ときどき、ゆき  投稿者:Matsurugi


 目が醒めたとき、自分がどこにいるのか、わからなかった。
 意識が現実に向かうに従って、身体の感覚が甦る。
 ベッドに横になっていた事に、そこで、気付く。
 眠っていたのだ。自分の部屋で。
 真夜中。だろう。多分、今は。
 音を、耳が捉えていた。枕元で、規則正しく時を刻む時計とは、別の。
 窓の向こう。外。連続的な、音がする。何かを叩きつけるような。
 地面を、屋根を、窓を。打ちつける、真夜中の雨。


 眠りの感覚は、まだ、残っていた。
 けど、現実の音は、意識を覚醒に、留めようとする。
 委ねたかった。眠りに身体を。無理にでも。
 けれど、打ち鳴らされる雨音は、耳の奥底を、打ち続けている。


 時が流れる。瞼を閉じたままの。
 間。長く、それでいて短い。
 外部の音を、阻害せずに伝える、静寂の空間。
 それを聞くことに、逆らおうとする、意識。
 無理にでも、別のことを、考えようとする。
 でも、浮かぶのは、聞きたくない音と、同じ。
 憂鬱な、雨の記憶。


 雨の中に立っていた、自分。
 雨の中に立っていた、あの人。
 雨の中に立っていた、背中合わせの二人。
 そしてやっぱり、雨の中に立っている自分。
 夏も、秋も、そして冬の始まりにも。
 振り払おうとするたび、思いが絡みあい、縺(もつ)れあう。
 忘れていたい。けど、忘れたくない。
 淡い輝きに包みこまれ、閉じ込めたままになっている。
 まるで、小さく透明な、結晶のように。


 消し去ることなど出来ない、大切な記憶。
 でも、時々は忘れてしまいたくなる。
 せめて、夢を見ている時だけでも、忘れられたらいいのに。
 夢を見ている時だけでも、消してしまえればいいのに。


 現れ、また去って行く。記憶の連なりが。
 夢(きのう)かもしれない、現実(きょう)のように。
 現実(きょう)かもしれない、夢(あした)のように。
 時が、過ぎて行く。
 混濁する意識と、夢の境を往き来する、時間が。過ぎて行く。


 瞼の裏を差す光が、意識を目醒めさせた。
 ゆっくりと、体が眠りから引き戻される。
 いつもと同じ、朝の光。でも少し、いつもと違った光の感触。
 カーテンを開く。目に飛び込んでくる、光景。少し、目を細める。
 白かった。目に映るもの全てが。
 細めた瞳を、はっきりと開く。
 窓の外の風景は、白く覆われていた。
 全て、雪に包まれて。


 静かだった。
 とても、静かだった。
 真夜中の喧燥は、どこにも残っていなかった。
 全ての音が、消え去ったようだった。
 世界が、音を忘れたみたいだった。
 ただ、雪だけが音も無く、静かに降っていた。


 私は、ただ、窓の外を見ていた。
 心の憂鬱が、どこかに消え去っていた。
 記憶の重荷が、取り払われていた。
 まるで、雨の音と一緒に、雪が運び去ってくれたみたいだった。


 しばらく、立ち尽くしたままだった。しばらくたって、ようやく、窓際を離れた。
 空から降る、雨から変わった、白い雪。
 その雪が、またすぐに雨で消されてしまうとしても。
 一時でも、悲しみが和らいでくれるなら。
 少しでも、あの場所に立たなくていられるのなら。
 ほんの僅かな間だけでも。
 その間だけでも、溶けないでいて欲しい。
 せめて、今日だけでも。



 ときどき、ゆき:おわり