追想迷宮〜深淵の彼方 投稿者: GOMIMUSI
 長い間、少年は泣いていた。
 とても長い間、泣いていた。体中の水分が涙になって、出ていってしまうのではないかと思われるほど。
 それを置き去りにすることはできなかった。彼女の場合、そこまで泣かなかったのは、ただなにも知らない間に終わっていたから。けれど、立場は彼女と少年で、よく似ていた。
 だから、彼女は少年を抱きしめる腕に力を込めた。少しでも、力になりたいと願った。
「ずっと…」
 少年は泣きはらした目を上げて、言った。
「ずっと、一緒にいて。どこにも行かないで…」
「うん」
 彼女は優しくうなずいた。
「いてあげる。ここに、いるよ」
 そうしたい。心底から、そう願うから。
 ふっと、腕に触れている質感が消失した。ぐらりと重心が傾いて、彼女は前に倒れそうになる。地面に手をついて、支える。
「え………?」
 なにが起きたのか分からない。けれど、今…彼女は公園の、誰もいないブランコの前に一人しゃがんでいた。
 誰もいなかった。立ち上がって、辺りを見回してみる。
 沈黙。誰の声もしない。ただ、白々しいほどの日差しに包まれた公園。
 その中で、彼女は、一人。
「や………やだ、そんなの…そんなの、嫌だっ………」
 悲鳴を上げたかった。けれど、声は喉に張り付いて出てこない。
 泣き出したかった。でも、一滴の涙も流れず、目は乾いて痛むほど。
 心臓が、破裂しそうに脈打っている。全身から汗が噴き出す。
 目をきつく閉じた。耳をふさいだ。すべてを否定したかった。瑞佳は、真っ黒な絶望を感じながらその場に崩れるように座り込んだ。
「嫌だ………もう、わたしを一人にしないで………!!」


「もし…」
「うん…?」
 静かな声だった。
「もし、君が一人で生まれてきたら…いや、こうしよう。君が、家族の顔を覚えていない間に、一人で生きていかなければならないとしたら」
「生きるのに苦労するだろうな。とても」
 彼の答えに、苦笑する気配。そして、声は続ける。
「とりあえずは、家族の印象、についての話だ。君には父親、母親の記憶なんてない。むろん兄弟についても。想像できる?」
 しばらく、考えるための沈黙。
「どうかな…俺は、そんなこと考えたこともないからな」
「でも、もし最初からいなければ寂しさは感じないかもしれない。少なくとも、あとからいないと知らされたところで、現実味はないだろう」
「ああ…そうかもな」
 どこか、納得できないままの同意。その立場を、何となくでも想像してみる。
「もしそうなっていたら、君はここに来なくてもすんだのかな?」
「さあな…ところで」
 大の字になって寝ていた彼は、起きあがって声のほうを向く。
「あんた、誰だ?」
 浩平の前に、一人の少年が膝を抱くようにして座っていた。細く華奢な肩、白い肌、端整な顔立ち。結構、女の子受けしそうなタイプの少年だった。
「僕? 覚えてない?」
 少年はにっこりと笑った。
「…ああ、悪いけど覚えがない」
 浩平は記憶をひっくり返してからうなずいた。おかしなものだ。この世界に、自分以外の誰かがいるなんて。
「僕は、氷上シュン。といっても、分からないか…。君と、高校で一緒だった」
「へえ…?」
 浩平は首をひねる。もともと人の顔を覚えているのが得意な方ではないが、引っかかるものもない。
「いつ会った?」
「一年の時。軽音楽部の部室で、顔合わせをしたときにね」
「なんだ、そんな昔なのか…それじゃ分かるはずもないな」
「そうかい?」
 シュンと名乗る少年は、変わらず笑みを浮かべている。どこかで見たことのあるような目をしていた。
「そういえば、何でこんなところにあんたがいるんだ?」
 浩平は思い出したように訊ねた。本当なら、真っ先に聞いているはずのこと。
 力つきて、倒れた。そのことは覚えている。それから夢うつつに、誰かの声を聞いていた。この少年の声だったろうか。
 果てしない草原を歩いているはずだったのに、今いるのは巨木の枝の下だった。木漏れ日が地上に複雑な模様を描き、涼しげに葉がざわめく音がする。その下に二人は座っているのだ。
「気になったからね、君のことが」
 シュンはそう言った。浩平はぶっと吹き出した。
「よせ、俺にそんな趣味はない」
「ああ、そういう意味じゃなくてね。君が、ここへ来てしまう種類の人間だっていうことは、最初から分かっていたから」
「…そういえば、ここはいったいどういう世界なんだ?」
 最大の疑問をぶつけてみる。自分のなかで生まれ、育っていった違和感。そして、薄れていった存在。みんなが自分の存在を忘却していき…そして、あの世界から自分は消えた。ただ一人、瑞佳だけが覚えていた。
「ここは、俺の心から生まれた世界なのか?」
 浩平が訊くと、少年は不思議な微笑を浮かべた。
「そう思うのかい?」
「…わからん。でも、俺は永遠に幸せな日が続けばいいと…そう願った。それでここへ来た。それだけは分かる」
「君の大事な人を失ったときに」
 シュンの言葉に、浩平はうなずく。
「ああ…。だけど、どうしてそれを知っている? さっきの話、家族がいなかったらっていうのもそれだろう?」
「君たちはね」
 シュンはほほえんだ。
「君たちの思っているより、ずっと多くのものたちから見守られている。どんなときにもね」
「君たち…? 俺と、瑞佳?」
 浩平は首をひねる。自分はともかくとして、瑞佳まで?
「君たちは似ているからね。だから、惹かれ合う」
「またそれか…向こうの世界でも、おまえと同じことを言われた」
「それを言った人も、君たちをずっと見守っていた。僕はここに来て、彼らから、そのことを知った」
 彼ら? 見守っていたというものたち?
「じゃあ…」
「さ、もう行きなよ」
 突然会話を断ち切って、シュンはすっと右手の人差し指を伸ばし、ひとつの方向を指さした。
「向こうに、君を待っている人がいる。…彼女が、全部話してくれるよ」
「彼女?」
 彼女とは誰か。浩平には一人、思い当たる名前がある。
 しかし、もしその人が待っているのなら。それなりの覚悟がいる。その人と別れ…あいつの元へ帰るのなら。
「どうする?」
 シュンは浩平の心中を見透かしたように、顔を近づけてきた。
「どちらにしても、会わないといけないよ?」
「ああ…当たり前だ。そのために来たんだ」
 浩平はそう言って、立ち上がった。
 背中を向けた浩平は、すぐには歩き出さずにシュンのほうを振り返った。
「なに?」
 穏やかにほほえむ顔。静かな目。
「…高校の時、ちょっと小耳にはさんだ話だが…ほとんど学校に来なかった奴が、三年にあがる前に病院で死んだとさ。その時、名前も聞いたんだが…思い出せなくてな」
「それ、僕だよ」
 あっけらかんと、シュンは言った。まるで世間話のような気安さで。
「…そうか」
「うん」
 別に驚きはなかった。ただ、感慨がある。それなら、やはりここは…。
「ここは…死後の世界なのか」
「その表現は、正しくない」
 シュンは軽く笑った。
「だって、ここは生きている人間が作った世界だからね」
「え…?」
 目線で問いかける浩平に、シュンは首を振る。
「そこから先は、自分で確かめて。さあ、行って」
 それだけ言って、彼は眠るように目を閉じた。浩平はそれをしばらく見つめ、また前を向いて歩き出す。
 これで答えが出る。求めていた答えが。なのに、歩く足がひどく重かった。


