おぼえているもの。
胸に押しつけられ、押しつぶされそうになる圧迫感。痛み。恐怖。混乱。そして。
孤独。そばにいる人が、より孤独にする。
つんと鼻を突く、鉄錆のようなにおい。そして、闇。五感は研ぎ澄まされ、しかしなんら情報をもたらさなかった。
闇のなか、彼女は見た。自分に覆い被さるような、女性の顔。
額から血を流し、目をきつく閉じている。自分を抱きしめるようにした腕は、固く、石のようにこわばっていた
なにが起きたのか。
おぼえているのは、車がガードレールに向かって突進する一瞬。それから、宙に投げ出される感覚。
それだけだった。
その日から、繭の時間は止まっていた。
「あなた‥‥」
声が、聞こえた。それは彼女にとって、意味のない音に過ぎなかったが。
「なんだ」
「仕事に、行くのですか?」
「仕方ないだろう。生活しなくちゃいけないんだ」
ひどく気弱な、この家に着たばかりの女性の顔が、繭のすわっている位置からは見えた。そして、父親は玄関で出かける準備をしている。
「でも、繭は‥‥ずっと、あんな風に部屋の隅で‥‥」
「君が、どうにかしてやれよ」
「え‥‥でも」
「でもじゃない。母親だろう?」
「そんな‥‥」
女性は、泣きそうな顔になった。それが、繭の目には映っている。その目に、感情の動きはない。まるで人形のように。
あの日から。
母親とドライブに出かけ、対向車線に飛び出した車を避けようとして、繭達は断崖になった山道から車ごと、転落したのだった。その時、母親は、繭を身体でかばい、守った。そして、自分は死んでしまった。
あまりに早い、死の認識。いつもよく笑い、世話焼きでおしゃべり好きな母が無機物となるところを、繭は見てしまった。その日から、彼女は笑わず、口も開かず、自分からは食べようともしない。
「とにかく、繭はまかせるから。今は、君だけが頼りなんだ」
「‥‥はい」
「すまないな。じゃあ、行って来るから」
ばたんと、ドアが閉まる。繭の新しい母親は、しばし呆然と玄関の前に立っていたが、やがて繭のところへ歩いてきた。
「繭‥‥繭ちゃん?」
おずおずと、声がかかる。
「ねえ、おなかすかない? ケーキでも、食べようか。あ、そうだ。M’sバーガーの方がいいかな? テリヤキバーガー好きでしょ」
反応はなかった。どうしようもなくなって、彼女はため息をつく。
「ねえ‥‥外に、出かけようか?」
ふたりは、商店街を歩いていた。
どちらも無言。繭は、血のつながらない母親に手を引かれたまま、機械的に足を運んでいる。
とにかく、にぎやかなところがいいだろう。そう思って、人の多いところを回っているのだが、いかんせん繭はまったく反応を示さない。母親は、泣きそうになりながら繭と歩いていた。
「服は、いらない?」
「‥‥」
「それじゃ、おもちゃなんか、どう?」
「‥‥」
「うーんと、じゃあ‥‥」
「‥‥」
「‥‥ふう‥‥」
「‥‥‥‥」
そして、またとぼとぼと歩き出す。活気に満ちた午後の商店街で、ふたりだけが浮き上がっていた。
店から店へ歩いていると、ふと、ガラス玉のようだった繭の目が、動くのがわかった。ほんの、微妙な表情の変化。
「繭?」
視線をたどっていくと、ペットショップがあった。母親は繭の手を握りなおして、迷わず店の中へ入っていった。
「あの‥‥」
「はい、いらっしゃい」
若い青年が、親子を出迎えた。店内は、何種類もの動物の、声とにおいが充満している。
「見せていただいて、いいですか?」
「ええ、どうぞ。ああ、娘さんのお友達にでも?」
「ええ‥‥いえ、まあ‥‥」
あいまいに笑う母親の手を、不意に繭がはなした。
繭は、じっと耳を澄ましていた。
声に。息づかいに。生きた音に。
「‥‥」
母親は、正解にたどり着いた、と感じた。
フェレット。
小さな、イタチに似た動物を入れたケージをさげて、親子はその店を出た。
みゅーと名づけたそのフェレットと、繭は一日中顔をつきあわせていた。
ひくひくと動く尖った鼻面や、細いひげが妙に気に入ったようだ。そして、それを見つめる繭の顔は、少し笑っている。
笑っているのだ。自分には決して笑顔を見せないのに、この小さな友達には笑いかける。それを見ていると、母親の胸は微かにいたんだ。
そして、そのフェレットが死んだ日。繭の時間は再び凍り、また溶けるための準備が始まる。
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繭がこんな正確になったのは、ものすごく不幸な過去があったからに違いないとかってに予想を立て、こんな話になってしまいました。あまりにも繭じゃない。こんなの、絶対繭じゃない。
こんなことしてると、次は澪かな‥‥って、また暗くしてどーする、俺。
では、また。