お母さんとぼく (痕SSこんぺ委員会 長編部門参加作品) 投稿者:十尻衆・激動の爺様 投稿日:1月17日(金)00時29分
お母さんとぼく


 ぼくは、おかあさんが、せかいいち だいすきです。
 おかあさんは せかいいち ぼくのことがすきで、
 ぼくに いつもやさしくしてくれるのです。
 おおきくなったら、ぼくも おかあさんのために
 なにかしてあげられるといいな。

                        やながわ ゆうや

 戦闘は、速やかに続いていた。
 夜の公園。
 見守る者なき無人のこの場所で。
 今夜この後、どちらかひとりが、死ぬ。

 小山のような巨体が、ゴム毬のように跳ねた。
 その重量がその速さで移動するだけで、おそらく、人間を殺すことができる。
 人間の大人の倍ほどもある、その黒い巨体。
 鬼。
 その姿は、そうとしか、表現のしようがなかった。
 生物を殺すためだけにある、十本の長大な爪。
 獣毛。筋肉。
 爛々たる輝きを放つ恐ろしい未知の肉食獣の瞳。
 そして、頭部の二本の角。
 その禍禍(まがまが)しき姿を一文字で表すなら、すなわち“凶”。
 あるいは、“殺”。
 出会ったならすべからく死を迎えるであろう、黄泉の使者だった。
 その者がいま追っているのは……。
 鬼に比べればあまりにも小さく、華奢な、ひとりの若い女だった。
 女は、必死で逃げる。死の使者の顎から寸前で身を躍らせ続けながら。
 しかし、
 ……いや、しかし。
 速い。
 女の動きは、速かった。
 跳び、駆け、宙を舞う。鬼に負けていない。いや鬼より速い。
 その上この女はヒールを履きながら、動き続けているのだ。
 尋常の人間の動きではなかった。
 はシゅっ!
 鬼が息を吐きつつ跳躍し、豪腕を広げて女に覆い被さってゆく。
 女は半ば地面に突き刺したヒールを軸に身をひねると、跳ぶ。
 ほんの一跳躍で、鬼との距離は、あろうことか十m以上も離れた。
 そう。
 女も、人間ではないのだ。
 女の名は、柏木千鶴。
 鬼の名は、柳川裕也。
 この公園で今夜、このどちらかひとりが、死ぬのだ。

 殺せ、犯せ。
 犯せ、殺せ。
 柳川の胸のうちは、本能に身を任せる歓喜、生命をやりとりする興奮に、打
ち震えていた。
 ついに人間の理性の衣を捨て、殺戮と凌辱の狩りに明け暮れることができる
ようになった、細胞すべてが震えるような喜び。
 同族、柏木千鶴。
 その生命は、他の地上に住むどの生命体よりはるかに美しい。もちろん人間
などよりも、ずっと。
 犯して、孕ませたい。
 しかし、こうして戦い、生命の炎を散らし合うもまた一興。
 いや、極上の甘露。
 柳川は人間時の倍ほども膨れ上がった拳を、彼女の美しき面差しに叩き付け
る。
 一の撃。
 二の撃。
 三の撃。
 すべて、かわされた。
 逆に柏木千鶴の突き立ててきた爪を避けざるを得ず、三撃で連撃を止められ
る。
 美しい…。お前はほんとうに、美しい生物だ。
 地上でこのおれに対してこんなことができるのは、お前だけだ。
 睦み、犯し、我ら同族の偉大な血を継ぐ者を孕ませたい…。
 しかし、初めて解放することを許された戦闘本能を存分に解放できる相手も
また、柳川にとっては、この女しかいないのだ。
 始まってしまったのだから、あとはもうどちらかが死ぬまで、撃ち合うだけ
だった。
 柏木千鶴が、今度は、自分から攻撃を仕掛けて来た。
 柳川も含めて、地上に在る動物すべてを一撃で屠る力を持つ、その恐るべき
爪。纏(まと)われた冷気は、あるいは、柳川のもの以上かもしれない。
 しかしその攻撃は、柳川の待ち望んでいたものだ。
 待ち構えていた柳川は体をひねってかわすと、突き込んできた千鶴の体躯そ
のものを、豪腕で薙(な)いだ。
 ぶおんっ!
 “腕”などというものが振られた音とは思えないほどの、轟音。
 しかし。
 そう。
 鳴ったのは、空気だけが渦巻く音。
 必殺の一撃が空を切ったのに、柳川は驚愕した。
 柏木千鶴がいない!
 一瞬のさらに数分の一でふたたび視界に捉えた千鶴は、柳川の足下で、身を
真っ平にして伏せっていた。エモノに跳びかかる寸前の、野生の禽獣(きんじ
ゅう)のように。
 しゅぅぅ──っ。
 地から天に向け、綺麗で澄んだ音がはしった。
 しかしそれは、柳川の背を斬り放つ、死の音だ。
 しゅぱぁぁっ!
 鮮血のシャワーが夜の空気を汚した時には、千鶴はすでにその場を数mも飛
びすさっている。
 グオオオオオオオオオォォオオオォオォォォォッッッッッッッ!!!!!
 激痛と怒りと憎しみと、新たな殺意に満ち満ちて、柳川は咆えた。
「浅かった!?」
 音がしそうなほど、柏木千鶴がぎりっと歯を噛み締める。
 先の先を読んで、いちかばちかのリスクを賭けての、必倒の一撃だったのだ
ろう。しかし柳川は鬼なのだ。瞬間の反射神経も、傷へのタフさも、同族千鶴
の予想すら越えていた。
 弱るどころかさらにでたらめなスピードとパワーで、柳川は駆け出した。
 ぎん。ぎん。ぎんっ。
 振り回す爪の先は通りすがりの公園の遊具を霞め、金属音を立てる。
 大きな遊具のひとつが、どどう…!と背後で倒壊した。
 霞めただけで、その威力。
 この闘争、ここまでは柳川が負った傷の方が多い。
 スピードと身のこなし、鋭さでは、千鶴が上かもしれない。
 しかし、筋力とタフネスでは、人間の形のままの千鶴は、柳川に伍すること
ができるはずもない。
 柳川の傷が多いのは、まずその巨体ゆえ的が大きいからだ。致命傷はない。
 逆に千鶴が柳川が受けたレベルの攻撃を受けたら、ほぼ致命傷になるに相違
ない。
 そして果たして、何十度目かの拳が、ついに、千鶴の身を捉えた……!
「はっ! うっ!」
 浮いた。
 数m、軽々と。大人の人間の身体が、宙に。
 即死だ。
 この打撃を受けた者が、人間の肉体であるならば、だ。
 まだ空中で体をひねる力のある千鶴を見て、鬼の口の端が、にいいと歪む。
 一撃が爪ではなく拳であったことが、千鶴の生命を救った。
 そして柳川は千鶴の着地点に向けて……、今度は必殺の爪を、振りかざす。
 柳川の速さは、千鶴の自然落下より速く、柳川をその場所に到達させた。
 死地に女体が舞い落ちる。
 そして……
 突き!
 ごううっ、と重い手応えがした。
 重い、手応えがした。
 今度は、空気だけではない。人間の体重が、腕の先にあった。
 終わったか!? 生命の炎は、舞い散ったか!?
 昂ぶる身体、そして燃え盛るこころ。
 殺。
 本能に根差す快楽の、その絶頂の瞬間。
 柳川の目の先をごろごろと転がってゆく身体。
 ……は、しかし、身を起こすと、二歩、三歩と跳ねた。
 何と!
 生きている!
 柏木千鶴は、生きている。しかも、身体から出血のひとつもなく。
 避けることが不可能だと知った千鶴は、繰り出される突き手を、想像を超え
る剛力で掴んで爪を食らうのを防ぎ、そのまま転げ飛んだようだった。柳川の
腕に残った、千鶴の十本の爪痕が、その、生死を分けた刹那に起きた出来事を
証明していた。
 何という神業! なんという同族よ!
 柳川の胸中に、あらためて地上最高のエモノに対する畏敬の念が湧いた。
 千鶴は、柳川から目を離さずふわりと後方に跳ねると、ジャングルジムの頂
点に着地した。いまだ足にヒールを履いた、そのままで。
 見上げる柳川の目に、千鶴の姿と、背後の満月の光が重なる。
 千鶴の口の端から、初めてつぅ──っと血がひとすじ、流れ落ちた。

