心ください・4回目 投稿者: GOMIMUSI
 小さなホールだった。収容人数はそれほど多くない。また、劇を見に来た人数もそれほど多くなく、席はまばらだった。
 浩平が扉をくぐると、最後列の席に茜が座っているのが見えた。小柄な後ろ姿に、ボリュームのある長いお下げ髪は案外目立つ。浩平は黙ったまま、チケットの番号に記された席を捜し、それにすわった。
「あ、よかった。ちゃんと来た」
 ほっとしたような声に、振り返る。隣の席に、見慣れた顔があって、にこにこと笑っていた。
「長森…」
「里村さんに頼んでよかった。来なかったら、どうしようと思ってたんだ」
 本当に安堵した顔の、長森を浩平は不思議な気分で見つめていた。
「長森…おまえといい、茜といい…」
「ん?」
「いや…なんでもない」
 浩平はため息をついて、前を向く。
「…? ま、いいけど。途中で眠ったりしたら駄目だよ」
 長森のお節介に、苦笑。
「眠れねえよ。最近、寝てばっかりだからな」
 たぶん、それは澪のことを忘れたいから。けれど、そのたびに澪の夢を見て。
 そして、今日、ここへ来た。決心の付かないままに、来てしまった、そういう気分がある。
 開幕直前になって、スピーカーから聞き覚えのある声が流れてきた。
『えーと、みなさん。本日はご来演、まことにありがとうございます』
「みさき先輩…?」
 思わずつぶやいた浩平。みさき先輩まで。
『今回、我が演劇部がお届けする演目は、「種」といいます。わたし達はこの中で、少し特別な試みをすることにいたしました。ご理解いただくのは難しいかもしれませんが…』
 浩平は、次第に焦燥感に似たものを感じ始めていた。どうして、澪のために彼女たちはここまでしてくれるのだろう。それが、分からない。
『…それでは、間もなく始まりの時間となります。どうか、わたし達からのメッセージを受け取ってやってください』
 みさきの声が、やむ。そのとたんに、観客達のざわめきがうるさいほど耳についた。
「どうしたの?」
 浩平がため息をつくと、長森は敏感に反応して、顔をのぞき込もうとした。
「…分からねえ」
「何が?」
「どうして、澪のためにおまえ達がここまでやるんだ? 演劇部を全部動かして、ホールを借りて…金も手間もかかってる。そこまでするのがどうしてか、さっぱり分からねえ」
 すると、長森はくすっと笑った。
「決まってるじゃない」
「…え?」
「澪ちゃんはね、わたし達みんなの中で、ただ一人浩平のことを忘れなかった子なんだよ?」
「………」
「わたし達みんな、浩平が大好きなのに、澪ちゃん以外はみんなそのことを忘れていた。そして、その間澪ちゃんはずっと我慢して、いつか帰ってくる人のことを話し続けていたの。声にならない言葉で。…そんな、強い気持ちに動かないものなんて、ないんだよ」

 澪は、本番前の舞台袖で深呼吸していた。
 緊張は、ある。なかったら困る。ここで、最高の演技をしなければならないのだから。
 伝えたいことがたくさんあった。誰のおかげで、自分が今ここにいるか。どうして今、笑うことができるのか。それは、いつも覚えておきたいこと。
 幼い頃に出会った人。その人から借りたスケッチブックが、わたしに言葉を与えてくれた。だから、ここまでこられた。笑うことができた。
 それを、伝えよう。
 澪は覚悟を決めた顔を上げた。
「どう?」
 現部長のクラスメイトが、澪の顔をのぞき込んだ。澪は、ただにこっと笑ってそれに答えた。
 彼女は微笑み返し、時計を見て、合図を送る。
 開幕の時間だった。

