秋の風邪 投稿者: GOMIMUSI
 時計を睨んでいた浩平は、しばらくして長森に向かって手を差し出した。
「見せてみろ」
 布団にくるまって、少し顔を赤くしていた長森は、上目遣いに浩平の、少し怒ったような顔を見ながら口から体温計を取り出し、浩平の手に渡した。その液晶表示を見て、浩平はため息をついた。
「三九・四度。明日は、学校は休みだな」
「ううん、行くよ」
 ずるっ。長森の言葉に、豪快にずっこける浩平。
「馬鹿言うな、馬鹿。そんな体調で、学校なんかに行ってどうする。迷惑なだけだ」
「平気だよ、いつもよりちょっと体温が高いだけだもん」
「お・お・ば・か・も・の! 平熱より三度も高いじゃないか。三度だぞ、三度! そのどこがちょっとだ!」
「三度くらい、どうってことないよ、季節の変化に比べたら」
「うるさい、却下だ却下。そんなに学校に行きたいなら、しっかり食って寝て、風邪治してから来い」
「だって、浩平、それまでずっと遅刻するつもり?」
「あのな…俺をなんだと思っている。その気になれば、おまえがいなくても起きられるんだよ。あまりわがまま言ってると、ベッドに縛りつけちまうぞ」
「あ…浩平、変態だ」
「ちょっと待て! 今何を想像した!」
 それからしばらくして。
「しかしおまえも、あれだな。泳ぐ時期をはずしたな」
「泳ごうと思ったんじゃないもん」
「ああ、川に落ちただけだよな。どぼーん、と。ま、おぼれるような深さの川じゃなかったからいいけど」
「浩平、心配してくれた?」
「馬鹿。…で、猫は無事だったか?」
「へ?」
 会話の流れを無視して、突然出てきた単語に長森は目を丸くする。
「無事…だけど、浩平、わたし猫のことなんて、まだ一言も言ってないよね?」
「ああ」
「なんで分かったの? わたしが、川に落ちた猫を助けようとした、なんて」
「だってそれ以外に考えられないだろうが」
 はあ、とため息をついてみせる浩平。
「おまえ、何もないところでいきなりつまずいて、川に落ちることができるくらい器用なのか? そんなことないだろう。で、以前にもこんなことがあったよな。木に登った猫を助けようとして、枝が折れて、危うく大けがするところだったこと、あったろ」
「あ…うん、覚えてる。あの時、浩平が助けてくれたんだよね」
 長森は懐かしそうに目を細めた。
「あれは、おまえが俺の上に落っこちてきただけだ。…それでまあ、後先のことも考えず、川に飛び込んじまうようなことといったら、そんなことだろうと思ったんだ」
「はああ…」
 長森はほけっと浩平の顔を眺めていた。
「なんだ」
「浩平って、昔からそういうところは鋭いよね。よく見ているっていうか…」
「別に…知ってたからな」
「え?」
「いや、なんでも」
 目をそらす浩平。
 知っていたからな。おまえが、そういう奴だってことは。だって俺も、おまえに拾ってもらったんだからな。
 きょろきょろと視線を、部屋の中にさまよわせる。長森の部屋は、それなりに片づいていて居心地がいい。
「助けた猫ってのは、どこだ?」
「ほら、そこのクッションの上」
「うん…ああ、こいつか。なんか、ちょっと薄汚れてるな」
 ややぼさぼさした毛並みの、白い猫。こいつも長森の家に居着くのだろうか。
「あとで洗ってあげないとね。そうだ、ミルクもあげなくちゃ」
 ベッドから起き出そうとした長森を、浩平は慌てて制した。
「それくらい俺がやる。おまえは寝ておけ」
「ええーっ、浩平じゃ心配…」
「何を言うか。俺だってそのくらい…」
 抱き上げようとする。しかし、猫は嫌がって浩平の腕を抜け出そうと、暴れ出した。
「お、おい、このっ…」
「浩平、抱き方が違うよ。もっと胸のところに抱えて、こう」
 長森が手を伸ばして、抱き方を教える。その通りにしてみると、猫はすぐにおとなしくなった。
「へえ…抱き方があるんだ」
「そだよ。心臓の音が聞こえるような格好だと、安心できるみたい」
「赤ちゃんみたいだな」
「そうかな。わたしも安心できるけどな。心臓の音って、暖かくて、子守歌みたいなんだもん」
「ふーん、そうか」
 言いながら、浩平は突然長森の胸に耳を押し当ててきた。
「きゃっ、ちょ、ちょっと浩平…」
「何もしやしない。聞くだけだ」
 どぎまぎする長森に対して、ずいぶんと冷静な浩平。
「どきどきしてるな。心臓が悪いのか?」
「馬鹿っ。浩平が変なことするからじゃないのっ」
 真っ赤になった長森の顔を、上目遣いに見ながら、浩平は含み笑いをした。
「なによ、気持ち悪い…」
「本当だ」
「え?」
「この音、安心する」
 目を閉じて、じっと長森の心音に聞き入る浩平。長森は、どうしたらいいのか分からず、やや体を固くしたまま横になっていた。
 生きている、音。その響きは、本当に心安らぐ音だった。たぶん、この世界に生まれてくる前に、最初に耳にする…母の胎内での記憶。それにつながっている。それに、長森のミルクに似たにおい。
 とても、穏やかな気分だった。久しく感じなかった、平安。
 突然、がちゃりと部屋のドアが開いた。
「瑞佳ーっ、お見舞いに来た…よ……」
