追想迷宮〜Missing child 投稿者: GOMIMUSI
 誰かにくすぐられているような気がして、目が覚めた。
 見上げると、緑の世界。むせ返るような草いきれ、そして強い日差しが感じられた。
 うつぶせの状態から、ゆっくりと立ち上がる。彼は、丈の高い草のなかにいた。一面、緑の波がうねっているのだ。壮観、だった。
 頬をくすぐっていたのは、草の葉のそよぎだったのか。そう思って、今度は仰向けになって草のなかに倒れ込む。頭上には、まばらな雲の浮かぶ空。青というより、群青に近い空の色だった。
「…戻ってきちまったのか、ここに」
 独り言のようにつぶやいた。こんな世界に、なにもないと知っていて。それでも、ここに残されたものがどうなったのか、どうしても確かめたくて。それで、来てしまった。
 永遠。それがここにある。いつまでも時が進まない、牢獄のような世界が。
 あのとき、ずっとそばには誰かがいた。幼い頃の瑞佳だったかもしれない。みさおだったかもしれない。今となっては、それははっきりとは分からなかった。
 みさお。最愛の妹。彼女の面影を追い求めるあまり、自分が生み出した幻だったのだろうか、あれは。それとも…。
「そいつを確かめに来たんだよな」
 弾みをつけて、勢いよく立ち上がる。ここで休んでいても、なにも進まない。
「さて、どちらへ行こうか…」
 周囲を見渡して、目印になりそうなものを探す。しかし、どちらを向いても均一な草原の景色だった。
「まいったな…」
 進むに進めず、困惑したところへ風が吹きすぎていった。思わず髪を押さえるほど、強い風だった。
(世界の果てまで届く風)
「…こっちか?」
 風が吹いていった方向へ、浩平は歩き出す。正しいかどうかは確かめようがないが、進まない限り、なにも起きないことも確かだった。


 どこか麻痺している感覚でも、時の流れは察していた。それは歯がゆいほど、ゆっくりと流れていった。
 午前五時。東の空が白み始める頃になっても、瑞佳に眠りは訪れなかった。途方もない年月を、一夜のうちに過ごしたように思える。眠りをあきらめて、瑞佳は起きあがった。
 昨晩からなにも口にしていないので、空腹感があった。どんなときにでもおなかはすく。その事実に、疎ましささえ感じた。
 階下に降りていく。誰もいないと思っていたキッチンには、美沙がいた。足音に気づいて、瑞佳を振り返る。
 静かな笑みを浮かべていた。穏やかで、優しい表情。宗教画の女性が、こんな顔をしていたと瑞佳はぼんやりと思った。
「食べる?」
 美沙は短く訊ねた。瑞佳がうなずくと、また微笑。美沙が食事の用意をしている間、瑞佳はその背中を立ったまま眺めていた。
「どうしたの?」
 瑞佳のほうを振り返らず、気配を察したように美沙は問いかける。
「お母さん、分かってるんだね」
「…なにを?」
「分かってるんでしょ? なのに」
 瑞佳は急に、感情が高ぶってくるのを感じた。これは、八つ当たりだ。分かっていて、止まらない。
「分かっていて、それで聞くわけ? なにを? わたしだって分からないよ!」
「………」
「分かるなら言ってよ。わたし、どうしたらいいのか。分からないんだから。もうどうしたらいいか…分からないの!」
 ひとしきり叫んで、うずくまる。美沙は、落ち着くのを待って瑞佳のそばに歩み寄り、その肩に手をおいた。
「まずは、席について。食べながら話しましょう」
 瑞佳はただ、黙ってうなずいた。のろのろと立ち上がって、美沙に肩を押されながらテーブルにつく。
「…ごめんなさい」
 蚊の鳴くような声で謝った瑞佳に、美沙は励ますように背中を軽くたたいた。
「いいのよ。無理して我慢しないで。どうしようもなかったら、叫んでもいいから」
 やがて準備が整い、美沙は瑞佳と向き合うように椅子に座った。
「それで?」
 マグカップに牛乳を注いで、瑞佳に話を促す。
「…浩平が」
「浩平君が?」
 あっさりと、その名前を受け入れる美沙に、やっぱり、と瑞佳は内心で思う。美沙は、浩平のことを忘れていない。
「いなくなったの」
 ごく端的な説明に、美沙は軽く首を傾げる。
「浩平君は、なんて言ったの?」
「…必ず、帰って来るって」
「なんだ」
 美沙はそれを聞いて、明るく笑った。
「じゃあ、それを信じて待てばいいんじゃない。そういうところでは、浩平君は嘘をつかないでしょう?」
「…でも」
 瑞佳の表情は冴えない。
「浩平君を信じられない?」
「違うの。そうじゃない、そうじゃないけど…前にもこんなことがあって」
 不安、なのだ。不安に押しつぶされそうで、空腹のはずなのに、食べ物が喉を通らない。
「浩平が、またいなくなって。でもわたしは、それを追っていくことも、引き留めることもできなくて。だけど、またこんなことがあるのかもしれない。何度でも、おいて行かれるのかもしれない…そう思うと、怖いの。とても、怖い…」
「………」
 美沙は黙って、瑞佳を見つめていた。しばらくして、はあ、とため息をつく。
「難しいわね、それは」
 瑞佳の期待していた、安心させるような言葉は返らなかった。
「先のこと、だものね。誰にも分からない。もうこんなことは起きないって、保証することはできないわよね…」
「…お母さんでも分からない?」
「分かるはずがないでしょ。未来のことなんて、誰にも分からないわ。どんなに確かに思えても、そこにはいくらかの可能性があって、どこへ転がるのか分からない」
「………」
「だからね」
 美沙は言った。
「今は、悪いことは考えないの。それで正しいとか、間違いとかじゃなくて。…だって、ほかにどうしようもないでしょ?」
「………」
「結果ばかり追いかけていたら、足下をすくわれちゃうもの。未来はどうとでも変わる。確かなのは、今だけ。今が未来につながってるの。今やれることをやらないと、今が過去になっちゃったら、できなくなるからね」
「…なにをすればいいのかな」
「信じるの」
「信じる?」
「そう。どんなことがあっても、帰って来るって…信じるの。何度いなくなってもね」