 台詞は全くなかった。部員達はきらびやかな衣装を身につけて、舞台の上で舞踏のような動作をしている。
 その中心には、常に澪がいた。緑を中心としたかなり凝った装飾の、裾の長い衣装。そんなものを身につけているので、動作は自然、ゆっくりとしたものになる。
 静かな動きの中で、澪は視線で、指先の表情で、語りはじめた。
 草木が芽吹き、緑に覆われる大地の物語を。
『聞いてください。どうか、聞こえる方だけ聞いてください』
 みさきが語り出す。
『あなた方は、知らないかもしれません。植物に、心があることを。けれど、それは確かなこと。彼女たちは、ただ、待っているのです…』
 照明が、舞台の上の表情を塗り替えていく。温かな春から、情熱的な夏へ。やがて、穏やかな秋へ。さらには寒く厳しい冬へ。
 その季節ごとの姿を、全身で表現していた部員達は、冬が訪れると静かに舞台の上でうずくまった。
『冬。彼女らは種となって眠る。次の季節を待ちわびて。寒いのは寂しいから。殻に閉じこもるのは、触れてほしいから』
 みさきのナレーションが、静かに、歌うような抑揚をつけて響く。決して張り上げず、しかし、よく通る声。腹式呼吸の訓練の甲斐は、あったようだ。
 舞台は刻一刻、表情を変えていく。
『やがて、春』
 みさきの声が告げる。舞台の上で、草木の化身である少女達が黒い衣を脱ぎ捨て、緑色の衣装に変わった。種から、緑の植物へ。劇的な変化を、鮮やかに演じてみせる。
 しかし、澪だけが黒い衣装のままたたずんでいた。そのまま、動かない。
 陽気に春を謳歌していた彼女たちの動きが、突然鈍った。ひどく緩慢に、草木はその動きを止め…沈黙する。
 澪を中心として、時は止まっていた。春は、凍りついた。
『分かりますか?』
 みさきの声が、告げる。
『この子が何を待っているか。あなたに分かりますか?』
 浩平はとまどいを覚えていた。まるで、自分に向かって語りかけているような…。
「浩平」
 長森が耳打ちする。
「澪ちゃんのところへ、行って」
「な…本番中だぞ」
 慌てて、小声で言い返す。しかし長森は首を振った。
「分かるでしょ。これは芝居であって、芝居じゃないの。澪ちゃんが待っているのは、本当のことだよ」
「しかし…ぶっつけ本番でやれってのかよ」
「芝居する必要はないの。澪ちゃんを、迎えに行ってあげれば。そのために来たんでしょ、浩平は」
 言葉に詰まった浩平に、追い打ちをかけるようにみさきの声が響く。
『この子が、最初に芽生えたとき、側にいた人。その人を、この子は覚えている。心をくれた人。その人を、この子は待っている』
 まるで呪文。その声に導かれるように立ち上がった。
「おい…」
 浩平が何をしようとしているのか、分かっていない観客が怪訝な顔で注意しようとした。それは、みさきの声にかき消された。
『ほら。ここへ、来てください。この子を縛りつけている、冬を終わらせるために。いつかのように、あなたの心、ください』
 スポットライトが、浩平を照らす。これで、浩平は出演者の一人として迎え入れられてしまった。舞台の魔法が、浩平にもかかったようだった。
 いささか険悪な表情のまま、浩平は舞台に向かって歩いていく。その足取りは重かった。
 こんなことをしても、自分はまだ、同じことを繰り返すかもしれない。まだ答えは出ていないのに。

「どうかな?」
 みさきは、深山に小声で尋ねた。
「うん。折原君、のってくれたみたい。だけど…ちょっと、気が進まないようね」
「そっか…やっぱり、もう一押しが足りないな」

 舞台の手前まで来て、浩平の足はとまった。見えない壁に突き当たったように。
 頭では分かっていた。このまま澪のところへ行かなければ、澪はきっと、傷つく。取り返しのつかない傷を与えてしまう。それでも、浩平は逡巡していた。
 自分にその価値があるのか。自分は、澪の手を取れるような男なのか…。
 立ちどまったままの浩平に、場の空気が静止する。
 その場の全員が、浩平をじっと見つめていた。長森も茜も、ただ見つめるだけだった。その先へ…誰も、浩平を連れていけない。
 長いようで、短い時間だった。
 浩平の中で天秤が傾き、舞台に背をむけようとしたちょうどその時。
「…え?」
 浩平は目を見張った。
 声が、聞こえたのだ。ひどく懐かしい…聞こえるはずのない声。
(おにいちゃん)
 同時に、小さな手に引っ張られた気がした。舞台のほうへ。澪のほうへ。
「…みさお?」
 浩平は思わず、小声でつぶやいた。あの時、永遠の世界で、共にいることを望んだ相手。大切な、妹。
 声は、こう言っていた。
 こっちを選んだんだから、駄々をこねちゃ駄目だよ、と。
 気のせいだろうか。けれど…みさおが、許してくれるのなら。

