ただひとつの願い 投稿者: GOMIMUSI
「なあ、いいだろ?」
「………」
「別に、変なことしようってわけじゃないんだからさ。ちょっとそこで、お茶でもどうかなってだけのことなんだからさ」
「…でも、私…」
「な、行こう。ほら、早く」
 角を曲がる前に声が聞こえてきた。それから、すぐに少女の後ろ姿と、それに覆い被さるようにして口説いている大柄な少年、たぶん高校生の姿が見えた。
「すいませんが」
 彼は不機嫌な声をかけた。
「あん?」
 不良っぽい少年は、その声に振り返る。また、少女もはっとしたように顔をむけた。
「透…」
「それ、オレの連れなんで。ちょっと返してもらえませんか?」
 ふたりは、険しい顔で視線をかわしていた。やがて、へっ、と高校生のほうがそっぽを向く。
 しばらく高校生が立ち去る方向を睨んでいた彼は、やがて少女に向き直る。
「おまえもなあ、嫌なら嫌ってはっきり言えよ。いつも言っているだろうが」
「…はい」
 少女は恥ずかしそうにうつむいた。
「まったく。オレがいなくなったら、どうするんだよ。心配なんだよな…茜は」

 ぽつん。
 頬に冷たい感触がはじけて、彼は目をさました。
 いつの間にか、空は灰色の雲に覆われていた。起きあがって、ため息をひとつ。
「おいおい…今日は雨なんて、言ってたかよ」
 肩を落として、給水塔の下に入る。時計を見ると、まだ昼休みになる前だった。
「まいったな…今からじゃ、人目に付かないように出ていくのは難しいし…」
 頭をかきむしって、その場に座り込む。風が時折吹き込んできて、雨の飛沫が頬にかかった。
 せっかく、一日ぼんやり過ごしてやろうと思ったのに。今時の中学生には、そうそうできない贅沢なんだぞ。
 暗い空を見上げながら、ふと思う。
 どうして、あいつの夢を見たのだろう。もう一人ではなく、よりによって、あいつなんかの夢を…。

 雨のなか。彼女は玄関前で、戸惑ったような顔で立ちつくしていた。
 生徒達は放課後の開放感のなか、かしましいほどの声で会話しながら家路につこうとしている。いつもより混雑しているのは、傘を忘れ、急に降ってきた雨で帰るに帰れない生徒達のためであろう。その大混雑のなかで、彼女は必死の面もちで、何かを探していた。
「あれ? 茜じゃない」
 突然、声をかけられて彼女は振り返る。
「…詩子」
「どしたの、こんなところで。ははあ、傘を忘れたとか?」
 その問いかけに茜はゆっくりと首を振り、白い折り畳み傘をとりだして見せた。
「なんだ。じゃ、どうして帰らないの?」
 その問いに、茜はうつむいた。
「…人を待っているから」
 やや間をおいて、ぼそぼそと答える。
「そう…ねえ、茜。大丈夫?」
 詩子がかけた声には、心配そうな響きがあった。
「すごく元気がないけど。何かあった?」
 日頃からおとなしい、茜のこういう変化を見分けられるのは、つきあいの長い詩子ぐらいのものであろう。いや、もう一人いるのだが…。
「…はい」
「…そ、そう。じゃ、あたし先に帰るね」
「…さよなら」
 素っ気ない返事をした茜を、詩子は振り返りながら傘も持たず、走って雨のなかへ出ていった。

 やがて日が暮れ、暗くなりつつある学校の玄関に、まだ茜は立っていた。もう帰る生徒の姿はなく、あと数分もすれば、校門が閉鎖されて、出入りができなくなる。
 茜は泣きそうな顔で、それでも何かを待っていた。しかし校内放送が、全員の下校を促しはじめて、彼女はあきらめたように傘を手にして、外へ出た。
「ありゃ、どうしたの。こんな時間まで」
 用務員のおじさんが、そんな茜を見つけて声をかける。
「…いえ」
「気をつけて帰るんだよ。最近物騒なんだから」
 おじさんは茜が校門の外に出ると、がちゃりと錠を下ろした。その後ろで、茜は校舎をじっと見つめていた。
「…なにか、あったのかい?」
 茜の尋常ではない様子に心配したのか、おじさんは心配そうな顔をした。茜は無表情に相手を見返し、静かな声で言った。
「…いいえ。では、失礼します」
 背中をむけ、ゆっくりとした足取りで帰っていく。
 雨はまだ、やむ気配がない。