 しゅぅっ、しゅぅっ、と、動物的な激しい呼気を自分が発するのを、千
鶴は聞いていた。身体じゅうが、熱い。
 強い。やはり強い。この鬼は。
 スピードではこちらが上。タフさでは、完全に向こうだった。
 人間を超えているとはいえ、千鶴の肉体はダメージと疲労で消耗している。
 鬼としての“ちから”は、たぶん互角。
 そして殺傷能力は、完全に互角だ。
 何度攻撃を交えようと、結局この戦闘を終わらせるのは、致命のたった一撃
だ。いずれどちらかが受ける、約束された一撃。
 千鶴はふっと身を浮かせてジャングルジムから降りると、それを挟んで鬼と
対峙した。間にこれがあれば、鬼が跳んで来るにしろ、回り込むにしろ、対処
の時間が取れる。少し回復の時間を稼がねばならない。
 鬼の方も、一旦矛先を収め、障害物越しにこちらを睨みつけている。
 この奇妙な間が、千鶴には、チャンスだと思えた。
「同族として」
 金属音と空気を裂く音以外の音が、ひさしぶりに無人の公園に響いた。
「同族として、あなたに提案するわ。どちらかが倒れる前に、考えて」
 呼びかけだった。この期に及んでの。
 鬼は、静かに千鶴に目を向けたままだ。あきらかに自分の言葉を聞き取って
いる知性を感じて、千鶴は続けた。
「私たちの“ちから”は互角。一見に違いがあっても、相手を殺す能力だけ見
れば、完全に互角だわ。このまま戦えば、いずれかが、必ず、死ぬ」
 口の端の血もぬぐわずに、千鶴は続ける。
「……それであなたは、構わないの?」
 鬼の無表情に、千鶴は、当惑、とでも言うべきものを感じた。
 初手から冷たい殺意を持って自分に対してきた敵手が、いまさら何を言い出
すのか。おそらくは、そんな反応なのだろう。
「私たち同族同士は、互いの意識を通じ合う能力がある。あなたから私にも、
伝わって来るわ。本能に従い、あらゆるものを蹂躪、殺戮したい、狩猟者とし
ての爆発的な欲望が」
 その通りだった。
「それに従って、行ったのね。一連の殺人──いえ、あなたの心に沿った言い
方をするならば“狩猟”を。だから私が起たねばならなかった。我らが“ちか
ら”を持つ一族を、人間社会の目から守るために。あなたをの本能的行動を、
止めるためにね」
 その通りであろう。
「…狩り。…殺人。…戦闘」
 風に、千鶴の長い黒髪が舞う。
「でも、あなたの本能はそれだけじゃない。いい匂いの女を犯し、子を孕ませ、
偉大な狩猟者の血統を増やす」
 清楚な美貌に似つかわしくない台詞が、千鶴の唇から発せられた。
「いいの? 初めてみつけた同族の女と、このまま殺し合ってしまって」
 大きな風がざぁっと吹き抜け、黒髪を散らして、千鶴の緑の眼光に絡ませる。

 私の身体を、あなたにあげる。
 犯しなさい。
 汚しなさい。
 生命以外は、自由にしていいわ。
 ただし、私が生命の危険を感じたら、ためらわずあなたを殺すけれど。
 ただし、私の身体を貪ってもし幾分でも本能が鎮(しず)まるなら、ひとと
き、殺人を犯すのを手控えて欲しいのが、私の条件。
 どうするの?
 これほどの同族の女など、二度と出会わないかもしれないわよ。
 そしていま死なせてしまえば、楽しみはこの一度限りでお終い。
 逆にもしあなたが死ねば、狩猟の楽しみも何もかも、すべてがここでお終い。
 殺し合いなら、いまここで一旦やめても、またいつでも再開できるわ。
 ふたりの死の確率が五分五分で、あなたにとって、どちらに転んでも損があ
るならば……
 本能を満たす楽しみのために、あなたは、どちらを選ぶの?

