「おーい!!」 あたしはスタンドにいる家族を見つけ、走り寄って行った。 最前列に、四人の姿が見える。 ちょっとたれ目で黒い長髪、紺のサマージャケットとタイトスカート姿の千鶴姉。腿の上で白く細い手を軽く重ねている。 おかっぱ頭に白いシャツ、膝上の茶色いミニスカートをはいた楓。まだ本格的な夏はまだだか、日差しがきついためうっすらと汗をかいている。ポカリスウェットの500mlのペットボトルを片手に持って口をつけていた。 茶髪で襟足の長い髪型に、青と白のストライプのシャツに赤いスカート姿の初音。彼女は真っ先にあたしに気づいたらしく、椅子から立ち上がってフェンスに向かって歩き出す。 そして三人の姉妹の一段上に、黒いTシャツの上に白いサマージャケット、淡い色の長ズボン姿の男性がいる。 姉妹の父親代わりとして柏木グループの会長を勤めている賢治叔父さんだ。 「お姉ちゃん。頑張って!!」 初音が手すりから身を乗り出して、声をかけてくる。初音が動いた後に続いて、千鶴姉と楓もやってくる。賢治叔父さんは少し遅れて立ち上がった。 「まあ、やるだけやるさ」 自分でも意外なくらいリラックスしていた。力が入りすぎるでもない、抜きすぎるでもない、心地よい緊張感が身体全体を包んでいる。 「精一杯やりなさい。高校生活最後の大会なんだから」 「頑張って」 千鶴姉は微笑みながら、楓は無表情の中にも少しだけ笑みを浮かべながら声をかけてきてくれる。 「梓」 賢治叔父さんの優しい声が響く。他の姉妹達も一斉に叔父のほうに振り返った。 「悔いのないようにな」 「うん、大丈夫」 あたしは笑顔で家族への挨拶を終えて、競技に入るためにスタートラインに向かって歩き出す。 一歩一歩踏みしめながら、まっすぐに正面を見つめていた。 「梓先輩!!」 視界の中に、一人の女の子が入り込んできた。茶色い髪をシャギーカットにして、Tシャツに紺色のジャージ姿だ。 日吉かおり。一年年下の、陸上部のマネージャーだ。他の部活の仲間と一緒にいる。 彼女は、両手をぐっと握り締めて、祈るような姿で見つめていた。 なぜか分からないがとても心配そうにしているかおりに、あたしは右手の親指をぐっと突き出し、軽く片目をつぶってみせる。 大丈夫だよ。心の中でそうつぶやいてから、他の競技者と共にあたしはスタートラインに立った。 地面に片膝をつき、両手の指先を地面につける。 目の前には、茶色い地面と白線に区切られた一直線の道があるのみ。 そして、ゴールに平行に引かれている白いテープ。一位で通過した者だけが身体にまとう事の許される勝利者の証だ。 まだスタートまではわずかに時間がある。あたしはすっと目をつぶって、ここまでの事を考えた。 「・・・・・・」 走るのをやめようと思った事もある。でも、その時やめなくてよかった。 やめなかったからこそ、あたしは今の満足感を味わうことができる。 そう・・・あの時・・・。 その日は、なんとなくいつもと違っていた。 朝からずっと、全身の感覚が鋭敏になっている。周りで誰が何をしているか把握できるし、少し離れた距離の会話も聞こえてくる気がした。 明らかに情緒不安定だ。笑う時は際限なく笑うし、頭にくると相手を殺したくなるほどの強い怒りを感じた。 それでも、体調が悪いとかそういうわけではない。ただ、気分だけが異常に高揚しているのだろう。 一番それを強く感じたのは、部活で100mのタイムを取ろうとした時だ。 まず軽く流そうとトラックで走り出した瞬間、全てが違って見えた。 後ろに流れていく景色が、明らかにいつもと違う。ずっと速く、滑らかに後ろに流れていくのが分かった。空気の壁を突き破って進むような爽快感。 まるで全身が何か大きな弾丸にでもなったかのような感覚に包まれながら、あたしはゴールを駆け抜けていた。 「ええ!?嘘!!」 タイムを計っていた後輩が驚いた声をあげるのを聞き、あたしは呼吸を整えながらゆっくりと振り返った。 「すっっっっごいですよ!!梓先輩!!」 「へっへっへ。あたしも信じらんないよ」 その日の部活の帰りに、あたしは後輩のかおりと一緒に帰路についていた。 かおりはあたしのタイムの計測をしていて、あたしの持ちタイムが大幅に短縮したのをその目に見た証人である。 