった。
「モウ!」
千鶴は膨らませた頬を赤くして、反対側の窓に向いてしまった。
───…
──…
「───…サン───耕一サン…」
「うぅ…」
「耕一サン、会社ニ着キマシタヨ」
「あ…頭…が…」
「ホラホラ、イツマデ寝テルンデスカ」
耕一が頭を抱えながら外に出ると、駐車場はすでに車でいっぱいだった。
「そっか。今日は大きな会議があるって言ったっけ」
「ハイ。鶴来屋ぐるーぷノ社員ノ方々ガ集マッテキテイマス。今回ハ例年ニナク大規模ナンデスヨ」
「その会議で千鶴さんは何を?」
「イエ、簡単ナ挨拶ヲスルダケデスヨ」
そう言って千鶴は苦笑した。

ロビーは多くの社員たちで賑わっている。
相田響子はすでに先回りをして何食わぬ顔でロビーに入り込んでいた。
「これは好都合ね。鶴来屋には何かと良くない噂が付きまとうわ。歴代会長の不審死、内部の対抗勢力、後継者問題…一騒動あってもおかしくないわね」
響子は手近なソファに座り込んだ。
「いやはやまったく、大したものですなあ」
「はっはっは。しかしこれで我が社の威厳というものが損なわれなければいいのですがなあ」
「まったく、まったく、そのとおりですなあ」
響子の背後からそんな会話が聞こえてきた。何の話をしているのだろうと、響子は耳をそばだてる。話をしているのは三人、いずれも白髪混じりで、身なりからは高い役職に就いているように見えた。
「私といたしましても、このように美しい会長の下で働けることは、この上ない喜びでもあるのですが」
「この世界ではしかし、そのような若さが命取りになりますからなあ。この前もございましたなあ、ベンチャー気取りで会社を潰してしまった者が」
「おお、私もそれを心配しとるのですよ。わが社にはやはり多くの経験と知識を積んだトップこそが必要なのではないかと」
「いやはやまったく、その通りですな」
「実はここだけの話ですが、この度の総会で新たな代表をたてようかと考えておりまして」
「ほほう、それは興味深い。してその人物とは?」
「かくかくしかじか…」
響子の後ろでどっと笑いが起こった。
「なるほど、あの方なら安心ですな!」
「もちろんです。お力添え頂けるのでしたら…ごにょごにょ…」
「がっはっは!そういうことでしたら私も一枚かみますぞ!」
響子はあまりのバカらしさに耳を塞ぎたくなった。
こういう寄生虫のようなアホジジイがいるから、いつまでたっても景気は良くならないのだ。
ざわ…
その時、ロビー内が不意に静まり返った。賑やかだった教室に何の前触れもなく沈黙が訪れる瞬間があるが、それとはやや質が違った。
空調の整備されたロビーに、身も凍るような冷たい気が入り込んだ。その場にいた全員が意識をロビー入口に向けた。
(来た!)
響子はソファの陰に身を隠して、小型のデジタルカメラを構えた。ロビーはまるで時が止まったようだった。
やはり柏木千鶴はいつもとは様子が違った。この殺気。この迫力。
響子は息を呑んだ。今まで自分が見ていた柏木千鶴はマスコミ向けの仮の姿。これこそが本物の鶴来屋・柏木千鶴なのだ。響子は見つかったら殺されると確信していたが、ここでも好奇心が勝った。
(これが…鶴来屋会長の真の姿……)
ロビーの空気に戸惑ったのは、他でもない千鶴本人である。
「アノ、耕一サン…何ダカトテモ静カナンデスケド…」
「き、気にすることはないよ。とりあえず千鶴さんの部屋に行って荷物を置かなくちゃ…」
「ソウデスネ。…アッ」
「ち、千鶴さん!?」
千鶴はロビー右手、ちょうど響子が隠れているあたりのソファに向かって歩き出した。そこのソファに重役三人組の姿を見つけたので、挨拶をしようと近づいていったのだ。
「ゴ無沙汰シテオリマス」
その声はロビー内に重く響き渡った。
千鶴は重役たちの反応がないのを不思議に思ったが、自分がサングラスをつけたままにしていたことに気がついた。
「コレハ失礼イタシマシタ」
千鶴はサングラスに手をかけ、すっと下ろした。
耕一が止める間もなかったが、不幸中の幸いにも、千鶴の瞳を見たのは重役三人組(と相田響子)だけだったようだ。
「は、は、はびゅ…」
重役の一人が何かを言おうとしたが言葉にはならなかった。他の二人は気を失っていたかもしれない。
「デハ、後ホド…」
千鶴はサングラスをかけ直し、踵を返した。
後には沈黙だけが残った。

