…私。私は、私の囚われ人。
朝が嫌い。でも太陽が嫌いなわけじゃない。ただ、朝になれば目を開く、それが嫌い。
目を覚ます、という。眠りから覚めても、私は目を開く必要がない。開いても見えないなら、開く意味なんてない。それでも、私は目が覚めれば、開く。
眠りから覚めること、それは、私にとって、目を覚ますことではない。私が目を覚ますことなんて、たぶんこの先ずっとない。
だから、私は眠るとき、そばに誰かがいてくれるのが好き。眠りから戻ってきたときに、真っ先に「おはよう」を言ってもらうのが好き。私は目を開いたとき、いつもそばにいる人がいてくれたらほかに何もいらない。
もし目を覚ましても、誰もいない世界で生きなければならないなら、私はずっと眠り続けたい。
目を開かなくていいように。
「みさき?」
部屋のドアが開く。けれど、彼女がベッドの上に横になったまま、顔を上げようともしない。
みさきの母親は、困ったような顔をしてドアのところにしばらくたたずんでいた。やがて、足音をたてないように部屋に入っていき、開けっぱなしになっていた部屋のカーテンを閉めようと手をかける。
「そのままでいい」
眠っているとばかり思っていたみさきは、突然そう言った。母親は思わず振り向く。
「みさき…起きていたの?」
みさきは、ひどく緩慢な動作で起きあがろうとしていた。表情には、生気というものがまったくない。日頃の様子からすれば、まるで別人のようだ。
もとよりその目は光を映さない。しかし、それでもころころと変わる感情にあわせ、そこには確かに表情と呼べるものがあった。それが今では、底なしの穴のようだ。深く、絶望に沈んでいるような。
「みさき…」
母親はそのそばに歩み寄っていき、みさきの顔をのぞき込んだ。
「なにがあったの? みさきが夕飯を食べないなんて…なにか」
「なんでもないの、お母さん。ごめん…話したくないんだ」
母親の声を途中で断ち切るように、みさきは抑揚のない声でそう言った。ベッドから降りると、部屋を横切って、窓を開け、ベランダに出た。
「みさき?」
不意に、不安がわき起こって母親は思わず駆け寄ろうとした。そのまま、二階の部屋から飛び降りてしまうのではないか。そう思ってしまうほど、今のみさきは危うげだった。
「困っちゃった」
母親の心中も知らぬげに、みさきはつぶやいた。
「ほんと、困っちゃった。どうすればいいのかなあ、私」
なにを言いたいのか分からず、困惑する母親を、みさきは意識にとどめているのだろうか。今、彼女がなにを「見て」いるのか、母親にも分からない。
「私のことを、強いって言った人がいるんだ。私から見れば、その人のほうがずっと強くて…いい人だなって思えた。だけどね、私、その人が思っているほど強くなんかないんだ」
ひどく寂しげに、みさきはそう言った。みさきが今なにを考えているのか、母親には分からない。ただ、聞くだけだった。
「でもね」
みさきはベランダの手すりをつかんで、目を閉じていた。柔らかな春先の風が、漆黒の髪をなびかせてすぎていった。
「その人といたら、本当に強くなれるような気がしていたんだ。なんだか、いくらでも強くなれそうな…そんな気になっていたんだ。錯覚だったかもしれないけど、それでよかった。だって、私…」
肩が、かすかにふるえていた。母親は狼狽しながら、その肩にそっと手をおいた。
「みさき、部屋に入ろう? ね?」
それを聞いているのかいないのか、みさきはじっと見えない遠くを見つめていた。
ただ、考えていたのだ。どうして好きなだけ、眠り続けることができないのだろうかと。
どうして、人間には目を覚まさなければならないときが、あるのだろうか、と。
それは、彼女が高校を卒業したばかりの春の日。
最初のデート。自分に似合うかどうか、それすらも分からない服を選ぶために何時間もかけ、ときめきと、不安と、それ以上に高揚した感情に眠れない夜を過ごし、このままだと寝不足の顔を見せてしまうのではないか、と心配したにもかかわらず、朝になればすっきりと起きることができた。体中にエネルギーを感じて、どんなことでもできそうだった。
不思議だった。なぜ、こんな短い距離を踏み出すことが、こんなに長い間できなかったのだろう。自分の家を出て、住み慣れた町を歩く。それだけのことが。
連れ出してくれたのは、一学年下の少年。冬に入って、冷たい風の吹く屋上で出会った。「明日は、いい天気だな」
そんな何気ない独り言に、暖かさを感じて思わず話しかけていた。その日が夕焼けだと、その一言から知ることができた嬉しさもあった。みさきに、それを見ることはできないから。その少年が、かわりに見てくれたような気がした。
その少年が、卒業式の終わった夜。商店街へのデートに誘ってくれたとき、決してうなずくはずのない自分が、なぜか彼の言葉を信じる気になっていた。
その場の空気に流されてしまっただけかもしれない。だけど…側にいるから。そう言ってくれたのが、とても嬉しかったのだ。
いてほしいと、自分が、その人に、側にいてほしいと…願っていたから。
魂を失ったようなみさきの様子に、周囲は困惑していた。もともと、高校を卒業することを…あの校舎に通えなくなることを、恐れている節はあった。
だがそれだけが原因とは思えない。何かあったとすれば、卒業式の翌日あたりからだ。それまでは、むしろいつもより元気なくらいだったのだから。
あの日、とても遅くなって帰ってきたみさきは、尋常ではなかった。翌日になってもその様子は変わらない。
「みさき」
かけられた声に、みさきはゆっくりと顔を上げる。ひどく心配そうな、聞き慣れた声。