いつもだったら、こんなにかおりと打ち解けて話す事はない。彼女は自分に特別な感情を抱いている節があるので、壁一枚隔てたような対応をすることが多かった。 でも、今はそんな事は全く気にしていない。 「もう、レギュラーも目の前ですね!!」 そう言われて悪い気はしないが、一応先輩達の手前釘をさしておくことにする。 かおりの場合、きちんと言っておかないと本当に先輩達に直談判してに行きかねない。 「なに言ってんの。三年の先輩達がいるでしょうが」 「先輩達もぶっちぎった物凄いタイムが出せたじゃないですか!!スポーツは実力重視ですよ。実力重視」 「でもねえ・・・ありゃあどう考えても計測ミスだよ」 かおりが測ったタイムは、高校生女子の日本記録すら超えてしまっていた。 そんな物凄いタイムをたたき出してしまったがために、それから後は必要以上に体に力が入ってしまいスタートはとちるわ、途中ですっ転ぶわで散々だった。それでも普段の記録からすれば速いので、実力が上がっているのは明らかだ。 「あたしゃあ、日本最速かい」 さすがにかおりもおかしいなとは思っているらしい。言葉に詰まっている。 「う・・・でもでも、その後の記録だって伸びてたじゃないですか!!たった数日ですごい進歩したんですよ!!」 そう言われて、気分が悪いはずもない。もし考えていることが現実になるならば、あたしの鼻はピノキオも真っ青の物凄い長さになっていただろう。 「そうかな、へへへ」 照れ隠しに、曖昧な笑みを浮かべながら鼻の頭をぽりぽりとかいた。 「どこかで前祝いしましょうよ。二人っきりで、ね?いいでしょ、先輩」 そういいながら腕を絡めてぴったりと身体をすり寄せてくるかおり。 はっとして、あたしはやんわりと引き離した。いつも抱いている危機感を思い出して距離を取る。 このままかおりのペースに巻きこまれるのは絶対にまずい。 「ごめん、かおり。あたし、夕食の支度しなきゃいけないんだよね。これからスーパーに寄って帰るから」 手にもっていたバッグを肩に掛けて走り出そうとする。ついてこられても面倒だ。 「そんなあ・・・」 ふくれっ面で見送るかおりを背に、あたしはスーパーに向かって走り出した。 台所で鍋を振るうテンポも軽やかで、思わず鼻歌まで出てしまう。 「お姉ちゃん。なにかいい事あった?」 台所に顔を出した初音は、ちょっと首をかしげながらそう聞いてきた。あたしは首だけを妹の方に向けた。 「ん。分かるぅ?」 思わず口元から笑みがこぼれる。 「お、今日は肉じゃがか?」 初音の頭に手を掛けてくしゃくしゃにしながら、賢治叔父さんが顔を出してきた。 忙しいにもかかわらず、余程仕事が詰まっていない限り家に戻ってきて夕食は一緒に取ってくれる。 両親がいないあたし達を気遣ってくれているのがよく分かり、あたし達はみんな実の親と同様に慕っていた。 「叔父さんも初音も、もうちょっと待っててよ。すぐに出来るからさあ」 呆れたようにお玉を振りかざしながら、二人を台所から追い出そうとする。狭い所に何人も入って来られては邪魔なだけだ。 「えへへ、ごめんなさい。美味しそうな匂いがしたから」 微笑みながらちょこんと頭を下げる初音。 そのすぐ後ろで耕平叔父さんもいつものように頭を掻いている・・・。 わけではなかった。 「・・・・・・」 その表情に、あたしは全身が凍りついたかのように動かなくなる。もし鍋でも持っていたら、あたしはその場にひっくり返していただろう。 賢治叔父さんは、まるであたしに何か恨みがあるかのような、刺すような視線を向けていた。瞳の両側は釣りあがり、唇はぐっと噛み締められている。いつも笑顔でおどけている賢治叔父さんの面影は全くなかった。 「叔父・・・さん・・・?」 冷や汗がどっと背中一面を濡らしているのがはっきりと分かった。どうして、どうしてあたしをそんな目で見るの? 「ん?どうした梓」 え? 気づいた時には、賢治叔父さんはいつものおどけた表情をしていた。先程感じた恐怖は幻ではないかと思えるほどに、優しい表情をしている。 「なにをぼうっとしてるんだ?ん?ははあ・・・まさか・・・」 「え?」 ぎくりと、一瞬後ろに半歩ずり下がる。賢治叔父さんに対して恐怖を抱いたなどと、気づかれたくなかった。 「いきなり生理が来たか?」 