 ……。
 すべての言葉が終わるまで待っていたということは、鬼は、千鶴の言葉を聞
いていたということだった。
 否か。
 応か。
 千鶴にとっては、実は、どうでもいいことだった。
 精一杯挑発はしてみたが、乗ってこないならそれで良い。
 決戦は覚悟していている。当初から変わらずだ。乗ってこなくとも、戦闘力
の回復の時間が多少でもできれば、それでいい。だが、万一乗って来るのなら、
僥倖(ぎょうこう)。
 そう。乗ってくるなら、この身で鬼に応じる。これは本心だった。
 この鬼を殺す力を、持っているにも関らず。
 ……千鶴は、考えていた。
 自分の勝つ確率は、五分と五分。
 両者の実力からすれば妥当な掛け率だ。
 だが、守るべきものがある者にとっては、かなり厳しい掛け率なのだ。
 梓。楓。初音。
 鬼の一族、同族同士は、お互いの意識に感応し合う。
 もし自分が敗れたとしたら、いずれこの鬼は、妹たちをみつけだし、この死
を呼ぶ牙を向けるかもしれない。妹たちでは、この鬼の“ちから”には、なす
術もないだろう。
 鬼に対しては吹いてみせたが、実は、ここで死戦を遂行して失うものが大き
いのは、千鶴の方なのだ。
 それを、五分と五分の掛け率の死のルーレット上に託さねばならない。
 もし鬼が応ずれば、ここでいま千鶴が戦って死ぬことはなくなる。
 猶予が、与えられる。
 折り良ければ鬼を殺す隙がみつかるかもしれない。
 もちろん千鶴とて、応じて来たところで相手を信用などはしない。
 さんざ遊び尽くした挙げ句に攻撃されるなど、いかにもありそうなことだ。
 しかしそうなったところで、また、鬼が応じて来なかったところで、ふたた
び戦闘で相打つ先ほどまでの状態に戻るだけのこと。
 呼びかけて損をする要素は、千鶴にはまったくなかった。
 そしてやはり、鬼は……無言のまま、ふたたび動き出した。
 千鶴も再度臨戦の構えを取る。
 だが……。
 鬼は、両手をだらりと下げて、歩みを進めている。
「!」
 ゆっくりとジャングルジムを回り込んで、近づいてきた。
「条件に応じるというの?」
 鬼が、にやりと下卑た表情をして、うなずいた。
「…………」
 ならば良い。
 千鶴の決断は、早かった。
「……わかったわ。契約、成立ね」
 これで妹たちを一時危険から救うことができるかもしれない。
 だが、そのために巨大な犠牲が必要な契約なのだが……、柏木千鶴は、それ
を意に介するような人ではなかった。
 自分が、どんなにぼろぼろになろうとも。
 妹たちのために。柏木家のために。他人の、ために。
 最後まで臨戦の緊張状態を解かないまま、千鶴は鬼の太い腕に抱かれた。
 細い女の肉体が、獣毛と筋肉に巨魁巨木に包まれ、姿を隠してゆく。
 両腕を押さえられれば、騙し討ちに遭ったが最期だ。右腕だけは鬼の腕(か
いな)から解放させ、相手を睨んだそのままで千鶴は、自分の頬が大きな舌で
舐め上げられるに任せた。
 ……予想を違(たが)える、どちらにとっても、意外な成り行きだった。

 翌日。
 女の手が受話器を握っていた。
 数度の呼び出し音の後、電話は繋がる。
「……梓、私。…………。昨日は帰れなくて、ごめんなさい。……ええ。……
うん。鶴来屋からも電話が来てたの? そう、心配かけたわね。………………
ちょっと、どうしても急用があったのよ。……………。え? うん。大丈夫…
よ。晩ご飯は、いらないわ。はい、それじゃ」
 がちゃ、と音がして電話が切れた。
 もう一件、職場に電話して、また同じような応答を繰り返す。
 そしてそれが切れた途端、女の手は、受話器を取り落としていた。
 柏木千鶴の指が、震えていた。
 手の甲には、いくつもの血をぬぐった跡が付いていた。
 マンションのフローリングの床に裸体で横たわったそのまま、絶息したかの
ように、千鶴は動かなくなった。
 壁掛け時計が、時報を鳴らした。
 すでに午後四時を過ぎていた。
 朝には身を解放され、部屋の持ち主も去ったにも関らず、裸のまま床を這っ
て電話に辿り着き、連絡を取る体力を取り戻すのにすら、いままでの時間が、
千鶴には必要だった……。

 「柳川くん」
 机の書類に向かっていた若い刑事が、その声に振り向いた。
 「なんだ、今日は最近になく調子が良さそうだね」
 「……ああ、長瀬さん」
 とんとん、と書類を机の上で揃えたのは、いかにも新人らしい眼鏡の青年だ。
 「どうもここ最近、君はどこかおかしかったからね。なにか、悩み事でも抱
えてるんじゃないの?って思ってたんだけど」
 「いえ、単なる寝不足ですよ。すみません」
 「そう…?」
 疑わしげな長瀬係長に、はい、と一見愛想よさげに柳川は答えてみせた。
 「なんなら後で相談かなんか乗ってあげるからさ。あ、この後、例の件で柏
木家に出向いて柏木千鶴の様子を見てみるから、同行してよ」
 「はい。わかりました」
 柏木千鶴が不在であろうことを知りながら、柳川は、歯切れ良く返答した。

「ただいま〜」
「遅いっ……って何だソレ……千鶴姉」
 朝帰りなどしたこともない千鶴が、翌日の夜まで帰って来ないのを、不安な
表情で今か今かと待っていた妹たちが玄関で見たものは、抱えた紙袋に埋まり
そうな千鶴の姿だった。
「ほらほら、これがとっても美味しそうなのよ〜」
「わ、ふ菓子だ」
 どさ、どさ、とキッチンのテーブル上に投げ出される紙袋からは、店が開け
るような大量のふ菓子がまろび出ていた。
「ふ菓子だ…じゃな──いっ! おっとい昨日と、連続してここらで殺人事件
が発生してるさなかに連絡不能になって! こっちがどれだけ心配──」
「ごめんなさ〜い。あと、お団子とね。どら焼きと。きんつばも買って来たわ。
おせんべも」
「あ、このおせんべ、梓お姉ちゃんが好きなやつ……」
「はっ。…って、いや、その、うわ……ちょ、ちょっと待てよ……うわ」
 テーブルに乗り切らなかった菓子がぼとぼとと床になだれ落ちるほどの量だ。
「ちょっと楓、そこ押さえて! こ、耕一が向こうで交通事故にあってさ、
(軽いけど)こっちに来る予定キャンセルになったばっかで、お姉がまたあた
したちに心配かけるなんて、どういうつもりさ!」
「あ、アイスもある」
「うお。こ、こんなにたくさん冷凍庫に入らないって!」
「冷凍庫に入らない分はね……、いま食べるのよ!」
「そ、そんな無茶苦茶なーっ!(註:しかも、全部アイスまんじゅう)」
「太るわ。姉さん」
「いいの。食べたい時はおもいきり食べる。そして、ダイエットは、その後満
たされた気力で心を切り替えて思いっきり励むのよ」
「太る人の、典型的詭弁理論っぽい……」
「待て、ちょ、ちょっと待てよ、千鶴姉! まずは連絡もなしに家を空けたワ
ケからだなあ……」
「シャラップ。とにかく、まずはこれを片づけてからにしましょう」
「うん」
 梓が視線を動かすと、味方のはずの楓はすでにふ菓子を、初音はアイスを開
けて、もふもふと口を動かしていた。
「ほら、アイス溶けちゃうよ、梓お姉ちゃん」……

 自室の扉を閉めると、千鶴は、崩れるように床に腰を落とした。
 棚の引き出しを開けると、救急箱を取り出し、ワンピースのボタンを外しは
じめる。
(……良かった、長袖を着ていて。梓たちに、これを見られずに済んだ……)
 下着だけになった千鶴には、腕に、足に、肌に、無数の痕(きずあと)が、
生々しく刻まれていた。
 鬼の回復力を持ってもまだ残る傷が、これほども。
 柳川の行為は、凌辱を超えた蹂躪、殺さない殺人行為とでも言えるほどの凄
まじさだった。
「く……」
 消毒液の染み込む刺激に、声と、軽い息がはっ、ふっと漏れる。
 梓たちは、なんとかごまかすことに成功した。
 皆でかしましく菓子を頬張りながら、梓に雷を落とされて殊勝にしゅんとし
ながら、大学の時の……とか、ちょっと人には言えない急なことがあって……
とか、適当に漠然とした嘘の説明をした。
 何より、ふだんと変わりない様子の千鶴の明るさに、妹たちもしだいに不安
を溶かしたようだ。
 話題はやがて右に左に動き、妹たちの学校生活にまで移って、眠くなるまで
会話に花を咲かせると姉妹たちは解散した。
 良かった。
 とりあえず、妹たちをいま巻き込むことは、回避できた。