「………ったく」
 何度目かの悪態をついて、浩平は立ちどまった。彼がいるのは、相変わらずの草原だった。
 どんなに歩いても周りの景色は変わらない。以前、ここにいたときには、いろいろなものが見えた気がするのだが。
 遠くから、かつて自分のいた場所を見ていたような。空の上から、雲海を見下ろしていたような。それは、ひどくあいまいで、夢のような話。
「なにをしに来たんだろうな…こんなところに」
 探しているものがあるはずだった。ここに、自分の求めている答えがあると思っていた。
 死んだあと、人はどこへ行くのか。魂はあるのか。来世は、あるいは天国は。みさおはどこにいるのか。あのとき、確かにここでみさおの存在を感じていたはずだった。
 浩平の足は、自動的に動いて前進し続けていた。どこへ向かっているのか、なんてもう意識していない。ただ進まなければならなかった。
 探しているものを見つけて。そして、答えを見つけて、帰らなければならないのだ、あいつのところへ。


 部屋に閉じこもった瑞佳は、考え込んでいた。美沙は瑞佳に、信じなさいと言った。浩平のことを信じろと。でも、今まで信じているつもりだった。信じられなくなったのではない、別の可能性を考えてしまうようになっただけだ。
 浩平が、ずっとこちらで、瑞佳と一緒にいても。それでも、いつか別れる日は来るかもしれない。こんな風に、何の前触れもなく、突然に。それを防ぐこともできないほど、急に。そして…会えなくなることも。
 昨日、浩平の母親から言われたことが、いつまでも脳裏にこびりついている。すべては去りゆくもの。とどめることは、できない?
 永遠に、好きな人のそばにいることができたらいいのに…。
 ふと顔を上げた瑞佳は、目を丸くした。自分の前に、何かが立っていた。
 ピンク色をしたウサギのぬいぐるみ。
「よう、瑞佳!」
 片手をあげて、そのぬいぐるみは言った。
「うさぴょん………?」
 呆然として瑞佳はつぶやいた。確かに、このぬいぐるみにはメッセージを伝える機能がある。しかし、自分で動くことなんてできないはず。
「暗いねえ。そんな風に閉じこもっていたら駄目だな。出かけようぜ?」
 録音されているメッセージに、入っていないはずの台詞。そして、のたのたとうさぴょんはドアに向かっていく。そして、廊下に出ていった。
 しばしぽかんとしていた瑞佳は、我に返るとあわてて立ち上がった。
「ちょっと、待ってよ!」
 まるで不思議の国のアリスだ。そんなことが頭の端をかすめる。ウサギに連れられて、どこに行く?
 階段を駆け下りると、玄関のドアが閉まるところだった。靴を突っかけて、外へ駆け出す。辺りを見回すと、うさぴょんはいない。
「………?」
 遠くに目を向けると、曲がり角でピンク色の小さな手が、ふらふらと手招きしているのがちらと見えた。そちらへ走る。
 町全体が異様に静まり返っていた。そよとも風が吹かない。人も通らず、車の音もしない。死んだような静寂。その中を、靴音を響かせて瑞佳は走った。
「はあ………はあっ」
 全力で走っているのに、まだうさぴょんに追いつけない。曲がり角ごとに、ちらりちらりと見えるだけ。それとも、本当はそこにいないのだろうか?
 疑問を感じながら、それでも引きずられるように走り、彼女はいつの間にか小さな公園の前に立っていた。
「ここは…」
