Winter Roof −8−  投稿者:Matsurugi


   第7話 …………、変わりなき死(後編)



 そして、俺はその約束を守ることができなかった。国境の果て、長い防波堤の続く海岸線で、みさき先輩は撃たれて死んだ。

 撃ったのは多国籍軍の兵士だった。彼は国境線を走る俺たちの名前を叫んだ。俺は軍にいた経験からなにも学んでいなかったことをその時に知る。俺たちは琥珀の中に閉じこめられた小さな化石にすぎなかったのだ。俺が銃を持っていることも、俺たちの名前や行動の意味も、彼らは知っていたのだ。先輩を撃った兵士の胸には、S・NIYIMIと書かれていた。
 彼はヘルメット越しに表情を隠してみさきは自分のものだ、といった。僕が彼女の胸に記した文字を君は見なかったのか?

 撃たれたとき、先輩は俺の方を見て微かに微笑んだ。雪原に赤い血痕が散らばったときも、いつもと同じ優しい微笑みだった。いつもと違う風だね、と先輩が言った。海の向こうから吹いてくる風を受けながら。
 きっと遠い彼方の夏を運んできたんだね。私の知っている風と同じ、でもそれとは違う場所からの夏の風。ずっと前に、小さいころに絵本で見たんだよ、夏の、風景。今でも、はっきりと……私の目に、映ってるよ……。浩平君、見せてくれたんだよね……ありがとう。
 浩平君、私……こうなることを知っていたんだよ。でもね……もうこれで、私は、誰にも所有されないから。私は、自由に……なれるから。私は……ひとりで……歩いていけるから……哀しまないでね……。
 胸の琥珀が割れて、青い花がみるみる壊れてゆく。
 どうしてだ? どうして先輩が死ななけりゃならないんだ? 先輩は夏の風が知りたかっただけなのに。俺はただ人を殺したくなかっただけなのに。
 俺たちは何故剥奪されなければならないんだ?
 多国籍軍が、先輩を撃った兵士が先輩の硬く閉ざした躰を銃の先端で開いてゆく。ほらね、みてごらん。僕が記した文字だよ。暗闇で、何も知らないまま育ったこの子に僕がつけた、聖痕だ。この子は僕が所有するために暗闇に閉じこめていたんだ。世界のなにものにも侵されることのないように。世界の汚れを見ることなく純粋でいられるようにとね。一度はなくしてしまったけど。この子が隠れていてもわかるようにと、こうして徴をつけておいたんだ。やっとこの手に取り戻すことができた……
 先輩の綺麗な胸が白い雪に侵されてゆく。
 完遂されない世界戦争に打ちのめされてゆく。沈黙。語るべき言葉はない。
 俺は銃を取り出す。ゆっくりと銃口を、先輩を侵している存在に向ける。殺したくない。俺は殺したくなんか、戦いたくなんかなかった。俺は何度も引き金をひく。衝撃が腕を痺れさせ、意識を後退させてゆく。
 俺は好きでいたかった。ずっとそばにいたかった。みさき先輩、先輩にいつかほんとの夏を見せたかった。

 そして俺は生き残り、癒しようもなく開いたままの傷を抱えて、雪に閉じこめられた冬の屋上で、放課後を過ごしてゆく。屋上のフェンスは硬く冷たい鉄格子のようにまわりを包囲し、俺は沈黙のなかで、先輩がひとつだけの冷たく固い扉を開ける、失われた瞬間を待ち続ける。

 一度だけ、扉が開いた。そこには見たことの無い大きな犬を連れた老人が立っていた。
 彼は奇妙なアクセントで、みさきは海に還した、と言った。
 今頃は海流に乗って、夏の岸辺にたどりついている頃さ……
 俺はこぼれる涙を止めることができなかった。俺たちが選んだ道は罪と死がその糧だった。けれどその上には永遠に輝く小さな魂が光っている。俺は外部を経験し、世界に帰還した。
 俺は忘却の名のもとに、それをおしやることができない。俺は、俺が経験した外部を俺の存在の根底に組みこまなければならない。けれど、そんな物語をどうやって紡ぎ出せばいいというのか。
 浩平君、私は自分を惜しんだりは、しないよ。浩平君が望むなら、私の全てを、浩平君にあげる。
 ……哀しまないでね。自由を畏れないでね……空に、飛び立ってね……

 先輩が唱えた夏の物語のように、俺を眠りに誘う物語を俺は俺の内側に探し続けている。死は存在する。俺は死を求めながらも、それにあらがい生を生き続けている。先輩がこの世界にいることを放棄しなかったように。どんなことがあっても先輩が笑顔を決して忘れなかったように。
 みさき先輩、今はもう存在しない先輩を再生させるために、俺はこの世界の片隅で生き続けている……