「んな訳あるかあ!!」 思わず大声でつっこみを入れる。いきなり何を言うんだ、この人は!! 「ほら初音。早く逃げないと食われるぞ」 賢治叔父さんは初音の背中を押しながら逃げ出した。 その日の夜、あたしは賢治叔父さんに呼ばれた。 「ちょっと話があるんだが、いいか」 二人だけの時にそう言われて、やはりあの時の表情は幻ではなかったんだと少し安心する。安心と同時に、不安も増してきた。 居間で正座して待ちながら、あたしの思考だけは激しく回転していた。 いったいあの時、何があったんだろう。 あたしはただ、いつものように食事を作っていただけである。特別に何かをしていたという記憶はない。 考えるのに疲れたちょうどその時、襖がすうっと開き、誰かが入ってきた。 「梓」 意外な人物が、賢治叔父さんを後ろに従えて姿をあらわす。 千鶴姉だ。 「え?え?」 何がどうなっているのか、とっさに理解できなかった。賢治叔父さんが話があると言っていたのに、わざわざあたしが一人の所を見計らっていたのに、どうして千鶴姉が一緒なんだ? そして賢治叔父さんから伝えられた、柏木家の秘密。 「・・・・・・」 言葉が出なかった。自分の中に「鬼」の力が宿っているなどという突拍子もない事を、はいそうですかと納得できるわけはない。 その時、千鶴姉の雰囲気が一気に変わった。いや、千鶴姉だけではない。部屋の中の空気が一気に重くなっている。 以前からどことなく恐怖を感じさせる時はあったが、今あたしが抱いているものはその比ではなかった。 「千鶴・・・姉・・・」 殺される。そう確信を抱かせるほどの圧倒的な迫力。頭の上に二本の角が見えるかのような気がした。 「これで分かったでしょう?」 ふっと千鶴姉から殺気が消えた。 殺気が消えても、あたしは腰が抜けたように動けない。 「そんな力が・・・あたしにもあるっての?」 「あたし達は姉妹でしょう?姉にあって妹にないはずないわ」 さらっと笑顔で言い切る千鶴姉。 「そ・・・そりゃそうだけどさあ・・・」 混乱して下を向いてしまっているあたしに、千鶴姉は安心させるように言った。 「梓。心配しなくてもいいのよ。女のあなたは、鬼の力を完全に制御できる。最初は戸惑うかもしれないけど、使い方に徐々になれていけば大丈夫」 そう言われても、すぐにはいそうですかと受け入れられるはずもない。 「・・・なんで今日そんな話をしたのさ。別に特別な日でもなんでもないのに」 何か理由があるのだろうか。 「今日、おまえの中の鬼が目覚めたからだよ、梓」 賢治叔父さんが、口元に笑みを浮かべている。喜んでいるというより、どんな顔をしていいか分からないので仕方なく微笑んだというような、少しぎこちない笑みだ。 「台所で姿を見たときに気づいた。今日、何か変化がなかったか?情緒不安定だったり、妙に身体が軽かったり」 そういえば、今日は朝から感情の起伏が激しかった。それに、部活のときもいつも以上に身体が軽くて・・・・・・。 あたしは全身を小さく身震いさせた。 「じゃあ・・・あれは・・・」 あの記録は・・・あのタイムはそのせいで出たのだろうか。 いや、間違いなくそうなのだ。 「今日さ・・・部活で、今までで最高のタイムが出たんだ・・・あれは・・・その力のせい・・・」 「梓」 千鶴姉が、心配げにあたしの横にきてそっと肩に手を置いた。 その瞬間、あたしは姉さんの手を振り払う。 「なんなんだよ、それは!!あたしが一生懸命努力して努力して縮めてきたものを、一瞬で超えられちまったって事だろ!?鬼だかなんだか知らないその力は!!」 やり場のない怒りがあたしの中に沸き起こる。そんな力で出した記録に価値なんかない。そんなのは反則だ。少なくとも普通の人間の中で認められていい記録じゃない。 今までの努力が実を結んだと思っていただけに、怒りは簡単には納まらなかった。 すっと立ち上がると、あたしは居間から出て行こうと二人に背を向ける。 「梓!!」 追いかけようと腰を挙げる千鶴姉を賢治叔父さんが制する。その姿を視界の隅のほうで見ながら、あたしはその場から逃げるように小走りに立ち去った。 あたしは、一人だけみんなから離れて立っていた。あたしを中心にして、大きな人の輪が出来ている。 あたしが近づこうとすると、その分だけ輪が動く。