追想迷宮 〜こぼれる夢 投稿者: GOMIMUSI
 こんこん
 ドアをたたく音に瑞佳が振り返ると、その動きに驚いた猫が、布団の上から床に飛び降りた。
「瑞佳? あら、起きていたの」
 部屋に入ってきたのは、彼女の母親。名前を美沙という。
「ちゃんと寝ていなくちゃだめよ。また猫と遊んでいたんでしょう」
 たしなめるように、しかしどこか面白がるような声で美沙は言った。瑞佳は首をすくめる。
 先ほどまで瑞佳が遊んでいた相手は、こうして瑞佳が寝込むことになった元凶であるところの、川に落ちた猫だった。瑞佳が付けた名前は、ピッパ。足下でじゃれつこうとするピッパを、美沙は片足で器用に持ち上げてクッションの上に移動させ、瑞佳のところに歩いてくると、その額に手を当てた。
「熱は…まだ少しあるみたいね。気分は?」
「うん、もう平気。ごめんね、お母さん」
「なに?」
「また猫、増えちゃった」
 ちろりと舌を出す瑞佳を見て、美沙は目を細める。
 猫が好きな瑞佳だが、美沙は娘のことを、犬型の性格だと思っていた。こう言うと、本人はいやがるので口に出さないが。
「この子、人に慣れてるのね。どこかで飼っていたんじゃないかしら」
「あ、そうだね。それじゃ、飼い主を捜したほうがいいかな」
「そうね…。でも、とりあえずは風邪を治すのが先ね。寝てなくて平気なの?」
「うん。さっき、なんだか夢を見ていたみたい。それで起きちゃった」
「どんな夢?」
 美沙の問いかけに、瑞佳は懐かしそうに目を細める。
「浩平と初めて会ったときの夢」
「…公園で?」
「うん。お母さんが、公園で泣いている浩平を見つけて、それで、遊んであげなさいって…それで、わたし浩平と仲良くなったんだよ」
 実際には、瑞佳の言うほど簡単な経緯ではなかった。心を閉ざした浩平がまともに相手にするようになるまでには、瑞佳の大変な努力があったのだ。なにしろ、浩平はことあるごとに瑞佳につらく当たっていじめ続けてきたのである。もっとも、瑞佳は母親にそのことを言わなかったので、美沙も黙って見守るにとどめたのだが…。
「ねえ」
 瑞佳は少しまじめな顔になって、美沙を見上げる。
「あのとき、お母さんが浩平を気にかけたのって、どうして?」
「…そりゃ、泣いている子がいたら気にするのは当たり前じゃない?」
「違うよ。お母さんは、それだけで誰かに優しくしたりしない。知ってるもん、わたし。お母さんがああいうことを言うときは、何か理由があるんだって」
 美沙は微笑した。瑞佳も成長したものだ…そう思ったのが顔に出たのか、瑞佳は不満そうな目になった。きっと子供扱いされている、とでも感じたのだろう。
「あのね、瑞佳」
 美沙はベッドの横に膝を突いて、瑞佳と視線を合わせる。
「子供っていうのはね、誰かにかまってほしいから泣くの。自分を見てほしいから、ここにいることに気づいてほしいから大声で泣きわめくの。手足をばたばたさせるの。それが、子供の泣き方。子供って、悲しいから泣くわけじゃないのよ。自分がここにいるってアピールするために、泣くの。一人で、誰にも気づかれないように泣く子供なんて普通はいないの」
「………」
「でも浩平君は違った。あの年齢で、彼は本当に悲しいことがどういうことか、知ってしまったの。いつかは誰にだって、そういう日が訪れるのでしょうけれど…でもあまりにも早すぎて。悲しい気持ちをどうすればいいか分からずに、あの子はずっと泣いていたの。泣き続けていたの。あのままほうっておいたら、浩平君、自分の流した涙の重さに耐えられなくなっていたわ」
 そして、底知れない深みに沈み込んでしまっていただろう。それが美沙には分かる。
「だから、瑞佳が浩平君と仲良くなろうとしているのを見て、お母さん、嬉しかったわ。瑞佳がいい子でよかった。あなたのおかげで、浩平君はああやって帰ってくることができたんですもの」
「え………」
 瑞佳はぎくりとする。まさか、美沙は知っている?
 浩平がこの世界からいなくなっていた、一年間。あの当時のことを、この世界で覚えているのは瑞佳だけのはずだった。それ以外の人間は、なぜか浩平を忘れたこと自体、完全に忘れているはずなのに。
 瑞佳の胸中を知らないように、美沙は続けた。
「誰だって、可能性はあるのよ? 本当に心の中に閉じこもって、戻れなくなることが」
「あ…そういう意味だったんだ」
「うん? なに?」
「ううん、何でもない」
 急いで首を振る瑞佳。別に秘密にしているわけではないが、話すと面倒なことになりそうだと思い、彼女は浩平の件については誰にも話したことがなかった。
「それで、瑞佳、おなかはすいてない?」
 その態度を気にかけた様子もなく、美沙は突然話題を変えた。
「うん、少し…」
「じゃあ、何か作ってあげるわね。お買い物してくるから、まだ我慢できる?」
「うん」
「じゃあ、出かけてくるわ。ちゃんとおとなしくしていないとだめよ」
 言い置いて、美沙は瑞佳の部屋を出ていった。
 横になって毛布をかぶり、目を閉じる。しかしたっぷり睡眠をとったばかりなので、眠気はない。
「浩平…なにしてるかな」
 自然、考えは幼なじみのことに向かった。暇さえあれば、こうして浩平のことを考える。そんな自分を、浩平はどう思うだろうか。うっとうしがられたりしないだろうか。
 高校を卒業し、大学に通うようになってまで、朝には起こしに行く自分を、うるさいとは思っていないだろうか。浩平の趣味には、自分は幼すぎたりしないだろうか。もう少し服に気を使ったほうがいいのではないか。それに、流行にも敏感になったほうが…。
 考え始めるときりがなかった。そんな自分に気づいて、思わず苦笑する。まるで、病気だ。使い古された言い回しを持ち出すなら、恋の病というやつだろうか。
 どうして、こんなに惹かれるのだろう。考えてみたが、瑞佳には分からなかった。