 呼吸を整えながら、懐かしさがこみ上げるのを感じた。ここで、浩平と初めて出会った。無意識のうちに園内に踏み込んで、辺りを見回す。そう、あのブランコの前で…。
「あ………」
 誰もいないと思っていた公園に、小さな男の子がいた。ブランコの上で、小さく揺れながらうつむいている。
 泣いているのだろうか。瑞佳はゆっくりとそこへ近づいていった。
「どうしたの…?」
 声をかけると、男の子はしゃくり上げたようだった。
「うそつき」
「え………?」
「うそつき。永遠なんて、なかったじゃないか」
 ゆっくりと顔を上げる。泣きはらした目。その顔は…幼い日の、浩平。
「あなた…」
 絶句した瑞佳に向かって、彼は糾弾を続けた。
「きみが、言ったんだ。永遠はあるよって。だから、待ってた。ずっと待ってた。でも、こなかった…きみは、こなかった」
「浩平………」
「みんな、いなくなるんだ」
 幼い浩平は唇をゆがめて、笑った。泣きながら、笑った。
「誰もここにはいない。ぼくを一人にして、いなくなっちゃうんだ。だから、ぼくはもう待たない。みんな、みんな消えてしまえばいい…」
「浩平…」
 思い出す。永遠なんて、なかったんだ。浩平が、初めて会った頃に言った言葉だ。それに対して、瑞佳は言った。この人のそばに、ずっといて慰めてあげられたら…と。永遠はあるよ、と言った。
 あの日から、彼はずっと待っていたのだろうか、瑞佳のことを。そんなに長い間。
「ごめんね」
 ほかに言うべき言葉もなく、瑞佳はつぶやいた。彼の前にかがんで、その体を抱きしめる。
「本当に、ごめんね………」


 日が暮れて、暗くなった部屋。瑞佳は、ベッドの上にうずくまるようにして眠っていた。
 同じベッドの上に、美沙が座ってゆっくりと髪をなでていた。その表情は、とても悲しく、つらそうだった。
「そんなに寂しいの、瑞佳…さん」
 話しかけても、瑞佳は目を覚まさない。自分のなかに閉じこもり、出てこようとしない。
 この世界には、彼女が必要としている人がいない。だから、目を開かない。
「待っていなさい」
 美沙は意識のない瑞佳に向かって、ゆっくりと言った。
「必ず、彼は帰ってくるから。ずっと、あなたのことをだましていたけれど…約束するから」
 そして、瑞佳の髪から手を離して立ち上がる。その時、音もなく部屋のドアが開いた。
 細い隙間から、滑るように室内に入ってきたのは、白い猫だった。最近、いつも瑞佳のそばにいる猫、ピッパ。暗がりに、丸く開いた瞳孔が美沙をとらえる。
「あなたも、瑞佳さんが心配?」
 問いかけると、猫は姿勢よく座って、にゃあと一声鳴いた。返事、だろうか。
「ふふっ。…じゃあ、わたしがいない間、瑞佳さんのこと、頼んでいい?」
 美沙の言葉に、猫は首を傾げる。
「もう、わたしの役目は終わり。あの人を連れ戻して…それで、わたしはあるべきところへ帰る。それがいいのよ、きっと」
 ふふっ…。美沙は寂しく、ほほえんだ。
「ずっと、この人たちと一緒にいたかったんだけどね。それも贅沢、ですものね。今までさんざん、わがままを通してきて…これ以上は、望めないわ」
 ピッパはじっと、美沙の話を聞いていた。そして、その意味を理解したのか、していないのか、ベッドのところまで近づいてくると、飛び上がって瑞佳の枕元に乗り、美沙を振り返った。
「うん」
 それを見て、美沙はうなずく。どこか安心した顔で。
「じゃあ、お願いね。必ずあの人を帰らせるから」
 そして、美沙は部屋を出ていった。