 七瀬はその光景を見て、ぎょっとして立ちすくんだ。長森が、急いで唇に人差し指を当て、黙って、と合図をする。浩平は、ベッドの脇にもたれるようにして、長森の胸に頭をのせたまま動かない。
「…何? 眠ってるの?」
「うん。ちょっとこの体勢だと、動かそうにも動かせなくて」
 浩平の下敷きになった格好のまま、長森は苦笑する。本当に穏やかな顔をした浩平は、軽い寝息の音をたてていた。
 腕には猫を抱いたまま。その猫も、夢路に同行しているようだ。
「…まるで、図体のでかい子どもね」
「かわいいよね」
「どこが。…まあ、ちょっとはね」
 二人は顔を見合わせ、くすくすと笑った。
「なんだか瑞佳、そうやってると折原のお母さんみたいだね」
 笑いを含んだ声で、七瀬は言った。しかし、長森はそれを聞いて急に顔を曇らせる。
「あれ? こう言われるの嫌い?」
 怪訝な顔で問いかける七瀬に、ゆっくりと首を振って見せた。
「ううん。…浩平、お母さんのこと…あんまり好きじゃないみたいに言ってたから…」
 軽く下唇を噛む。七瀬はそんな長森を見て、なんとなく黙り込んだ。
 かなわないな、と思う。こんなに、長森は他人の心の痛みを感じ取り、それを癒やそうと懸命になる。それもごく自然に。その姿は、とても女の子らしくて…魅力的だった。
「浩平はね」
 しばらくして、ぽつりと長森は言った。
「ずっと一人だったから。お父さんが死んで、妹さんが死んで。お母さんは…まだどこかで生きてるみたいだけど、でもいないようなものだって。だから…わたし、ずっと浩平の側にいられたらいいなって思った。浩平の、家族になれたら…って」
 それから、ふと我に返って顔を上げる。じっと見つめている七瀬と、視線があってしまった。
「あ、ご、ごめん。湿っぽい話は、嫌いだよね?」
「え? ええと…まあ折原にも、いろいろあるんだろうし…」
 七瀬は言葉を濁す。その七瀬の顔を見ながら、長森は首をかしげた。
「七瀬さん、浩平のこと、折原って名字で呼ぶよね」
「え? 別に変じゃないでしょ。住井君やら南君やら、みんな名字で呼んでるよ」
「うん。浩平も、わたしや七瀬さんのこと、名字で呼ぶし…」
 じっと思案している様子の長森。
「どっちがいいのかな。浩平って呼ぶのと、折原君っていうのと」
「はあ?」
 素っ頓狂な声をあげる七瀬。その時、長森を枕にして熟睡していた浩平が、ぴくりと身動きした。七瀬の声で、目を覚ましてしまったようだ。
「あれ…」
 寝ぼけ眼をむけて、浩平は訝しげに言った。
「どうしてここに、長森がいる。七瀬も」
「…あんた、寝ぼけてるの?」
 あきれ顔の七瀬に、浩平は記憶を探るような目をしていた。状況に気づいたらしく、長森から少し離れて頭をかく。やや目の下が赤い。腕の中で眠っている猫に気づいて、側のクッションの上にそっと置いた。
「ああ…いや、悪い。眠っちまうとは思わなかった」
 とろんとした目の浩平を見つめて、長森は少し、ためらっているようだった。ややあって、小声で言う。
「折原…くん」
「ああ?」
 びっくりして、眠気の吹き飛んだ顔で浩平は長森を凝視した。
「なんだよ、他人行儀に…気持ち悪い」
「え…と、浩平、自分の名前、好きじゃないって前に言ってたから」
 その言葉を聞いて、七瀬のほうが目を丸くした。そんなことは初耳だ。学校に、公平のことを名前で呼んでいる友人は大勢いるのに。
「馬鹿。そんなこと気にすることないだろ。いつも通りでいい、いつも通りで」
 それから、七瀬に顔をむけた。
「いつの間に入ってきたんだ…どうした?」
 七瀬が浩平の顔をじっと見ているのに気づいて、首をかしげる。
「別に。あんたがおかしいのは、いつものことだし」
「なんだとお?」
 憎まれ口になりながらも、七瀬は考えていたのだった。この、いかにも何も考えていなさそうな男は、たぶん誰より傷ついていて…だから…。
「あ、そうだ。クッキー焼いて持ってきたのよ。食べる?」
「あ、うん」
「俺は?」
「あんたは病人じゃないでしょ」
「差別かよ」
「ちょっとは遠慮ってもんを知りなさいよ。…仕方ないから、わけてあげるけど」
 そんなふうにして、その日は暮れていった。

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えらいご無沙汰になってしまいました。僕のこと、みなさんお忘れでしょうね…。
しかし、ここのパワーって…すごいです。
最近PSの「チョコボの不思議なダンジョン」にはまってしまい(今さらなにやってんだかこの暇人は…)、まともにネットにつなげていない状況です。いえ、SSコーナーはとにかく、目を通してるんですが…すごいですね、ほんと。こっちなんて、もうほとんどネタは尽きたというのに。いや、当初のペースが異常だったのかもしれんが。
この話は、一応続き物として想定しています。書いていいものか、迷ってますが。実は、以前に書いたある話とつながりがあります。瑞佳エンディング後の話なんですが…読みたい人いるかな。
ごめんなさい、感想は割愛します。また今度。ではでは。