「ばか!」パン! だれもいない廊下に、乾いた音が響く。 薄暗い中、蛍光灯が白々しく点っている。 外は、夏特有の土砂降りの雨で。 彼女もやっぱり、雨模様のようだった。 ……あかりがオレに手を上げるなんて、初めてじゃないだろうか? 幼なじみとの十数年間を振り返ってみても… 泣かれたことはあっても、ひっぱたかれたことなんて。 廊下の窓に、ふらりともたれ掛かる。 きしり、とアルミのサンがわずかな音を立てた。 ふと、赤いものがグランドを横切るのが見えた。 ――おーい、前見て走れよぉ… 今朝、あかりが持っていた傘… その足下に茶色い水しぶきが上がっていた。 何となく、それを目で追う。 顔が、ぴりぴりと痛い。 あれは、容赦ない一撃だった。 「浩之? あかりちゃん、泣きながら走ってたぞ? ……何かしたのか?」 その言葉に、我に返る。 あかりと入れ替わるように現れたのは、耕一さんだった。 そっか、泣いてたか… さっきのあかりの表情を思い出す。 あれは、明らかに怒っていた。 ……人間、怒りすぎると顔が青ざめるってコトを、初めて知った。 「ん? ……ちょっと、馬鹿なことを言っちまったんですョ…」 「……そうか… ここじゃなんだし、食堂の方に移動しないか?」 昼時を過ぎた食堂は、閑散としている。 っつーか、大学の食堂なんて、昼時以外に立ち入ることは少ない。 今は授業中だし、暇を潰すなら喫茶店の方が人気がある。 購買で買った缶コーヒーを片手に、オレ達は隅のベンチに腰掛けていた。 「浩之、おまえ、講義はないのか?」 「えぇ、今日はもうないですね。オフです。 耕一さんこそ、大丈夫なんですか?」 「……卒業研究には、オンもオフもないんだよ」 さようで。 で。 「……それは、おまえが悪い」 「……そうですか?」 「ああ、もっと女心ってのを考えろ」 それは、耕一さんに言われたくない。 密かにツッコミを入れつつ、オレはコーヒーをすすった。 ……甘い。 最近、甘いものがダメになってきている。 コーヒーは、ブラックに限ると思う。 「おごってもらっといて、文句を言うな」 ごもっとも。 「……まぁ、あとはおまえと彼女の問題だな。 もうちょっと、あかりちゃんのことも考えてやれ。 昔の女のことばっかりじゃなく、な」 妙に実感のこもっている、言葉だった。 昔の女、ね… 無理だよ。 あいつの妹たちは、町中あちこちにいるんだから。 そして、あいつとまるっきり同じ顔をしているんだから。 いやでも思い出しちまう。 さらに悪いことに。 あいつの妹達は、あいつと違ってちっとも笑わない。 当たり前だ、あいつらはそう作られているんだ。 むしろ、高校の時に会ったあいつが、特別なんだ。 そんな分かり切ったことに幻想を抱いて、オレは勝手に傷ついていた。 現実から目を逸らして、周りを傷付けて、自分が不幸なつもりでいた。 その結果が、さっきのあかりのビンタだ。 ふと、思った。 1人、篭もるよりも。取り戻してやろうか。 いや、あいつらに笑顔を与えてやりたい。 …とはいえ、とりあえず。 まずは、大事な幼馴染みの笑顔をなんとかしないと、な。 夕立はいつの間にか過ぎ去り。 小降りになった雨の向こうには、色の薄くなった青空が見えた。