雨が降り出した。しとしとと、最初は控えめに。そして次第に強く。
「雨…か…」
梓がそう呟いている間にも、道路のアスファルトは濡れた暗い色となり窓の外の景色も暗く染まっていく。
傘を差して歩く人々。その横を傘を差していない人が駆けてゆく。
「耕一、傘、持ってってたかな…」
ふと、今はいないこの家の主のことが思い出される。
気になったので、梓は傘を捜し始める。確か傘は一本しかなかったはずである。傘が見つからなかったら耕一が持っているということだ。もし見つかれば…
「あいつ…やっぱり持ってってないか」
傘はすぐに見つかった。黒くて大きい傘が、玄関横のロッカーの中に放り込まれたようにして置いてあった。
考えてみれば、あの不精な耕一がわざわざこんな大きい傘を持って出かけるはずがない。
どうしようか? 傘を持って迎えにいってやるべきだろうか?
いや―― 梓は首を振って、自分の考えを打ち消す。
耕一だって、出かけるときに雨が降りそうなことには気付いていただろう。折り畳み傘の一本も持っていっているかもしれないし、そうでなくとも、駅前のコンビニで一本300円くらいのビニール傘を買うお金ぐらいあるだろう。もしかすると、雨に打たれながら走って帰って来るかもしれない。自分が行く必要は無いかもしれないし、行ったところで行き違いになるかもしれない。
梓が迷っている間にも、雨はその強さを増していく。
ちらりと見た窓の外。
学生服を着た、中学生くらいの少年と少女が鞄を傘代わりにして走っているのを見て、心は決まった。
「はぁ……」
駅前に一軒だけあるコンビニで雑誌を立ち読みしながら、耕一はやや長めのため息をつく。
今日は、ついていない。
電車を一本逃したのが始まりだった。平日の昼間、電車は一時間に4本程度しか来ない。次の電車を待っている間に天気が怪しくなってきた。
電車の中。何かトラブルがあったようで、5分程度停車する。雨が降り始めていた。
駅に着く。雨がやや強くなっていた。
あいにくと折りたたみ傘は持っていない。安いビニール傘でも買おうと考えて、駅前にあるコンビニへとやってきた。
皆考えることは同じなのか、残っていた傘は最後の一本のみだった。とりあえずそれを取ってレジへ向かい、傘を買う。
出口へ向かおうとしたとき、おばあさんと、その孫と思われる6、7歳くらいの女の子が入ってきた。着ているコートがすこし濡れている。傘を持っている様子はない。
入り口のすぐ横、普段なら傘の置いてある場所を見て残念そうな顔をする。当然だろう。傘を買うために来て、その傘が無かったのだから。
そして。最後の傘を買ったのは俺である。
おばあさんが店員さんと話している。傘の在庫が無いか、確認しているのだろう。
店員が首を振り「申しありません…」と言うのが聞こえてくる。やはり在庫は無いらしい。
落胆した顔。どこまで帰るのか知らないが、傘が必要な距離なのだろう。そして、何時止むとも知れない雨がやむのを待っているわけにも行かないのだろう。
彼女たちには傘が必要である。そして俺は今買ったばかりの傘を持っている。
結論。
老人と子供には優しくするべきである。以上。
そして今、耕一は雨宿りをしながら雑誌を立ち読みしている。
雨はやむどころか、弱まる気配も見せず、ますます強くなっている。
もう夕方だ。あまり遅くならないうちに帰りたい。最悪の場合は、この雨の中を走って帰らなければならないだろう。
風邪を引いてしまうかもしれないし、それでなくとも濡れるのは嫌だし寒いのも嫌だ。
「……はぁ…………」
さっきより長い、本日二度目のため息をつく。
さて、ほんとにどうしようかなあ、と考えながら、ふと、読んでいた漫画雑誌から目を上げると。
すぐ目の前、雑誌の棚とガラスを挟んだすぐ向こう側の道を、傘を差した梓が歩いていた。
「はぁ……」