エレベーターを上がりながら、千鶴はたまらず耕一に尋ねた。
「ソンナニ怖イ顔ヲシテイマスカ、私…」
隠しても仕方のないことなので、耕一は正直に答えた。
「さっきの人たちの反応もあるし…今日に限ってはあまり目立たないようにしたほうがいいよ」
「ソウデスカ…ワカリマシタ…」
社員たちの反応に、千鶴は少なからずショックを受けていた。自分の体に異変が起きたことは自覚していたが、認識が甘かったようだ。
最上階でドアが開くと、ちょうど副社長の足立が通りがかったところだった。千鶴が最も信頼している部下であり、よき助言者であり、何でも気軽に相談できる父親代わりのような人物である。
「オ、オハヨウゴザイマス、足立サン…」
千鶴は遠慮がちに挨拶をした。足立にまであのような反応をされることが怖かったのだ。
「おはようございます、ちーちゃん。それに耕一さん。今日はお二人でデートですか」
足立はいつもと変わらぬ飄々とした笑顔で言った。千鶴も耕一も驚きを隠せない。
「おや?ちーちゃん、顔色がすぐれませんね。どこか具合でも悪いのですか」
「ア、ハイ…チョット疲レガ残ッテイマシテ…」
「それはいけない。すぐに薬を持ってきましょう。部屋で待っていてください、すぐに取ってきますからね」
足立はそう言って、入れ替わりにエレベーターを降りていった。

千鶴にビタミン剤を渡しながら、足立は快活に笑った。
「それは確かに驚きましたけどね。ちーちゃんはちーちゃんですからね。ちーちゃんだとわかれば、どうってことありませんよ」
「足立サン…アリガトウゴザイマス…」
「そんなことより体の具合はどうです。今日は一日中座りっぱなしになりますからね。途中で貧血でも起こしたら…」
「ソノ心配ハナイト思イマスガ」
千鶴は苦笑した。
「デスガ他ノ社員ノ方々ガ驚カナイカ、ソレガ心配デス…」
足立はしばらく考え込んでいたが、
「でも会長は、総会に出席するつもりなのでしょう」
「ハイ…」
「それなら私に止める理由はありません」
足立は微笑んで、耕一を見る。
「ちーちゃんを頼みましたよ」
耕一は力強く頷いてみせた。

シャッターを押した瞬間にカメラがぶれてしまったようだ。
映像は柏木千鶴を捕らえていたが、記事として使えるような代物ではなかった。
「しくじったわ…」
響子は口惜しそうに写真を眺めていたが、失敗は失敗、いつまでも悔やんでいるわけにはいかない。
「まだチャンスはあるだけども…困ったわね」
これ以上進むにはIDカードが必要だった。無論、響子はそんなものを持っていない。
「かくなるうえは…」
ばたり。
響子はその場に倒れこんだ。
―――…
…もうそろそろ頃合かしら、と、響子は医務室のベッドから身を起こした。
辺りに誰もいないことを確認して医務室を出る。ポケットから社内図を出して、総会が行われるという大ホールの位置を確認した。
「近いわね」
響子は早足で大ホールへ向かった。
いくつか目の角を曲がったところで、通り過ぎた部屋から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「いやはや、さきほどは悪い夢でも見ていたのでしょう」
「まったく、そろいもそろって夢を見るとは興味深い話ですなあ」
「がっはっは!夢は夢、現実は現実。ここでは現実の話をいたしましょう」
イヤな縁があるものだと響子は溜め息をつき、その場を離れようとした。
「そんなことよりキミたち、例の件、よろしく頼みましたよ」
響子は足を止めた。聞き覚えのない声だ。
「いつまでもあのような小娘にデカい顔をさせておくわけにはいかんのだ。この鶴来屋の将来のためにもな」
そうか、こいつが例の「新しい候補」というヤツだ。柏木千鶴を引きずり下ろそうと企んでいるのだ。
響子はさらに注意して話を聞こうとした。と、ドアから明かりが漏れているではないか。
響子はドアの隙間から中の様子を覗った。