 大学構内の芝生の上で、浩平は昼寝をしていた。もう講義はすべて終わり、午後からの予定も特にない。講義中にたっぷり睡眠はとったはずなのに、まだ眠かった。
 日溜まりでうつらうつらとしていると、芝生を踏む足音が聞こえた。
「目がくさって落ちるわよ、んなに寝てると」
 目を開けると、秋の抜けるような青空を背景に、七瀬の顔が見えた。
「おう…奇遇だな」
「奇遇でも何でもないわよ。ここんとこ、この時間はあんたがここで昼寝をしている、それだけじゃない」
「何だ、俺に会いに来たのか?」
 起きあがって、背中に付いた芝を払いながらそう言うと、七瀬は肩をすくめた。
「別に。帰ろうとしたら見えたから、声をかけてあげただけよ」
「素直じゃないな、会いたかったなら、そう言ってくれればいいのに」
「いいの? 瑞佳に告げ口するわよ、そんなこと言ってると」
 高校の頃と、変わらないやりとりだった。彼らの高校はエスカレーター校というわけではないが、卒業後、そこから近くにあるこの私立大に進学する者が多い。取り立てて難関というわけでもなく、自分の古巣そのままの、自由な空気に惹かれてくるのだろうか。
 七瀬はどっこらしょ、とかけ声とともに浩平の隣に腰を下ろす。
「ババ臭いぞ」
「うるさいわね。あんたこそ、瑞佳のお見舞いに行かなくていいの?」
「昨日行ったばかりだ」
「分かってないのね、あの子は毎日行っても喜んでくれるわよ」
「そこまで甘やかせるか」
「へえ、言うじゃない。毎朝起こしてもらっている割には」
 揶揄するように言う七瀬に、浩平はふん、と鼻を鳴らした。
「あいつがそうしたがっているからな。俺は、それに合わせているだけだよ」
「どうかしら」
「と、いうことにしておいてくれ。なにしろ、あいつは世話する相手がいないといられないやつだからな」
「それって、あんたも猫も瑞佳の中では一緒ってことよ?」
「…そうとも言える」
 ふと声を落とした浩平に、七瀬は意外そうに目を見開く。絶対に反論されると思ったのだが。
「何だよ、妙な顔して」
「…折原、あんた、なんだか丸くなったわね」
「あん? 太ったっていうのか?」
「馬鹿、違う。性格のことを言ってるのよ」
「まあ、分かってるけどな。言ってみただけだ」
「はあ…。でも、ほんとにどうしたの? 最近、妙におとなしくない?」
「気のせいだろ。俺は、俺のままだ」
 そう言って、浩平は立ち上がる。七瀬もそれにならって、ふと思い出したような顔で言った。
「あ、そう言えば折原、この間気になること言ってたけど」
「あ?」
「自分の名前が気に入らないとか。あれ、どういうことだったの? 前には名前で呼ばれても、気にしたことなんてなかったのに」
「んー…。いや、別に大したことじゃないんだけどな」
 頭をがりがりとかきながら、面倒くさそうに言う。
「ちょっと最近、公平とか平等という言葉が好きじゃなくなってね。それだけだ」
「ふうん…」
 よく分からない顔の七瀬を残して、浩平はその場を後にした。


