Winter Roof −5−  投稿者:Matsurugi


   第5話 否定世界と存在世界の因果を解くfiction



 世界戦争は地理的政治的な世界の戦争化であると共に、人間の生存の場としての世界の戦争化でもある。その世界は文明の火によってひとたび全面的に覆われ、それ以後世界には無垢なものなど何一つ残さず消え去ってしまった。
 俺たちはそんな世界に生を受けている。

 ***

 森の奥から爆発音や銃声、機関銃の発射音が遠くこだました。私はベッドに潜り、耳をおさえて、手を伸ばした傍らに横たわっていた犬を硬く抱きしめる。永遠に失われた夏の代わりに、砲弾が私たちを取り囲む。光のない私の世界が非生産性の音に侵蝕される。そして私の心に閉じこめられている景色をばらばらに引き裂いてゆく。
 でも、耳をふさぐと、私はまた閉じこめられたあの暗闇のなかにひとり残される。歩くことも、喋ることもできない真っ暗な場所。私の心の奥底に組みこまれた暗闇と向きあえない私の現実は、否応なくこの世界に折り合いをつけてゆかなければならなくなる。

 私たちは自分の意志をもてない。この世界はすべて琥珀に閉じこめられた青い花と同じだから。世界の外は降り続く雪と、長く続く壁に今でも覆われている。国境には監視塔が建てられて、越えようとするものには死が与えられた。私は永い間閉じこめられていた暗闇から救い出されて、自身の暗闇も乗りこえ生きてきたけれど、この世界そのものが金色に輝く琥珀だった。

 私は迷うはずのない場所を迷いながら教室にたどりつく。非日常的な銃声と、クラスメートがゆっくりと教科書を読み上げる声が交錯して、絡まりあう。どっちが現実なんだろう? 現実の私の日常が非現実の中にあるのだろうか。それとも現実にいると思っている私の日常が非現実がに取って代わってしまっているのだろうか。どっちなんだろう?
 考えを断ち切ろうとして、私の指は無意識に教科書の点字の上をすべっていく。指がとらえる文字の感触だけを自分の音に置き換えようとする。時間が流れる。気がつくと、現実の声は雨の降り出す音に重なっていた。
「雨が降るなんてめずらしいな」と、おじいちゃんは羊を追い立てる音に交えて呟くように言った。
「春がくるのかもしれないね。そして夏がきたらいいのに」
「夏がきたら氷が溶けて世界は水に覆われるだけさ」
 夜になるとおじいちゃんは古い書物を開いて、私に読み聞かせてくれる。物語のセンテンスが繰り返されて、私の不安はその声に溶けて癒されてゆく。

「先輩、夏をみせてあげる」
 放課後の教室にいた私に浩平君の声が聞こえてきた。浩平君に手を引かれて私たちは廊下に出る。
「夏をみせてくれるって、どういうこと?」
 意味がわからず首を傾げる私に、浩平君の人差し指が口に当たる感触が伝わって、私はちょっとびっくりする。
 屋上までの通り道をわたしたちは手をつないで歩いてゆく。
 立ち入り禁止である屋上の冷たい扉を開け、外に出る。いつもと変わることのない冷たい風が顔に当たる感触に私は一瞬身震いする。
 浩平君が何かを取り出す微かな気配を私は感じた。くぐもった声と不快なノイズの入り混じった音を耳にして私は浩平君が何を持っているのかをすこし考え、気づいた。それはラジオから聞こえているのだった。
「どうしたの、浩平君、それ」
 私はびっくりして言った。この世界では情報を受け取ることを禁じられていたからだ。私たちはTVを持ってはいるけれど、そこで流されるのは検閲を受けた番組だけで、この世界の外の情報は何ひとつもたらされることはなかった。そしてラジオの携帯は禁止されていた。ラジオで外部の情報を傍受することのないように。それは私の日常に少なからず支障をきたすことでもあった。
「聴いてごらん」と浩平君は言って私にラジオを近づける。私を耳を澄ます。
「世界の天気情報が聞こえるだろ? 耳を澄ませて、先輩。な、まだ世界には夏があるんだ……」
 私は浩平君の方を見た。浩平君は夏を知っている、と私は思った。浩平君はこの世界の外からきた。そして、浩平君は私の知らない何かを知ってるんだ。
「みさき先輩」
 浩平君は小さな声で言った。そして浩平君が私に近づいてきた。浩平君の顔を近くに感じた。くちびるが近づく気配がした。私はうつむいた。浩平君の手が私の髪にさし入れられ、私は浩平君に引き寄せられる。
「嫌……だよ……」
「どうして?」
「こわいんだよ……私……」
「俺がこわいのか?」
「こわいんだよ。……だって私、浩平君のこと、なにもしらない。あなたは誰? 浩平君はなんのためにここにきたの? だって、ここは世界の果てなんだよ。ここに入ってくる船はあっても、出てゆく船はないのに。私たちは監視されて、ただ生かされているだけなのに。そんな場所に、浩平君は何故きたの?」
 風の冷たさがいっそう厳しくなって、夜の訪れを伝える。浩平君が私から離れて歩き出した。今、浩平君の背中の彼方にはきっと空が果てしなく広がって、澄み渡っているのかもしれない。
「私は、浩平君が好きだよ……浩平君が私を欲しいのなら、全部あげる。私は自分を惜しんだりしないもの。でも……浩平君が本当に望んでいるものはなんなの? 私はそれが知りたいんだよ……」
「俺は、なにも望んでなんかいないさ……」
「浩平君……上着の内側になにを持っているの?」
 浩平君は答えなかった。でも私は気づいてしまっていた。浩平君が持っているのが冷たく硬い銃だということに。