if No.1 オレは生涯でこれほどに楽しくて幸せな時など二度と巡ってくることなどないのではないか、と思うほどの日々を送っていた。 でもそれは、長森が居てくれるなら続くと思う。 そして長森ならずっとそばに居てくれると思った。 面と向かって聞いたことなどないが、そんな気がした。 ずっと、自分ひとりでは起きられないオレを、 「ほら、起きなさいよーっ!」 と怒鳴ってくれるのだ。 そのたびオレは浅い眠りの中で、長森を困らせる言葉を練り続けるのだ。 そんな毎日が、ずっと続くのだと思った。 笑ってしまうほどに些細な、僅かだけれど確かに暖かい、ささやかな永遠の世界。 それが今、確かにここにあった。 放課後になるといつものように、廊下で長森が待っていた。 長森はオレの顔を見つけると、 「あはは」 何が楽しいのか、頬を弛ませながら寄ってくる。 まあ、オレだってそれは一緒だった。 自然に漏れる笑みを隠しきれない。 それはまだ、恋人同士に慣れないでいるふたりに対する笑みだった。 笑っているのは幼なじみのふたり。 「帰るか」 その横を抜けて、歩き出す。 「うん」 長森が急いで横に並んだ。 外に出ると、目に見える全てが赤く染まっていた。 茜色の景色の中を、長森とふたりで歩く。 「すごいね、真っ赤だよ、浩平」 「そりゃ、おまえもだ」 「あはは、そうだよねー」 夕焼けの帰り道。 オレと瑞佳は立ち止まって、斜めから差す夕陽にさらされながら、空を見上げた。 ………真っ赤な世界。 どこまでも、どこまでも続いてゆく空。 笑っているような、泣いているような、懐かしい、けれど寂しい。 そんな何かを、オレに思い起こさせる。 ……みさお。 ずっと昔にいなくなった、オレの妹。 オレの忘れてしまった、遠い日の悲しい思い出。 オレのなくしてしまった、何よりも大切な存在。 ……ぼくが、ぼくである証。 ちいさくて、泣き虫で、いつもぼくのそばでぼくをばかにして。 でも、かわいくて、やさしくて、すなおなぼくの妹。 「ありがとう、おにいちゃん」 そういって笑う、みさおの笑顔が大好きで、ぼくのむねはうれしさでいっぱいになる。 ぼくはそんなみさおにとって、いい兄でありたいと思っていた。 だからみさおがいなくなったとき、ぼくは泣いた。 みさおは最後まで苦しんで、しんだ。 ぼくにはただ、そばにいてあげることしか、手をつないでいてあげることしかできなかった。 いい兄でいたいと思うことしかできなかった。 「……ありがとう、おにいちゃん……」 みさおの最後の言葉は、だから、そのことに対してのものだと思った。 そう、思いたかった。 ふと気がつくと、長森がオレに寄りかかる様にして、オレの腕を掴んでいた。 顔は上げずに、うつむきながら寄り添うオレと瑞佳。 制服の布地越しに伝わってくる、長森の温度。 すぐ近くにある、長森の横顔。 急に、羞恥心が芽生えて、腕を軽く振り解こうとした。 「お、おい、瑞佳……」 こんなところじゃ照れくさいだろ、とのろけようとして。 けれど、腕は離れなかった。 瑞佳が俺の腕にさらに強くしがみついてくる。 「浩平……」 瑞佳が、震えている。 ……彼女はアスファルトに視線を這わせている。 だからオレには瑞佳の表情は伺えない。 けれど、痛いほど掴まれた左腕から伝わってくる震えは確かに彼女のものだ。 「浩平」 震えている彼女……… そう、彼女。 ……オレの一番の理解者。 「……浩平!?」 ……オレの唯一の幼なじみ。 ……オレの初めての恋人。 そしてオレの、大切な人。 名前は……… 「浩平!、こうへいっ!」 ……名前は……何だ? 言い様のない悪寒が走る。 俺はこの娘の名前を知っている。 知っているはずはずなのに……… 「浩平!!」 ……激しく体を揺さぶられて、オレは我に返った。 気が付けば、彼女は何か慌てた様子で、オレを見つめている。 僅か数センチの先に、彼女の瞳があった。 まっすぐにオレを見つめる瞳。 全てを見透かす様な、いたいけな視線に、俺は戸惑う。 「……どうしたんだよ、瑞佳」 ……ほっとする。 その名前は自然に口を突いて出てきた。 瑞佳じゃないか。 長森瑞佳。 ながもりみずかだ。 何で、わからなかったんだろう? 忘れるはずがないのに。 「あ……」 瑞佳も、自分のしている事に気付いた様だった。 急に照れだしたように、瑞佳は顔を離した。 同時にしがみついていた腕を開放すると、視線をそらす。 「ごめん……」 いつもの瑞佳じゃない。 それはわかっていた。 だけどそんなことよりも、自分が一時でも瑞佳のことを忘れてしまったことが許せなくて、気恥ずかしくて、 「なに謝ってんだよ、瑞佳」 そう、苦笑することで、全部終わらせようとした。 それは瑞佳も同じだったらしく、こちらを向いて、でも視線はこっちに向けずに、 「あははっ」 と、照れるように、力なく笑って、 「何でも、何でもないよ」 何でもなくはない調子で、微笑んでくる。 いつもの微笑ではなかったけれど、瑞佳は笑っている。 だからそれでいいのだと、思った。 「瑞佳」 もう一度、その名を呼ぶ。 その音色を確かめるために。 もう二度と、忘れないために。 「なに、浩平?」 「……帰ろうか」 夕焼けが、もう夕焼けではなくなりかけていた。 東の空からは微かに、星の瞬きが見え始めてきている。 「……うん」 そして、オレ達は帰路についた。