 あの後、鬼の腕に抱きすくめられ夜の街を運ばれて、鬼のアジトらしきマン
ションの一室に連れ込まれた。
 鬼は、その姿を解き、人間と同じかりそめの姿に戻った。
 その姿が、この夜最も千鶴を驚愕させ、心を凍らせた。
 柳川祐也。
 千鶴の、知っている男だったのだ……!
 先月の叔父の自殺事件を担当し、事情聴取もされた県警の刑事のひとり。
 こちらの名前も、住所も、妹たちのことも、すべてを知られている。
 あの賭けを持ち掛けて、ほんとうに良かった……。
 千鶴は心底からそう思った。
 自分が倒れた場合、あるいは、あの場で決着付かず、逃げられていた場合、
鬼は、いつでもこちらを襲撃可能だったことになる。千鶴は、天の配剤に感謝
する他はない。
(必ず、この男の隙をみつけなければ……!)
 
 秘めた決意をふたたび思い起こしていた千鶴は、突然「うっ」と呻きを漏ら
すと、部屋を飛び出した。
 トイレに駆け込むと、さきほど胃に入れた菓子を、すべて吐き出す。
 ほんとうは、そんなものを食べられる状態にはなかったのだ。
 そんな、深夜独りの千鶴の姿を。
 薄く扉を開けて、三女だけが、部屋からひそかに見守っていた。

 マンションのフローリングの床に、背広を投げ捨て、ベッドに横たわる。
 “人間”としてのかりそめの業務を終え、義務である隣室の住人の用を済ま
せると、柳川は自室に戻って開放感に浸っていた。
 身も心も、澄んでいた。
 人間としての煩悶。そして、それを消し潰した、鬼の本能。
 しかし、今夜は鬼の本能も落ち着いて柳川の中でとぐろを巻いていた。今夜
は、このまま眠れそうだった。
 ──柏木千鶴は、それほどのものだった。
 人間のように簡単には壊れないエモノ。“鬼”にとって、欲望をぶつける、
格好の対象であった。
 虚弱な人間たちの群れの中に取り残された“ちから”ある者にとっては、
“ちから”あるつがい相手は、宝石より貴重なものだ。
(しかも、面白い)
 最初から最期まで、終始、千鶴は、鬼の眼光で柳川を鋭く射抜いたままだっ
た。
 隙あらば。
 ──必ず、殺す。
 隠し通そうとしても、その意志は、手に取るようにわかった。
 そういう者とずっと共に居る状況が、面白かった。
 けして気が抜けない。
 次回は、どんな風にしてやろうか……。
 本能のまま妄想を垂れ流しにしてゆくと、愉快さのあまり自然に口元が歪ん
だ。さらに、声が出た。笑い声だ。最初は小さく。やがて、大きく。最後には
喉笑と呼べるほどのものが。
 鬼の笑いだった。
 そして、一息つくと……
 不思議な空しさが、胸に去来した。
(なんの咎《とが》があって柏木千鶴があんな目にあわねばならないのか)
(柏木千鶴は、妹たちの元に戻って今頃どんな顔をしているのか)
 そんなことを考える。
 そんなことを自然に考えている自分をやがて自覚して、柳川は驚いた。
 まるで、人間のようだ。
 欲望のガスが抜けて、人間時代の感情が、少し甦ったのか。
 殺人を犯した時はさらにひたすら“鬼”は昂ぶるばかりだったのに、柏木千
鶴相手では、違った。
 これには、おそらく“鬼”ではない別の柳川が、目眩のような快美をおぼえ
た。
(俺はまだ生きているのか……!?)
 別の自分、“人間”だった自分に、久しぶりに呼びかける。
(死んだよ)
 不気味な声が返答して、柳川にいっきに冷や水を浴びせ掛けられた。
(死んだよ。そいつはな……)
 “鬼”の柳川が、胸の中で笑った。

 こうして、千鶴が提案し、“鬼”の柳川と“人間”の柳川、両者が受け入れ
た契約は、はじまった。
 ふたりのうちひとりが死ぬ結末までの道程を、あくまで一時停止状態にする
だけの契約だが。
 二回、三回と逢瀬は回を重ねていった。
 そのたび千鶴は傷つけられ、回復に時を要した。
 柳川は獣性をぶつけ、その本能を満たした。
 不思議に千鶴の願い通り、その間、柳川の“狩猟”は止んでいた。
 “狩猟”を控えざるを得ないほど鬼が千鶴を面白く思っていた、からではな
く、おそらく、いつでも再開できるし、いつでも千鶴をも殺せるのだから、と
いう余裕のようなものであろう。
 ふたたび爪を血に染めるまでの、遊びの寄り道のようなものだ。
 しかし、ふたりの間の緊張は続いている。
 どちらも、相手を側において熟睡など決してしなかった。
 明かりの消えた部屋で動かなくなった柳川の頭に、そっと千鶴が手を伸ばす
と、その手を鬼の剛力で柳川が掴み取り、千鶴の顔を苦痛で歪めさせる。
 またある時は身体の下の千鶴の首に柳川が両手を回すと、千鶴は緑色の眼光
を閃かせて、その手に爪を食い込ませる。
 これもそんなある日に起こった出来事だ。

 県警から帰宅した柳川がマンションの部屋の前に帰り着くと、そこには異様
な光景があった。
 金属製のドアが、上端から下端まで、きれいに斜めに両断され、切り分けら
れている。
 402号室。
 隣の部屋だった。
 柳川は、笑った。
「何を知った、何をみつけた、柏木千鶴!」

