追想迷宮 〜失われし願い 投稿者: GOMIMUSI
 薄曇りの空。これから、天気は下り坂だという。
 簡単な朝食の後、着替えて鞄を手にする。その挙動を、逐一瑞佳が見守っている。
 まるで、目を離したらその瞬間に消えてしまうとでもいうように。
「行って来る」
 浩平はやがて、瑞佳に向かってそう言った。ぴくん、とかすかに肩がふるえたようだった。そして、うなずき。
「うん。行ってらっしゃい」
「………」
 学校に行く、ただそれだけ。それだけのことが、こんなにも不安になるのはなぜだろう。
 本当なら、今日には瑞佳も回復しているはずだったのだ。だが、昨夜の無理がたたったのだろう、今朝になってまた熱が上がってしまった。そんなとき、一人残していくのも後ろ髪引かれる思いだった。
「…やっぱり、さぼろうか?」
 浩平が言うと、瑞佳は何かすがるような目で浩平を見上げ、しかし、ふるふると首を振った。
「駄目だよ、そんなの。だって、なんでもないんだから」
 まだなにも、起きていないんだから。心配することなんてないんだから。
「…分かった。じゃあ、終わったらまっすぐ帰るから」
「うん…」
 うなずいてから、瑞佳はなぜか、くすっと笑った。
「でも、浩平のことだから、約束はあてにしないけどね」
「おい…」
 がっくりと肩を落とした浩平。
「こんな時にそう言うのか?」
「言うよ。だって、浩平がわたしとの約束、破ったことって数え切れないもん」
「う………」
「でもね」
 瑞佳は笑顔で、言い切った。
「浩平が約束しなくても、わたしは勝手に信じてるけどね。浩平は、ちゃんと帰って来るって」
「………」
「信じるけどねっ」
 不安の陰は消えないが、それでも瑞佳は笑う。浩平は大きく息をついて、うなずいた。
「…おう」
 ややあって、浩平は言った。
「瑞佳、家に電話しとけよ。美沙さん、心配しているだろうし、猫の世話も…」
「あ」
「な、なんだよ」
 突然声を上げた瑞佳に、浩平は驚いた。
「ううん、なんでも…えへへっ」
 突然顔を赤くして、にやける。
「おい、熱に頭をやられたか?」
「ムードぶちこわしだよ、浩平」
「ムードって…なんのだよ」
 釈然としない顔の浩平に、瑞佳はひらひらと手を振った。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「じゃあな」
 玄関口で、瑞佳はほほえみながら浩平の背中を見送った。
 …気づいてる? 浩平。昨夜からわたしのこと、瑞佳って呼んでるんだよ。ずっと、名字で呼んでいたのに。


