Winter Roof −7−  投稿者:Matsurugi


   第7話 …………、変わりなき死(前編)



 国境は遥か彼方の氷原にあった。真綿のように白いワンピースに身を包んだみさき先輩は透明で、微かに青い月の光に消え入りそうに儚かった。俺はその時、何も知らない子どもだった。完全なる世界にすむ不完全な存在だった。
 出発の前、校門の前で先輩は優しく微笑んで俺を待っていた。先輩も俺と同じように、先輩を守る共同体を、自分だけの聖域を遺棄するのだ。
 先輩がその場でくるりと回って、似合うかな、と自分の姿を俺に訊ねた。似合ってるさ、と俺は答えた。
「浩平君、私は事実を、私たちから遮蔽されている真実を知りたいだけなんだよ。浩平君は……私に隠したりしないよね……。真昼の月のように、浩平君はこの場所にいつづける不快を感じているもの。浩平君は外地から来たストレンジャーだから。浩平君は私のことを、なんだか悲しい目で、見ているように思えるもの……」
 俺はどうすべきだったんだろうか?
 もう今ではわからない。真実なんて、現実に存在するというのか。その瞬間、それが訪れて俺の心を支配しても、30秒後にはそれは跡形もなく消えてゆく。日々の泡のように、それは儚く、俺たちは信じる夢を持たない。はっきりとわかることは、俺に安らかな眠りが訪れる日が、もう永遠にこない、ということだけだった。

 俺の借りた家具付きの部屋には、食堂用の簡単なテーブルセットと小さなソファーと、教会用の古い椅子が置いてあった。綿のように真っ白なワンピースを着た先輩の手を俺は取り、その椅子に座らせた。長い黒髪が肩から腕からこぼれ落ちて、天使の羽のように輝いてみえた。先輩は琥珀に鎖を通して胸にかけていた。
「ここにある琥珀の中の青い花は……いつここに閉じこめられたんだろうね。琥珀を壊したら、青い花も壊れちゃうのかな……」
 俺は振り向いて先輩を見たけど、先輩はいつものように優しく微笑んでいたので、俺はその意味に気づかなかった。
「明日の朝早く、北の森をぬけよう。その向こうには海がある。海流に乗って、この世界の外に行こう。二人だけで、遠くまで行くんだ。国境警備隊のことなら大丈夫だ、俺は以前軍にいたから、どんなシステムになってるか、知ってるんだ。心配しなくていいよ」
 先輩は不思議そうに俺の方を見ていた。光を映さないその瞳の前で、俺は誰にも言えなかった言葉を告げた。
「北の端の島々に移らなかったこの国の人間たちは、徴収されて多国籍軍の兵士になる、というのが新しく制定された法律だったんだ。俺は徴兵忌避のために、ここにきた……家族も、家も、新しい国籍も捨てて……逃げてきたんだよ」
 大陸から吹く鋭い風が窓を激しく叩いていた。
「いいんだよ……逃げても……」
「人を殺したくはない……殺したくはなかった……でも、俺には家族がいた……俺が逃げ出して、父さんや、母さんや……そして……」
「浩平君……世界の崩壊の中にも存在があるんだね……ここにあるのかもしれない青い花のように、閉じ込められても、生きている。でも……この花は永遠に形を変えないんだよね……生まれ落ちても、命があっても、それだけではほんとに生きているとはいえないんだよ。私は光をなくしてもこれまで生きていた。でも、その時の私は生きてるとはいえない私だったんだ。浩平君、世界の崩壊の中で無差別にのみこまれないために、私たちは国境を越えるんだよね? 海を渡って、遠い世界にいくんだよね? 私たちは、逃げ出すんじゃないよね。……そうなんだよね?」
 俺は先輩が変わったことに気づいた。先輩はもう金色の琥珀に閉じこめられてはいなかった。冬の屋上で寂しげに空を見上げていた先輩ではなかった。眩しい光を浴びたことのない、色素の薄い貝殻のような足を投げ出して、先輩は俺のことをはっきりとみていた。俺は一瞬まえまでそのくちびるにふれることができた。柔らかな曲線を描く胸も、そこに封印された言葉にも手を重ねた。けれど、今の先輩にふれることはできない。
 先輩は聖域から飛び出して自由に空を舞う風の精のように、その場所に存在していた。
 先輩はフェアリーティル、つくりもののように、なにかを奪われて、この世界の生の側を生き続けなければならなかった。先輩はもう充分に傷つき、苦しんだ。俺は先輩を壊せない。俺は自由を奪われて、始めて先輩を好きになり始めていると感じていた。
「浩平君、私を夏のあるところに連れていってね。そのかわりに、私は浩平君の家族になるから。浩平君が眠れないときは、浩平君のかわりに起きて、夜の鼓動を聴いている。浩平君のそばにいるよ。私、もう立ち止まったりしない。私たちは失われてはいないんだから。破滅や終末をくぐって、生き残ってゆけるよね。浩平君、私は夢から醒めた鳥になるから……永い間私たちを押さえつけ、支配して来た暴力や、孤立のかわりに……私たちは飛び立てるんだよね。遥か彼方まで……連れていってね……」