 ウィークリーマンションの鍵を開けると、柳川は靴を脱いで部屋に上がった。
「元気だったか? 貴之」
 部屋の隅ににごった虚ろな目で座り込んでいる若い男。
 マンションでの隣室、402号室の本来の住人、阿部貴之だった。
「……どこで知ったか知らんが、俺が貴之をそのままにしておくはずがないだ
ろう……」
 柏木千鶴が、妹たち、柏木家、祖父から受け継いだ鶴来屋グループという大
きすぎる弱点を持っているとすれば、もはや人間をいつ捨ててもいい柳川が唯
一残した弱点が、この青年だった。
「今日もコンビニ弁当ですまんな」
 一言も柳川に応答せず、貴之は子供のように不器用にもぐもぐと弁当を口に
運びはじめた。貴之が薬物に破壊され、こうなってもう、どれくらい経ったろ
うか。
 それが、柳川を人間から鬼に解き放った、直接の原因だった。
 貴之を破壊した人間は、鬼の解放と同時に柳川によって死を与えられた。
 残ったものは、廃人ひとりと、もう、人間に戻れない鬼ひとり。
 それだけだった。
 だが、貴之と居る時は柳川にも人間の日々が甦る。人間の心が、戻ってくる。
 貴之だけは、守る。
 あの日すぐ貴之を隣室からここに移し、以後、徹底的に尾行を警戒しながら、
柳川は彼の世話を続けていた。
 人間時代、警察官僚としてエリート街道をひた歩き、心を許す友人も恋人も
作らなかった柳川。
 かつてたったひとり心許した相手が、屈託ない年下の青年だった、この貴之
だ。
 千鶴にはその身を捧ぐほど愛する妹たちがいるが、柳川にそれにあたる者が
いるとすれば、この貴之が弟のようなたいせつな存在だったのだ。
 だが刑事としての柳川は貴之を救い得ず、救ったのは鬼の“ちから”。
 柳川の人間としての残余は、いまも貴之への贖罪を続けているのだ。
 これまでこれほど心許した相手が、いただろうか……。
 いないだろう。
 孤独が唯一のこれまでの伴侶。
 唯一の例外を探すなら、ものごころつく前。
 母親に対して、それしかないだろう……。

 柳川の母親は、柳川を産むために、人生を変えた。
 柳川は、柏木一族の者である。
 千鶴の祖父、鶴来屋グループ創始者柏木耕平の愛人の子。
 それが、生命としての柳川に最初に与えられたプロフィールだった。
 耕平は異常なまでに母が柳川を産むことを拒んだ。
 母は耕平の元を出奔し、都会の片隅でひとりで柳川を産んだ。
 生まれ故郷を離れ、職も、愛人兼金銭的保護者の耕平も何もかも、柳川のた
めに捨てたのだ。
 そして溢れんばかりの愛情の元、柳川は育てられた。

 ぼくは、せかいいちしあわせなこどもです。
 うちのおかあさんは、せかいいちの おかあさんです。
 ぼくは、おかあさんが、せかいいち だいすきです。

 片親を馬鹿にされることが繰り返され、水商売で柳川を養う母が、他の子の
父兄から嘲笑されていることに気付くまで、柳川は、本気でそう信じていた。
 父親のことは聞いていた。
 母が、柳川から聞かれるまでもなく自分から語り聞かせていたからだ。
 愛情が、そのまま反発と憎しみにとって変わり、口を極めて耕平を罵る母に、
柳川は(だいじょうぶだよ、ぼくがおかあさんのみかただよ)と、目に涙を溜
めて応えていた。やがて十年を過ぎてもまったく同じ繰り返しばかりの悪口に、
心底辟易するまでは。
 水商売のことも、馬鹿にする世間の目の方に敵対心を向けていた。
 何の知己もコネもない土地で、祐也を豊かに育てるためには、世間から後ろ
指さされてもお母さんは何でもやるんだ、と言われて、柳川は心から申し訳な
いと思った。
 次第に収入の大半が母自身の派手な生活に消え、何人もの男が家を出ては入
りを繰り返し、それらすべても「祐也のため」と母が念仏のように繰り返すよ
うになるまでは。
 そして、何よりふたりの仲に亀裂を入れたのは、母が柳川に押し付けた一方
的な夢だった。
 母は、いずれ柳川が百億、千億という金を動かす大物になり、柏木耕平をも
平伏させるようになって欲しいと夢見、柳川自身にも繰り返しそれを説いてい
た。
 母はかなり性格的に強い人間だった。
 正妻になれぬことなど目もくれず耕平と結ばれ、子供をも身篭る。産むこと
を許されねば、何もかもを捨て、耕平とすら断絶して自分の意志を通して産む。
 自意識が芽生えるにつれ、柳川はそんな母を疎ましく感じることが増えはじめた。
 長く水商売の深みに漬かるうち、ヤクザや裏社会とも親しんだ母は、やがて
柳川にもそれを馴染ませようとしてきた。これが大人だ。これが社会だ。将来
の大立て者に成る為には必要なことだ、と、なかば強制して。
 生来の潔癖症の柳川にとっては、絶対受け入れられないことだった。
 まして、理由が母の一方的な夢想のため!
 柳川は、ある日唐突に警察学校に合格した事実を母に告げた。母は青ざめた。
 柳川にとって、それは、母への訣別の宣言だった。
 母から離れるため孤独に勉学し得た奨学金で、もはや母に頼る必要もない。
 寮に入った後は、こちらからは一切連絡を取らなかった。
 つまらないもらい火事で母が死んだ、と伝えられた時も、涙のかわりに開放
感だけが柳川を満たした。
 逆に、母の死より、その事実にそれだけの反応しか感じないようになってい
た自分に驚いて、柳川は動揺した。
 遠くまで──
 すいぶん遠くまで来てしまった、自分は……。
 警察を志した最初の動機は、水商売でスジ者に理不尽に絡まれていた母をい
つか助けられるようになりたいと思った、幼い日の思いからだったのに。
 母の前でそんな憧れは口にできず、今日まで自分でも忘れていたことだった。
 そう、出発点は母への思いだったのに、いつか母と枝別れし、ここはもう、
ずいぶん母から遠い場所になってしまっていた──

 貴之を手中に収めようとした“おしおき”をたっぷり味わわせた後、柳川は
なんとなく、初めて自分が柏木の一族であることを千鶴に明かした。
 二の腕に包帯を巻き付け、留めながら、疲れた顔で千鶴はそれを聞いた。
「……それほど、驚いてもいないみたいだな?」
「……納得、できることですから」
 これほど濃い同族の血は、やはり血族のものだった。そういうことだ。
「ふん」
 顎を掴んで、顔を上向けさせる。
「俺たちは血の繋がった叔父と姪というわけだ。これはれっきとした近親相姦
にあたるわけだが、それでもか?」
 頬の上に髪を滑らせながら、千鶴は答えた。
「そうだけど……。それより深刻なことがいくつも間に横たわっているのに、
いまさらそんな何番も優先順位が下のことで、たいして心も動かないわ」
 顎が柳川の手から滑り落ち、千鶴はぐったりとソファに横たわった。
「痛い……」
 全身の苦痛と、戦っている。
 柳川はつまらなそうに缶ビールのフタを開けると、一口含んだ。
「それより、あなたも少しは人間らしいことを口にするんですね」
 くすっと千鶴が笑った。

