線香の匂いが鼻を刺激してくる。
両手を合わせて、目を瞑っているだけで。オレの頭の中には、特別語り掛けるような事は何も無かった。由起子さんがまだ黙祷を続けているので、邪魔をしないように静かにしてはいるが。
父さんが死んだ後すぐ、母さんと二人でやってきたこの街。当時、由起子さんの家族が揃って暮していたこの街は、結局のところ長くはいなかった。その時期だけしか会っていない由起子さんの旦那さんと娘さんの事は、あまり覚えていない。一緒に住んでたんだけどな。
由起子さんの旦那さんが亡くなり、続くように娘さんも亡くなった事で。オレは由起子さんに引き取られて、祖父母の家へと引っ越した。母さんは…もう、ずっと会っていない。
今住んでいる祖父母の家で暮した十年近くは、オレにとってとても大切なものだった。いや、大切なものだ。まだ、過去形なんかにはしたく無い。無いが、でも…
初めは演劇部の一年生の女子だった。
――その人、どなたですか?
その時は怪訝そうな顔をしていた部長も、数日後にはオレの事を忘れ。バレンタインの日曜にチョコを持ってきた長森も、水曜の朝には迎えに来なかった。それから、オレは走った。内面の焦りに突き動かされるようにして、みっとも無い事、無駄なあがきだと悟りながら。オレは走ったんだ。
でも結局、
――えいえんはあるよ
彼女がそう言ったあの公園は、どこにも無かった。いや、あれは本当にあった事なんだろうか。だんだん、その自信すら薄れていく。
「ごめんね、みさお。今年も、あなたの命日には来れないや。お父さんの命日と一緒のお参りになっちゃうけど、許してね」
由起子さんが娘さんに呼び掛けている。何かひっかかりを覚えたオレは、何かを尋ねようとしていた。でも、何にひっかかったのか、それが分からない。
「行こうか、浩平ちゃん」
さばけた明るい笑顔を向ける由起子さんに促されて、オレも歩き出す。丘陵地にある墓地は、この街が一望出来て眺めはいいのだが。やはり、周りが墓だらけというのは、気持ちのいいものでは無いな。
駅に向かって歩きながら、周囲を見回したりしている。なんとなく見覚えがあるような気がしていると、由起子さんがこの辺りが当時住んでいた場所だと教えてくれた。そして、笑いながらつけ加える。
「浩平ちゃんって、何度教えても忘れるのよね、その事」
確かに。オレも何度も聞いているような気がする。思い出したくない事でも、あったんだったりしてな。
そうして歩いているうちに…見つけたんだ。あの場所を。
「ちょっと、浩平ちゃん?」
由起子さんの制止も聞かずに走り出したオレは、小さな公園で立ち尽くしていた。
錆びの浮いた滑り台。こぐときしむ音のしそうなブランコ。小さな砂場。ただそれだけの、公園というには殺風景なこの場所。当時よりオレが大きくなった分だけ、小さく感じるが。間違い無い、確かにここだ。
――ここにあるよ
はっきりした事が、二つだけある。あれは、現実にあった事だという事。そして、その相手が…長森じゃ無かった、という事。
『約束守れなくてごめんな』
朝の五時。こんな時間に学校にいる生徒は一人もいない。だからこそオレは、この時間を選んでいた。オレが覚えているのに、相手が忘れている。そんな奴らに、余り会いたく無かったから。
澪の教室に入ってみると、スケッチブックが忘れられていた。あちこち補修するぐらい、大事にしてるくせに。あのドジは、けっこう忘れていくからな。ま、澪らしいけど。
遠いあの日にオレが貸したスケッチブック。ぼろぼろになっちまったこんなものを、後生大事にしてて。本当、ばかだよ、お前は。
幼い日の安易な約束が、澪の足枷となっていて…オレも同じだけどな。
結局、あの公園で出会った少女が誰なのかはまだ分かっていない。オレだってこのまま消えるつもりなんて、これっぽっちだって無いんだ。だが、もし間に合わなかったら。駄目だったら。澪は約束を果たせないまま、ずっと待っていなくちゃならないからな。待ってろ、って言ったらいつまでも待ってるような、どうしようも無い奴だから。
遅くなったけど、返してもらう約束は果たせた。あとは…オレだけだ。
由起子さんがかろうじて覚えているだけで、他の奴には忘れられてるのに。なんだってオレは、この世界にしがみついてるんだろうな。
気がつけばいつもそこに君の笑顔があって。
おっちょこちょいでドジな君を見守ってるつもりで、甘えさせてやってるつもりで。
君はいつも触れたがって、温もりを求めて。でもそれは、オレの方が求めていたのかも知れない。そういう温もりを。暖かさを、な。
あいつはまだオレの事を…いや、忘れてるに決まってる。結局、演劇部の一年の女子に忘れられた日から、一度も会ってないんだしな。覚えてるんだったら、頼まないでも義理チョコぐらいくれただろうし、な。
――私がずっと一緒にいてあげるよ
あの娘が誰なのかを突き止めて、それで…それで、枷は解けるんだろうか? オレが幼いあの日に願った事は、なんだったんだろうな。
色々考えているうちに、下駄箱に着いていた。一応不法侵入なのに、上履きに履き替えてるオレって…実はかなり律儀な奴だな。
まだ太陽の昇らない薄暗い教室に、澪が一人で入っていく。
ほとんど手探りの闇の中を、スケッチブックに向かって一直線に。でも、そこに置いてあるのは破り取られたページだけで。書いてある内容を知った澪が、教室を飛び出す。何かを悟った目に、一杯の涙を浮かべて…
違う!
ぼくがこんな場面を、見られるはずが無いよ。だってぼくはこの時、澪を見る事は無かったんだから。
ここは、ぼくの想い出の欠片を見ているだけの場所じゃ無かったの? ぼくの幸せだった記憶を見ているだけ、ぼくの中へと潜っていくだけの。それだけの場所じゃ無かったの? ここは、どこ。「なぜ?」って聞いても答えの分からない事の方が多いって事ぐらい、ぼくだって知ってるよ。だって、きみと違ってぼくはずっと子供じゃ無かったんだから。色々な事を学んだんだから。
(そして忘れた? 子供の頃の感情を、気持ちを、想い出を)
ここに来て、すぐに思い出したよ。従姉妹のみさおを妹として扱っていた事も。みさおが死んだ事がとても悲しかった事も。でも…なんで忘れてたんだろうな。
(ほら、忘れてる)
それなら、もっとぼくの中へ行こう。もっと深くへ、深くへと…
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澪との分かり易いラブラブシーン無しに、ここまで来ちゃった(^^;;;
みさお「今回は7の補足ですっ」
あははは(^^; 結局、7で直接的な言葉をどうにも入れられなくて(^^; 7読んでも分からないです、すみません(^^;;
あと、由起子さんを未亡人にしちゃったのは「これ」が原因です(笑) って事で、次回はお分かりの通り「その場面」ですわ(^^;;;
みさお「感想を頂いた皆様、読んで下さった皆さん、ありがとうございますっ」
ではでは