 そして、浩平は澪のもとへたどり着いた。その手を取る。澪は、浩平の顔を見上げて、にこりと笑った。ただ、本当に嬉しそうに笑ったのだった。

 まだ、自信なんてない。けれど、本当に必要とされているなら。

 終幕。息を吹き返した草木が、舞台の上で動き始める。浩平は澪の手を取って、観客席に向かうと、ちょっと気取った仕草で一礼して見せた。

 長森は、無心に拍手をしていた。安堵感と、嬉しいような悲しいような気持ちを抑えながら、半分泣きそうな顔で。

 茜は、そっと席を立ち、外に出た。光になれるまでの間、目を細くして、その顔はほのかに笑っているようだった。

 みさきは、ほうっ、と大きく息をついた。この場に、声だけでも参加できてよかった。そんな思いに浸りながら。


 そして、舞台は幕をおろした。新しい始まりの種を宿して。

**********
やー、間があいてしまった。もう、舞台のことなんてまったく分からないのに、こんなテーマを選んでしまったばっかりに、苦しみました。ええ、もう滅茶苦茶です。演出過剰という気もするし、まだ足りないような気もするし…。
みさおには、どうしても出てほしかった。これで、浩平が心の迷いにけりを付ける、というようにしないと、いつまでも引きずる気がしたんですね。しかし、舞台に浩平を引っぱり出したのは強引だったかな? ちょっと反省。

>まてつや様
ミラクルルミ、いきなりシリアスな展開になって、驚きました。浩平は一人しかいないし…あきらめて、血を見てもらうしかないか?
光と闇、本当にこうだと思います、みさきさんの心の中。そのままです。

>いけだもの様
住井、暗いぞ。気持ちはわからんでもないが。だけど事故なんだから、そうムキになるな。おまえの気持ちは、みんなちゃんと分かってるから…迷惑だけど。
澪にハーモニカというのも、アイディアですね。でも相手がみさきさんだと、こうですか…。

>WILYOU様
長森、かわいそう…というか、なんだかな…。周辺への被害が凄まじいですけど、今回は住井だけじゃないし…。相変わらず、スケールがでかいですね。茜、さりげなく被害なし。

>だよだよ星人様
郁未先生の歓迎会計画から、いきなり中華街ですか。そりゃ、この人が出てこないほうがおかしい、確かに。なんだか、芋づる式…。

>スライム様
こう言う連中を野放しにしておいたら、間違いなくこの世の中はすさむ…いや、明るくなるかな。でも、茜がいるし…。最近この人、人間離れが激しいもんな〜(笑)

>KOH様
タイトルでびっくりしましたが、最後まで読んで納得。というか、感動。ちょっとまねのできないみさきさんでした。

>偽善者Z様
澪が出てきたっ、万歳! って、最近染まってきたかな…。「何がほしい?」『むね』がなんだかお気に入りです。

>よもすえ様
よっし、間に合った。そういえば、トップページの記念で書いてる人、多いんですね。自分じゃ意識してなかったけど。単に好きで書いただけ。
自分の中では、澪の浩平に対する呼び方は「あの人」となっています。

>11番目の猫様
透には戻ってきてほしいです、本当に。全部、引き受けたままじゃ辛いですから。手紙の言い回しや茜の心の動き、やっぱり細かくて、いいですね。

間があいてしまったので、感想を書くのが大変です。本当は今までの、全員に書きたいくらいですが。
悩んだ末にこうなりました。気に入っていただけると嬉しいですが。ではでは。