決してその差は縮まりはしなかった。 ねえみんな、なんでそんな目で見るのさ? 「だってねえ・・・」 「速くて当たり前だもんね、梓は」 「だって人間じゃないんだもん」 「そんな事ないよ!!あたしだって・・・」 いくら弁明しても、冷たい視線が返ってくるだけだった。やがて一人一人目の前から姿を消して行き、暗闇の中にたった一人だけ取り残される。 「ちょっとあたしの話を聞いてよ!!」 「・・・・・・ほお・・・話があるのなら聞こうか?」 「・・・え?」 授業中の教室で、クラスメートの視線を一線に浴びていた。立ち上がったあたしの目の前には、青筋を立てて腕組みしている教師がいる。 「授業をでかいいびきで妨害した理由はなんだ?ん?」 「あ、あは・・・あはは・・・ごめんなさい」 結局、昨日の晩はよく眠れなかった。いくらあたしでも自分の中に「鬼」の血がある、などと言われてすぐに熟睡できる程には図太くはない。 当然睡魔は昼に襲ってきて、授業中ずっと寝たり起きたりを繰り返していた。 「廊下に出て、寝たけりゃ立って寝ろ」 「ふぁい」 結局、その教師の言った通りに、あたしは廊下で立って寝てしまった。 「ふわあぁ・・・ねむ・・・」 一日が終わっても、眠気はおさまらない。 「せーんぱいっ!!」 「きゃあああ!!」 いきなり背後から胸を鷲づかみにされる。身体全体を覆っていた睡魔は、一気にあたしの中から飛び去っていった。 「あ、あんた。いい加減にしなさいよ!!」 こんな事をいきなりするのは一人しかいない。首を後ろに傾けると、茶色いシャギーカットの長髪が見えた。 やはり、かおりだ。 「これから部室ですよね?一緒に行きましょう!!」 相変わらずの底抜けのテンションの高さだ。眠くてしょうがない今の状況では、ただひたすらにうっとうしい。 がっしりと腕をつかんでくるかおりを見て、あたしはぐっと奥歯を噛み締めた。 かおりを吹き飛ばすいきおいで、彼女の腕を振り払う。 「きゃっ!?」 お尻から廊下に倒れこむかおり。その姿を冷めた気分で見つめる自分に少し驚いていた。普段ならこんな事はしない。しかし、今は他人を気遣えるほど余裕がない。 「ごめん。今日は部活休むんだ」 尻餅をついて呆然とするかおりをその場に置き去りにして、あたしは廊下を歩き出した。 「なにやってんだろ・・・あたし・・・」 駅前の喫茶店で窓際の席に座りアイスコーヒーを頼んだあとに、べったりとテーブルに突っ伏した。全身から急速に力が抜けていく。 時間が経つにつれて、自己嫌悪感がどんどんと募ってきた。 かおりは何も悪くはないのだ。何の罪もない彼女を、あんな風に邪険に扱ってしまったのはまずかった。 テーブルに突っ伏したあたしの横に、アイスコーヒーの入った少し大きめのグラスがトンと置かれる。 みっともない姿をさらしているあたしを、店員はまるで不審人物をみるかのような視線を向けながら、立ち去っていった。 あたしは重い身体をおこすと、のろのろとアイスコーヒーに手をかけた。 「ふう・・・」 ため息をつきながら、アイスコーヒーに刺さったストローに口をつけた。 口の中に苦いコーヒーを注ぎ込みながら、ふと窓の外を見る。 「ぶ!!」 ぶはぁ!! あたしは きれいに磨かれたガラスに向かって、真っ黒い液体を思いっきり吹き出してしまった。 いつからそこにいたのか分からないが、ガラスを挟んでちょうど正面に楓が無言で立っていたのである。制服にカバンを片手で持った、今日家で最後に見た姿そのままに。 ガラスが無ければ全身コーヒー塗れになっていたはずの楓は、そんなあたしの激しいリアクションにもまるで見えていないかのように立ちつづけている。 「ゲホッゲホッ!!」 驚きのあまり椅子からずり落ちるのを懸命にこらえ、鼻からもコーヒーを吹き出して顔面グシャグシャのあたしを無言で見つめていた楓は、ようやく動き出して喫茶店の中に入ってきた。 そして無言で目の前の椅子に腰掛けると 「オレンジジュース」 と一言だけ店員に告げる。 「あ・・・あんた、いつからいたの?」 「姉さんがテーブルに突っ伏して、何かぶつぶつ言っていた時から」 「声くらい掛けてくれてもいいでしょうが!?」 まったくこの子は・・・。 バツが悪そうにしているあたしに、楓は口を開いた。 