「………あ」
 家から出たところで、見知った女性の姿を見つける。瑞佳の母、長森美沙。
「おはよう、浩平君」
 美沙は浩平の姿を見つけると、屈託のない笑顔を向けてきた。
「…おはようございます」
「今日は早いのね。朝の忙しいときに悪いんだけど、ちょっとだけいいかな?」
(…やっぱりきたか)
 内心でそう思いながら、浩平はうなずいた。覚悟はしていた。了承済みのこととはいえ、自分の娘が、男と一夜を過ごしたのだ。一言あって当然のところである。
 しかし、美沙は浩平の予想とはかけ離れたことを言った。
「浩平君、あんまり自分を追いつめたら駄目よ?」
「………え?」
 きょとんとした浩平にかまわず、美沙は先を続ける。
「あなたが今生きているのは、別にあなたのせいじゃないんだから。あなたはあなたの意志で生まれたわけじゃない。それは、誰だって同じなんだから」
 まじめな顔で言う美沙に、浩平は目を見開いたまま立ちつくしていた。
「それだけ。ごめんね、変なこと言って」
 美沙はほほえんで、家に戻ろうとする。
「待ってください!」
 思わず浩平は呼び止めていた。美沙が振り返る。
「美沙さん、どうしてそんなことを俺に…」
「だって、瑞佳が。浩平君が、自分が生きていることは不公平なことなんだ、みたいなことを言ってたって」
 さらりと言った美沙に、浩平は頭を抱えた。
「あの、おしゃべり…」
「瑞佳って、ほとんど毎日浩平君のことを話しているのよ。よく飽きないなって思うくらい毎日」
 そう言って、美沙はころころと笑う。
「そうそう、あんまり瑞佳のこと、泣かせないでよね? 瑞佳、あの通り馬鹿な子だから、笑っていろ、って言ったらその通りにしようとがんばっちゃうのよ。心が壊れそうになるくらいね」
 少し真剣な顔になって、そう付け加えた。一瞬、浩平の呼吸が止まる。
「そんなことまで…」
「瑞佳、浩平君が言った、とは言わなかったけど。でも、それに近いことは言ったでしょ?」
「………」
 それはたぶん、浩平がこの世界にいない間の話。そのことを思うと、浩平としても胸が痛む。
 しかし…。
「ねえ、浩平君」
「はい」
「瑞佳が、浩平君を選んだのはどうしてだと思う?」
 浩平は言葉に詰まった。それは何度も考えてきたことだ。
 自分の、いったいどこがいいのか。あれだけひどいことをされて、なぜ瑞佳はそれでも、自分でなければ駄目だ、などと言えるのか。あんな、相手の気持ちを一番卑怯なやり方で、裏切るような相手を…。
「瑞佳はね、浩平君ととてもよく似ているのよ」
「………?」
「わからない、って顔をしてるわね。だけど、本当のことよ? 浩平君のほうからも、瑞佳に似てきているみたいだしね」
「…なんだか美沙さん、全部お見通しって気がする」
 浩平の言葉に、美沙は首を振った。
「分からないわ。大事なことはなにも。だから、ずっとどうすればいいのか考えてるの」
「………」
「あ、ごめんなさい。おしゃべりしすぎたわ。浩平君、そろそろ行ったほうがいいんじゃない?」
「あ…はい。じゃあ、行って来ます」
「がんばってね」
 なにをがんばるのだろう。ちらとそう思ったが、すでに浩平の足は駆けだしていた。


 ドアのチャイムが鳴って、来客を告げる。瑞佳は玄関まで出ていこうとして、一瞬硬直した。
 瑞佳は、まだ浩平の家にいるのだ。パジャマのまま来てしまったため、間に合わせに浩平のシャツを借りて着ている。迂闊に出ていってもいいものだろうか。
 居留守を使おうかと考えている瑞佳をせき立てるように、ドアチャイムは鳴り続ける。瑞佳は観念して、玄関に立っておそるおそる声をかけた。
「どちら様ですか?」
「………どなた?」
 逆に問い返され、瑞佳は大いに困惑した。
「とりあえず、この家の方でしたら、鍵を開けてくださらないこと?」
 やけに他人行儀で、しかもどこかかんに障る声。瑞佳は警戒しながらも、ドアを開けた。
 玄関前には、黒っぽいスーツに身を固めた中年の女性が立っていた。どこか茫洋として焦点を結ばない目が、瑞佳をとらえる。
「浩平に会いに来たのですけれど。いらっしゃらない?」
「はい? あの、浩平は…それより、どちら様でしょうか?」
 不審の色をあからさまにしながら、瑞佳は問いかける。留守を預かっている以上、得体の知れない人間をこの家には上げられない。
「浩平の、母です」
 女性があっさりと口にした言葉に、瑞佳は絶句した。話には聞いていた。だが、この十年以上の間、浩平のそばで生活してきた瑞佳は、彼の母親が一度も訪ねてきたことがないと知っている。
 回復の見込みがない病気に冒され、ゆっくりと死んでいく浩平の妹、みさおと幼い浩平を置き去りにして、宗教に走ったという話だ。
「………なにをしにいらしたんですか」
 思わず固い声になった。浩平の肉親だからといって、親愛の情はまったくない。
「そんなに警戒なさらなくても、よろしいのではありませんか?」
 その女性は、くすくすと笑った。不気味なほど、生気を感じられない目で。
「私は、あの子を引き取りに来たのですよ。何しろ、私の子ですから」
「…どうして、ずっと連絡もしなかったんですか?」
 不快感を押し隠して、瑞佳は言った。
「浩平は、ずっとひとりぼっちだったのに。今更、どこへ連れていこうと言うんです?」
「神の恵み、あふれるところへ」
 瑞佳の背筋に、冷たいものが走る。この人、正気じゃない?
「…天国?」
「それはまだ先のことですわ。ですけど、心から望むなら、そこへ行く日も…」
 そこまで言って言葉をきり、ふふっと笑う。
「浩平は、あなたとは行きません」
 瑞佳は言った。
「あなたは浩平のそばにいなかった。一番必要なときに。それで、どうして急に連れていくなんて言い出すんです?」
「人なんて。いずれ、誰であろうと私たちのそばからいなくなってしまうのです。おいていかれてしまうのです。どうして頼ることなどできます?」
 得手勝手な理屈に、瑞佳の頭に血が上る。
「あなたは…!!」
「落ち着きなさい、瑞佳」
 不意にかけられた声に、瑞佳はぎょっとした。浩平の母親も振り返る。背後には、美沙が立っていた。
「失礼ですが」
 美沙は静かに相手の目を見て言った。
「あなたが浩平君を必要とされているとは思えません。その逆もないでしょう。今、浩平君は必要なものを与えられています。…どうぞお引き取りください」
 穏やかな拒絶の言葉だった。しばらく美沙の顔を、これといった感情も浮かばない目で見ていた相手は、瑞佳に視線を戻した。
「あなた、浩平の恋人ですか?」
「…はい」
「そう…。なら、あなたもいずれ分かります。すべては去りゆくものだと。浩平がいなくなったときに気づくでしょう」
 そして爬虫類めいた冷たいまなざしを残して、浩平の母親はその場から立ち去った。それを見送った後、美沙は瑞佳に向き直った。
「さ、戻りましょう。猫たちも、あなたがいなくて寂しがってるわ」