 土曜日になった。
 先日雨を降らせた気圧の谷は、前線に挟まれてしばらくこのあたりに停滞し、大雨こそ降らないものの、長期に渡って、この地方一帯はぐずついた天気が続くでしょう…朝の天気予報を思い出す。窓の外は、相変わらず灰色一色だった。
「茜っ」
 幼なじみの快活な声に、茜はゆっくりと振り返る。
「今日、午後は予定、ある?」
「…いえ」
 少し考えたあと、茜は首を振る。詩子の顔が、ぱっと明るくなった。
「じゃあ、いつもみたいに、商店街でも歩かない? 甘いもの巡り、付き合うから」
「…ふたりで?」
「そうよ。いつもふたりで行ってるじゃない」
 当然という顔で言う詩子に、茜はじっと視線を注いだ。
「…詩子、本当に覚えていないのですか?」
「え…何を?」
 きょとんとした顔の詩子に、茜はふと目をそらしてしまう。
「…いいえ。なんでもありません」
「…よくわからないけど。で、行くの?」
「…雨、降りそうですよ」
 茜が言うと同時に、窓ガラスに雫がはじけた。
「あらら…間が悪いわね」
 詩子は空を見て、顔をしかめる。
「それでは、また今度」
 茜は詩子を、表情の読みとれない顔で見つめながら言った。
「仕方ないね。じゃ、また」

 その日は、早く家に帰った。なにもする気が起きなかった。
 ベッドの上に横になり、じっと天井を見つめる。
 何が起きたのか、実のところ、よくわかっていない。けれど、とても大切な何かを見落としているような気がする。
「透…どこへ行ったの…」
 知らず、茜はつぶやいていた。
 まるで、兄弟のように育った三人。その中で、茜が透の気持ちに気づいたのは、それだけ透のことを見ていた、ということなのだろう。けれど、今。
 どうして。

「どうして、言わないのですか」
 その声には、責めるようなところがあったのかもしれない。透は、不愉快そうに茜を見返した。
「おまえには関係ないだろう」
「でも、あなたが言わなければ、詩子は絶対に気づきませんよ。そういうところは不器用な子ですから」
「…ふん」
 鼻を鳴らして、透は背中をむけた。しばらくして透が発した声は、笑いを含んでいた。
「おまえ、そういうところは変わってないな」
「………?」
 透の言葉に、茜は首をかしげる。
「俺達のなかじゃ、おまえ、まるで妹みたいに振る舞っていて。でも、精神年齢が一番高いのは、おまえだと思うぞ」
「…そんなこと、ないです」
 しばらくふたりとも黙っていた。
「…ごめんな」
 やがて透は言った。何に対して謝っているのか、それは茜にはわからなかった。

 茜は飛び起きた。時計を見ると、まだ一時間ほどしかたってない。
 うたた寝をして、夢を見ていたのだ。あの日、交わした会話。どこでだった?
 いつも、三人で遊んでいた場所。懐かしい場所。
「…あの、空き地」
 矢も楯もたまらず、茜は立ち上がった。傘をつかんで、外へ駆け出す。
 雨は降り続けていた。傘をさしたまま、茜は走っていた。水たまりをよけもしないで駆け抜けていく。スカートの裾が、重く感じられるほど湿っていた。
 家から、それほど遠くない。丈の高い雑草に覆われた、その場所。そこへ、茜は迷いもしないで踏み込んでいた。
 きっと、そこにいる。根拠のない確信。
 そして、彼はいた。
「透……!」
 低い茜の叫びに、彼は驚いたような顔で振り向いた。
「茜…どうして…」
 傘もささずに、ずぶぬれでたたずんでいた透の前にたどり着くと、茜は息を乱しながらその頭上に傘をさしかけた。
「なにを…なにをしてるんですか、透」
 茜はやっと、それだけ言った。
「………」
 透はじっと、茜の顔を見ている。信じられないものを見るように。
「どうして…学校に来ないの?」
 茜は必死で言いながら、けれど激しい焦燥感にかられていた。
 違う。
 聞かなければならないのは、こんなことじゃない。こんなことじゃなくて。
(ねえ…この人、茜の知り合い?)
 不意に、茜の頬に手が触れてきた。透の手は、冷たかった。
「馬鹿だな、茜は」
 透は微笑を含んで、言った。
「走ってきただろ。傘が、なんの役にも立ってないじゃないか」
 茜は声もなく、相手を見つめる。透の手が茜から離れた。
「どうして…覚えているんだ、おまえは」
 やがて、透は言った。
「今じゃ、親父だってオレが誰なのか、わからないってのに」
「………!」
 茜は息をのんだ。それは、予感が現実になったことを示していた。
 日常に、いつの間にか忍び込んでいた異質な感覚。まるで、自分一人が場違いなところにいるような。長い間、そんな違和感を感じていた。
 けれど、場違いなところにいたのは、彼のほうだった。茜は、ただ彼のことを覚えていただけだったのだ。
 彼女一人だけが。
(ねえ…この人、茜の知り合い?)
(な…何を言ってるの? 詩子)
「昨日、詩子に会ったけど」
 透の口から出た名前に、茜はびくっと体を震わせた。
「あいつも、オレのことは完全に忘れていたよ。オレのことを見たけど、他人を見る目で…そのまま、すれ違った」
 そんな…。
「どうして…」
 唖然としながら、茜はつぶやいていた。透は、まるで他人に起きていることを話すように、静かな声で言った。
「さあな。たぶん、オレの考えていたことが…正しかったってことだろうな」
「透の、考えていたこと…?」
「ああ。オレは、ずっと考えていたんだ。ここはオレのいる場所じゃないって。ここには、オレのいるべきところなんてないんだって」
「まさか…それって、詩子の…」
「あいつは関係ない」
 強い声で、透は茜の言いかけたことを遮った。
「オレがあいつを好きになったのは、それとは別の問題だよ。だいたい、あいつはまだまだ子どもだから…好きとか嫌いとか、考えるには早すぎるんだよ。分かるだろ?」
 少し寂しげな声で、透は言った。
 それがいいわけに過ぎないことは、透自身が一番よく知っているだろう。
 もし、詩子が茜と同じくらい透を好きなら。
 それだけで、透がここにいる理由になったのかもしれない。こんなに、透が自分を追いつめることはなかったのかもしれないのに。
「透…どこへ、行くの?」
 震える声で、茜は訊ねた。
「…さあな」
「もう、帰らないの? ずっと…?」
 茜を見つめる透の笑みが、酷く深いものになった。まるで、この世の果てから見つめられているような気持ちになる。
 不意に、なんの前置きもなく、透は茜の小柄な体を抱きしめた。
「あ……」
 茜の手から、傘が落ちた。
「ごめんな、茜」
 透は茜の耳元で、ささやくように言った。
「おまえを好きになれなくて…ごめんな」