「何を悩んでいるの?」 「あんたには関係ないでしょ」 醜態をさらしてしまっただけに、必要以上にぶっきらぼうに答え、残ったコーヒーに口をつける。 「無関係じゃないと思うけど・・・あたし達一族全員にとって」 「グッ!!」 またコーヒーを吹き出してしまいそうになるが、今回はなんとかこらえ切った。 口の中の物を飲み干した後、強張った表情のまま感情の起伏を感じさせない楓の顔を、無言で見つめる。 この子は知っているのだ。「鬼」の血の事を。 「あんたは・・・いつ知ったの?」 「もう、ずっと前から。・・・あたしだけは過去の記憶を持っているから・・・」 ちょっと顔を伏せながら、あたしに聞かせるのではなく自分に言い聞かせるようにつぶやく。最後の言葉は、あたしには聞き取れなかった。 「初音も・・・?」 「あの子は知らないわ。初音はまだ目覚めていないから、千鶴姉さんも賢治叔父さんも何も話していないはず」 「・・・そう」 あたしだけが知らされていなかったのではない、という事に少しほっとする。常軌を逸した話題でも、仲間外れは気分が悪い。 「何も悩む事はないでしょう?私達は女だもの・・・きちんと力の制御もできる」 「そんなの分からないだろ?人によっては抑え切れないかもしれない」 楓はまるで知っているかのように、断言した。 「女には凶暴性は現れない。暴走することはありえないわ。でも、姉さんの悩みはそんな事ではないんでしょ?もっと身近な問題なんでしょ?」 静かにあたしの顔をまっすぐに見つめるてくる楓。心の中まで見透かしてくるようなその黒い瞳に、思わず視線をそらしてしまう。 「好きな事ができなくなるかもしれないのが、怖いんでしょ?」 「!!」 図星を指された。思わず両肩がびくっと震える。 そのとおりだ。あたしは「鬼」の力の凶暴性とかそういった事は別に恐れていない。でも、その力が無意識に発動されてしまう可能性を恐れているのだ。 そう、昨日の部活の時のように。 あたしは走るのが好きだ。誰にも負けたくない。 でも、それはあくまでも人間としてのあたしの力で果たしたいのであって、別の力を借りての勝利など望んでいない。 力を使えば、あたしは誰よりも速く走れるだろう。それこそ世界記録も更新できるだろう。でも、それでは意味などないのだ。 陸上だけは、妥協したくない。 でも、全力を出して走るというのは極度の緊張感と精神力が必要とされる。その時、あたしは無意識に力を使ってしまうかもしれない。 昨日のように・・・。 「あたしは・・・あたしは・・・」 オレンジジュースを手早く飲み干すと、楓はすっと立ち上がった。 「私は、たとえ全力で走ったとしても力を使わないですむ。だから姉さんもきっと大丈夫」 そう言って、楓はその日初めての笑顔を見せた。 楓と一緒に家に戻り、手早く夕食の支度をして食事をとる。 妹の言葉に少し安堵したのは確かだが、まだ動揺は完全に消えてはくれなかった。 だからあたしは、食事の後片付けが終わるとすぐに部屋にこもる事にした。 「梓お姉ちゃん。どこか具合悪いの?」 部屋に戻ろうと腰を挙げたところで、初音が心配そうに声をかけてきた。初音は感受性が強く、わずかな変化にも気づいてしまう。 「大丈夫。ちょっと調子が悪いだけだから、寝れば治るよ」 自然と笑みがこぼれ、末妹の頭をくしゃくしゃに撫でてやる。この優しい子を心配させてしまうのは心苦しい。 ベッドに仰向けに倒れこむと、枕をギュッと顔を埋めた。そのまま物思いにふけようかと思っていると、扉を叩く音がした。 申し訳なさそうな初音の顔が、少しだけ開かれた扉の影から姿をあらわす。 「あの・・・電話だよ。日吉さんって人から」 「・・・かおり?」 あたしは驚いて上半身を持ち上げると、そのまま飛び上がるようにしてベッドから降りた。かおりが電話してくるのはおそらく初めてだろう。 「今日の事かなあ」 困ったように髪の毛をかきむしりながら、初音の横をすり抜ける。 「お姉ちゃん?あの日吉って人と付き合ってるの?」 「はあ!?」 腰からずり落ちるようにその場にずっこけた。初音が困ったように顔をうつむかせて、もじもじとしている。 「あのね。妹だって言ったら、今度挨拶に行きますんで、よろしくお願いしますって・・・」 「あんの野郎ぅ!!」 