 キイ…キイ…
 鉄のきしむ音が聞こえた。公園のブランコ。それに乗って、静かに泣いている男の子。
 まだ小さかった自分が、そのそばにたっている。じっと、その顔を見ている。
「…きみは、なにを待っているの」
 男の子がそう言った。それで、彼女は答えた。
「キミが泣きやむの。いっしょにあそびたいから」

 目が覚めると、もうそとは薄暗かった。ベッドの上で起きあがって、ぐっとのびをする。
 ずいぶん懐かしい夢を見た。軽く頭を降りながら、瑞佳は今見た夢の内容を反芻する。子供の頃、出会った…誰かの夢。
 誰かの…え?
「あれ、おかしいな…何か引っかかる…」
 瑞佳は顔をしかめ、額に手を当てて考える。大事なことが、思い出せない。
 誰の、夢を、見た?
 それが頭に浮かんだ瞬間、背筋が総毛立つような恐怖が瑞佳を襲った。
 どうして。
 どうして、よりによってあの人のことを。あの幼なじみのことを忘れられるのだ、ほんの一瞬でも。
 ベッドから勢いよく飛び降り、パジャマのまま階段を駆け下りた。
「ちょっと、瑞佳!?」
 驚いた母親の声が聞こえたが、無視した。目指すのは、隣の家。
 こんなことが前にもあった。幼なじみの顔さえ、思い出せなかったこと。ほんの一瞬だけ。
 浩平が消える直前のことだった。
「浩平…!!」
 ドアをたたく。そして、大声で名前を呼ぶ。
「浩平、浩平ったら!」
 ばたばたと足音が響いて、ドアが開いた。安堵のあまり、瑞佳はその場にへたり込みそうになった。…まだ、いた。
 まだ? まだということは、この先は?
「瑞佳? どうした」
 驚いたように浩平は言った。瑞佳の尋常ではない様子に、その表情は険しい。
「なんだよ、なにがあった?」
 抱き起こすようにして問いただす。瑞佳は浩平にしがみついて、荒い呼吸を繰り返していた。
「………にも」
「なんだ?」
「もう、どこにも行ったりしないよね? 浩平は、ここにいるんだよね?」
 一瞬、息をのむ気配がした。それから、瑞佳は両腕で強く、強く抱きしめられた。
「………あ」
 とくん。とくん。とくん。
 浩平の胸の音。心臓の音。なんだか、少しだけ安心する。
「馬鹿、なにを言ってるんだ、おまえは」
「…だって………」
 声が続かない。ただ、腕の中で小さな猫のように、小刻みにふるえ続ける瑞佳。
「とにかく、入れ。そんな格好のまま外にいたらまずいだろ」
 浩平に促されて、瑞佳はこくんとうなずく。リビングに瑞佳を導くと、浩平はそのまま玄関に向かおうとした。
「どこに行くの?」
 心細げに呼び止める瑞佳に、浩平は強い調子で言った。
「すぐ戻る。待ってろ」
 言葉通り、浩平はものの二分とたたずに帰ってきた。瑞佳には、気の遠くなるような長い時間だったが。
「浩平…」
「今日は、泊まっていけ」
 何か言いかけた瑞佳を遮って、浩平はそう言った。
「え?」
「美沙さんと話したら、そのほうがいいって。どうせ今夜は、由起子さんも帰ってこないからな」
 そして、思いがけず優しい顔で、浩平は瑞佳に笑いかけた。
「浩平…」
「なんだよ」
「…ごめん、なさい。わたし…」
「分かってる。なにも言うな」
 それからまた、今度は幾分緩やかに抱きしめる。子供をあやすように背中をなでる浩平が、瑞佳にはなぜか遠い存在に思えた。