「これより鶴来屋グループ上半期・総会を始めます。まずは今期の総合成績について〇〇氏より…」
総会は淡々と進行していった。耕一にとっては全くつまらないものだった。どうして大人というのはこんなつまらないことを長々と…などと考えながら見回してみると、なるほど多くの社員が居眠りを始めていた。
耕一は最前列の右端に座っている。耐え切れずに欠伸をすると、隣の足立がもう少しですから、といった具合に笑った。
その時、
「!」
耕一は何かを感じ取って後ろを振り向いた。この伸びきったラーメンのような雰囲気のホールにそぐわない、特異な気配がしたのだ。
どうかしましたか、と足立が目で問い掛ける。耕一は何でもありません、と首を振った。
それとは別に、ホール内に動きがあった。
足立が別室に控えている千鶴を呼びにいってから間もなく、紹介されてもいない初老の男が、壇上に上がったのだった。
ホール内はざわめいた。
「大変に無礼なこととは存じますが、皆さん、ぜひ私の話を聞いていただきたい」
初老の男の声がホールに響く。
「これまでの話にありましたように、現在、この会社の経営状況は芳しくありません。その原因は明白であります」
男の演説はつまりはこうだった。経営不振の原因は代表である柏木千鶴にある。男はそれを裏打ちするような数字やエピソードを次々に上げていった。早い話が詭弁論理だったが、なおも男が話を進めるうちに、なるほどそうかもしれないという空気がホールに流れ始めた。
「―――このような不景気な世の中だからこそ、この会社には革新的な、新しい指導者が必要なのです!」
男が手を大きく広げるジェスチャーをすると、耕一の側に座っていた男数人が立ち上がり、拍手を始めた。朝、ロビーで見かけた重役の男たちだった。
するとそれを合図にしたように、あちこちから拍手がまばらに巻き起こった。
社内クーデターだ、と耕一は理解し、思わず立ち上がった次の瞬間だった。
「マッテクダサイ」
千鶴が舞台の袖から姿を現した。スーツは朝のままだったが、サングラスはつけていなかった。
拍手が止み、心を凍らせるような冷気がホールに張り詰めた。
千鶴は男を押しのけて壇上に立つと、ホール内をゆっくりと見回した。ホールは物音一つしなかった。だが居眠りをしている人間はいなかった。
「タシカニ私ハ未熟者デス。足立サンヲハジメ皆サンニ迷惑ヲカケテシマッタコトハ、一度ヤ二度デハアリマセン」
千鶴の声は震えていた。それは耕一だけにわかった。
「社内ノ一部ニ私ノ経営方針ニツイテ異ヲ唱エル人ガイルコトハ知ッテイマシタ。ソノ人達の考エハ決シテ間違ッテハイマセン。コノ現代ニヲイテ他分野ヘノ積極的ナ展開ハ必要デアルカモシレマセン。シカシ…」
千鶴は訴えた。自分が受け継いできた鶴来屋の経営理念。地域に根付き、顧客を何より大切にする信頼の経営。それを犠牲にしてまで事業を拡大していくわけにはいかない。それは先代・先々代から続く鶴来屋の意志なのだ。
私に至らないところがあるのはわかっている。だからこそ鶴来屋の社員全員とともに考え、歩んで、地域社会に貢献していける事業を進めていきたいのだ。
「私ヲ、ソシテ鶴来屋ヲ信ジルコトガデキナイ人間ハ、不要デス」
不要デス…不要デス……不要デス………
「信頼ノナイ経営、経営ヲ信頼デキナイ社員ハ、生キ残レマセン」
生キ残レマセン…生キ残レマセン……生キ残レマセン……
千鶴の言葉は、社員たちの深層心理に恐怖という形で冷たく焼きついた。
「…以上デス。異議ガゴザイマシタラ、直接会長室マデオ越シクダサイ」
千鶴は礼をし、腰を抜かしてしまった男に一瞥をくれてから、舞台の袖へ消えていった。
ぱちぱちぱちぱち…
耕一が手を叩いた。足立がそれに続いた。他の社員たちは固まったままだったが、後ろの方で一人だけ、千鶴に拍手を送る者がいた。

「やっぱり響子さんだったんですね」
非常口から抜け出そうとした響子に、耕一は後ろから声をかけた。
「あら、見つかっちゃたようね」
響子は悪びれた様子もなく振り向いた。
「そのカメラのフィルム、渡してもらえますね」
「いいえ、渡せないわ」
「響子さんとはこれからも仲良くしていきたいと思ってるんです」
「それは光栄ね」
「響子さんも千鶴さんの話を聞いてくれたでしょう」
「そうね。経営者とは彼女のようにあるべきだわ」
「もう一度だけ言います。フィルムを渡してください」
「私はジャーナリストよ。この目で見たものが真実で、真実こそが私の全てなの」
耕一はそれ以上何も言わなかった。
「じゃあね、耕一くん」