初音に何を吹き込んでんだ、あいつはあ!! 怒りが頂点に達し、今までの落ち込んでいた気分が一気に吹き飛んだ。ダッシュで電話の所まで行き、握りつぶさんばかりに受話器に手をかけた。 「かおり!!」 「あ、梓先輩ですか?」 「先輩ですかじゃない!!あんた、あたしの妹に何吹き込んでんのよ!?」 「何を怒ってるんですかあ。初めてお話したから、ごく一般的な挨拶をしただけですよぉ」 「あれのどこが一般的な挨拶だっつうの。初音は素直なんだから、変な事を吹き込むんじゃない!!」 「はーい、分かりましたあ」 「っとに分かってんのかあ?」 この子がそんなに物分りがいいとは露ほども思っていないが、それ以上の追求をしても時間の無駄なので、このあたりで怒りを納めることにした。 「でも良かった、元気そうで安心しました」 「え?」 言われて初めて、今まで悩んでいた自分がどこかに行ってしまっているのに気づいた。しかしそれは、あたしの中からいなくなったわけではない。一度気づいてしまえば、再びあたしの中に舞い戻ってくる。 「この調子なら、明日は部活出れますよね?」 「分かんないよ、そんなの」 急速に冷めて行くのが自分でも良く分かる。口調も一気にトーンダウンしてしまった。 「え?」 かおりの口調に、ほんのわずかながら狼狽の色が見える。 「あたし、部活やめるかもしれない」 「え?ちょっと待ってください。先輩?先輩!!」 動揺で裏返っているかおりの声を耳の片隅で聞きながら、あたしは受話器を置いた。 今日の朝は気が重い。 昨日、あんな形でかおりからの電話を切ってしまった。当然、彼女はあたしの所にやってくるだろう。その時、どんな顔をしてどんな内容の事を話そうかと一晩中考えていた。 しかし、答えが出るはずはない。 「あたし、普通の人間じゃないんだ」 こんな事を唐突に言ったところで信じるわけもない。 「走るの嫌になっちゃったんだ。この前出たタイム見たら、なんか頑張るの馬鹿らしくなっちゃってさ」 などと、心にもない事は言いたくない。 今も物思いにふけっていると、校門の所までいつの間にかたどり着いていた。 「ありゃ。もうついちゃったか」 校門に視線を向けた時、全身の筋肉に緊張が走った。 茶色いセミロングのシャギーカットの髪が風にわずかになびいている。身体の前で両手でカバンを持ち、うつむきがちに校門の柱に寄りかかっている女の子がいる。 前触れも無く吹いた突風が、二人の間を駆け抜けていった。 「かおり・・・」 かおりがあたしに気づいて、満面の笑みをたたえ、手を振りながら小走りに走りよってきた。 こんなに早く出会うとは予想していなかった。頭の中がパニックになり、一歩も足を前に出すことが出来ない。口の中は一瞬にしてカラカラになっており、声を出すことすらままならなかった。 「先輩。良かった、今日は休みかと思っちゃいましたよ」 かおりの声に、あたしの身体は覆っていた呪縛から解き放たれた。身体の奥からしぼり出すようにやっとの思いで声を出す。 「かおり。なんでこんなとこで待ってんの」 自分で言うのもなんだが、間抜けな質問だ。案の定かおりは頬をふくらませてすねたような表情をし、両手を腰に当てる。 「あんな電話受けて、じっとしてる方がどうかしてますよ」 もっともな意見だ。 あたしが顔をそらすと、かおりはそのそらした方に身体を移動し、正面から見つめてきた。何度そらしても、かおりはあたしの正面にやってくる。 「先輩。部活辞めるかもしれないって本気ですか?」 「まだ分かんないよ・・・そういう可能性もあるってだけで」 かおりの瞳がかっと大きく見開かれた。 「なんでですか!?せっかくタイムも縮まったし、これからじゃないですか!!先輩なら絶対に一番になれますって!!」 かおりには分からない。あの時のあの走りが、あたしにとっていかに重荷になっているのかが。 もしも「鬼」の力の制御が出来なかったら・・・公式な大会に出て、そのギリギリの緊張感の中で正気が保てなければ・・・。 あたしは、みんなの中にいられなくなる。白い目で見られ、距離を置かれてしまう。 「あたしだって・・・あんな事がなければ・・・」 ぽつりと呟いたその瞬間、かおりの表情が変わった。 