Winter Roof −3−  投稿者:Matsurugi


   第3話 黄昏の領域で死を語る



 海の上を静かに漂いながら近づいてくる漂流物を見つけたのは、放課後の屋上だった。隣にいるみさき先輩にそのことを言うと、先輩は遥か彼方の海を指差して俺に囁きかけた。
「じゃあ、誰かがそこで死んでいるんだね」
「え?」
「波の間にね……死体が浮かぶんだよ。きっと、北の岬から飛び降りたんだね。海流の関係で、躰は外洋には運ばれない。だから、死はこの砂浜に流れて、打ち上げられるんだよ。私たちはこの世界に閉じ込められているのだから……」
 俺は冷たい風に吹かれて、長い黒髪を揺らしている先輩の横顔を黙って見つめた。
 波間に漂う死体に光が反射して、その腕が背鰭のようにするりと泳いだ。

 死んだのは俺達の学校の生徒だった。先輩が言ったとおり、彼は自らその躰を海に投げ入れて、死を選んだのだった。
 帰宅する道の途中で俺は死について考えた。俺が捨ててきた場所について、考えた。
 この小さな世界で、ひとつの死が語ることについて、ある程度の混乱が引き起こされることを俺は予測した。けれどそれは裏切られた。死について触れるものは誰一人いなかった。
 誰もがなにかを避けたがっているような奇妙な違和感が教室を支配していた。
「ここは南とは違うんだよ」と先輩は言った。

 夕焼けの赤と昼の青がフラクタルに混じりあっている空と、明確化された境界をなす地平線を形作る白い世界が見える屋上の景色の下で、みさき先輩は語り始めた。
「ここではよく人が死ぬんだよ。冬が続いて、寒くて、やりきれなくて、何だか体の奥の深い場所がどんどん擦り切れてゆくような、そんな感覚にとらえられてしまって、そこから抜け出せなくなってるから。浩平君、ここに来てから赤ん坊を見たことがある? ないでしょ? ここでは命が生まれないの。冬が半世紀も続いて、未来に希望を持てなくなっているからね。そして誰もがその事実をおそれて、現実を、死を見ないようにしているんだよ。それはこの世界ではないことになっているから。こわいんだよ、私たちは……」
「でも、先輩は風を感じたんだろ? あの放課後、俺達は二人で夏の風が吹くのを感じたはずだろ?」
 俺は屋上のフェンスにもたれかかり、先輩の顔を覗きこんだ。日没の瞬間の光に照らされた先輩は、いつもの微笑みとは異なる表情で、微かに微笑んだ。
「でも、私たち、冬に疲れているんだよ。永い間、夏を待って、待ち続けて、そして永遠に夏はこない」
「じゃあ、南に行けばいいさ。俺が以前いた世界よりもっと南には、まだ夏があるって聞いたことがある、だから……」
「夏が……あるの? ……でも、どうやって? 南からくる船はあってもここからでる船はないんだよ。知ってるでしょ? 浩平君はそれをわかっていて、ここにきたんでしょ? この世界は閉じられているんだもの。私たち、この世界に閉じ込められてどこにもいくことは許されていないんだもの」
 先輩の吐息が白いシャーベットのように凍って俺の体温で溶けていく。先輩はポケットから琥珀を取り出して見つめる。まるで、手のひらに包まれた金色に、さらに閉じこめられた青い花の化石を見ているかのように。そう、俺達は琥珀に閉じこめられたこのちいさな青い花だ。俺達は剥奪され、陵辱され、そしてこの地に遺棄された……
「先輩……夏がみたい?」
「夏を……みたいよ……」
 冬の低い日差しの最後の薄明が白い地平線に消えようとしている。先輩は制服の上着のボタンをはずす。白く、ほっそりとした透き通った腕が現れる。
「なにしてるんだ、先輩?」
「夏をまっていたい。夏がみたい。冬はもういやなんだよ。私はここから出たいの!」
「先輩……」
「暗闇のなかに閉じ込められて、見ることも話すこともできなくなるのはいや! 夏がきてもそれを見ることができないのはいやなんだよ! ここからでたい! だして! ここは嫌だよ!」
「落ちつけ! どうしたんだ! 先輩」
「嫌だよ!」
 先輩は両手を振り回し、俺の頬や胸を思い切り叩き続ける。両腕が空を切るのもかまわず、振り回し続ける。胸元にこぼれる涙を真珠の粒のように散らして。先輩のなにも映すことのない瞳のさらに奥底に、なにも映さない狂気の炎が揺らめいていることに俺は気づいた。死を前にして、悲鳴もあげられない、閉じこめられた恐怖を先輩が抱いていることに気づいた。先輩の自我は放たれることなく、彼女の内部を壊していた。俺は先輩の名前を呼んだ。幾度も繰り返し、小さな声で、先輩の躰を強く抱きしめながら……
「私は、ずっと暗闇の中に生きてきた……」
 暫くたって、先輩は囁くように話し始めた。
「小さい頃、私は真っ暗な部屋に閉じ込められたことがあったんだよ。3年間の間、私はたったのひとりで、真っ暗な部屋にいた。私がどうしてそこにいたのかはわからない。記憶にあるのは、裸の私の躰と、私を閉じこめる壁だけ。暗闇で私は生きていた。眠って起きると近くに食べるものがあって、それを食べて、また暗闇の中で眠った。それが少なくとも3年は続いたんだよ。でも、その時まだ私の眼は光を映していた。でも私がそこから出られたとき、私の光は失われたことを知った。いつからかもわからない。今の私がどうなっているのかも、私は知らない。今の世界に夏がきても、私にはもう見ることもそれを確かめることもできない。自分の顔がどうなっているのか、躰がどうなっているのか私にはわからないんだよ。世界に夏はくるの? それとも世界は冬のままなの? 私はどんな姿なの? 浩平君、私は誰なの?」