会社を出てからずっと千鶴は何かを考え込んでいたようだったが、耕一は深く追求しなかった。
「千鶴お姉ちゃん、お風呂沸いているから先に入りなよ」
「気張りっぱなしで凝っているだろ。私がマッサージしてやるからさ」
「私は……」
その晩の、妹たちの至れり尽せりの歓待ぶりで、千鶴はだいぶ元気を取り戻したようにみえた。
「アリガトウ。デモ今日ハ少シ疲レチャッタミタイ。先ニ休マセテモラッテイイカシラ」
「ま、まあ千鶴姉がそう言うんなら…」
「うん。お料理は冷蔵庫に入れておくからね」
「おやすみなさい……」
妹たちは少し残念そうだったが、千鶴の気持ちは伝わったようだった。
部屋に入ると新しい抱き枕が用意してあった。妹たちが用意してくれた抱き枕は体にぴったりだったが、千鶴はなかなか寝付くことができなかった。
夜は更けていった。
耕一は天井を見つめていた。千鶴はまだ眠っていない。それは気配でわかった。
耕一は部屋を出る。
千鶴は仏壇の前にいた。
「もう寝ないと。疲れているんだから」
「……」
千鶴は顔を上げ、耕一を振り返った。
「耕一サン…少シ、歩キマセンカ」

しんと静まり返った砂利道を、耕一と千鶴は並んで歩いていた。この先には堤防がある。
「なんだか緊張しちゃうな。前にもこんなことあったよね」
「……」
千鶴は俯いたままだった。
やがて堤防に架かる橋が見えた。千鶴は口を小さく開いた。
「自身ガ無インデス…鶴来屋ヲ…会長ヲ続ケテイクコトニ…」
「……」
「本当ハ、鶴来屋ナンテドウデモイイト思ッテイマス。サッキ叔父様ニ伝エマシタ。モウ私ハ、コレ以上、会長ヲ続ケタクアリマセン」
「千鶴さん…」
「叔父様ハ私ニ言イマシタ。自分ノ気持チニ正直ニナレト。自分ノシタイヨウニ生キロト。耕一サン…私ハ、アナタヲ…」
「……」
「アナタヲ……愛シテイマス…」
千鶴は耕一の胸に顔を埋めた。
「寂シカッタデス。悲シイ事がアッテモ、嬉シイ事ガアッテモ、ソコニ耕一サンハイマセンデシタ」
「俺はずっと千鶴さんを想っていたよ」
「私ニハ耐エラレマセンデシタ。毎日ガ不安デ仕方アリマセンデシタ。明日ガ来ルノガ憂鬱デタマリマセンデシタ」
「そんなことない。千鶴さんは強いよ。総会だって頑張ったじゃないか。すごく立派だった」
千鶴は首を振った。
「アレハ耕一サンガイテクレタカラ…側ニイテクレタカラ、頑張レタンデス…。私ハ、一人ダッタラ、キット逃ゲ出シテイタ…」
耕一は千鶴を抱きしめた。小さな背中だった。この背中を置いて何処かへ行くことなど、出来るわけがなかった。
「じゃあ結婚しよう」
耕一は千鶴の耳元にささやいた。
「二人でなら、きっと大丈夫だよ」
驚きに顔を上げた千鶴に、耕一は唇を重ね合わる。
「ン……!」
「……」
永いキスが終わる。愛しい人の顔が、すぐ目の前にあった。
「大好デス、耕一サン…!!」
千鶴は力いっぱいに耕一の胸に飛び込んだ。
ぎゅうっ…!
ぐぐっ…!
みしみしっ…
「ち、ちづるっ、さっ…!」
「ズット、私ノソバニイテクダサイ…」
みしっ…ぎりっ…!
「は、はっ、はなし…てっ…」
「モウ離レマセン…約束デス…!」
ぴきっ!
「ぐえっ!」
あまりにお約束であった。

翌日、スポーツ新聞の社会面には、写真付きで鶴来屋の記事が載っていた。
『白昼堂々の贈賄現場をスクープ!問われる会社形態と―――』
クレジットには《フリー・相田響子》とあった。
耕一は千鶴と顔を見合わせて、大声で笑ってしまった。
「ははっ、やってくれるなぁ響子さん」
「これでしばらくは忙しくなりそうですね」
「千鶴お姉ちゃーん、相田さんって人から電話だよー」
「え?」
初音がとたたたと走ってきた。
「なんかね、取材の申し込みみたい。『次期鶴来屋社長にインタビューを』したいんだって。なんのことかな…」
「……」
「……」
耕一と千鶴は同時に吹き出した。
「え、え?何がおかしいの?耕一お兄ちゃん?千鶴お姉ちゃん?」
戸惑う初音。
二人の笑い声は、電話の向こうの響子にまでも聞こえていた。