 ふたりの会う場所は、いつも柳川のマンションの部屋だった。
 ふたりの仕事のあとに柳川が呼び出し、千鶴が訪れる。
 この日も、携帯での呼び出しで千鶴は柳川のマンションに訪れた。
 ドアを開けると、照明もつけず、暗がりで柳川が緑の眼光を輝かせて待ち構
えている。
 ドアの鍵を締め、靴を脱ぐ。今日は髪を掴んで引き倒されるか、服を引き破
られるか。そう思いながら。
 頻繁になってくるとさすがに、家族にはごまかしようがなくなった。
 いまは梓にだけ直接、「男の人と……」とのみ、言っている。
 もちろん現実とは違う意味で梓がとるようにだ。
 妹三人は不安を持ちつつも、それで現在納得はしているようだ。
 いまだ、柳川の隙は伺えていない。
 もっとも、自分も相手に見せてはいないから、お互い様だ。
 いつこの契約に飽きるかは、相手次第。
 不安定な関係だが、いつか殺し殺される相手と、次第に交わす言葉が増えて
いるのが、千鶴にも不思議だった。
 男の匂いのする清潔なYシャツ生地が、千鶴を包む。
 柔らかく抱かれると、柳川は唇を吸ってきた。
 恋人のようなくちづけが、一分ほど続いた。
 顔を離して、柳川がくっくっと笑う。
「たまには、こういうのはどうだ……?」
「……責め苛まれるより、恐いわ……」
 優しく肩を抱き、髪をゆっくりと撫でる、繊細な指の感触。
 変なことしないで、と思わず言いそうになり、そんないまさらなことを思っ
ている変なのは、自分の方か、思う。

 こんなに優しく触られたのは、あの時以来だ。
 以前平気でしていた姉妹いっしょのお風呂にも、千鶴だけは裸を見られるの
を避けるため、ごぶさただった。
 しかしあの夜更け、ひとりで終い湯で肩を流していると、急に、楓が脱衣所
に入って来たのだ。
「楓……」
 いっしょの許しを得ようと問うたら拒否されるのをわかってかのように、楓
は無言で服を脱ぐと、浴室に入って来た。
 無言で、優しく楓は姉の肌をぬぐった。傷だらけの肌を。
 目に、涙が溜まるのがわかった。
「楓」
「いつか、何が起こっているのかみんなに話してくれると信じています」
 楓は、言った。
「そのうち、何かが、起こるような気がするんです……」

 ある非番の平日、たまにはどうだ、と声を掛けると、ちょうど休みだった千
鶴は素直に柳川の呼び出しに応じて来た。
 いつものマンションではない場所へ。
 公園を、ふたり並んで歩いた。
 周囲を覆う木々を抜けると、広い芝生と遊具スペース、そして人々が思い思
いに歩く姿が見えた。
「……明るいお日様の下であなたの顔を見たのは、初めてです」
「フン」
 こんな顔をしていたんですね、と千鶴は言った。
 まるでカップルのように肩を並べて歩き、語らっている自分たちが、柳川は
おかしかった。傍目にはまさにそうにしか見えないに違いない。
 近親相姦を犯している叔父姪であり、殺し合いを継続中の敵である。柳川は
れっきとした殺人犯だ。そして、ふたりながら人間ではない。
「別に、デートをするためにお前を呼んだわけではない」
「そうですか……。私にとっては、初めてのデートかもしれませんよ?」
 柳川は、眉を潜めた。
「鶴来屋の跡取り娘なんて、気楽にお呼ばれはかかりませんから」
「…………」
「あなたは、どうなんですか?」
「俺だってデートなんぞしたことはない」
「じゃあ、初デートしてるうぶなカップルなんですね。私たち」
 くっ……。
 くっ、くっくっと、押し殺すように、千鶴が笑った。
 口元を押さえながらだが、家族の前では見せない、ちょっと悪趣味な出来事
を笑う、人を食ったような笑いだった。
「見ろ」
 柳川が見せたがっていたものが、ようやく視界に届いた。
 公園の遊具。
 まだ周囲にロープの張られた、再建中の、滑り台だった。
「わかるな」
「ええ」
 あの日のふたりの戦闘の、それは証だった。
 柳川が、指の一閃で鉄の支柱を数本まとめて斬り倒し、倒壊させたのだ。
「なぜいまこれを、私に……?」
 柳川は、黙って滑り台から、公園全体を見渡していた。
 黄色い帽子を被った幼稚園の子供たちが、ふたりの脇をはしゃいで通り過ぎ
た。
「思い出させるためだ」
「思い……?」
「お前が、忘れているんじゃないかと思ってな」
「……戦いを?」
「そうだ」
 晴天の空に少しまぶしそうな表情をしながら、千鶴は長い髪が風に取られる
のを手で掻き揚げた。
「あなたは、どうなんですか?」
 滑り台の真新しい金属板が、陽光を鈍く明るく反射している。

 その日柳川が帰宅すると、むわっという匂いが、部屋から鼻をついた。
「…………」
 眉を潜めてリビングへのドアを開けると、柏木千鶴が柳川を出迎えた。
「おかえりなさい」
 何をしている、と聞き掛けて、柳川はそんな馬鹿馬鹿しい問いは捨てた。聞
くまでもない。テーブルの上には、湯気を立てたさまざまな料理が並べられて
いた。
「呼び出されたのにあなたが遅くて、ヒマでしたから。食べますか?」
 柳川は腕を伸ばすと、静かにすべての皿をフローリングの床へと攫(さら)
い落とした。料理やそのソースが、床を汚す。
「ひどい……」
 千鶴が、溜め息をついた。
 千鶴にはもう鍵を与えてある。無論、この女狐に家捜しされてこちらが不利
になるようなものは、部屋に何一つ残していないが。
「確かに美味そうではあったが、毒でも入れられていたら、敵わんからな……」
 千鶴は、皿を拾っては重ね、片づけはじめている。
 柳川は自分がキッチンに立つと、パスタを茹ではじめていた。
「敵が作ったものなど、俺が食うわけがない」
 茹で上がりそうになってきた時、床を雑巾で拭いている千鶴に、柳川は問い
かけた。
「……だが、これもちょっと全部食うほどの食欲はない。お前は、食うか?」
 千鶴が、くすっと笑った。
「いただきます」

 柳川は、契約継続を続けているウィークリーマンションで、膝を抱えて貴之
に向かい合って座り込んでいた。
「俺は、おかしい」
 足元を、みつめながら。
「いや、逆におかしくなくなってきたのかもしれない」
 視線を動かさぬまま。
「人間で見るか、狩猟者……鬼として見るかの違いだ」
 貴之も、じっと床をみつめたままだ。
 何の反応もなしに、だが。
「あきらかに、人間としての俺が息を吹き返しつつある」
 貴之の目を、柳川がみつめる。
「主人格はあくまで狩猟者の俺だ。相変わらず柏木千鶴の肉体は、貪り尽して
いる。狩猟への熱い欲望も、時に沸騰する。だが、柏木千鶴と接し続けること
で、それらはいまだ我慢できる範囲に留まっている。わからん」
 貴之の目は、何もみつめ返さなかった。
「俺は、このままで生きていけるのだろうか」
 どろりとにごっていた。
「昼は柳川祐也として人間生活を送り、夜は、鬼として柏木千鶴と睦み合い、
それを繰り返して、それに満足したまま、俺は……」
 返答は、なかった。
「何が、この状態を変えるのだ? 何が、この契約を終わらせるのだろうか」
 返答は、なかった。
「……俺は、同族、柏木千鶴を失えるのか?」
 返答は、なかった。

