Winter Roof −6−  投稿者:Matsurugi


   第6話 Sacrifice≠代償



 学校の屋上から見える空には月が上っていた。その彼方に広がる空の下、俺たちは二人だけで存在していた。
「先輩、先輩は俺に夏をみたことがあるの? って聞いたよな。あの雪に閉じこめられた放課後の図書室で。世紀末が近づいた年、終末の代わりに氷河期が訪れて、新しい世紀は1年中冬に閉ざされてしまった、と先輩は言った。俺は先輩の言うことが、一瞬わからなかった。だって、世界に氷河期なんて訪れてないし、世界は冬に閉じ込められてもいないんだから……」
「……嘘……だよね」
「嘘なんかじゃないさ、先輩。でも俺は先輩の語る物語が好きだった。世界から夏が失われて、琥珀に閉じこめられていたらいいと思った」
俺は国境の壁の内側を歩く遠くの監視兵を眺めた。柊の葉がさわさわと揺れた。俺は手のひらの中の銃を見つめた。
「先輩? 俺の声が聴こえてるか……?」
先輩は俯いて両手で顔を覆っていた。先輩の閉ざされたままの瞳の奥底はあまりに幼く、無垢で、鍵がかけられている。
「浩平君、教えて。あの年になにが起こったの? 私は……私たちはどうしてこの暗闇からでることができないの?」

 ***

「世界が崩壊すると古い予言で言われていたあの年、それが訪れるかわりに、世界戦争が始まった。でも、それは行われなかったとも言えるのさ。『世界戦争』は『起こらない』というのがその完遂の形だからな。そのためのサクリファイスのために、俺たちの所有するものが失われたとしても、俺たちはそれを悼むことは許されないんだ……」
「よく……わからないよ、浩平君。サクリファイスってなんのこと?」
「サクリファイスは犠牲という意味さ。そしてそれに選ばれたのがこの国だった。あの年、世界の核ミサイルの銃口が一斉にこの国に向けられた。前世紀の終わりに繰り返された核実験の行き先がそこにあったんだ。この国は世界中から見捨てられたのさ。そしてこの国は無条件に降伏した。そこには犠牲があった。そしてこの国は分断され、世界のあらゆる国によって統治されることになった。この国に唯一認められたのは返還されたばかりの北の端にある幾つかの島々だけだった。この国は先の大戦から半世紀の後にそれを手にして、その代わりに全てを手渡した。難民となった数百万のこの国の人間が移住し、そこにだけは自治権が認められた。でも、そんなのはみせかけだって、みんなしってるけどな。それが俺たちのいる、この世界なんだよ、先輩」
 私は茫然として喋り続ける浩平君の方を見ていた。
「南には夏があるんだね……」やっとのことで私は言った。浩平君は黙って私のことを見ているみたいだった。
「ここにも……夏はあるんだ。先輩が望むような夏に吹く風はないけれど、雨が降る……それだけの夏はあるんだ」
「浩平君は本当の夏をみたんだね。私が本の中でしか知らないような蛍やひまわりを……みたことがあるんだね。……ねえ、夏は綺麗なの? 琥珀に閉じこめられてるっていう青い花よりも綺麗なの? 夏の風は……」
「行ってみようか?」と浩平君は言った。
「えっと……わからないよ。ここからでていくことはできないんだもの……」
「銃があるさ……」
「え?」
「国境を越えよう、先輩」

 しっとりとした夜気に包まれて私とおじいちゃんは古いレコードを聴いている。その時、私の部屋で電話が鳴る。知らない声が私の名前を告げる。
「どなたですか?」不意に電話は切れる。私は微かな不安を感じる。
 おじいちゃんは黙って音楽を聴いているようだった。地球から夏が失われてしまった、と私に教えてくれたおじいちゃん。暗闇から救出されたあと、いくつもの施設を廻されて誰にも受け入れられなかった、誰とも知れなかった私を引き取ってくれたおじいちゃん。言葉を失ってしまっていたわたしにもう一度言葉を教えてくれた。いろんな本を読んでくれた。おじいちゃんはずっと昔からこの土地にいた民族の生き残りだと誰かが話していた。おじいちゃんもあまり言葉を持ってはいなかった。若い頃は別の言葉を喋っていたから、この国の言葉は下手なんだ、といつか言っていた。
「おじいちゃん」と、私は静かな声で言った。
「私、もう、知っているんだよ。ここにも夏があること……。私ね、夏を見るのが夢だった。いつになるのかわからないけど、ずっと夢だった。光を失っても、いつか夏の風を感じることのできる日を待ち望んでいた。でも、私はもう夏の風を感じていたんだね……」
 世界は毎日違う風をとどけている。いつだって夏があることを風は教えてくれていた。でも、それを知ろうとはしていなかったんだ、私は。いつかほんとに夏がきても、もしそれをみることができないままだったと考えたら。夏を待っていたはずなのに、私の見えない瞳と心の暗闇はそれを拒もうとしていたんだ。いつまでもただ立っているだけの、そこから外を見ているだけの冬の屋上にいるように……
 おじいちゃんが私の方を見つめている気配がする。おじいちゃんが造った木のいすがかしぐ音がした。
「みさき」と、優しい声でおじいちゃんは言った。
「おおきくなったね……」
「なあに……?」
「いつか話した眠っている鳥。あれはなんの象徴だったか、憶えているかい? みさき」
「お寝坊さんな鳥?」
「そうだよ……」
「眠っているふたつの鳥は、まだ生まれていない魂……」
「飛び立つ瞬間を逃すんじゃないよ、みさき……。おまえを必要としてくれている人のところに、行きなさい……」
 私は頷くのが精いっぱいだった。私は愛されている。なんの代償も留保もなく、ただ愛されている。私がここを出ていこうとしていることをもうおじいちゃんはわかっていたんだ。そしておじいちゃんは私を閉じこめようとはしないんだね……。
 私は声もなく泣いた。甘い、子どもの涙を流した。
 翌日、郵便受けに差出人も消印もない封筒が届いていた。
「“自分が所有するものからのみ、人は快楽を得る自由を持つ……それが自由というものの、本質だから。所有するものによってのみ自己を規定することが、やがては人間の本質になるように”」と北の方の言葉で話す声のテープが入っていた。
 それはあの電話と同じ声だった。間違いなく私を暗闇に閉じこめたあの男からのものだった。彼は私を知っている。そして私を琥珀のなかに再び閉じ込めようとしているのだ。