 講義が終わって、浩平は大きくのびをした。珍しいことに、今回の講義はまじめに受けてしまった。しかも、誰が見張っているというわけでもないのに。
「さて…」
 これから何か目的があるというわけでもないが、かけ声をかけて椅子から立ち上がり、廊下に出ていく。次の講義までは、まだ十分時間がある。
「これからどうするかな、と…お?」
 浩平は、廊下の向こうから七瀬が歩いてくるのを見つけて立ちどまった。片手をあげて挨拶しようとした、その動きが止まる。
 七瀬は、浩平のことをまったく見ていなかった。視線が合わないまま、浩平の立つところへ近づいていき、すれ違い、そのまま去っていく。
 最後まで、浩平の存在は空気のように無視されていた。
「…準備完了、ってことかな?」
 つぶやいた浩平は、軽く肩をすくめる。二度目ともなれば、さほど感慨もわかない。まして、自分から望んだ結果とあれば。
 できれば、ほかの人間が自分を覚えているかどうか確かめたいところだが、親しい人間がどの教室にいるのか、浩平は把握していない。住井あたりなら、一覧表でも作っていそうだが。
 大学というところは、横のつながりはあまりない。講義ごとに受講者の面子はがらりと変わり、積極的に友誼を結ぼうとしなければ、最後まで一言も交わさずに終わる、という人間もいる。ことに、浩平のように高校のクラスでさえ、全員の名前と顔が一致しなかったような者の場合、人間関係は希薄になりやすい。
「あまり時間はないか。この後は…」
 鞄のなかから薄っぺらな手帳を引っぱり出し、講義の内容を確認する。出席日数にも、レポートの提出期限にも十分余裕があることを確かめて、その手帳を閉じた。
 あと、問題といえば幼なじみのこと。
「ま…家までなら帰り着けるだろう」
 覚悟を決めた目で、ぽつりと言った。


 何度も、考えていた。
 みさおが死んだこと。そこに意味はあるのか。みさおには、生きる意味はなかったとでも言うのか。
 人は生まれ、やがて死ぬ。それでも人が生き続けるのは、やりたいと思うことがあるからだ。それに向かって努力しようとするからだ。けれど、みさおは自分が将来、なにになりたいかということさえはっきり決まらないまま死んでいった。
 死は万人に平等だ、と誰かが言った。けれどそれは本当だろうか。
 やりたいことをやって、天寿を全うして死ぬ老人。未熟児として生まれ、その後育つことなく死んでいく赤ん坊。そこに明確な区別はないというのか。
 誰だって、自分の意志で生まれたわけではない。だから、せめて生きているのは自分の意志だと思いたい。それなのに。
 どうして、死はこんなにも不公平な仕打ちをするのだろう。