 瑞佳はうずくまって、ふるえていた。切り苛まれた心が血を流し、もだえ苦しんでいた。
 もう、目を開く勇気がなかった。現実を見せつけられるのが、怖かった。
「どうして…」
 ただ、つぶやく。繰り返し問いかける。
「どうして、どうして、どうして…」
 そして、声は唐突に響いた。
「知りたい? どうしてなのか」
 瑞佳ははじかれたように顔を上げる。そこには誰もいなかった。いや…いた。
「ピ………ッパ…?」
 泣き伏した彼女の前に、スフィンクスのように座っていたのは、白い猫。この近所に猫が何十匹いても、瑞佳は自分の家の猫を見間違えたりはしない。
 それは、瑞佳が川から助け上げた、ピッパ。
「知りたい?」
 もう一度、猫ははっきりとした声で問いかけた。幼い少女のような声で。
 瑞佳は無意識にうなずいていた。すると、猫は立ち上がってしっぽをぴんと立てた。
「それは、あなたがとても傲慢な人だから」
 冷ややかに声は告げる。
「いてあげる、そうあの子に言ったわね。泣いていた男の子に。だけど、それは逆じゃない? いつもいつも、一緒にいてほしいと思っていたのは、あなたのほうなのに」
 瑞佳は呆然としたまま、のろのろと立ち上がった。
「…わたしが、傲慢…?」
「そうよ」
 ピッパは瑞佳の足下まで歩いてきて、その顔を見上げるようにした。
「あなたは決して、一人ではいられない。誰かがそばにいなければ、それも自分を必要としている人がいなければならない。だからあなたは、あの人を選んだ。そうでしょう?」
 あの人? 浩平を? 自分が必要だから?
「まだ思い出せない?」
 猫はしっぽをゆらゆらと動かし、いらだちを示した。
「じゃあ、もっと思い出させてあげる。たとえばあなたは、自分の母親の顔も知らない」
「え………?」
 そんなはずは、ない。だって、ずっと一緒に暮らしていたではないか。
 暮らしていた、そのはずなのに。
「や、やだ…どうして?」
 瑞佳は頭を両手で抱えるようにしていた。どうしても、自分の母親がどんな顔だったのか思い出せない。名前さえ。
「そうよ」
 猫は追い打ちをかけるように言った。
「だって、あなたの両親は、あなたが顔も覚えられないくらい小さいときに、二人とも亡くなっているんだから」
「そんな…!?」
 瑞佳は混乱の極に達していた。
「じゃあ、今まで一緒に暮らしていた人は誰だって言うの?」
「それが傲慢だというのよ」
 断罪者の声で、ピッパは告げた。
「あなたは、自分がどれほど多くの思いを受けて、今日まで生きてきたのか知らないんですもの。あの人に思われ、それ以外にも多くの思いを受け取って…それで、今日があることを知らないんですもの」