 どこから来て。
 どこへ行くのか。
 それは何故なのか。
 それが、柳川には疑問だった。
 どこから。それは、地球人類とは別の生物から。
 気違いじみた話だったが、おぼろげに千鶴が語るその事実は、柳川の肉体に
起きている事実に説得力を与えた。
 どこへ行くのか。それは、一時停止の契約のまま止まってしまった柳川本人
が、いま一番知りたいことだった。
 何故、自分はいまこうなっているのか。こうなってしまったのか。
 柏木千鶴に関して考えると、とても阿呆らしい単純な答えが出そうなのに身
の毛がよだって、とりあえず柳川は考えないことに決めてしまった。
 ではいまではなく、なぜ俺がこうなったかだ。
 俺がこうでなければ、鬼には目覚めず、つまらないが人間としての平凡な人
生を続けていたのか?
 それ以前に、俺がこうでなければ、貴之とこうした不幸な出会いはしなかっ
たのだろうか。
 俺は、人間だった頃、何が目的で、何が欲しかったのだろう。
 母親か?
 違う。
 盲信していた母という存在が、第三者として見ればいかにつまらない人間で
あったか見積もれるような、冷静な視点を獲得するまでが、俺の、成長の過程
だったと言っても過言ではない。
 求めるほどのものではなかった。あれは。
 だが、その代わりに得たものが、毒だったというのか。
 勤勉や、冷静さや、潔癖や、孤独をを呼び、俺を、ここまで突き落とした原
因になったというのか。
 なら、俺はいったい……。
 いったい、なんなのだ。どうすればいいのだ。
 人間の俺が昔よく思っていた。こんな俺は死んでしまえばいい。俺がすべて
悪い。狩猟者などと名乗って他人の生命を脅かすぐらいなら、こんな俺など貴
之と同じ所に行ってしまった方がいいと……。
 …………。
 認められない。
 だが、柏木千鶴もやはり、そう思っているのだろう……。

 そんな、孤独な柳川の煩悶に、そして、終わりの日が訪れた。
 初めて、今度は柏木千鶴が日中に柳川を呼び出したのだ。
 場所は、鶴来屋本館ビルの屋上。
 初めて千鶴が、自分のテリトリーに柳川の侵入を、許したのだ。

「初めて見る自分の父親の職場は、どうでした?」
「どうもこうもない。俺とは無縁のものだ」
 十五階建ての屋上の強風と太陽に、柏木千鶴が、少し身を縮こませていた。
「なぜ俺を呼び出した。なぜ昼間に、ここだったのだ」
「用件はいま言います。大事な用件ですから。私から呼び出したのは、あなた
から呼び出しを受けるのを待てなかったから。すぐに伝えるつもりでした」
「電話では話せない様毛んということか」
「それと……」
「それと?」
「あなたの顔を、もう一度、明るい太陽の下でよく見ておきたかったから、です」
 日差しにまぶしげに、千鶴が眉を潜めた。
「用件を言います」
 嫌な予感が、していた。
「妊娠、しました。あなたと私の子供です」

 望んでいたはずなのに。
 犯し、孕ませ、自分の血統を伝えることを、確かに望んでいたはずなのに。
 何故かいま、柳川は奈落に落ちたような気分だった。
「すぐ、堕胎を考えました。人間をやめるだろうあなたの子。近親相姦の子。
しかし、それはできません。柏木の血をこの世に残すことは、私の……義務で
すから」
 自分の膝が笑っていないかどうか、いつのまにか目で確認していた。
 少なくとも、震えてはいる。
「それに、病院で結果を聞いて初めて、知りました」
 千鶴は、一心に自分をみつめながら、言葉を続けている。
「自分の胎内に生命が住んでいることの実感。生きて、育ち続けて、私に、助
けて、守ってと訴え続けている確かな存在のこと。実際にこうなってみるまで
は、私は堕胎もできる女だと、自分で思っていました。なってみて初めて、け
して自分はできない側の人間なんだと、思い知りました……」
 まだ平らな腹を、千鶴は手で押さえていた。
「産みます、私は。母になります。あなたに、殺されない限り」

「そこに……いるのか」
「はい。確かです」
 そこに、いるのか。
 俺の子が。もうひとりの、俺と同じ運命を背負った輩が。
 柏木耕平も見たのだろうか。母の中の、この姿の俺を。
 そして同じ震えを、身にはしらせたのだろうか。
 柏木千鶴が、このことについて話し合うつもりで呼んだのではないことは、
すぐにわかった。もう、心を決めている。ほんとうに殺されない限り必ず産む
決意をすでにした女の、重い言葉だった。
「疑うなら、診断書も持参しています」
「いや、いい……」
「……震えているんですか」
「馬鹿なことを言うな。先を続けろ。で、俺にどうしろと言うんだ」
 千鶴が、切なげな目で柳川を見る。
「あなたに、お願いがあるんです」
 言葉が、その後なかなか続かなかった。さっきのように自信があるなら、言
葉はそのまま続くはずなのに。
「……私と、もう一度契約してください」
「……まだ、以前の契約も途中なのだがな」
「はい。新しい契約は」
「結婚しろ、か」
 認知もされていない。柳川は、籍は、千鶴とはクリアだ。
「違います」
 千鶴は、言った。
「この子といっしょに、生きてください」

「死なないでください。私を殺さないでください。それが、新しい契約です」
「…………狩猟者の俺に、そんな契約をしろというのか?」
「……そうです」
「馬鹿な……」
「馬鹿でしょうか。あなたは、できないでしょうか」
「するつもりがない」
 千鶴は、柳川の言葉を聞かずに続けた。
「あなたは変わった。鬼の“ちから”はそのままに、私にずいぶん人間らしい
ところを見せるようになった。自分でも、感じているんじゃないですか? 自
分が、狩猟者としてだけでなく生きていけるように変化しつつあるのを。私に
も、意外でした。いまも、百%の自信はありません。今日が再戦の日となるか
もしれないと思って、この屋上を選びました」
 鬼の気のひとつも纏わないで、そんなことを言う。
「でも、可能性はあると思ったんです。私が実際直面して意識が変わったよう
に、あなたも変わるんじゃないかって。自分の子供のために。私のために。あ
なたは、実際最近狩猟を行っていません。私にも、ずいぶん優しく接してくれ
るようになった。自分の血を、コントロールできるようになりつつあるような
気がするんです。コントロールできる人だった、そんな気が」
 千鶴が、柳川に近づいた。
 その分だけ、柳川は後退した。
「生きて。死と殺し合いのためではなく、生きて欲しいんです、あなたに」
「駄目だ!」
 初めて、大きな声が出せた。
「生きて! 私のために。あなたのために。貴之さんのために。この子のため
に。この子の、父親として!」
「駄目だ!」
 自分が泣いていないのが不思議なほど、昂ぶりつつある。
「お願いよ!」
「駄目だ、駄目だ、駄目だ……!」
 駄目なんだ。
 だって俺は、昨日もまた、人を殺してしまったんだから……。

