風邪の吹いた日 (痕SSこんぺ委員会 短編部門参加作品) 投稿者:葵原てぃー 投稿日:1月17日(金)01時02分
『風邪の吹いた日』

 ――家の皆がダウンした。

 鬼の血を引く柏木家といえど、病原菌に対しても無敵というわけではないらしい。
 初音も楓もはじめは学校に行くつもりだったようだが、ふらついていたので無理に寝かしつけた。
 かくいうあたしも多少熱っぽいので学校はお休み。症状は比較的軽いので看病役を買って出ている。
 千鶴姉などは会長職という立場上、軽々しく休むわけにはいかないと言って仕事に行っていた。
「……ぶっ倒れてなきゃ良いけど」
 出掛けの千鶴姉のふらつき具合を思い出し、本気でそう思った。


 遅めの朝食の後片付けをしながら、食事時の様子を思い出す。
 いつもなら朝食の準備を手伝いに来る初音も、居間で朝刊を読んでいるはずの千鶴姉も、
「ご飯だよー」と声をかけるまで部屋から出て来なかったし、楓に至っては姉妹の誰よりも
朝食を平らげるのが遅かったし、あたしはあたしで食が進まない。兎角いつもの朝とは違っていた。
 冬場の今、いつもなら冷たくて辟易する水仕事も、熱のせいか僅かに心地よさすら感じる。
 食器を一通り網籠に上げると、冷え切った手の平を額に当ててみた。
 ――冷たくて気持ちいい。まるで全身のだるさが抜けていくような錯覚に襲われる。
 そこで気づく。初音や楓に水枕を持っていかないと。
 あたしは手を翻し、手の甲を額に当てつつ看病道具を取りに台所を後にした。


「初音、入るよー」
 部屋の扉を軽くノックし、手に水枕や氷嚢を抱えて初音の部屋に足を踏み入れる。
 奥のベッドで横になっている初音からの返事はない。呼吸は荒いがどうやら寝入っているらしい。
 あたしは初音を起こさないように、そーっとベッドの側まで近づいて、そこで両膝を付いた。
 床に敷かれた絨毯の上に持ち込んだ道具を置き、一つ一つ気を使いながら配置していく。
 水枕を首の下辺りに差し込み、首筋から熱気を逃がすようにする。
 ちょうど額の上にくるよう氷嚢の位置を調整。初音は寝相がいいから強く固定する必要がない。
「ん……」
 不意にそんなうめき声が聞こえ、同時に初音の瞳が薄く開く。
「あ、悪い。起こしちゃったか」
「……梓、お姉ちゃん?」
 まだ意識が朦朧としているらしく、枕元に見えるあたしの顔をぼーっと見つめるだけの初音。
 とりあえずぽむぽむと掛け布団の襟元を叩いてやる。
「もう少し眠ってるといいよ。まだ熱があるみたいだから」
 そうあたしが言うと、初音は軽く頷くような素振りを見せて再び目を閉じた。
 途端、先程までより幾分落ち着いた呼気が、初音の口許から零れはじめる。
 それを見届けるとあたしは初音の部屋を後にした。さあて、次は楓の方だ。


 ――こんこん。
「楓、起きてるかい? ……入るよ」
 ノックの後に部屋の中に声を掛ける。間髪いれず「どうぞ」と返事が戻って来た。起きてるようだ。
 扉を開けると、ベッドの上で上体を起こしている楓の姿が目に入る。
「起きてなくていいって。横になってなよ」
 あたしがいつもの枕と水枕を取り替えると、楓は大人しく身体を寝かせてくれた。
 氷嚢の用意をしていると、楓がおもむろに口を開いた。
「千鶴姉さんは?」
「会社に行ったよ。……無理してるのは解り切ってたけど、止められなかった」
 正直今になってみると、一発殴ってでも止めた方が良かったのではないかと思っている。
 後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
「姉さんの、学校は?」
「あたしも調子がいまいちだし、今日はお休み」
 学校のほうにはもう連絡を入れてある。先生は「風邪か? 珍しいこともあるもんだ」と言ってた。
正直な話あたしもそう思うのだが、仮にも教育者の台詞じゃないと思った。悪い先生じゃないのだが。
 楓の額の上にも氷嚢をセットしたところで、楓が無言で何か言いたげにしているのに気がついた。
 白くて綺麗な肌が熱で上気していて、まるで紅を注したような頬や耳がかえって痛々しい。
 さっき鏡で見た自分の顔などは、日焼けの分さほど熱があるようには見えなかったから尚更だ。
「ん、どした?」
 あたしがそう訊ねても、楓は視線をあたしの顔から彷徨わせることもなくこう言った。
「梓姉さんも、無理、しないで」
 その言葉にこくり、と笑顔で頷いて見せる。この状況であたしも倒れたらそれこそ洒落にならない。
 心配しなくても大丈夫、と言っておいてあたしは部屋を出た。
 さて、あたしも部屋で眠る……前に、ひとつやっておかなきゃならないことがあるんだな、これが。