 まるで、本当の兄弟のように育っていた。
 詩子は姉のように、また妹のように世話好きで、遠慮がなかった。茜はいつも慎ましくしていながら、時には母親を思わせるほど、さりげないところに気がついた。
 そんなふたりといながら、どこか遠いところにいた彼の心。
 茜の気持ちに気づいていたのに、彼はそれに答えようとしなかった。
 好きという気持ちは、いつも突然すぎて。あまりにも突然すぎて、なんの準備もできないままで。
 結局、一番身近な人を、一番傷つけてしまうのは、なぜだろう。
 透は祈った。
 今まで一度も祈ったことなんてないけど。神様がいるなんて、思ったことさえないけど。これが最初で、最後の願いです。
 神様、どうか、この子を、幸せにしてやってください。この子のことだけを考えてやれる、この子だけを見ていてくれる誰かに、出会わせてやってください。
 オレが与えられなかったものを、どうかこの子に与えてやってください。この子は、悲しいまま終わるような、そんな子じゃないのだから。
 とてもやさしい子なんです。誰よりも、やさしくていい子なんです。だから、どうか。
 どうか、お願いです。神様。


「……透……?」
 茜はつぶやいた。
 どうして。私は、一人でこんなところで。
「透…ねえ、どこ? どこに…」
 踏み出しかけた足に、何かが当たった。それは、茜が落とした、傘だった。
 雨は、降り続けている。
「透……!!」
 茜は叫んだ。答える声はない。
「そんな…嫌だ、透……!」
 雨の滴ではないものが、茜の頬をぬらす。
 ただ一人、空き地の真ん中に立って、茜は泣いていた。

 やがて、時が過ぎて茜達は中学を卒業する。
 詩子は引っ越していって、茜とは違う高校へ進学することになった。
 それから、茜は長い間、待ち続けることになる。
 待つ自分を、とめてくれる誰かを。

**********
シリアスモードというより、ダークモード全開のGOMIMUSIです。
『茜すぺしゃるWeek』ということで(笑)、茜の中学時代を。
茜がいつ幼なじみと別れたかについては、いろいろ意見があるでしょうし、
幼なじみの名前を勝手に決めたことも問題ありですが、ストーリー上仕方ないので
見逃してください。

>まてつや様
詩子のシナリオ、ほんとに欲しい…。いいキャラですよね、これ。
キムチラーメンからはいるあたりが、らしすぎる。

>だよだよ星人様
…………………………寝ぼけてるんじゃ、ないんでしょうか。この人達。

>よもすえ様
理恵さんがすごく粋ですね。「あたしを刺すつもりで来なっ」で、一発で参った。
校長SSの時から、パワーが落ちてませんね。

>しーどりーふ様
七瀬っぽくないですが、やっぱり乙女になったからでしょうか。
ドッペルなふたりは、なんとも言えない味があります。

>雫様
期待以上の、見事な外道ぶりでした。って、七瀬かわいそすぎる…(涙)

長々と、失礼しました。ではでは。