今まで感情の起伏が激しかった表情が強張り、顔色も一気に血の気がうせていく。 「あたしの・・・せいなんですね?」 「は?」 肩の力が一気に抜けた。 「だって、あの時のタイムが重荷になってるんでしょう?あたしがあんなひどい測り間違いしなければ、先輩がこんなに悩むこともなかったんでしょう?」 かおりの勘違いの理由を、あたしは理解した。あの時のタイムがあたしのプレッシャーになっているのだと思い込んでいるのだ。全国トップレベルをはるかに超えた物凄い記録を再び出せない事が重荷になっているのだと。 実際には、そのタイムを出せてしまった自分の中にある特別な力が原因になっているのだが、そんな事は部外者に分かるはずはない。 「あのね、かおり・・・その・・・なんていったらいいのかなあ・・・」 他人に説明できる類の話ではないので、どうにも説明の仕様がない。 「先輩!!」 「ひ!?」 突然身を乗り出してきたかおりにびびって、一歩後ろに思わず引いてしまう。 「放課後、もう一度タイムを取りましょう。そうすれば、今の先輩の実際の力がどのくらいなのか分かると思うんです。今度は記録員を何人か使ってやりましょう。それなら間違いない記録が取れるはずですから」 「え?ああ・・・うん・・・そうだね」 かくかくとうなずく事しか出来ないあたし。 「じゃあ、放課後に迎えに行きますから、準備しておいてくださいね!!」 かおりはそう言うと、物凄い勢いで校門の中に走り去っていった。 嵐が去った静けさの中、あたしはただ呆然と、学校から流れるチャイムの音を聞いて立ち尽くしていた。 授業が終わるとすぐに、かおりにあたしは拉致同然の形で連れて行かれた。 あらかじめ宣言されていたため、ひきずられるようにしながらも抵抗はしない。ただただ黙って連れられて行くだけだ。 ゆっくりと時間をかけて競技用のシャツとショートパンツに着替えて校庭に行くと、二人の陸上部のマネージャーが先に来ていた。 一人はストップウォッチを手にしてゴールに立ち、もう一人はスタートラインの横に立っている。 「あたしともう一人で記録取りますから」 かおりは安心させるようにそう言ってくる。あたしはただ小さくうなずくだけだった。 「もう始めます?それとも、何度か軽く走ったほうがいいですか?」 「いや。いいよ」 あたしはスタートラインに向かって歩き始めた。 もう、覚悟は決まっていた。それに、今回のことはあたしにとってちょうどいい機会だ。 あたしの今後が、この一回の走りで決まるだろう。それがどちらに転ぶかは今の時点では分からない。 「ごめんね。とっとと終わらせるから」 マネージャーに軽く手を振ってからスタートラインに立ち、ゆっくりと跪いてスタートの姿勢をとる。 目の前に広がる直線コースとその先にあるゴール。 あたしの身体の中で、何かが急速に広がりつつあった。 ドクン・・・ドクン・・・ドクン・・・。 心臓の音が他人に聞こえるのではないかと思えるほど高鳴っている。しかしそれは、依然あったような感覚が鋭敏になってくる感じはしない。 これは、また走れるんだという高揚感だ。 「よーい・・・」 ゴールにいる二人に合図を送るために、右腕を上げた。 全身にぐっと力がこめられ、全ての神経は一点に集中された。 100m先のゴールに向かって・・・。 「スタート!!」 合図と共に右腕が振り下ろされる。その声がが耳に響いた瞬間、あたしの身体は絶妙のタイミングで飛び出していた。 一切の力を抜かない、全力疾走でゴールに向かって駆けて行く。 あの時のような不思議な気分はなかった。景色がスローモーションになる事も、空気の壁を突き破るような衝撃もない。 あるのはただ、ゴールのみ。 十数秒というわずかな時間を経て、あたしはゴールを駆け抜けた。 「タイムは!?」 かおりがもう一人の記録員に駆け寄って行き、すばやく確認を取る。 「ハァ・・・ハ・・・ハ・・・」 あたしは両手を腰に当て、うつむきながらゆっくりと呼吸を整えていく。 高鳴る心臓の鼓動を聞きながら、答えを待った。 「先輩!!記録更新ですよ!!3日前の記録よりは遅いけど、それより前のものはわずかに更新してます」 ほっとした安堵の表情を浮かべながら、かおりはあたしに走りよってきた。 「やっぱり、あれは私の計測ミスだったんですね!!」 