 ドアを開けると、浩平が立っていた。
「あ、もう帰ったんだ」
 瑞佳は驚いて目を見張る。
「瑞佳が心配だからな。今日は早退した」
「もう、駄目だって言ったのに…」
 文句を言いながらも、思わず頬がゆるむ。心配されるのは、嬉しかった。
「あがってよ。あんまり片づいてないけど…どうしたの、浩平?」
「いや…」
 いつもと雰囲気の違う浩平に、瑞佳はとまどう。表情が硬い。まるで、何か重大な決意をしてきた、というように。
「何か、変わったこととかなかったか」
「ううん、別に」
 脳裏に浩平の母親のことが浮かんだが、いちいち告げる必要のないことだと思い、言わないことにする。
「そうか…」
 ふっと、浩平はうつむいた。
「浩平…?」
 顔をのぞき込もうとした瑞佳は、突然その場で抱きしめられた。
「ちょ、ちょっとどうしたの、浩平?」
 驚く瑞佳を抱きすくめたまま、浩平は耳元でささやくように言った。
「瑞佳、俺を信じるって言ったよな」
「…え?」
「信じろよ。俺、すぐ帰るから。どうしても確かめたいことがあるだけだから」
「なにを言ってるの、浩平? …ま、待ってよ!」
 目の前で起きた変化に、瑞佳は思わず大声を上げた。浩平の姿が、半透明になって薄れていく。
 まるであのときのように。
 …すぐ、戻るから
 声だけを残して、浩平は跡形もなく消えた。そこにいたのが、嘘のように。
「浩平っ…!!」
 絶叫して、瑞佳は膝をつく。悪い夢だ、と思いたかった。しかし、ついさっきまで自分を抱きしめていた手の感触ははっきり残っている。
 …すべては去りゆくものだと。浩平がいなくなったときに気づくでしょう。
 浩平の母親が言った言葉が、繰り返し頭のなかで響いていた。ふるえながら自分を抱くようにして座り込んだ瑞佳は、猫のピッパが心配げにすり寄ってくるのに、それに気づく余裕さえ完全に失っていた。

**********
できれば七瀬以外にも、いろいろな人を登場させたかったのですが都合によりカット。代わりといっては何ですが、浩平のお母さん悪人モードです(笑)。
この人は今回限りの一発芸、次回からは出ません。瑞佳の心に闇を植え付けて、それでおしまいです。しかも変な人すぎて野放しにできないと言う…。

>いけだもの様
浩平と茜、僕も呼んでいて「こん畜生〜!!」と思いました。住井たちの気持ちも分かる。
それで今回一番気になったのは、相性占いの結果なんですけど…。

>いちごう様
さあ、4では新生七瀬対澪か? …勝手に作ってすいません。
髭がどんなリングネームをつけるのか? みさきさんのいた店は無事なのかあっ!?

>偽善者Z様
久坂、エルクゥが入ってます。戦闘シーンバリバリ。
ときに、緑茶にミルクってグリーンミルクティーですか? 僕は好きですけど。

>吉田 樹様
こういう、「けなげ」な話は大好きです。どうして括弧付きかというと、本当にけなげだから。このみさおは本当に、純粋、ですね。
それから、瑞佳があっちに行った場合…というのは鋭いです。どきっとしてしまいましたよ。でも、簡単に先が見える話にはしないけど。

>スライム様
瑞佳に何かあったりしたら、あなたを許せなくなるところでした(半分本気)。ゲーム本編でもひどい目に遭ってる娘だからねえ…。

>ばやん様
瑞佳、かわいすぎ。浩平の首を絞めたくなっちゃったよ、きゅっとね。
それから、長くて読まない、なんて言う人はここにはいません♪

それからリレーSSですが、MOON.の面子がいい味だしてますね。特に茜と葉子さんなんて、全然違和感がないし。チョコパフェに誘拐される澪ってのも…嫌すぎる。

時々、書いていて自分でも偉そうなこと言ってるなあ…なんて思います。でも、この話はまだまだっ、暴走の余地があります。ダーク一直線です。ある意味、ハッピーエンドはないという。でも、浩平はちゃんと戻ってきますけどね。
書き足りないこと、たくさんあります。少しでも伝えるためにがんばりますので、気に入ったら読んでください。ではでは。