 隣の家で、二階の部屋の灯りがともる。それを見届けて、美沙は家の中に戻った。
「まったく、あの子ったら…」
 その瞳には、深い憂いの色がある。薄暗い部屋で、電気もつけずに美沙はたたずんでいた。
 すべてが終わったわけではなかったのだ、あのときに。それがはっきり分かる。
「こうなったら、一度は向き合わずには終わらない…か。やっかいな子だこと」
 どこか悲しげなつぶやきは、開いた窓から夜気に紛れて消えた。

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やってしまいました。ほのぼの路線を目指していたはずが、大きく脱線。それだけじゃない、書いている本人にもこの先の展開がまったく読めない。この先どうなるのか一番楽しみにしているのは、自分だったりする(^^;
瑞佳のお母さんはゲームには出てきませんが、こういう娘の母親である以上、ただ者であるはずがない。僕にとって瑞佳は母性の象徴であり、その母親といえば、女神のような女性だろうと勝手に想像しました。今回一番のお気に入りです。
蛇足ながら、前の作品では文中で「長森」と表記していたのを、この人のために「瑞佳」に変えました。どうぞご了承ください。
ついでにもう一つ。続けて書く以上、シリーズ名がいるだろうと思い、つけました。従ってこの前に書いた「秋の風邪」は追想迷宮の第一回、こちらは第二回です。楽しんでいただけると嬉しいなっ。

>いけだもの様
やった、みさき先輩だっ。うれしいな、と。澪もせっかく出てきたのだから、もうちょっと活躍してほしかった。何かひっくり返すとか(^^)

>神野龍牙様
そうか、そんなに時が流れていたのか。…感慨深いお話です。望ちゃんは、自分の母親の話だと分かっていたのかな?

>スライム様
茜をだますとは大したものです。でも、無意識と意識を逆転させたら、この人はとんでもないことをしそうな気がします。瑞佳、無事でいろよ〜。

T.Kame様
浩平のそばには誰もいなくて、突然澪が現れて、そして、別れた茜とはすれ違い。なんだか痛いですよ、これ。でも、痴漢の沢口容疑者って…?

>ここにあるよ?様
最近、自らレギュラー出演してますねえ。しかもONEのキャラとタメを張れるポテンシャルで…まるで、初期マー○○スヒ○○ーズの豪鬼のよう(笑)

>まてつや様
七瀬、それってぶるせ…………これ以上言ったら殴られるからやめます。

>N様
小さいときの浩平と瑞佳の関係、僕の想像しているのもこんな感じです。でも、瑞佳って一途だよね…。

>偽善者Z様
浩平犯課帳は勢い衰えず! いよいよMOON.のキャラ登場ですか。しかし茜をこれ以上、常人離れさせていいんですか?(笑)

>だよだよ星人様
激動、でした。あの嵐のような展開。そして、突然降ってわいた日常、ぽっかりと空虚を抱えた心。ラストが胸にきます。

>よもすえ様
広瀬の話と、茜門様、見比べると…。本当に同じ人が書いているんですか? 確かに言葉の勢い、というか威力はそのままだけど。

新しい人も増えてるし、感想書き足りないけどこの辺で。だけど、これだけ時間がたってもまだここは盛り上がり続けてますね。いいことです。
とりあえず、「心に届くSS書き」目指して精進します。次が書き上がるのがいつかは分かりませんが、またお会いしましょう。ではでは。

追記・最近もめ事があったようですが、お互い自重しましょう。ここの掲示板は、いつも日溜まりのような居心地のいい場所であってほしいです。