「ミスなんかじゃないよ」 あたしは自然に笑みを浮かべていた。 「え?」 「あれもあたしの実力なのさ。で、今回もあたしの実力」 「え?え?何言ってるんですか?」 訳も分からず大きく目を見開いているかおりの肩を、軽くポンポンと叩いた。 「分からなくていいよ」 そう。かおりに分かってもらう必要などないのだ。あたし自身がそれを自覚していれば、何の問題もない。 全力で走っても、あたしの中の「鬼」は姿をあらわさなかった。 「柏木の女は、力を制御できるわ」 「あたしは力の制御が出来る。だから、姉さんも大丈夫」 千鶴姉と楓の顔が浮かび、彼女達の言葉がはっきりと耳によみがえってくる。 そうだ・・・あたしにも出来るはずだ。 こんな力のせいで、あたしの好きな事が出来なくなるなんてシャクだ。こんな力に負けてたまるか!! 「かおり」 「え?は、はい!!」 「あたし、陸上辞めないよ。このまま続ける」 その時のかおりの表情は、後で思い出してもおかしくなるようなものだった。気が抜けたようにぽかんと口を開けて、両腕をだらんとたれ下げている。持っていたストップウォッチもバインダーも地面に落ちていた。 「やっぱり、あたしは走るのが好きなんだ」 あたしが心からの笑顔を向けると、かおりは呪縛から解き放たれたように動き出す。 「先輩!!」 「あ。こら、ひっつくな!!ちょっとどこ触ってんの!?」 泣きながら抱きついてくるかおりを引き剥がそうともがきながらも、あたしは笑いをこらえることが出来なかった。 スタートの時間だ・・・あたしはゆっくりと目を開けた。 スターターの声が聞こえてくる。 全身の力をぐっと入れた。 バン!! 音に合わせて、完璧なタイミングでスタートを切る。 左右の選手もほぼ同じ、横一線だ。 20m過ぎに、一瞬だが先頭に立つ。 しかし・・・。 結果は5着だった。半分過ぎから他選手が前に出たのを懸命に追走したが、ゴールが近づくにつれて余力がなくなってしまい、結局さらに三人にかわされてしまった。 ゴールを駆け抜けた後、敗れ去った他の選手と一緒にしばし立ち尽くす。 「ああ・・・」 腰に手を当てて、天を仰いでから目をつぶる。 思わずため息がもれた。 終わった・・・あたしの高校生活のほとんどを費やしてきたものが。 無言で電光掲示板に視線を向ける。 あたしの名前の横に、タイムが刻まれていた。 「やった・・・」 そのタイムは、あたしの自己ベストを更新していた。一年前のあの時、「鬼」の力を使って出したものには及ばないが、それ以外のどのタイムよりも速く、光り輝いていた。 負けた悔しさも、それを見た途端にいっぺんにふきとんでしまう。 この澄み渡った青空に包まれるような、安堵感だけが残されていた。 「先輩」 後ろから声がしたと思った途端、柔らかいスポーツタオルがあたしの両肩をそっと包んでくれる。 かおりが、あたしのタオルを持ってきてくれたのだ。 「サンキュ」 笑顔でかおりに答えると、あたしは仲間が待っている場所に向かって駆けて行った。 「いやあ、負けちゃったよ。もうちょっとだったんだけどね」 「でも凄いよ。準決勝まで残れたんだから」 「でもなあ、ここまで来たら決勝行って欲しかったなあ」 「何言ってんの。あたしがここまで来たのもまぐれだっつうの!!」 強がりでも何でもなく、あたしは心から笑えた。 「鬼」の力に頼らず、自分の力だけでやってここまで来れたのだから、素直に自分に頑張ったねと言ってやれる。 「あ、かおり!!ありがとね!!」 遅れてやってきたかおりに、あたしはもう一度ありがとうと言った。 かおりが何もしてくれなかったら、あたしはきっとあそこで走るのをやめていたはずだ。自分の中にある「鬼」の力に打ちのめされて、逃げ出していたに違いない。 「もう・・・さっきから、ありがとうありがとうって・・・そんなに言うんだったら行動で示して下さいよ。キス一回で許してあげますから」 「わ!!こら、ちょっと待て!!あたしはそういう趣味はないっつうの!!」 抱きついて頬ずりしてくるかおりを引き剥がそうとあたしは必死にもがき、ようやくふりほどくと、あたしは家族への報告のためにスタンドに駆け出していった。http://homepage1.nifty.com/kairou