「あー、やっぱいつもより疲れた……」
 自分の分の水枕を抱えたままベッドに倒れこんだ。
 楓への看病のあと、台所の鍋に昼食用のお粥を作っておいた。あとは温めるだけで食べられるはず。
 舌が痺れているせいで味付けは不安だが、まあ千鶴姉の料理よりはマシだろう。
 時計を見る。短い方の針が「10」の数字を指しているところを見ると、十時前後だろう。
 学校は二時限目の最中だろうか。今日は体育の授業だっただろうか――。
 そこまで考えたところで、疲れと熱による急激な眠気に襲われ、あたしは早々に布団に潜り込んだ。
 意識がすぐに暗い、暗い真綿の底に落ち込んでいくような感覚を最後に、あたしの記憶が途切れた。


 再び目が覚めた時、目には眩しい蛍光灯の光、耳には喧しいチャイム音がダメージを与えてきた。
「うぁ……? あ、電気点けたまま寝てたのか……って、なんだ!? 騒々しい……あ、いたた」
 がばっと身体を起こすと、くらくらと目眩がした。顔に手を当てると先ほどより熱い。

 キンコンキンコンキンコン、キンコンキンコンキンコン♪

 ベッドから降りる。ピンポンダッシュならぬピンポンラッシュに目の裏辺りがひどく痛んだ。
 ――あ、エプロンまでしたまま寝ちゃってたよ、あたし。
 布地にありありと皺が見えるエプロンを外し、止む様子のないチャイムをどうにかすべく部屋を出た。

 キンコンキンコンキンコンキンコンキンコンキンコンキンコン♪

 廊下にはほぼ同時に楓と初音も顔を出してきていた。あたしは二人に「いいから寝てな」と手振りで
示し、早々にこの騒音への対処をすべく玄関に向かっていった。
 早足で歩くと、板張りの廊下を滑るように転んだ。柱に頭をぶつけなかっただけまだマシか。

 キンコンキンコンキンコン、キンコンキンコンキンコン♪
 玄関に近づくにつれ、せんぱ〜い、と呼ぶ声とドカンドカンと表門の扉を蹴り込む音が聞こえて来た。
 廊下の時計を見る。昼過ぎの1時前。……見舞いに来るとは予想していたが、午後の授業をまるまる
エスケープして、こんなに早く家に押しかけてくるとは思わなかった。かおりだ。

 キンコンキンコンキンコンキンコンキンコンキンコンキンコン♪

 これが普段なら「うるさーいっ! 近所の迷惑を考えなさいっての!」と怒鳴るところだが、
生憎今のあたしにそんな元気はないし、自分のことを心配して来てくれた後輩を怒鳴りつけるような
行動は、今ひとつ好きではない。……かおりの行為はすべて好意に基づくものだから、断りにくいし。
 とはいえ今この状況でかおりを招き入れるのは避けたい。あたしはともかく楓と初音が休めないし、
できれば「ともかく」と言わず、あたしも平穏無事に今日という日を過ごしたいのだ。
 だから、あたしは玄関を出ると外門の向こう側にいるかおりに向けて、まずは呼びかけた。
「悪いけどかおり、みんな休んでるからチャイムを馬鹿みたいに鳴らすのやめてもらえるかな」
 うまく声が出ない。出ないのだがどうやらかおりの方には上手く伝わっていたようで、先ほどから
応援のつもりなのか三三七拍子を乱打していたチャイム音がぴたりと止んだ。
「……梓先輩?」
「ああ」
 『きゃあ大変、先輩が病気だなんてわかりました! ここは先輩の近い未来のパートナーたるこの私が
全責任を持って愛の看病をさせていただきますー!』などという怒涛の押しかけが間髪いれず襲って
くると思っていた分だけ、多少肩透かしを食らったが、それはそれでかえって有難い。
「悪いけど今日は帰ってもらえるかな……まだ授業も残ってるだろ? お見舞いに来てくれたのは
嬉しいよ。けど、そんなに心配しなくても大丈夫だからさ」
 ホントのところはあまり大丈夫じゃないが、明日には治っているだろうという漠然とした予感もある。
 あたしの声の調子にショックを受けたのか、かおりのいつものハイテンションさは鳴りを潜めていた。
「は、はい。それじゃ先輩、お大事に。お騒がせしました……」
 扉の向こうの気配が消える。悪いことをしたかも。今度どこか買い物にでも付き合ってあげよう。


 起きてきた楓、初音と一緒に遅めの昼食を摂る。
 二人とも朝と比べてだいぶ回復した様子。熱を計ってみたら少し下がっていた。
 食後、いつもの癖と言うか習慣で、食器を洗おうとしたところを初音に止められた。
 まずはゆっくり休んで、しっかり回復してから家事を済ませた方がいい、とのこと。全くその通りだ。
 三人揃って再度寝床に入る。次起きたときにはしっかり治っていればいいのだけど。


 当日三度目の起床は、じつに爽やかだった。
 ……とはいえそれも前二回と比較してのことではあるが、体調はほぼ回復しているとみてよかった。
 楓も初音もそれは同じようだ。夕食はいつもよりちょっと軽めではあるがみんな綺麗に平らげたし。

 帰宅してきた千鶴姉の話によれば、結局千鶴姉も鶴来屋の一室で寝させてもらったらしい。
 迷惑をかけられない、といいつつ結局迷惑をかけてるところはらしいっちゃらしいけれど。


 ――とりあえず、こっちはそんな感じだよ。
 ええ? あんたもその日寝込んでたって? ふーん、珍しいこともあるもんだね。
 それで耕一、今度こっちに来る日のことだけど……。