日溜りの中へ vol.3 投稿者: 吉田 樹

――子供なの
――はい?

 今朝は随分早く目が覚めていた。
 外の物音に起こされたオレは。てっきりまた外でバイクに跨った七瀬が、弟分達を連れて暴れてるんだと思った。さすがに声をかける度胸は無かったので、そっと窺う事にした。これが普通の暴走族なら、罵声の一つでも浴びせるところだが。相手は七瀬だ。オレはまだ自分の人生に、充分すぎるほどの未練を持っている。
 だがカーテンを開けたオレの目に入っていたのは、予想通りの雨だった。
 親父が海外赴任し、それに母さんが付いて行ってからもう十年になろうとしていた。その間、母さんの妹の由紀子さんにお世話になっている。出掛ける前に挨拶でもしようと思ったが、既に仕事に行ってしまっていた。由紀子さんも大変なんだな。
 手早く身支度を終えたオレは、傘を手に表へと出ていた。雨は鬱陶しいから嫌いだ。ま、好きな奴なんていないとは思うが。
 いつも走って通う道を、こういうふうにのんびりと歩くのも悪くない。一年の頃は、三年間も通うのが鬱陶しい気がしていたのだが。こうして三年になってみると、少し感傷に浸ってみたくもなる。
 通り過ぎるだけで、一度も入った事の無い店が多い。そこに入るだけで、色々な人との出会いがあり。それだけでいくつでも話が始まりそうだった。入ってみたい気もしたが、営業時間前の店に入れるのは、七瀬ぐらいのものだろう。
 学校へ向かう道を歩いている時に、不意に原っぱが目に止まっていた。
 子供の頃、よく遊んでいたような原っぱ。誰からも忘れられて、手入れも何もされていないから草が生い茂り。そこでカマキリなんかを取っては、みさおの背中に入れてよく泣かせたものだった。
 ぼんやりと見ていたオレは、女物の傘がそこにある事に気が付いた。原っぱの真中でじっと立っている女の子。オレはそれに惹きつけられていた。あんなところで何をしているのか、ひどく気になった。
 足元が濡れる事にやや躊躇しながら、オレは彼女へと近付いていって声をかけた。
「よう茜、こんなところで何をやっているんだ?」
「クラスメートの名前ぐらい、ちゃんと覚えておいてよね」
 苦笑しながら振り返ったのは長森だった。
 だがオレはそれに、笑みを返す余裕はなく。ひどく狼狽していた。理由は分からないが、この場所で立っているのは茜だと確信していたから。そして何故茜だと思ったのか、さっぱりわからなかったから。
「折原くん?」
 黙ったままのオレに、心配そうに長森が尋ねかけてくる。
「それで茜、こんなところで何をやってるんだ?」
「だから、長森だって。あ、そんな事より。この子がね…」
 言って長森が、両手に抱えたずぶ濡れの猫を見せる。オレに猫の顔の良し悪しは良く分からないが、見るからにブサイクな奴だった。足元に置いてある、ふやけたダンボール箱が目に入ったので、だいたいの事情は推察出来た。
「なるほど。つまり、美味しそうだったから、これから料理するところなんだな」
「ち、違うよ。ひどい事言わないでよね」
「冗談だ。で、どうするんだ? その猫」
「あ、うん。このままここに置いていったら風邪ひいちゃうから、連れて帰ろうかと思ったんだけど」
「よせよ」
「でも、だって、可哀想だと思わないの?」
「ばか。今から家に帰ったら、遅刻しちまうだろうが。学校に連れていけよ。なに、どうせ髭の事だ。猫が一匹増えてる程度に、気付くわけがない」
 ぽかんと驚いたようにオレを見ていた長森が、嬉しそうな顔で頷いた。なんだ? またオレは、何か妙な事を言ったんだろうか…
 長森と喋りながら学校へ向かい、その時に不意に気がついた。こいつと出会ってからの長さだけなら、かなりのものだが。今話している分だけで、これまでの全部よりも多く話している気がする。
 両手で猫を抱えて、腕の中へ傘を挟んでいるので長森はかなり歩き難そうだった。その為、歩くペースが随分と遅い。このままではせっかく早く起きたのに、遅刻になってしまいそうだ。
 そう思ったオレは、長森の傘を持ってやる事にした。また驚いた顔でオレを見た後、戸惑ったように長森が礼を言う。何か気に障る事をやったのか、オレは。どうも長森の反応というものが、掴みきれていない。これが七瀬だったら、オレの骨が何本折れたかで怒りの程度も知れるだろうに。
 だが、長森はにっこりと、本当に心から嬉しそうに笑ってこう言った。
「よかった」
「はあ? ああ、傘持って貰いたかったのか。言えばいいだろうが」
「違うの、そんなんじゃなくて。私、ずっとね。折原くんってもっと怖い人だと思ってた。言葉遣いとか乱暴だし。お話ししたいな、って思ってもね。怒られちゃうかな、とか思って声がかけられなかったんだ」
「はあ? オレが怖い?」
「あ、ごめんね、そういう意味じゃないの。優しい人なんだろうな、って思ってたよ。でも、なんていうのかな。私が話しかけ難かったのは、本当だよ」
「よくわかんねえ」
 オレがそう言って長森が微笑んだ頃、下駄箱へと着いていた。通りかかったクラスの連中が、珍しい組み合わせに少し驚いたような顔をしていた。