耕一がため息をついたのとほぼ同刻。駅前で梓もまたため息を吐いていた。
結局、駅までやってきてしまった。
途中で何度か引き返そうかとも思ったのだが、一向に弱まる気配の無い雨と、もしかしたら…という考えが頭から離れず、駅までやってきてしまった。
果たして。
耕一は駅にいなかった。
時間的にみて、すでに駅についているはずである。まさかホームにいるわけは無いだろう。そして今、改札の屋根のある辺りに耕一はいない。傘をもたず、雨宿りをしている人が何人かいるだけである。
「…帰ろ…」
と、呟く梓。
結局、無駄足だったのだろう。
今この辺にいないということは、既に家に向かっているか、もう家に帰り着いているのだろう。
自分も早く耕一の家に戻ろうと思い、最後にもう一度辺りを見回す。
今からこの雨の中を一人で戻るのか、と思いまたため息をつきかけた時、
ポン、と肩を叩かれて。
驚いて梓が振り向くと。
「よお、梓。迎えに来てくれたのか?」
そう言って、耕一が笑いかけてきた。
「耕一…どこにいたの?」
驚いたように梓は尋ねる。
「すぐそこのコンビニ」
耕一はふりむいて駅前に一軒だけあるコンビニを指差す。
「あー、なんだ…」
納得しながら、それを思いつかなかった自分に呆れる梓。
「それにしても梓が迎えに来てくれるなんてなー」
耕一が笑いながら言う。
「なに? あたしが迎えに来るのがそんなに意外? 人がせっかく迎えに来てやったのに」
つい喧嘩腰になってしまう梓。
「いやいやそうじゃなくて」
「じゃ、何さ」
まだ笑っている耕一に詰め寄る梓。だが耕一は気にした風もなく、
「いや、な?」
と、そこでいったん言葉を切り、にやり、と笑って言った。
「お前、傘一本じゃん? 俺と相合傘したいの?」
梓はその言葉の意味を理解するのに数秒の時間を要した。
当然のことだが、耕一は傘を持っていない。持っていればすでに自宅に帰っているだろうし、梓もここにいるはずがない。
そして、耕一を迎えに着た梓が持っているのは耕一の物であるこの黒い傘一本である。
そう、自分が持ってきたのはこの傘一本なのだ、と、梓は理解した。
そう、この一本のみである。
それは何を意味するのか。
これではまるで、耕一と相合傘をするためにわざと傘を一本しか持ってこなかったようではないか。
そのことに気付き、梓の頬が赤くなる。
理由は、ある。
耕一の家に傘はこの一本しかなかったとか、耕一がいるかどうかも分からないのに、コンビニで傘を買うというのもどうかと思ったとか。
だがしかし。それを今言っても言い訳にしか聞こえないのは分かっていた。
「いや、その、あたしは…」
真っ赤になりながら、それでも言い訳しようという梓。
「いやー、それにしてもなぁ。梓がそんなに俺と”相合傘”がしたいなんてなぁ」
”相合傘”の部分を強調しながら、耕一は言う。目が笑っている。梓をからかおうとしているのは明白だ。だが、動転した梓はそんなことに気を回す余裕もない。
「じゃ、じゃあ止むまで待って――」
「強くなってきてるぞ? 何時止むんだ」
「雨の中を走って帰って――」
「傘があるのにか?」
「千鶴ねぇに頼んで傘をもう一本――」
「ここをどこだと思ってる。わざわざここまで千鶴さん呼ぶ気か?」
「バスかなにか――」
「出てないよ。お前知ってるだろ」
混乱する梓。冷静に突っ込む耕一。
「えーと、その――」
梓は何か言おうとするが、他に何も思いつかない。顔を赤くしながら、上目遣いに耕一を見上げるだけだ。
「そ、そうだ! そこのコンビニは?」
と、天啓を得たように勢い込んで言う梓。だが耕一は笑って、「売り切れ」と言う。
「え、嘘ぉ?」
「嘘じゃない。見てみるか?」
二人が行ってみても、当然傘はない。耕一の買った最後の一本は今頃使われているだろう。
コンビニを出たところで耕一が梓に「な?」と頷きかける。梓はもう耕一のほうを見ようともしない。耕一が、
