第1話 百年の冬の夜に吹く夏の風 私は夏を待っている。 真冬の凍てついた空の下、私が感じたことのない夏の風は、手を伸ばしても届かない灰色混じりの青空の彼方のように遠い存在だった。 暖かく、音楽の余韻のようにそれが通り過ぎることを思う度、私の心は満たされ、心地よい感触に包まれてゆく。 空と海との境目もつかない灰色の海が見えるであろう場所を見つめながら、私は夏を夢見てる。 物憂さと暖かさに満ちたこの感情は恋に似ている…… でも、私はまだなにも知らない。 私は夏と、初めての恋を待っている…… 冷たい風が吹く、いくぶん空に近づくことの出来る冬の屋上から、今日も私は空を見上げている。 *** 放課後、珍しく図書室で調べ物なんかをしたためか眠り込んでしまい、俺は冬の図書室に閉じ込められてしまっていた。 雪が降っている。四方からそれは激しく、不確実性の証のように吹き荒れていた。窓からは白しか見えない。雪のせいで電話は不通になっており、校内は闇に包まれ、静寂だけが響いている。 俺は途方に暮れていた。 何故、天気予報を聞かなかったんだろうな。 朝の余裕が無い時でも、天気予報だけは必ず見てから登校するのに、今日に限ってそうしなかったことを後悔した。 冬が半世紀続いているようなこの地でも、それでも、気象は変化してゆくというのに。 その時、図書室の扉が開いた。 「……誰かいるの? こんな時間に、なにしてるの?」 ストーブから洩れるオレンジ色に俺は目を細めて振り向いた。 みさき先輩が、そこに立っていた。 先輩は長い黒髪を揺らして、薄暗い図書室の中をじっと見つめていた。 「雪に閉じ込められたんだ。こんなすごい雪がいきなり降るなんて知らなかったからな……」 教室にいたのが俺だと知って安心した後で、先輩がほんの少し首を傾げた。 そして「浩平君は夏を見たことがあるの?」と俺に話しかけた。 「夏?」と一瞬、俺は混乱して聞き返す。 「……先輩は?」 「私たちくらいの年齢の子で夏を見たことのある子なんていないよ。だって、世紀末が近づいた年、終末のかわりに氷河期が地球に訪れて、新しい世紀は1年中冬が続くようになってしまったんだもの」 沈黙が透明で静止した空気に包まれる…… 1ヶ月前の日曜日、俺は転入試験を受けにこの学校を訪れた。 増改築を無限に続け、木造と鉄筋を複雑に組み合わせた校舎は迷路のようで、俺は方向感覚を失って廊下をぐるぐると歩き廻る羽目になった。 気が付くと、なぜか屋上に続く冷たい扉の外に出ていた。吹き付ける凍えるような風に身を晒しながら入口に立っていた俺が目を向けた先に、彼女は立っていた。 強く、冷たい風を受けて流れる長い黒髪が眼に入った。彼女は俺の方に気付くと、にこやかに笑みを返した。だがその笑みとは裏腹に冷たく見える黒い瞳が、俺の心の深くに強い印象を与えた。 どこか光を吸い込むような、夜だけを映すような不思議な感じのその瞳が、俺の方を見ていた。 けれど、俺たちは言葉を交わすことなく、その時はその場所から遠ざかった。 彼女が川名みさきという名前で、俺より1年先輩であり、盲目だということを知ったのはそれから後のことだ。 それから何度か学校の中で、俺はみさき先輩と出会うこととなった。 最初に会った時の印象からはほど遠い、みさき先輩の性格にも(なにせ会ったばかりの俺のことをちゃん付けで呼ぼうとしたくらいだ)今となってはずいぶん慣れてしまっていた。 けれど、初めて先輩を見た時のどこか寂しげに思えた姿を、俺はずっと忘れることが出来なかった…… 「あの時、浩平君忘れ物をしたよね」 先輩がそういって俺の前に片手を差し出す。 「あの時?」 「浩平君、屋上に来てたでしょう? あの時だよ」 先輩はゆっくりと手のひらを開く。金色に光る琥珀が現れる。 「浩平君のでしょ?」 屋上の扉の前で拾ったんだよ、というそれは青い花びらの埋った琥珀だった。先輩はそのことを他の人に聞いて知ったという。そして、その花が夏にしか咲かないものだということも。 「浩平君は南から転校してきたって言ってたよね。南にはまだ夏があるの? 浩平君は夏を見たことがあるの?」 「南にももう夏は来ない」と俺は言った。地球はこの場所のように冬に閉じ込められてしまった。俺たちはもう何処にも辿り着けない。 「冬なんて……嫌いだよ……」 みさき先輩は琥珀を俺に投げつけると走り去った。 俺は慌てて後を追う。階段を上り下り、ぐるぐると空間を回転するように校舎を駆け巡り、俺はいつしか雪の降りしきる屋上へと来ていた。 「みさき先輩!」俺は先輩の名前を大声で叫ぶ。 驚いたようにそこに立っていた先輩が振り向く。 「先輩……」 俺は両手を差し出して、先輩に触れる。一瞬、それを拒むように思えた先輩の体が、そのままゆっくり俺の体に倒れこむ。俺はそのほっそりとしたか細い体を抱きしめる…… その瞬間、雲が切れる。最後の雪の一片が舞い降りて月が静かに輝き始める。 「あ……」先輩が呟く。「風が……変わってる……」 先輩が俺の腕の中で溜息のように洩らす。 「いつもの風と違う……浩平君……これが……夏の風……?」 雲の切れ間から、流れ出たような穏やかな風と共に青い星が見える。それは琥珀の中に閉じこめられた花のように光っていた。 「奇跡は起きるさ」と俺は言う。 「いつか地上に再び夏が来る。暖かな風が吹いて、青い花が咲く瞬間だって、きっと来るさ……」 俺たちはキスをする。ぎこちないキス。白い歯が舌にふれる。 先輩はかすかに震えている。 俺は琥珀を先輩の手に差し入れる。 「いつか、私を夏の風を届けてくれる場所へ連れていって」 いつ果てるとも知れない夜も終わりに近づく頃、鳩の羽毛のように清らかな雪が舞い始め、冬はまた静かに屋上を包んでいく。