にゃーにゃー。にゃーにゃー。
「わーっ、 わーっ!」
にゃーにゃー。にゃーにゃー。
「わーっ、 わーっ!!」
にゃーにゃー。にゃーにゃー。
街の通りには、ただの猫となってしまった住人……いや住猫たちの鳴き声と、瑞佳のおろおろとした叫び声が交錯して響き渡っている。
街中にはいつの間にやら、先程のような、ななせのように四つんばいで歩く猫たちがうろつくようになっており、瑞佳を見ては鳴き声をあげているのである。
その中を、瑞佳は全くわけがわからないといった風の表情で、ただおろおろと走り回っているのだった。
「長森」
「あ、浩平ーっ」
声のした方に振り返ると、浩平が立っていた。
「ねえ〜っ、これ、どうなってるの? 何? 何があったの〜っ? どうしたの〜っ? これ、何なの〜っ?」
「……とりあえず、少し落ち着け」
「はう〜っ、いったい何がどうなっちゃったの〜っ?」
「それは、俺の方が聞きたいぐらいだ」
相変わらず猫たちが鳴いている中で、瑞佳は浩平に事の成り行きを聞いていた。
「今朝起きたら、このありさまになっていたんだ。……ん? あいつは……」
浩平が見た方に、瑞佳の後をついてきたらしい、ななせが立って(正確には四つんばいの姿勢で立って)いた。
「ななせじゃないか。どうしたんだ、おまえまで。そんなまるっきり猫みたいな格好して」
そう言ってななせに近付き、浩平はその顔を両手で引っ張る。
「眼をさまさんか、このばかたれがっ」
「ふにゃーっ!!」
「わ〜っ、浩平ーっ、何てことするんだよ〜っ!」
バリバリバリッ。
案の定、浩平は、ななせに、思いっきり顔を引っ掻かれたのだった。
「…………」
「もーっ、自業自得だよ、浩平」
「……だから、俺は……」
「?」
「猫というやつが、好きじゃないんだーっ!!」
そう叫ぶと、浩平はまわりにいた猫たちに辺り構わず食って掛かろうとする。
ふぎゃーっ! ふぎゃーっ!
浩平のまわりは、たちまち悲鳴のごとく鳴き声をあげる猫でいっぱいになっていた。
「わーーっ、ちょっと、浩平ーっ!?」
……そして、予想通り、ただの猫となった彼らによって、浩平はさっきのななせの時よりもさらにひどい目にあうこととなったのであった。
「……猫って、こんなに凶暴だったか?」
にゃー。
にゃおー。
にゃおーん。
にゃにゃーん。
月が出ている星空の下、屋根の上で猫たちが鳴いていた。
服を着たまま、四つんばいの格好で鳴き声をあげるそのさまは、彼らがそれまで人間らしい振る舞いをしていたとはとても思えないくらい、普通の猫そのものといっていいくらいの行動であった。
「あいつら、野生にかえっちまったようだな、完全に」
「……いったい、どうなっちゃったんだろうね」
そんな猫たちの様子を、瑞佳と浩平は部屋の一室の窓から眺めていた。
浩平の足元では、まゆとみおが、その足もとにじゃれ付いていた。もっとも、この2人(匹?)は、今の状況でも普段とそんなに変わっているようには見えなかったりするのだが。
と、二人は扉の空いていた隙間から、あかねが入ってくるのを見た。
あかねは部屋の中を何歩か歩いたあと、その場に座り込む。
その眼が、何も言わぬまま、こちらをただ見ていた。
「…………」
「…………」
何だか分からないその行動を、瑞佳はただ見ているだけであった。
ずっとそうしてこっちを見ている、あかねに、瑞佳が近付こうとすると、あかねは再び歩き出し、扉の影から、まるでこちらの様子を伺うかのように瑞佳の方をじっと見る。
「……えーと……」
どう対処していいのか分からず、瑞佳は戸惑う。
「はあ……、何でこんなことになっちゃったのかな……」
誰に問いかけるでもなく、再び瑞佳はそう口に出していた。
「そうだな……」
その言葉に対して、珍しく、浩平が真剣な目つきをして考えていた。
「何かの伝染病という可能性が一番ありえるな」
「伝染病?」
「脳がやられる病気ってのも色々ありそうだし……」
「でも、そんなの聞いた事ないけど……」
「ここは俺たちのいた世界とは違うんだ。何らかの未知の病気があっても不思議じゃないだろ」
「それは、そうかもしれないけど……」
病気という言葉を聞いて、瑞佳が不安そうな顔になる。
「じゃあ、どうやったら治せるの?」
「……しょうが湯でも飲ませるか?」
浩平がさっきまでと同じ調子で、冗談なのか本気なのかわからないことを口にする。
「だが、もし脳が冒されるような病気だとしたら、元に戻るかどうかも難しいかもしれないだろうな。俺としては、こいつらにやいのやいの言われずにすむのはありがたいところだが……」
にゃーにゃーは言われるけどな、と浩平が冗談めかして付け加える。
と、急に何かに思い当たったかのように浩平の表情が変わる。
