第2話 ふたつの魂は、いつか空に飛び立つ日を夢みている 私の存在している世界では世紀末を迎える前の年から冬が続いている。 1000メートル近く続く防波堤の遥か彼方に広がっているであろう海には、今年も流氷が眠りに誘う羊のように流れているのかもしれない。 吐息はいつも白く凍っていて、手足もかじかんで瑞々しさを失っていく光景が頭に思い浮ぶ。 私は震えながら夏を夢見ている。 誰かが、私を冬の屋上から連れ出してくれることを、心だけで、望んでる。 私は朧気な朝の光に目をさました。 おじいちゃんの焼く、遠い北の国のパンの匂いが漂っている。私は制服に袖を通して台所に降りた。 私とおじいちゃんは部屋の中央に置かれた大きな暖炉にあたりながら、朝食を食べる。おじいちゃんは新聞を読み、私は録音された英語の教材用テープを聞くともなしに聞いている。私はお茶を煎れておじいちゃんの方に差し出す。おじいちゃんはバターを塗ったパンを私の手に渡してくれる。 言葉のない、静かないつもの朝ごはんの風景だった。 鳥のさえずりが聞こえ、私は顔をあげる。 そのことを私が話すと、おじいちゃんは、窓の外に立つ、樹齢のわからないほど古い、大きな樹の枝に数羽の鳥が止まり、黄色の小さな羽にぼたんのような頭を埋めて眠っていると、話してくれた。 「鳥さんたちは樹の枝で眠っているんだね。おっこちたりしないかな、だいじょうぶかな。……ふふっ、きっとお寝坊さんなんだね。もうずっと前に朝になっているっていうのに」 「樹の枝で眠る鳥は、まだ生まれていない魂なのさ」と、おじいちゃんはなんでもなさそうに言った。 「順番がくるまでは眠り続けている。そして、その瞬間が訪れたら、ぱちっとめざめて、空に飛び立っていくのさ」 「そうなんだ……私にもそんな時がくるのかな? 私が飛び立っちゃったら、おじいちゃんはさみしい?」 おじいちゃんが私をみつめる気配がしたあと、歯の欠けた口を大きく開いて笑いだした。屈託のない笑い声につられて、私もくすくす笑った。テーブルの下で落ちてくるパン屑を待っている大きな犬が小さなうなり声をあげたあと足許に頭をすり付ける感触が伝わってきた。 こんな風に私たちは生活という同じ時間の流れのなかで、言葉だけではないつながりを感じながら過ごしている。私には両親がなく、おじいちゃんですら、肉親ではないけれど、私たちは家族であり、寄り添い眠る2羽の鳥のように、お互いの体温で心を暖めあって生きてきた。 「はやくおおきくなるんだよ、みさき」とおじいちゃんはことあるごとに私に言った。でも、今のままだとふとっちゃうかもな、と私の食べているところを見るたびにそうも言っていた。 だいじょうぶだよ、ちゃんと毎日運動しているからね、とその度に私は答えた。 *** 建て増され、継ぎ足され、本来の姿を失い永い年月を過ごした校舎の中の教室の一番後ろの席に座り、俺はみさき先輩のことを考えるともなく考えていた。 最初に会った時の先輩は制服に身を包み、屋上に立ってぼんやりと空を見上げていた。ときおり吹く強く冷たい風に、くせのない長い黒髪が揺れるのを押さえていたのを、俺は情景として浮かべていた。 昼休み、いつものように変わり映えのしない昼食をすませると、俺は教室を出た。 教室の中の誰もそのことに気づかないような通常の風景を俺は通り過ぎていく。 俺は図書室に流れる静寂に支配された音に耳を澄ます。沈黙の中で俺を見つめていた、何も映すことのないあの視線を思い出す。 午後の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴っても、俺は図書室に残って意味もなく書棚の本を取り出しては、ぱらぱらとめくっていた。 そこにあるのは古い時代の書物だった。 100年以上昔のここよりもずっと北にある国の小説ばかりがそこにあった。 気持ちのいい午後だった。 本の日焼け防止にということで図書室の窓は分厚い黒いカーテンで閉じられていたが、ほんの少しの隙間から外の光が射しこみ、床の上で踊っていた。 カーテンのことや、図書室の場所を知らなかった俺をここに連れてきてくれたのがみさき先輩だったということを、何となく思い出しながら奥の本棚の方へと歩いていた時、横から当たっていた光が翳った。俺は目を向ける。 机が並び、椅子が不均一にしまいこまれている席のひとつに座り、なかば壁際の方にもたれかかるように、みさき先輩が眠っていた。机の上には薄い背表紙の点字の本が置かれ、左手の指がしおり代わりに差し入れられている。 俺はそばに近づき、規則正しく揺れる吐息をみつめる。 柔らかな頬はこどものように滑らかで、俺は思わずそれに触れてしまう。 「ん……」 先輩が重い睫毛を持ち上げる。瞬間そこに夜を切り取ったように映し出す瞳が現れる。 「おはよう、先輩」 「浩平君……?」 「なにを読んでるのかな、と思ってさ。昼飯もくわないで読んでいるなんて先輩にしては珍しいと思ったからな。そんなに熱心になるほど価値のあるものなのか?」 「うー……浩平君、失礼なこといってるよ。私だってごくたまには……」 その時、図書室の扉が開き、誰かが室内を覗きこむ気配を感じる。 「誰かいるのか?」 「この声は(と先輩が小声で囁いた)司書の先生だよ……えっ……今何時? もう午後の授業が始まって……」 「しっ、黙って」 俺はみさき先輩の口元を手で押さえ、その細い体を隠すように抱き寄せる。 「誰もいないのか?」 声の主が図書室を散策してゆく。俺たちは高い樹に止まる2羽の鳥のように身を寄せ合い、ささやかな罪を共に犯している。先輩は固く目を閉ざしている。 やがて足音は立ち去り、静寂が訪れる。 俺たちは見つめあう。 「先輩、もう一度キスしてもいいか?」 「え? ……そんなの……だめだよ……」 「どうして?」 だって、昨日は、と俺は思わず言いそうになってしまう。 「だめだよ。私はそんな女の子じゃないんだから」といつもの調子で先輩は言って、俺の腕からすりぬけた。 「私にキスできるのは、夏の風の吹く場所を教えてくれるひとだけだよ」と、いたずらっぽくささやく先輩の声が、午後が続く間、いつまでの俺の胸に響いていた。