「―――行くべ?」
と笑いかけて言うが、梓は答えない。俯いて、どんな表情をしているのかは耕一には見えない。
ちょっとからかい過ぎたかな…と、耕一は心の中で反省する。
「なあ梓…」
「あの、あたし…」
二人同時に言って、二人同時に口籠もる。
なんだ? と、耕一が訊くと、また梓は俯いて沈黙してしまった。
どうしたものかなぁ、と耕一は思う。こういう雰囲気は、苦手だ。梓が相手のときは、特に。
何も言えないでいると、梓が意を決したように喋りだした。
「あ、あたしは…」
しかしまた、押し黙ってしまう。沈黙。ほんの少しの時間なのに、とても長く感じる。
耕一が再び喋りだそうとしたとき。
梓は突然耕一に背を向けると、
「あ、あたしは走って帰るから耕一は傘差してゆっくり帰ってきてっ!」
と、言って雨の中を走り出してしまった。
一瞬、ぽかん、としてしまう耕一。そして苦笑して、梓を追って走り出した。
梓の足は速い。
もう現役ではないといえ、陸上部で鍛えていた足だ。すでになまりきった大学生の耕一が追いつけるはずもない。
最初のうちは差していた傘も、走るのには邪魔なので既に閉じられている。
ずぶ濡れになりながら走る耕一。だが、梓との差は開く一方だ。
「はぁ、はぁ…」
息を切らして立ち止まる。視界の悪さもあって梓の姿はすでに見えず、このままでは追いつけそうにない。
「仕方ない…か」
そう言って、呼吸を整える。深呼吸を2、3回。
そして集中し、おもむろに鬼の力を引き出す。
殺気を出さないように。暴走してしまわないように。
ゆっくりと丁寧に力をコントロールする。今は、速く走ることができれば十分なのだ。
そして前を見据えると、耕一はすさまじい速度で走り出した。
ずぶ濡れになりながら、梓は歩いていた。
寒い。冷たい。そして、疲れた。
練習で、雨の中を走ったことはある。だが、これほど寒くも冷たくもなかった。
はぁ…とため息。そしてくしゃみ。
分かっているのだ。自分が素直でないだけだということは。
だけど、どうしても言えなかった。できなかった。
二人で一つの傘に入る。ただそれだけのことなのに。子供のころは気にもならなかったことなのに。
自分は、変わってしまったのだろう。
子供のころなら、気にもならなかった。
すこし前なら、耕一を殴り倒していた。
じゃあ、今は?
そんなこと、考えても意味がない。頭を振って、意識から振り払う。
呼吸も整ったので、また走り出そうとした。
その時になって、梓はやっと気付いた。自分に雨が当たっていないことを。黒い大きな傘が差しかけられていることを。
振り向けば耕一がいた。息を切らしながら、雨にずぶ濡れになっていた。
「……耕一……」
それ以上の言葉が出なかった。何を言えばいいのか分からなかった。
…さっきは逃げちゃってごめん…
濡れてるじゃん、寒くない?
どうやって追いついたの? …まさかあんた…
その、どれも言えなかった。他の何も言えなかった。
謝ることも、何事もなかったように振舞うことも、怒り出すことも、何もできなかった。ただ、黙って耕一を見つめていることしかできなかった。
それでも、何か言わなければ、と思って口を開こうとした。が、
「なあ、梓…」
耕一が話しだした。
喋ろうとした口が閉じる。そして、耕一を待つ。
まだ息を切らしているのか、そこで一呼吸おいて微笑みながら耕一は言った。
「一緒に、帰ろうぜ?」
「うん」
自然に、そう、言えていた。
まだ止む気配も見せない、強い雨が降る中。
もう傘を差す意味がないんじゃないかと思えるほどずぶ濡れになりながら、二人で一つの傘に入って歩く。
他愛もないおしゃべりも、今はとても嬉しい。
きっと、ハイになっているのだ。
まあ、そんなこと、今はどうでもいいことだ。
10月半ばの雨の中。
いつもと同じ帰り道を。
二人、一つの傘に入って歩いていた。
Fin