「………………くそっ」
 弱々しい罵声をあげて、浩平はその場に倒れ込んだ。柔らかい草が、その体をそっと受け止める。
 風の指し示す方へ。この世界の果てと思われる方向へ、ずっと歩き続けてきた。いったい、どれくらい進んだのだろう。一時間? 一日? それとも、一年?
 ここへ来てから、周りの景色はまったく変わっていない。どこまでも続く緑の海。その向こうには、目印になりそうなものさえない。空と、大地。その境界にある地平線。それだけがこの世界のすべて。
「永遠…だものな。果てなんて、ないのか…」
 ため息をつく浩平。疲れ切って、もう歩けそうにない。
 疲労があるということは、この世界が夢でも幻でもないということか。だが、現実にこんな広大な草原があるはずはない。いったいどこまで行けばいいのだろう?
「………くっ」
 無理に体を起こして、遠くを眺める。そして、自分が今まで歩いてきた方向を。
 あまりにも、広大すぎる。それに対して、自分はあまりにもちっぽけで。
 難破船の船乗りが、船の残骸に捕まって海の真ん中にいる自分を発見したとき、ちょうど今のような気分なのではないだろうか。絶望的な、恐怖。そして、無力感。
 どうすれば、この世界を抜けられるのか。帰り道さえ分からない。
「…だけど、帰るって約束しちまったもんな」
 また、立ち上がる。足下がふらつくが、歩けないことはない。
「こんなところで、終わってたまるか…」
 また浩平は歩き出す。瑞佳が、待っているのだ。

**********
異様に重くなってしまいました。二回目あたりまでは、こんな展開になるとは思ってなかったんですけどね。どうにか最後まで話をひねってみたら、すごいことになってしまいましたよ。
今までで一番、書きたかったものが書けそうな気がします(あくまで気がするだけ、ですけど)。永遠の世界とは、とか、みさおのこととか、明かさずにおいたことを、全部ばらします。ONEの世界観、丸ごと崩壊するかもしれない。…怖いから読まないほうがいいかもしれない。でも書くけど。

>ばやん様
肌色のパジャマ? なんだ…。ちょっとだけ期待してしまったんですけどね。けど、裸エプロンって…やっぱりやめた。

>WTTS様
かけ声のところが楽しいです。けどバトルフィーバーJは、歌がどんなだったか覚えてない…。デンジマンならかろうじて分かるけど、ライブマンてのも…。

>偽善者Z様
浩平の傷心旅行ですか。でも、最後はちゃんと、瑞佳と仲直りしてほしいです。このまま終わり、なんてことはないですよね?

>静村 幸様
澪の猟師って、日頃どうやって生計を立ててるんでしょう? 狩りなんてできるのかな…。なんだか、浩平ってやっぱり外道なんですね…。

>ブラック火消しの風様
このシリーズ、すぐに消えてしまうのでなかなか話がつながらない。浩平、だんだんやわらかくなってきたんでしょうか?

>吉田 樹様
タイトルがいいです。沢口の、いちいち傷を負ってしまうようなところが見ていて痛いですね。感想、どうもありがとうございます。嬉しいです。

>いけだもの様
茜は小食じゃなかったんですか? いくら別腹っても…限度ってもんがねえ。

>ももも様
南といようと、浩平といようと、茜のペースは変わらず。やっぱり最強♪

>さとぴぃ様
茜が続きますが…………(絶句)
この話に続きはないんですか? このままではかわいそうすぎるっ。

>睦月周様
ラストのほう、2匹のちっぽけなチョウチンアンコウていうのがなんだかいいですね。描写が細やかで、こういう話って好きです。

>よもすえ様
ドッペルって、永遠の世界から来た存在なんでしょうかね? 瑞佳と繭に出会って、ドッペル郁未はなにを感じたのか。で、どうして買い物していたんですか?

いろいろ書き直したりしているので、結構時間がかかります。美沙の正体は次回で分かるはずです。たぶん、みなさん予想は立てていらっしゃるでしょうが…どれくらいそれを裏切れるか、楽しみだ♪
楽しんでいただけたら幸いです。また読んでください。ではでは。