Winter Roof −4−  投稿者:Matsurugi


   第4話 世界の果てに残された、天と地上の温もり



 屋上で見つけたものが青い花を閉じ込めた琥珀だと知った時、私は恋に落ちてしまったのかもしれない。
 花の青さを思う度に、思いは強くなり、閉じこめられた時間の永さを思う度に、思いは高まっていく。
 私は冬の屋上に差す月の下に立って、誰にも話したことのない私の秘密を浩平君に話し始めてしまっていた。

 ***

 私がどこからきたのか、私にはわからない。私が与えられたその場所での唯一の記憶は、暗い、何もない闇だけだった……

「誰が先輩をそんな場所に閉じ込めていたんだ? 何のために? そこにどんな目的や意味があったんだ?」
 みさき先輩がほんの少し、ためらいを見せる。そして決心したように俺に胸を開いた。左胸のふくらみの上に聖痕のように小さな文字が彫られていた。
「先輩……なんなんだ、これは?」
 俺は茫然と見たこともない文字をみつめる。
「“自分が所有するものからのみ、人は快楽を得る自由を持つ……それが自由というものの、本質だから。所有するものによってのみ自己を規定することが、やがては人間の本質になるように”……って、書かれているそうだよ」ここよりも北にある国の言葉でね、と先輩が言った。
「誰が書いたんだ?」
「私を閉じこめた、新未 阪臣(にいみ さかおみ)という人。彼はこの地にくる前に、6人の幼女を殺害した無期懲役囚なんだって。冬のはじまったあの年、彼はどういうわけか仮釈放されたの。そして、小学生だった私を手に入れた。
 どうやって私が彼の手に託されたかは今でもわからない。救出された時、私はなにも持たない子供になっていた。しばらくの間は言葉を話すことも、笑うことも、歩くことも、立つことさえ、私はできなかった。そして、私が世界を見ることはもう二度とできなくなっていた。 信じられる? 人間が他者をそこまで陵辱するなんてこと、信じられる? 世界は理由を持たない暴力で満ちている。世界は私たちが思っているほどいい人ばかりじゃないんだよ……」
 俺は言葉もなく、先輩の白い胸に記された文字を見つめた。先輩の奪われ、失われ、損なわれた記号の破片を見つめた。俺は先輩の頬に手を触れた。先輩は子供のように小さな頭を俺の手に預けた。こぼれ落ちる髪を指ですくい、震えている先輩の瞼にそっとくちびるを重ねた。先輩は大きく息をもらした。
「こんなこと突然話してごめんね……浩平君」
「かまわないよ……」
「そんなことがあったからなのかな、私は少し他の人と違うみたいなんだよ……」
「人は誰にも似てないさ。先輩はたったひとりしかいないんだから。……それで、その人はいまどうしているんだ?」
「知らない……私が知っているのは……もう二度と光が私に訪れることがないということだけ」

 ***

 屋上に立ち、天に昇った月が雪の積もる地上を銀色に照らしているのを私は頭に思い描いた。幼い時に見たその記憶を、私は今でも心の中に景色として甦らせることができた。
 私は不意に恥ずかしくなった。私は制服をほとんど脱ぎ捨てて浩平君の腕の中にいたからだ。
 浩平君の鼓動がはっきり聴こえた。私は時折こんな風に自分を失ってしまうことがある。けれどこんな風に誰かに頼って何もかもをさらけだしてしまったことはなかった。私は琥珀を思う。閉じこめられた、というイメージに自分を重ねすぎているのかもしれない。私はずっとこの場所から動くことができなかったから……。
 けれど、こうして腕に抱かれているのはなんて気持ちがいいんだろう。私は目を閉じる。浩平君のことを私はほとんどなにも知らない。でも、もうキスをしてしまった。告白も約束もしないままに、何度も、キスをしてしまった。
 私は恋をしたのかもしれない。私の気づかないうちに、私の中で、恋が始まってしまったのかもしれない。
 人を好きになることを私はずっと避けてきた。私の好きになった人に、残酷な思いをさせたくないから。私のせいで迷惑をかけたくないから。そう思い続けて、自分の心をずっと閉じこめてきた。でも、そう思いながらも、私の心は恋を待っていた。いつか夏がくるを待ち望むように。私の心はふたつの思いが相反したまま、どこにもいくことのできないこの世界のように、一歩も動けなくなっていた……
 浩平君の手が優しく私の髪をすいている。浩平君はそれ以上のことを私に求めなかった。浩平君は私の気持ちを受け止めることだけに自分の心を砕いてくれていた。嬉しかった。暖かな思いが重なり合う胸の奥にあふれた。
 浩平君が、好きだよ……
 夜空から照らす月と星、そして夜景の灯火が、冷たくなったキスの感触をその輝きで包んでくれているみたいで、心地よい感覚は私の閉じこめられた心も溶かしてくれた。
「浩平君、ここは世界の果てなんだよ。なのに、どうしてここにきたの?」
「先輩に夏を届けにきたのさ」
 浩平君が笑ってそういった。