「どうしろってんだ、いったい…」
 憮然として浩平はつぶやいた。目の前の大地には、巨大な亀裂が走っている。
 ほとんど垂直に、下まで続いている断崖。のぞき込んでも、真っ暗でなにも見えない。まさに深淵だった。
 ここがこの世界の果て、ということか。だがここまで来ても、誰もいない。それなら、この向こうに尋ね人がいるに違いないのだが…この深淵を渡れとでも言うのか?
「冗談じゃないぞ、まったく…死んでしまうじゃないか」
 言ってから、はて、と首を傾げる。
「そういえば、ここで死んだらどうなるんだろうな?」
「なにをくだらないことを考えている」
 苦笑混じりの声に、浩平は振り返る。そこには、中肉中背の男が立っていた。年は二十代後半か三十路をすぎたあたり。浩平のことを、まぶしそうに見ている。
「そんなところでぼけっと突っ立っているんじゃない。人を待たせてるんだからな」
 絶句したままの浩平の横を通り、男は深淵に向かって躊躇なく歩いていった。そして、断崖の先へと足をおろし、落ちることなくそのまま歩いていく。まるで見えない橋を渡るように。
「…………お……おおっ」
 意味のない声が浩平の喉から漏れる。すると、男は浩平を振り返って手招きした。
「さっさと来い、おいて行くぞ」
 そして本当に、背中を向けてずんずん歩いていく。見た目にはなにもない、空中を。
「おっ、親父!!」
 浩平は叫んだ。その瞬間、男の後ろ姿はかげろうのようにふっと消えた。
 幻? そんなはずは…しかし、あれは確かに、浩平が小さいときに死んだ父親だった。写真はあまり残っていなかったが、遺影として使われたものを浩平は持っている…。
「………」
 浩平はしばらく呆然としてたたずんでいた。やがて、大きく深呼吸する。心臓の鼓動が落ち着くまで、ゆっくりと百まで数えた。
 唇を引き結んで、前をにらみ据える。深淵の向こう、先も見えない闇。そこを見つめて、ゆっくりと足を踏み出す。
 足下にはなにもない。しかし、浩平の体はもう深淵の上にあった。
 なにも考えられなかった。別に高所恐怖症というわけでなくても、この深淵はあまりにも深すぎた。底の分からない恐怖。落ちれば、本当に地獄まで着きそうだ。
 なにも考えるな。そう自分に言い聞かせながら、足を前に運ぶ。足はがくがくとふるえ、背中は汗でびっしょりと濡れていた。
 さっきからひっきりなしに聞こえる、幻聴。それだけが浩平を励ましていた。
(がんばれ)
(ほら、ゆっくり。焦らないで)
(大丈夫、大丈夫だから)
 しかし、本当に幻聴なのか? どこかで聞いたような声ばかり。そういえば、あの親父の姿は? 幻だったのか? どうして自分の前に、現れた…?
 どれほど歩いたかは分からない。終わりは突然、やってきた。
 踏み出した足の下には、ふれるものがなかった。突然、がくんと体が落下する。
「うわあぁぁぁっっ!!」
 悲鳴を上げた。死ぬ、そう思った。心臓が喉元までせり上がって、目の前が暗転した。
 その手を誰かがつかんだ。
「はい、到着」
 日溜まりのような暖かい声に、浩平は固くつぶっていた目をおそるおそる開いた。彼を見つめて、優しく笑っているのは…。
「み…美沙、さん…?」
 ぱちぱちと瞬きして、目をこすった。何度も見直した。しかし、その姿は消えない。間違いなく、美沙その人だった。
 ほうっと全身から力が抜けた。浩平はいつの間にか、木の船の上にいた。時代劇で渡しをしているような、十人も乗れないような小舟だ。それが、深淵の闇に浮かんでいる。
「どうして、美沙さんがここに…?」
 落ち着くと、疑問が浮かんでくる。彼女が、自分を待っていた人なのか。
 美沙は微笑して、言った。
「だって、わたしたちはここから来たんですもの」
「…え?」
 美沙は…わたしたちと言った。いや、それよりも…今の美沙の声。何人も同時に話したときのような…。
 ここから来た? この世界から…?
「美沙さん…」
 浩平はぐっとつばを飲み込んだ。
「あなたは…いったい、誰なんです?」
「………………」
 美沙は微笑する。そして、ゆっくりと口を開く。
『わたしは………』…』…』…』…』…』
 思わず浩平は耳を押さえた。
 何人もの人間が、同時に耳元にささやいたようだった。たぶん、自分の名前を告げたに違いない。それが、何人分も重なって、聞き取れなかったのだ。
 目を見開く浩平の前で、美沙の輪郭がぼやけ、輝きだした。そして、急に姿が崩れて散らばる。蛍のような、無数の小さな光球に別れてあたりを漂いはじめた。
「な、なんだ…なんだよ、いったい!」
 混乱して浩平は、船から身を乗り出す。浩平の周りを、光球はゆったりと漂っている。それは、何か親しみを感じさせる雰囲気があった。そう…浩平に好意を寄せている光だった。
「どういうことなんだ、いったい…」
「それはね」
 はっきりとした声が、浩平の耳を打った。
 振り向いた浩平の目に映った姿。美沙がいた場所に、ちんまりと座っている小さな少女。それは間違いなく…。
「みさお………」
「それは、こういうこと。この世界にはたくさんの思いが漂っていて…それが、お兄ちゃんたちに力を貸すため、集まってくれたの」
 浩平の遠い昔に死んだ妹、みさおはそう言ってにっこりと笑った。
「久しぶりだね、お兄ちゃん」