「……ちょっと待て。そんなどころじゃないぞ」
突然、浩平が大声をあげる。その声に浩平の足元にいた、まゆとみおも顔を上げた。
「こいつらがただの猫に戻っちまったら、誰が長森を呼び出すんだ?」
「! そういえば……」
瑞佳も、気がついて思わず声を大きくする。
「このまま、みんながもとに戻らなかったら……」
瑞佳が足元の、まゆやみおを見下ろす。
「浩平……この子たちに、ちゃんとエサをあげてね」
「知るか、ばかっ!」
「わーっ、そんな言い方ひどいよ、浩平〜っ!」
「どうして、おまえはこんなときでもそんなボケをかませるんだっ」
「そんなことないもんっ、ものすごく重要な事だよっ」
「どこがだっ!! まったく……とにかく、俺はこんなばか猫の世界でひとりだけなんてごめんだぞっ!!」
浩平がななせをふんづかまえながら、
「しょうが湯を飲めっ!」
どこから取り出したのか、無理やりしょうが湯を、ななせに飲ませようとする。
「みぎゃーっ!!」
当然のごとく、ななせが抵抗の叫び声をあげる。
「わーっ、ちょっと、浩平ーっ!?」
……当然のごとく、浩平はその後、ななせにおもいっきり引っかれたのだった。
「……くそっ」
顔中を引っ掻き傷だらけにして、浩平が、懐から何かを取り出す。
「……長森、これをやる」
「え? これって……」
瑞佳が浩平から渡されたそれは、指輪だった。といってもそれは、ちゃんとした宝石の入った代物ではなく、色付きのガラス玉のようなものを使っている、レプリカのようなものだったのだが。
それでも、光を反射して、その透きとおった石は綺麗に光り輝いていた。
「勘違いするなよ。別に、ぬいぐるみを取ろうとしたら、間違えて隣りにあったそれを取っちまったから、変わりに渡そうと思って用意してたわけじゃないからな。俺が欲しかったから取っただけだぞ。ほんとにそれだけだからな」
瑞佳は思い出した。
浩平と一緒に行ったお祭りにあった輪投げの屋台を。
そこにあった猫のぬいぐるみのことを。
「……長森と会えるのも、ひょっとしたら、これが最後かもしれないからな」
「浩平……」
「俺は……」
浩平が何かを言いかけた時。
ふっ。
瑞佳の姿が消えた。
気がつくと、瑞佳はもとの世界の夜の街中に立っていたのだった。
その手には、浩平からもらった指輪だけが、街の明かりを反射して光っていた。
「もう、1週間になるんだ……」
どこまでも蒼い夏の空の下で、瑞佳はあれから過ぎ去った時間を口に出して、呟いてみた。
その首には、浩平にもらった指輪がチェーンに通され、ネックレスになって下がっていた。
「瑞佳、どうしたの? その指輪」
それを見た佐織が、瑞佳に問いかける。
「うん……、ちょっと遠い所にいる幼なじみにね、もらったんだよ」
「幼なじみ? 瑞佳にいたっけ? そんな人」
もちろん、佐織は浩平のことを憶えているわけがないので、そんなことを言っても分かるはずはない。
佐織の言葉を聞き流しながら、瑞佳は空を見上げ、ひょっとしたらその向こうにいるのかもしれないねこの世界の住人たちのことに、思いをはせる。
あかね、ななせ、みさきといったねこたち、まゆやみおといった子ねこたち、そして、浩平……。
みんな、今頃どうしているのかな。
瑞佳はまるで遠い昔のことのように、いろんなことを懐かしんでいた。
と。
「あるよ」
「えいえんはあるよ」
「ここにあるよ」
「え?」
ぽんっ。
「……どうも」
そこには、何事も無かったかのように黒装束のあかねの姿が立っていたのである。
「……お恥ずかしい話なのですが」
全くわけのわからない表情でいる瑞佳に向かって、あかねが話し出す。
「わたしたちは、ちょっとした疲労が重なると、先祖返りしてしまうのです」
あかねの説明によれば、ねこたちはあまりにも疲労が重なってしまうと、野生に戻ってしまうということであるという。
「何か大きな騒ぎがあったあとだと、たいてい、今回のようなことになっちゃうんだよね」
「だから、ねこはケモノだというんだっ」
「……イタイイタイイタイーーっ!」
ななせの頬を横に引っ張っている浩平を、瑞佳は安心するやら、呆れるやら、なんとも複雑な気持ちで見ながら、ねこたちの話を聞いていたのであった。
「それよりも……」
と、浩平が瑞佳に向かって話しかける。
「おまえにやった指輪、返せ」
「え〜っ、いやだよ〜っ、浩平、くれるっていったもんっ」
「そんな憶えなはないぞっ」
「うそだよっ、言ったもんっ!」
とまあ、そんなわけで。
「だーっ、うっとうしいぞ、おまえら!」
結局、ねこたちは夏休みの残りの間のほとんどを、ゴロゴロして過ごしたのである。
ねこの世界の夏休みは、やっぱり平和なのであった。
おしまい