「………雪ちゃん?」
ずっと、みさきのことを心配して世話を焼いてくれた深山雪見。彼女もまた、みさきの異変を目の当たりにして絶句していた。
「どうしたのよ、いったい…何か悪いものでも食べたんじゃないの?」
冗談でまぎらわせようとする声が、知らずふるえた。みさきは、小さく笑って応じた。
「それはないなあ。最近、あんまり食べてないから」
「食べないって、あんたが…」
考えられない。体育の授業を終えてすぐ、学食でとんでもない食欲を披露して、同席していた全員をげんなりとさせたあのみさきと同一人物だとは、とても思えなかった。
「みさき…どうしたの?」
雪見の問いかけに、みさきはしばらく答えなかった。やがて、髪をかきあげてぼんやりと天井を見上げる。
「私はね、なんだか、飛んでる途中で羽をなくしちゃったみたいなんだ」
突然、そんなことを言う。
「え?」
「あのね、最初、自分が飛べるって分からなかったの。鳥なのに。でも、鳥だって生まれながらに飛び方を知っているわけじゃなくて。それで、教えてもらって、飛べることがとても嬉しくて…なのに、空の上で肝心の羽をなくしちゃったの。そんな鳥の気分」
ふっと、空っぽな笑顔を見せる。痛ましくて、とても直視して入られないような笑顔。
「わかる?」
「………みさき」
「ごめんね、分かるわけないよね」
そう言って、みさきはまた黙り込む。
しばらくして、雪見はみさきの母親に頭を下げて、黙って家を出た。
なんの力にもなれない自分が、歯がゆく、悔しかった。
何とも言えず、重苦しいだけの一日が過ぎていった。翌日もみさきは朝食の時間に、降りてこなかった。
「みさき、いいかげんにしなさい。体をこわすわよ」
母親がそう言っても、みさきはうつむいたまま、ベッドの上に座り込んでいる。
なにに絶望しているのか。
「………そうだ、みさきに手紙が来ているわよ」
重苦しい空気に耐えられなくなった母親が、そう言って手にしたはがきの束から一枚のはがきを抜き取った。今日来ていたのは、ほとんどダイレクトメールとか、公共料金の関係だ。その中に紛れていた一枚のはがき。
「あら、なにこれ…真っ白じゃない。誰のいたずらかしら?」
眉をひそめた母親の声に、みさきがぴくりと反応した。
「…誰から?」
言われて表を見る。しかし、この家の住所と川名みさき様という宛名があるだけで、誰から来たのかを示すものはない。
「分からないわ。捨てちゃっていいわね」
「待って!」
そのまま部屋を出ようとした母親を、みさきは驚くほど強い声で呼び止めた。
真っ白な手紙をもらったのは、初めてではない。みさきが読めるように、彼が送ってくれた二枚目の年賀状。
「それ………見せて」
「え? でも、なにも書いてないのに」
「いいから。見せて」
自分のほうへ手を伸ばすみさき。なにがあったのか分からないまま、母親はそのはがきをみさきに手渡した。
ふるえる指で、表面をなぞる。それは確かにあった。裏から、とがったもので…たぶんつまようじかなにかで押し込んだ、かすかな出っ張り。点字だ。
か・な・ら・ず…一字ずつ、ゆっくり読んでいく。年賀状にあった文字より、丁寧になっていた。
かならずかえる
それで終わっていた。しばらくみさきは身動きもしなかった。
それだけ? あの公園で一人にして、この世界から勝手にいなくなって。
いなくなることを自分で分かっていて、なにも知らない私を置き去りにして。それで、これだけで待っていろっていうの?
ひどすぎない? 君。勝手だよね。きっと、君も分かってるんだよね。私が馬鹿だから、こう言われたら絶対に待っているってこと。
分かったよ。待ってる。文句は全部、帰ってきてから言うけど。
こういうのを、確信犯っていうんだよ。消える前に、手紙を投函しておくなんて。どうせなら…直接、君から言ってほしかったよ。
「ちょっと、みさき…」
母親が狼狽した声を上げて、みさきは自分が泣いていることに気づいた。
そうだ。ずっと泣けなかった自分が、いまぽろぽろと涙をこぼしている。頬が熱い。心に居座っていた、冷たい固まりがその熱さで、次第に溶けていくのが分かる。
「うん」
みさきは涙で顔中くしゃくしゃにしながら、にっこりと笑った。
「うん。もう大丈夫。ごめんね、心配かけちゃったね」
なにがあったのか分からない母親は、ただおろおろと、そんなみさきを見つめていた。みさきはやがて、ベッドから降りて立ち上がる。
「おなか、すいちゃった」
「あ、そ、そう? じゃあなにか食べるもの…い、今用意するから」
いつものみさきに戻ったことが分かったのだろう。混乱しながらも母親は、急いで台所へ向かっていった。丸二日間、絶食状態にあったみさきに食べさせるだけのものを用意しなければと、使命感に燃えているのかもしれない。
もう一度、みさきは手の中のはがきに指先で触れる。
…浩平君。必ず帰ってきて。早く。私、待ってるからね。
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あー、もうどうとでもなれ。久しぶりに書いたものがこんな暗いしろものですいません。完全にネタ切れのGOMIMUSIです。
みさき先輩の、浩平に置き去りにされた直後って、以前にも書こうとしましたが、どうにもできなくてボツにし、その後、手紙という小道具を思いついて復活させました。あんまりおもしろくないけど…気に入っていただけたら幸いです。
今回、ためすぎたので感想はなしにさせてください。すいません。それから、正月は出かけるので、書けそうにないです。またいつか、なにか書けたら持ってきます。ではでは。