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今回、瑞佳をいじめてしまいました。だけど、最初からこういう話にする予定じゃなかったので、作者が一番あわてています。
美沙はみさお…安直ですが、最初はこんな感じでした。だけど、それだけじゃないのです。だって、みさおが瑞佳にあんな説教たれたりできるわきゃないし…。わけの分からない話になってしまいましたね。でも、次で終われる予定です。

>将木我流様
瑞佳B(ブルー)ってのは、だめですか? 青瑞佳でもいい気はするけど…そういえば前回、起こらせたまんまですか?

>いけだもの様
茜は怒ると怖いです。全キャラ中最強…根拠なし(爆)

>偽善者Z様
繭編、繭ががんばってますね。おしごとたくさんあるの、というあたりが成長してるよなあ、と思わせます。
蛍火、由依はまだ独身なんですよね? ってことは…ないかな?

>ももも様
南は宇宙船と運命をともにしたんですか? みんな扱い、ひどくない?
さて、敵は住井か、シュンか。それとも…誰だっけ?

>E−Linc様
最愛の人を亡くして、子供まで失って…分かる気はします。でも、それで割を食った浩平の立場は…。どう考えればいいんでしょうね。

>秀さん様
夕日を見ながらのモノローグに、ちょっと余韻が残ります。もう一人の私…やっぱりそこへ至るまでに経験したすべては、自分の一部ってこと?(かなり強引な解釈)

>睦月周様
澪…忘れちゃったのか(涙)。でも、忘れたということが分かっているのは、完全に忘れるよりいいことなのかな? 凄くつらいと思うけど…。

>雫様
意識の戻らない原因が、深山さんの心にあるのなら、きっとそれが解決すれば帰ってこられるんでしょうね。そうであってほしい。だけど、ヘビーな過去を背負ってたんだな…。

>もうちゃん@様
いきなり次回?(笑)いや、こういうのが七瀬の本来のSSっていったら失礼なんでしょうね。僕のイメージとしては、七瀬って凛々しいところがある気がして…。

>ばやん様
南と茜…なんだか、すごく、こう…いいけどさ。ふう…。うん、幸せならいいけど。でも、なにかあると。食卓ひっくり返す茜が素敵(^^;

>吉田 樹様
たい焼き…それで運命を感じるのか、南。
継ぎの作品、待ってます。

>かっぺえ様
浩平、時と場所と場合を考えろ。「誤解じゃなくすればいい」って…ムードもなにも…。
瑞佳はかわいいんだから、大事にしないとねえ…。

ここ、シリアスが多くなっちゃって…一番シリアスばかり書いてるのって自分だけど。だけど、ギャグが書けないから仕方ないんです。いいよな、書ける人…。
前に書いたものはタイトルを借用しただけで、内容はでたらめです。だから、ゲームをやっていても分かりません。ご安心ください。本編は…無理だと思うけど。
わけの分からない暗そうな話になってしまいましたが、全力で書きます。どうか温かい目で見てやってください。ではでは。

うわー、感想書いている間にまた増えてる…。