 時折昂ぶる本能も、最近は千鶴を思えば我慢できる範囲にとどまっていた。
 次の逢瀬での千鶴のことを思えば、あの地上で最も貴重な炎が燃え上がる様
子を想像すれば、それまで落ち着かせることができる。
 そう思っていた。
 昨日の仕事帰り、女が前を歩いていた。
 いい匂いのする女だった。
 しかもこの地方にごく希に存在する、同族の血を微かに伝える人間だ。
 直系柏木一族に比べれば、あるかなきかのものだが。
 足は自然に女をつけていた。
 ここまでは、よくあることだった。
 最近はなにごともなく、そのまま終わっている。
 心配はただひとつ、女のその同族の匂いだったが……。
 気がつくと。
 気がつくと、血臭の中に立っていた。
 線路沿いのバラックの間の片隅で、なにかぐちゃぐちゃなものが、足の間に
転がっていた。
 その中に女の顔があった。首だけの。
 呆然と柳川はそれを見ていた。
 まるで記憶がなかった。
 いや、記憶は、次第に脳裏に昇ってきた。ただ、自分がそれをしたという実
感が起こらない。
 列車が轟音をたてて通り、バラックの隙間から照明が断続的に柳川の顔を照
らした。
(よう、兄弟。ひさしぶりだな)
 そんな声が、耳に聞こえてきていた。

 千鶴の懸命の呼びかけは続いていたが、何もかも、買い被りだった。
 俺は、やはり血をコントロールできる人間ではなかった。
 狩猟者として生きていくしかないエリート、人間としては、悲しき存在だっ
た──。
 そんなものが、子とともに生きて行くことを想像した。
 俺は、さらに人を殺し続ける。子をも殺すだろうか。千鶴をも殺すだろうか。
それとも逆に、彼らどちらかに殺されるのだろうか。
(親は、子を選べない)
 そんな常套句が、自分には笑えない。
 自分の運命を、こいつもまた味わうのだろうか。
 まったく……、
 まったく、こうして考えているいまの俺は、あまりにも人間そのものなのに。
 柳川は苦笑していた。
 どうして俺は、刑事にも、兄にも、親にも、夫にもなれなかったんだ──

「日高ウィークリーマンション、103号室」
 そう言って、柳川は千鶴に小さな金属片を投げて寄越した。
「?」
 103と書かれた鍵だった。
「そこに、貴之がいる。お前が思うようにしてやってくれ」
 心残りだが、もう俺は、できることがなくなるからな。
 後は、千鶴に任せる。どうとでも、いいようにしてくれればいい。
「俺からも、言っておかなきゃならんことがある」
「…………」
「昨夜、人を殺した」
「!!」
 飛び上がるように、という例えがあるが、この瞬間の千鶴がまさにそうだっ
た。衝撃を受けて、感電したように仰け反った。
「血をコントロールできるというお前の期待は、買い被りだ。俺には無理だっ
た。残念だ。嘘じゃない、俺も本当に残念だ……」
 いっそさわやかな表情で、柳川は続けた。
「その子とお前のためにしてやれる一番のことが、みつかった。いまの俺にな
らできる」
 そう言って柳川は、背中から屋上の柵の外へ身を躍らせた。

 ふわり、と空気の層が身を包んで、すぐに世界は無音になった。
 視界が傾く瞬間、千鶴が大きく目を剥きながら駆け寄るのが見えたが、一瞬
で消え、あとは青い空が見えるだけだった。

 “おかあさん……”

 脳裏に閃いた言葉に柳川は軽く驚いた。
 なぜ。
 おかあさん……?
 一瞬だというのに、その瞬間はスローモーションのように長く感じるという。
 柳川もそれを実感している。
 おかあさん……?
 どうだ。
 いや。
 やはり、いまさら彼女にそれほどの思い入れは感じなかった。
 だがいまその言葉が浮かぶのは、やはり自分の本心なのだろうか。
 柳川はパルスのように速くその言葉をめぐらせた。
 おかあさんおかあさんおかあさん。
 そうか。
 おかあさん、その人ではなかった。
 自分が、おかあさんに求めていたもの。
 おかあさんが満たしてくれなかったもの。
 ……それが、自分の追い続けていたものだったのだ。
 おかあさんは、ゆうやを愛していてくれなかった。
 愛してくれていたと思っていただろう。愛されていたと、俺もかつては思っ
ていたのだから。
 しかし、違ったのだ。
 あの人は、あの強烈な人は、自分を愛しているだけだった。
 俺へ向けた愛情は、自己愛の投影に過ぎなかったのだ……。

 ぼくを、あいしてください。

 柳川の中で、すべてが腑に落ちた。
 自分の求めていたもの。自分が満たされておらず、そのせいで落とし穴に落
ちる遠因になってしまったもの。
 誰かからの無償の愛……。
 自分の最期が、自分のためでなかったことが、柳川は嬉しかった。
 その子と千鶴のために、もうひとりの自分のために、そんな最期を選んだこ
とを、幸いだと思った。
 溶けていく意識の中で、柳川はやすらかだった……。

 がくん!!
 と、激しいショックがして、柳川は天も地もわからなくなった。
 激痛がはしる。腕だ。
 腕だけ、だった。
 柳川の腕でなければ、大きな損傷を被っていたかもしれない激しい痛み。
「ぐあ、」
 という声がした。
 それを自分の口から聞いて、柳川は、自分がまだ生きていることを知った。
 痛みの原因は、すぐにわかった。
 柏木千鶴が、自分の手を掴んで、自由落下を引き止めたからだ。
 馬鹿な。と思った。
 鬼の足でも、間に合わないはずだった。
 ぐらりぐらりと現実感を喪失した目が、やがて捉えた映像は、柳川を絶句さ
せた。
 千鶴は、柵の外、さらにその下の最上階部分まで共に落ちて、壁面に爪を立
ててしがみついていた。ふたり分の重量を支えて。
 ぱらりとコンクリ片が落ちて、指が一本外れる。ギ…ギ…と奥歯を噛み締め
る音がした。
 千鶴もいまや、生命の危機にあった。
「バ…」
 柳川が、自分でもコンクリートの壁面に左手を突き立てた。
 コンクリを削って手が滑る。
 落下しかけた。
 もう一度突き立てて、今度は指先が埋まった。
「ハァッ!」
 自分の身体を引き上げると、感覚をなかば失った右手で、千鶴の右手を掴み
返す。
 ふたりの手が、重なった。
 千鶴が、何の目算も、将来への解決策も持たないままとっさに飛んだのは、
確かだった。
 助かったところで、この先どうする当ても柳川にはありはしない。
 それでも。
 この先どうなろうと、この瞬間だけでも。
 愛する者のために、愛する者の命を繋ぎとめ。
 愛する者の命は、愛する者とともに。