――注いでやりたかったんだ
――あなたも、妹さんも、そういう事。

 一時間目が終わってすぐに、オレは大きく欠伸をした。
 前の席の七瀬が、呆れたような顔をしてオレをちらりと振り返る。日直の号令に従って起立、礼をした後。読みもしない文庫本を開く七瀬に、オレは声をかけていた。
「そういや、今朝は凄かったな」
「はあ? あ、もしかして雨の事?」
「ああ。まるで七瀬が飯を食っている時のような音だったぞ。あれで雷でも鳴ってたら、いつもの飯どきの七瀬だな」
「なっ! そんな、音立てて食べたりするわけないじゃない」
「なんだ。自分では気付いてなかったのか」
 完全に疑いながらも、七瀬は少し不安そうな顔をしている。否定して欲しがっている七瀬を無視して、オレは窓に顔を向けた。少し降りの弱くなった雨に滲んだ町も、見るだけならそんなに嫌いではない。
「お兄ちゃんっ」
 後ろから聞こえた声は、空耳だろう。いや別人を呼ぶ声だろう。そうだ、オレには折原浩平という立派な名前がある。決してお兄ちゃんなんて名前ではない。うむ。
「お兄ちゃんってば、ねえ、ちょっと」
「折原、妹さんが呼んでるわよ」
 ち、七瀬。お前いつからそんなおせっかいになった。目的の為なら手段を選ばず、邪魔する者なら女子供も容赦なく踏み潰す。それこそが男の中の男、七瀬の姿ではないのか? いや、これはおせっかいとは関係なかったな。
「お弁当いらないの?」
 …伊達につきあいが長いわけじゃないな。みさおめ、的確にオレの弱点をついてきやがった。ここで意地を張ってもいいが、オレの財布がそれを許すはずが無い
 仕方なく振り返ったオレは、みさおの顔を注意して見る。昼と帰り以外でみさおがここに来るのは、ほぼ例外なしに頼み事か、文句がある時だ。どうせ朝の事で文句があるのだろうと思ったが、みさおは妙な笑顔をしていた。
「朝、先に行っちゃった事なら、別に怒ってないから」
「…それはひどいです」
 近付いてきていた茜が、無表情でオレを責めるように呟いた。すぐに、深く突き刺さったその言葉を帳消しにする、にっこりとした笑顔を茜は浮かべる。
 何をしに来たんだろう、と思ったが。さっきの時間にオレが貸した英語の辞書を返すと、茜は黙って去っていった。
 七瀬は読めない本から目を逸らすように、頬杖ついて窓の外を見ている。…こいつ、意図的にやらない方が、よっぽど「乙女」だと思うんだけどな。
 みさおは茜の後ろ姿を追って、次に七瀬に視線を移して、にやにやと笑う。どうせまた、ろくでもない事を考えているんだろう。オレの耳元に口を寄せて、わざわざ擦れさせた小声でぼそぼそと囁いてきた。
「聞いたよ、今朝、長森さんと一緒だったんだって?」
「おう。だからどうした」
 オレの返事がごく普通の声だったので、みさおが慌てた顔をする。変な奴だ。長森と一緒に学校に来たらいけないという、法律が出来たなんて知らないぞ。いや待てよ、今朝はテレビも新聞も見ていない…そっ、そうなのか?
「だ、だって。茜さんとか七瀬さんとかいるのに、お兄ちゃんも大変だな、と思って」
「はあ? 茜には好きな奴がいるし、七瀬は男だぞ? オレ、そういう趣味ないから」
「誰が男なのよっ!」
 前の席から振り返った七瀬が、オレを怒鳴りつけてからみさおがいる事を思い出したらしい。誤魔化すような笑顔を浮かべた後で、再び前を向く。やっぱり聞いてやがったな。
 七瀬に愛想笑いを返していたみさおは、少し真面目な顔をしてオレの耳元に言った。
「ごめんなさい。私ね、長森さんとお兄ちゃんって、すっごくお似合いだと思ったから。だからちょっと、からかって反応見てみたかったの。本当にごめんなさい」
 オレと長森が? ちょっと想像出来んな。顔だって可愛いと思うし、性格だっていわゆるいい娘だと思う。長森と恋人ってなっても悪くないとは思うが、別にならなくたっていい。
 今までほとんど話していなかった、からではなく。オレにとって、長森という女の子は別にいてもいなくてもいい存在だからだ。それは当然、七瀬や茜にも当てはまる事だろう。高校を卒業しても今みたいに毎日顔を合わせているとは、考え難い。
「あ、そうそう、それでね」
 みさおがようやく本題に入るらしく、ぱあっと明るい顔になる。口から出る内容は、聞いても聞かなくても同じような、下らない話だが。その、みさおの下らない話をオレは楽しみにしていた。
 オレの背後の窓に静かな音を立てて当たっていた雨が、一瞬だけ大きな音を立ててから、ぱったりと止んだ。本当に、もう夏がくるんだな。そう思っているオレに、みさおが話を聞いていないと言って怒る。
 全く、情緒というもののわからん奴だ。

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 全五回、という事になりました。まだエンディングは書けてないんですけど、つくづく浩平って難しい。まるきり浩平は無理ですから、雰囲気が出てる事を目標にしてます。
みさお「なんか雰囲気出てるよ、とおっしゃって下さった皆さん。吉田樹はとっても喜んでますっ」
 本当。けっこう冷や汗ものなんですよね(^^; 感想を頂いた皆様、読んで下さった皆さんありがとうございます。南のネタが出来なかったら、なんか他のものを枕に感想出すつもりなんですけど。ではでは